第16話 少女の中に潜む過去

──日曜の夕暮れ、帰り道。


「お姉ちゃん、今日は楽しかったね!」


小鞠が無邪気な声で笑う。

いつもの住宅街、オレンジ色に染まる坂道。

夕飯の匂いがどこからか流れてきて、風景は静かで、どこまでも穏やかだった。


「そうだね。私も……とても楽しかった」


「映画も良かったけど、朝宮お兄さんと会えたのもラッキーだったよね!」


「……偶然って、不思議だね」


「ふふ、お姉ちゃん、顔赤いよ?」


「えっ……そ、そう?」


「うん。お兄さんのこと、やっぱり好きなんだ」


小鞠はまっすぐに、まるで当たり前のことを言うような調子で続けた。


詩織は思わず足を止めて、小鞠の顔を見た。


「……そんなのじゃないよ、小鞠」


「本当に?」


「……そうだとしても、人の気持ちって、そんなに単純なものじゃないの」


静かに、自分の胸元に手を当てる。

その奥に、あたたかくて、でも脆いものがあるのを感じながら──


(確かに、朝宮君と会ってから毎日が少しずつ変わっていった。

彼の隣で歩くのが、ただそれだけで、嬉しくて……)


今日の午後。

柔らかな日差しの中で交わした何気ない会話。

彼の笑顔に、自然と微笑みが返ってきた自分──


(……いつぶりだろう、人前で、心から笑えたのは)


「お姉ちゃん?」


「ごめんね、小鞠。少しだけ、外の空気を吸ってくるから……先に帰ってて」


「……うん。

お姉ちゃん、あまり考えすぎないでね」


小鞠が心配そうに言い残して玄関へと駆けていく。

ドアの閉まる音が、やけに遠くに感じられた。


詩織はそのまま、家の近くにある小さな公園へ向かい、ベンチに腰を下ろした。


頬をなでる風は少し冷たかったけれど、

その冷たさが、かえって頭を落ち着かせてくれる気がした。


(朝宮君……)


目を閉じれば、彼の笑顔がすぐに浮かぶ。

思い出すだけで、胸があたたかくなる。──だけど。


(もし、この気持ちに応えてくれたとして……

また大切な人を、失ってしまったら──私は……)


ほんのわずか、指先が震える。


──『詩織ちゃん、落ち着いて聞いてね……今、貴方のご両親が、車の事故で……』


あの日。

結花さんの声が、耳の奥で再生される。

世界が崩れていった瞬間の、あの光景が、瞼の裏に蘇る。


――おいて行かないで

 

胸が締めつけられる。

呼吸が、浅くなる。

景色が、滲んで──遠ざかっていく。


(──だめ……また……)


「……三津原さん!」


「しっかりして!……詩織さん!」


──遠くから、誰かの声が聞こえた。


「……朝……宮……くん?」


意識が戻ったとき、目の前にいたのは、彼だった。

驚きと安堵が混じった表情で、肩を支えてくれている。


「……よかった、無事で……」


「……どうして……」


「ちょうど通りかかったんだ。そしたら急に倒れ込むから……心配したよ」


彼の顔を見ると、張りつめていたものがほどけていく感覚がした。


彼の手は、あたたかかった。

そしてその手が、確かに自分をこの場所へ引き戻してくれた。

 

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