《六つの影》9

 王宮の喧騒から遠く離れた、魔女の塔。

 その静寂に包まれた回廊に、控えめな足音が忍び寄る。


「……リィゼ様」


 柔らかな声が、夜の帳を破るように響いた。

 振り返ることなく、リィゼはその気配に耳を傾ける。


 エミリアが、小さく肩をすぼめながら、そっと歩み寄ってくる。

 手には薬湯の盆と、夜更けに灯す蝋燭の小瓶。


「お怪我は……ありませんか?」


「ええ、ないわ」


 リィゼは窓辺に立ったまま、夜の闇を見つめる。

 だがその声には、微かに滲むものがあった。


「けれど恐怖の種を、民に蒔いてしまった」


「……でも、それでも、命は守れました」

 エミリアは俯きながら、そっと言葉を重ねる。


「失われた命は、戻りません。でも、リィゼ様の祈りが、いつか届く日がきっと来ます。……私は、それを信じています」


 その言葉に、リィゼのまなざしが、ゆるやかにほどける。

 まるで冬の空に、一片の雪が優しく降りるように。


「……ありがとう、エミリア」


「リィゼ様」


 呼びかける声に、リィゼが振り返る。


「なに?」


「わたし、今日……あなたが陛下の前に立ちはだかった姿を見て、“誇らしい”って思ったんです」


 リィゼは、ふと視線を落とす。

 そして――それをすくい上げるように、そっと微笑んだ。


「……そう言ってもらえるなら、もう少し、この役割を続けてみてもいい気がするわ」


 エミリアは頷き、小さな火種を蝋燭に灯す。

 揺らぐ炎が、石壁の部屋を温かく染め上げる。


 外では、夜風が窓をそっと撫でていった。


「おやすみなさい、リィゼ様」


「おやすみ、エミリア」


 扉が閉まり、静けさが戻る。

 けれど、胸の奥ではまだ、確かな灯が燃えていた。


 それは――“魔女”ではなく、

 誰かを守ろうとする者の、消えることなき炎だった。




 ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇





 扉が静かに閉じると、エミリアはそっと息を吐いた。


 廊下には、石の冷たさと夜の静けさが満ちている。

 彼女は一瞬、背中に残る温もりの気配、あの部屋の穏やかな空気を思い出していた。


「……やっぱり、すごい人だな」


 ぽつりと漏らした声は、自分に向けたものだった。

 魔女と呼ばれ、恐れられ、それでも誰よりも前に立ち、守ろうとするあの姿。

 自分には到底届かない、高い場所の人のように思える。

 それでも、あの背中を見上げるたび、なぜか心は少しだけ、軽くなる。


 彼女の言葉は冷静で、優しさには棘がある。

 けれど、嘘はひとつもなかった。

 それが、エミリアには嬉しかった。


「……私も、できることをしよう」


 自分の足元を見つめ、そうつぶやくと、ゆっくりと歩き出す。

 その背には、いつもの小さな影が落ちていたが――

 歩みの先には、確かに次の一歩を照らす光があった。


 夜の塔は静かだった。

 けれどその中で、少女の胸に宿った小さな意志が、音もなく芽吹いていた。

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