第5話 恩恵などなく
タイ旅行中に「クマーン・トーン」らしき塊を購入した日本人男性(仮にSさんとしよう)は、帰国後すぐにそれを祀ってみた。「仏壇より下に置くこと」と言われたが、Sさんの住む独身者用の狭いアパートには仏壇などあるわけなく、とりあえず、書棚の天辺にスペースを作り、そこに置いた。それからポテトチップだのエビせんだのを買ってきて供え、タイで教えてもらった呪文をボソボソと唱えてみた。特に何も起こらなかった。その時はそうだった。
その日の深夜、Sさんは何者かがドアをガチャガチャする物音で目が覚めた。1DKの狭い間取りなので、寝室に居ても玄関ドアの異変はすぐに分かる。午前2時半。室内も外もしんと静まり返っている。その静寂の中でドアをこじ開けようとする音は否が応でも響くものだった。「せっかく良い気分で旅行から帰ってきたら、いきなり空き巣かよ」Sさんはそう呟き、それからベッド脇に立てかけていた護身用のバットを握りしめ、ソロソロとドアに近づいていった。
Sさんの住むアパートは特に治安の悪い地域に建てられたものではなかったが、それでもドアはスチール2重構造の頑丈なものであり、2箇所の施錠に1箇所、太いドアチェーンがついていた。そのため、そう簡単に開けられるドアではない。
Sさんがドアのそばまでやってきた時には、もうガリガリガチャガチャという音はなく、静かになっていた。それでもSさんはしばらくバットを振りかぶりながら、ドア前に立っていた。5分ほどそうしていただろうか。もう大丈夫だろうとSさんは考え、恐る恐るドアスコープ越しに外を覗いてみた。
廊下の仄暗い照明の下、灰色のパーカー姿の男性が玄関前にじっと立ってるのが見えた。フードを目深に被り、ひどく俯いているせいか顔は分からない。若いのか年を取っているのか、日本人なのか外国人なのかすら分からない。ただ、その姿にSさんは恐怖を感じ、慌ててドアから離れ、ベッドに潜り込んだ。しばらく震えが止まらなかった。
「それだけじゃ何とも言えないよね」ホンが口を開いた。「その空き巣は不気味だけど。無事で良かったじゃない」
「そうですね。初日はそんな感じだったそうです」と聖。相変わらず静かに微笑んでいる。彼女が話すとどんな話も怖くなくなる。
「それだけではすまなかったんだろ?」デーン伯父が話の続きを促した。
「はい。その日から、Sさんは仕事や買い物の行き帰り、誰かにじっと見られている、後をつけられている、そういう感じを持つ機会が増えたのだそうです」
「そのフード被った男?」我慢できずにホンが口を挟む。
「それは分からないそうです。あくまでも気配だけで姿までは確認できなかったと」
「でもそれだと、その偽クマーン・トーンとは関係ないな」デーン伯父も感想を述べる。
「そうですね。ただ、Sさんは家にいても誰かの存在を感じるようになったのだそうです。それも子どものような何かの」
「良いことは起こらなかったの?」話の結論が知りたくてホンが叫ぶように尋ねた。
「はい、それがさっぱり」聖は薄く微笑んだまま答えた。冷静っていうか、本当に心が読めない人だわ。ホンは思った。
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