《銀の丘》7


 その夜、王宮の塔にある小間にて、リィゼはひとり、蝋燭の炎を見つめていた。

 石造りの壁に囲まれたその空間には、過ぎた日々の温もりさえ残されていなかったが――彼女にとっては、それがかえって安らぎだった。


「……また、なのね」


 誰に向けるでもなく、ただ胸の奥から零れ落ちた、淡く乾いた囁き。


 〈封印〉という言葉が、まるで冬の霜のように空気を冷やし、静かに部屋を満たしていく。

 王宮の回廊に漂う噂。壁に染みついた不安。視線と気配、そして誰も語らぬこと。

 リィゼはそれを知っていた。――いいえ、誰よりも早く、それを予感していた。


「……そうなるのは、きっと……最初からわかっていたのよね」


 炎がふっと揺れるたび、彼女の影もまた、細く長く震えた。

 その横顔には、微かな諦念と、ひそやかな哀しみが差していた。

 けれど、それだけではなかった。


 窓の向こうでは、王都の灯がきらめいていた。

 暖かな食卓、微笑む家族、子どもたちの眠り。

 ――その安寧のすべてを守るために、彼女は再び剣を取ったのだ。


 幻兵を喚び魔女として忌まれながらも、その名を掲げて。

 それなのに、与えられる報いが再度の封印だというのなら……それは果たして「救い」と呼べるのだろうか。


「……ディクソン、聞こえてる?」


 誰もいない部屋に、その名がそっと落ちた。

 幻兵のひとり。銀の花咲く丘に散り、最後まで誇りを抱いて戦った者。

 彼の祈りは、今もどこかで、ひそやかにこの国を包んでいる。


「あなたの願いを、叶えられそうにないの。……ごめんなさいね」


 目を閉じると、風の吹き渡る丘が浮かぶ。

 朝焼けに染まる空の下、誰もが言葉を失い、ただ彼女を見守っていた――

 その記憶が、胸の奥にしずかに残っている。


「それでも……望んでしまうの」


 机の上に散らばる地図と色褪せた書簡。

 それを見つめるリィゼの眼差しに、静かな願いの光が宿る。


「私も、見届けたいの。あなたが、みんなが守ったこの場所が…… どう変わっていくのか、どこへ繋がれていくのかを、この目で」


 蝋燭がぱちり、と小さく音を立てる。

 一瞬だけ火が大きくなり、その光が彼女の頬をかすめていった。


「封じられてもいい、そう思ってた……ずっと、そう思ってたはずなのに」


 その呟きに続いたのは、長い沈黙。

 自らの力が災いをもたらすのなら、それを封じるのが当然だと、そう信じようとしていた。

 だが、胸の奥に棲むもうひとつの声は、それを拒んでいた。


「こわいの。……誰にも、もう届かなくなるのが」


 ふと目を伏せ、指先が微かに震える。

 誰かの手に触れたかった。

 「ありがとう」と言ってほしかった。

 

 そんな願いがまだ、少女のような弱さとなって胸に残っている。


「……セイルは、どう思っているのかしら」


 まなざしを思い出す。真っ直ぐで、けれど揺れている。

 国と人の間で揺れながら、それでも歩みを止めない若き王。


 彼を責めることなど、できはしなかった。

 責めるよりも、ただ――願いたかった。

 最後まで、その傍に在れるようにと。


「……私も、誰かに助けてほしいなぁ」


 それは、まるで春の名残を運ぶ風のような声だった。

 小さくて、やわらかくて、それでも確かな祈りがそこにはあった。


 窓の隙間から風が入り、リィゼの黒髪をそっと撫でる。

 彼女は静かに立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。


 王都の灯が、夜空に撒かれた宝石のように瞬いていた。

 遠くで笑い声が聞こえる気がした。

 それは自分の人生とは交わらぬもの。――けれど、その全てのために、彼女は剣を振るってきた。


「ねえ、ディクソン。……あなたなら、今の私に、なんて言うの?」


 応える声はない。けれど風が、そっと頬を撫でた。

 まるで、そこに誰かがいて、「見ているよ」と囁くように。


 ――だから、歩みを止めてはいけない。

 沈黙の向こうに、微かな光があると信じて。


 リィゼはそっと夜空を仰ぐ。

 星はなかった。だが、その瞳は確かに、未来を見つめていた。


 今この瞬間も、彼女は祈っている。

 戦う者としてではなく、魔女としてでもなく――一人の人間として。


 生きたい。

 この国と、愛した者たちの明日を、どうか見届けたい。


 それが、彼女のただひとつの願いだった。

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