アイリス
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第1話
『アイリス』
「序 章」
アイリスのルーツは、コンゴ王国南東部のコルウェジに住んでいたルンダ人であるが、
七代前の高祖父が内戦から逃れるためにザンベジ川源流に近いミオンボ森に隠れているところを奴隷狩りに遭ってヴァージニアに連れて来られた。
以来、代々の祖先はブラウン家の農園で屋外従事者として働いていたが、祖母のベッティーが大工の祖父と結婚すると館の下働き(家内従事者)になった。
母のマリアが生まれて三年後に祖父は屋根から落ちて亡くなったが、その時、ベッティーは館の台所女中に昇格していた為、平屋一戸建ての家内従事者用住居はそのままだった。
マリアは十歳の頃から家内従事者として雑務に携わり、十九歳で執事のロバ―トと結婚してアイリスを授かった。
然し、ロバートが同じ屋根の下に愛人を同居させた為、産後もマリアはロバートの家には戻らなかった。アイリスはベッティーの家で産まれ、父親の温もりに触れないままマリアと三人で暮らしてきた。
ロバートの家は屋敷東側の芝生に囲われた二階家だったが、マリアがそうであるようにアイリスもその家に入ることはなかった。其処にはロバートの愛人と一つ下の異母姉妹のローズと其の弟が住んで居たからだ。
アイリスは四歳になると、隣家のウィリアムが購入してきた辞書で英語の読み書きを始めた。小学校の教師が使用する教材用の辞書だったが、中古本の「小さい可愛いポケットブ
ック」を読むのには十分だった。
ベッティーもマリアも読み書きは仕事に関係するものに限られていて、アイリスの学習の進捗と伴に上達していった。
館のシャーロットお嬢様も読み書きを習い始めていてベッティーが焼き立てのクッキーを運んで行くと、シャーロットは声を詰まらせて何度もその箇所を繰り返した。
ベッティーがクッキーを入れたバケットとホットミルクを小机に置きながらその箇所を発音すると、女主人のマーガレットはレースの編み手を止めてベッティーを見つめた。
ベッティーはマーガレットの思惟を感じて、「孫娘のアイリスが毎日のように読書しているから、もう!耳にタコができた」と告げた。
マーガレットはシャーロットより一つ下の子が独学で“読み書き”を学んでいることを知って驚きと感動に打たれ、シャーロットの為に買っていた「くつふたつの物語」をベッティーに渡した。
以来、マーガレットはアイリスの読書の進捗を訪ね…読み終えたことを知るとカブリオレを走らせて、馬車の中からアイリスの顔を覗いては抱きしめたい初動を抑えていた。
ブラウン家の農園から自立した黒人が現れることがマーガレットの夢であったが、その兆候が芽生えていることが嬉しかったからだ。
そして、“何時か、シャーロットと一緒に学ばせたい!”と、マーガレットは逸る気持ちを抑えながら成長するアイリスを見守った。
「二人の出会い」
ジェームズとマーガレットの出会いはジェームズが大学で馬術の訓練をしている処に、マーガレットが乗馬を習いに来たと言う。マーガレットの実家は貴族の端くれで、父親はフィニッシングスクールのような学校で花嫁修業をする事を望んでいたが、着飾る人生よりも野の花を愛でる人生を望んでいたマーガレットはジェームズに惹かれていった。
未開の地に行こうとする娘を母親は泣いて説得したが、マーガレットは二十歳の春ヴァージニアの地を踏んだ。当時、ジェームズの両親は存命で貴族の血を引くマーガレットを遠巻きに見ていたが、マーガレットは毎日ジェームズと馬で農園に出掛けた。
ある日、マーガレットは西側プランテーションの開墾作業を目にして、そこでウィリアムに出会った。ウィリアムは二頭の馬を使って松の株を興す作業をしていたのだが、ウィリアムは鞭を使わないで掛け声と手綱だけで馬を操っていた。
ウィリアムの馬に対する慈しみと、馬がウィリアムを信頼している様子を感じ取ったマーガレットはウィリアムに馬の世話をさせる事を提案し、ウィリアムに馬術を教え、マナーを訓練して御者に取り立てた。
メイドや給仕にイギリス式のマナーを教えたのもマーガレットで、当初は煙たがられたが、其れはメイドや給仕を知る為でもあった。半年・一年が過ぎると旦那衆の中でブラウン家の評判は高まり、義父母はジェームズとマーガレットにプランテーションを託した。
ジョージが生まれるとジェームズは誕生日を待たずにジョージを馬に乗せてあやした。心配するマーガレットの前では常歩だが、マーガレットの目が及ばない処では速歩にするとジョージは声を出して喜んだ。
ジョージが馬を乗りこなせるようになった頃、弟のハリーもマーガレットに抱かれて馬場を訪れた。ハリーは怖がりの上、祖父母の擁護があって乗馬を始めたのは7歳を過ぎてからだった。
シャーロットが五歳になると、ジョージはシャーロットの写真を抱いてイギリスに渡った。其の頃はマーガレット方の祖父母も存命で、ボーディング・スクールの夏休みには何度か祖父母宅で過ごしたが、祖父母が亡くなってからは遠のいた。
アカデミック・コースに進む前にジョージは友達のアダムスを連れて五年振りに帰省した。十歳になったシャーロットはマーガレット似のおませな女の子に育っていてシャーロットはジョージの遠乗りに付いて回ったがジェームズから教わって常歩と速歩は出来たが駈足には不安があってジョージの前に横乗りに掛けた。
日差しが照り付ける中、風を切って北側の林道を抜けて丘に登ると眼下にはジェームズ川が大きく迂回して西側プランテーションの奥から東側プランテーションの奥へ流れ、河岸の船着場まで荷馬車用の一本道が続き船着場の手前には楡の大木が立っている。
楡の根元に掛けるとキングと(ジェームズの馬)ボスが二頭並んで河岸に向かい、シャーロットは水筒の栓を抜いてジョージに渡した。ジョージは一口飲むとそのままアダムスに手渡し、アダムスは一口・二口飲んでシャーロットに戻した。シャーロットも真似て口を浸けて飲み、栓をして肩に掛けた。マーガレットに見られたら「はしたない!」と叱られるが、ジョージとアダムスの仲の良さを目の当たりにして自然に出た行為だった。
「アダムス」
水を飲み終えたブラックがアダムスとシャーロットに近寄って顔を摺り寄せて鼻をならすと、ジョージはキングの鞍の前に敷いた毛布をボスの背中に移した。ボスは「急げ!」と言わんばかりに顔を強く押し付けてアダムスを立たせ、アダムスは鞍に乗ると両腕を差し伸べてシャーロットを吊り上げた。アダムスが左腕を回して抱き寄せると、シャーロットはアダムスの腕にしがみつく。
ブロンドの長い髪、少女のしなやかな身体がシャツの上から伝わり、アダムスが力を抜くとシャーロットは腕を抱いて胸に押し付けた。ジョージの後から馬場に戻ると、アダムスはボスの顔を撫でて労をいたわってからウィリアムに返した。久し振りに人を乗せたキングとボスは満足気に首を上下させながら馬場を廻って厩舎に戻る。ジョージはボスがジェームズ以外の者に懐いた事を驚いたが其れはボスだけではなく、シャーロットの胸にも変化をもたらしていた。
祖父母が部屋食になったブラウン家では、食卓の正面にはジェームズが座り、北側にはジョージとハリー、南側にはマーガレット
とシャーロットが座るが、アダムスは奥様と対峙して掛けた。アダムスの実家ウィルソン家はロンドンでも指折りの雑貨店を営んでいてリッチモンドにも代理店を置いていたが、昨秋父親が亡くなってアダムスは進路に悩んでいた。
…アダムスは(父親の)ウィルソンと黒人女中ベル(母親)との間に出来た子供で、ベルの妊娠が分かると義母のイザベラはベルを多くの黒人が住む貧民街に追い遣った。従い、アダムスは父親の温もりも知らないまま育ったが、(イザベラに子供が居ない事もあって)アダムスは父親から大学に行くように言われていた。…然し、父親が急死した今、アダムスの進路は奥様のイザベラの手中にあり、雑貨店の経営は親戚者達に委ねられていた。
途方に暮れるアダムスを励ますため、ジョージはアダムスを連れて帰省した訳だが、ジェームズの話題がジョージやアダムスの進路に及ぶと、ジョージは話題をボスとキングに替えた。ブラウン家の食卓に混血の者が加わるのは初めての事で、すれ違う際、北側の監督官はあからさまに毛嫌いの顔を見せた。
ジョージを信望するシャーロットはジョージが愛するものを愛して時を待たずにアダムスに思慕の念を抱いたが、祖父母に溺愛されているハリーは混血のアダムスを遠ざけていた。本来ならハリーはボーディング・スクールに入らなければならない年齢なのだが、ハリーは祖父母を味方にして断り続けていた。
「ハリーの凶行Ⅰ」
ハリーには数学・物理と歴史・外国語を教える二人の女性ガヴァネスが付いていたが、講義はハリーの部屋で行われるため講義の内容は見えなかった。
一ヶ月後、ジョージとアダムスはイギリスに戻り、シャーロットは穴の空いたような空虚な時間を過ごした。
一方、隣室が無人になったハリーはこれまでの憂さを晴らすが如く傍若無人になり、講義中にも拘わらずメイドが部屋に出入りするようになった。そして、祖父母が立て続けに亡くなり、後ろ盾を失ったハリーは暫く意気消沈したものの、そこに付け入ったのがロバートだった。
類は類を呼ぶのか北側の監督官とも親しくなって、日曜日は監督官の家に入り浸りするようになった。事件が起きたのはシャーロットが十歳になった翌月で、その日、ジェームズと奥様はリッチモンド近くの綿花農園の結婚式に招待されて朝食後に揃って出掛けた。
会話も無い二人だけの夕食が終わると、シャーロットは身体を拭いてベッドに入った。夜のとばりが下りてムクドリのざわめきが小さくなると、メイドは部屋の灯りを落とし常夜灯を灯して出て行った。フクロウの鳴き声が遠くなり寝入り掛けた時、シャーロットの上に男が覆いかぶさってきた。
暫くは恐怖で声が出なかったが、男の手がネグリジェを捲ると、シャーロットはか細い声を挙げた。男はシャーロットの口を塞ぎ片方の手で下半身をまさぐりだす、シャーロットは必死で男の顔をひっかいた。男はたじろいで闇の中に消えて行ったが、シャーロットには其れがハリーであったことが分かった。
シャーロットは毛布に包まって震えながら朝が来るのを待った。メイドが入ってきてカーテンを開けると冷たい朝日が闇を照らし、
ベッド前の天蓋カーテンが引かれた。メイドは只ならぬ異変に気付いて指示を仰ぎ、シャーロットが「トムを」と言うと慌てて飛び出て行った。
トムはレースのカーテン越しに「昨夜の宿直者全員を拘束する旨と旦那様への通報を」述べて出て行った。時を待たずに早馬が東の門を走り抜け、登館する家内従事者の面々は驚いて馬を見送る。
ロバートは早速ハリーの部屋に入ったが、顔の傷を見て隠せない事が分ると別の知恵を授けた。“生意気な女は遣ってしまえば良い”と悪知恵を吹き込んだのはロバートだった。朝食の時間が過ぎても、シャーロットは毛布に包まってベッドの背もたれに身体を預けながら両親の帰りを待った。メイドとメイド頭が様子を見にきたが、シャーロットはカーテンを開けさせない。
暫くして「シャーロット、ミルクコーヒーだよ、おいで!」館でシャーロットと呼び捨てにするのは両親とベッティーだけで、ベッティーはシャーロットの腕を弾いてベッドから降ろすと陽が注し出したソファーに掛けさせ、シーツを替えてベッドを直した。
飲み終えるとベッティーはシャーロットをカーテンの中に入れて下着を替えさせた。肩紐が切れ、赤い血が付着したネグリジェを丸め、シャーロットを抱きしめてベッドの中に入れたが離れようとするとシャーロットがしがみ付き、ベッティーは抱き寄せて寝入るのを待った。
昼過ぎ、替え馬を弾いて早馬が戻って来ると、暫くしてジェームズがバルーシュの手綱を叩いて東門に現れた。ロバートとトムから尋問の結果を訊き、シャーロットが寝ていることを知ると二人でハリーの部屋に入った。
何時もは温厚なジェームズが声を荒げ、手を挙げて問い質したが、ハリーは「酔っていて何も思い出せない」の一点張りで、更に鞭打つと奥様は涙ながら身を挺した。鞭打つジェームズの目からも涙が溢れ、「何故、こんな子に育ったのか」と悔んだ。ハリーは酒を飲めなかったし、メイドが嘘を言っているのも二人には分かっていたからだ。
尋問の核心は「奥様の許可が必要なワインを誰が無断で出したのか、四時間毎の巡回の際に何故異変を感じなかったのか」であったが、尋問を開始して間もなくワインを出したのも部屋の巡回を遮ったのもハリー就きのメイドが自白した。然し、ワインは「ハリーに言われたから」と答えたが、巡回を妨げた理由は何度責められても答えなかった。
翌々日、メイドと其の家族はリッチモンドの奴隷市場に送られたが奴隷貿易が禁止されているご時世、買い手は直ぐに付いたと言う。二ヶ月後、ハリーは十三歳になるが、ジョージは十一歳の春にはボーディング・スクールに入っていた。遊び仲間も居ない農園で怠惰に暮らすよりも、同じ年頃の少年が集う場で学び鍛えあう必要があった。ジェームズは執拗に説得したが、ハリーは承諾しないばかりか泣き出す有様だった。
「アイリス十歳の春」
来月、アイリスは十歳になる。既に同年代の屋外従事者の子供達には幾つかの作業が割り当てられていたし、ロバートの娘ローズはお嬢様付に、隣家のリリーも一つ下だったが家内従事者として下働きに入ると言う。
家内従事者の管理はロバートの掌握範囲だったが、ローズをお嬢様付にした手前、アイリスの扱いに苦慮しているらしい。
屋敷の二階には旦那様、奥様、十三歳のハリー坊ちゃんと十一歳になったシャーロットお嬢様が住んで居たが、長男のジョージ坊ちゃんはボーディング・スクールに留学していて不在だった。
又、一階にはイギリス人の総監督官と各監督官の部屋があり、守衛やメイドなどが仮眠をする部屋もあった。
広大な緑の庭に聳える白い館は子供心には羨望の眼ではあったが、ベッティーやマリアから聞かされてきた白人の仕打ちは無慈悲で残忍な事ばかりだったのでアイリスは館に近づくのも怖かった。従い、アイリスはリリーの家を行き来して、もっぱら家の周りで過ごしてきた。
以前、家の境界には枝や板片で簡易な標があったが、リリーの父親のウィリアムはそれらを取り除いて耕し、花壇を真ん中にして両側に細長い菜園を拵えた。男手のないマリア達には願っても無いことだったし、リリーの母親のララ(診療所のナース)も親しみやすい人柄だった。
リリーには三つ離れた弟のジャックがいて、一人っ子のアイリスはリリーと二人でジャックの面倒を見ながら姉妹のように過ごしてきた。御者や荷馬車引きに携わっているウィリアムはアイリスとリリーを分け隔てなく接し、アイリスにはウィリアムの大きい手や逞しい腕に父親のような愛情を感じたが、マリアにそれを言うことは出来なかった。
トウモロコシやジャガイモ・根菜類は毎月余る程支給されたが葉物野菜は菜園に採りに行かなければならないため、ベッティーは庭畑に種を蒔いて追肥した。
畑用の水汲みと畑への水やりはアイリスとリリーの役目で、二人はなだらかな丘を降りて手前の沼か、その先の堀で水を汲んで(ウィリアムが馬小屋から拾ってきた)水桶に水を貯めた。
飲用水は屋敷と庭園の中に井戸があって、マリアは毎日井戸水を汲んで帰宅した。又、謝肉祭には牛肉も配給されたが、ウィリアムは庭の奥の真ん中に鶏小屋を造った。
リリーはアイリスより一つ下で、家内従事者の手伝いになることが決まると不安を顕わにした。当日、マリアがリリーの手を引いて館に上がると、アイリスは泣き出しそうなジャックを抱き寄せてリリーの帰りを待った。…夕暮れ時、リリーはベッティーとマリアに挟まれながら笑顔で帰って来た。
次はアイリスの番だったが、それは突然、前触れもなくやってきた。お嬢様付のローズが寝込んだとの事で、アイリスにその代役が廻って来たのだった。
その晩、ベッティーは事のあらましを話したが、結局、利発なお嬢様と疎いローズでは馬が合わなかったとのこと。
「館」
翌朝、アイリスは生まれて初めて館の土を
踏み、大扉左手の通用門をくぐった。入口の傍には門衛の詰め所と御者の待機部屋があり、前掛けを付けた女性達が絶え間なく部屋を出入りしていた。いくつかの小部屋の前を通り過ぎて、アイリスはマリアの後からロバートの執務室に入った。
チェーンストラップ付の眼鏡を掛けたその男は、目も合わせないまま用件を述べてアイリスについて来るように言う。暗がりの廊下から広いロビーに出ると、眩い朝日が大理石の床を照らして別世界の形相を醸し出した。
ロビーの奥にはジョージアン様式の幅広い階段が見上げるように伸び、広い踊り場の真ん中には階段を見下ろすように等身大の彫刻が置かれ、左右の壁には絵が飾られていた。
ロビーを一望するように踊場の左右には白い手摺の渡り廊下が玄関上のベランダまで続いていて、右側には応接室が二つと、シャーロットお嬢様、旦那様、奥様の部屋があり、左側には来賓の部屋が二つと、ハリー坊ちゃんとジョージ坊ちゃんの部屋があるとのこと。
応接室を過ぎてお嬢様の部屋の前に来ると、ロバートは眼鏡をはずしてドアをノックした。
メイドキャップの女中がお嬢様に取り次ぐと、シャーロットはレースのカーテンを引いて顔を出した。アイリスより一つ上とのことだが、
シャーロットの透き通った白い肌は踊り場の彫刻のように厳かだった。
(本来、白人の主人方が使用人の黒人従事者に手を差し伸べる事はあってはならない事だったが)シャーロットが手を差し出すと、アイリスは片膝を着いて其の手に触れた。
シャーロットは顔をしかめて出ていくロバートに舌を出し、振り返ってアイリスに笑みを浮かべた。アイリスは一瞬にシャーロットが好きになって満面の笑みを返した。
「シャーロット」
お嬢様の薦めでアイリスは早めに帰宅した。
両方の畑に水をやり、鶏を小屋に入れて夕餉の支度をしているとベッティーが足早に帰宅して根掘り葉掘りと問いただし、お嬢様付の女中ではなく遊び相手として仕えるように言われた事を告げるとベッティーは半信半疑でマリアの顔を覗いた。
屋敷の旦那様は私達従事者に絶対的権限を持っていたが、そんな旦那様でもお嬢様には頭が上がらないらしい。この間もむち打ちの刑を告げられた庭師がお嬢様の一言で助けられたと言う。…ベッティーにはシャーロットが手を差し伸べてくれた事は話せなかった。
翌朝、アイリスが通用門からロビーを抜けて階段を踏み掛けると、シャーロットが踊り場で手招きをしていた。
部屋のテーブルの上には淡い草色と濃い紫色の布地があって、床の上の箱には肩掛けのケープや袖などの装飾品が入っていた。シャーロットはメイドを部屋から出すと、カーテンを開けてアイリスを中に入れた。
宮殿のお姫様のような大きなベッド、全身を映す鏡、シャーロットはカーテンを閉めると、ソファーの背もたれに掛けていた服の中から薄緑色系のワンピースを取ってアイリスの身体に服を合わせた。
アイリスはシャーロットが見ている前で着ていた服を脱いだ。着古した下着だったがアイリスは何故か恥ずかしさを感じなかった。シャーロットの自然な振舞いがアイリスには姉のような感情を抱かせていたからだ。
着替えを終えるとシャーロットはアイリスを鏡の前に立たせて肩越しに満足そうな笑みを浮かべ、“このままで待つように”と言って部屋を出て行った。
間もなくしてシャーロットは奥様と一緒に駆け込んで来て、アイリスは鏡越しに頸を垂れたまま向き直った。奥様は顔を上げるように言ったが、アイリスは緊張の余り涙ぐんで顔を上げることが出来ない。見かねて奥様は両手で優しく頬を挟み、アイリスの顔をゆっくり持ち上げた。
アイリスの顔を見つめてワンピースに目を遣ると、シャーロットにバッケルと靴を探させて自ら手を後ろに回してバッケルを着け、アイリスを座らせて靴を換えた。シャーロットは手を伸べてアイリスを立ち上がらせると、二人は満足な笑みを交わした。
「奥様」
アイリスは鏡の中の自分の変わり様に驚いたが、何故、奥様とお嬢様がここまでしてくれるのかが分からなかった。アイリスが涙を溜めながらその訳を訊くと、“シャーロットの話し相手「従者」に成って欲しい”と言う。「何故、私なの」と尋ねると“シャーロットが貴方を選んだのよ、貴方に会って私もシャーロットのお友達にふさわしいと感じた”と言う。
アイリスは“お嬢様にお会いしたのは昨日が初めてだった事”を告げると、シャーロットは何度も首を横に振り、「アイリス、母と私は貴方をずっと見てきたのよ、リリーの事も知っている」と言う。
アイリスが唖然とシャーロットを見つめていると、奥様はフリルの袖口でアイリスの涙を拭きながら「シャーロットと仲良くしてね」と言って出て行った。
シャーロットはメイドを呼んで布地や装飾品、履き替えた靴などをまとめさせながら、ソファーの背もたれから薄い黄色系のワンピースを取り上げて、“これはリリーに似合うかしら”と呟いた。
シャーロットは細身で身長はアイリスと同じぐらいだったが、リリーは少し低かった。シャーロットは背もたれのワンピースをアイリスに預けると馬車の手配に出て行き、シャーロット付のメイドはアイリスを見入った。
本来、家内女性従事者の作業衣は夏は薄い緑色のスカートと白のブラウスで、冬は厚手のスカートだった。その他は働く持ち場に応じてキャップや前掛けが変わるが、ワンピースを着ているのは旦那様付の秘書だけで、メイドの顔には嫉妬心が露わだった。
二階の踊り場に立つと一階ロビーの全体が一望出来る。ベージュ系の大理石の床、白塗りの壁にはランタンが並び、ホールの上には4灯式のシャンデリアが吊り下っていた。
門衛が扉を開けると馬立には荷台付の馬車が停まっていて、ウィリアムは馬繫・手綱・荷鞍・荷綱をてきぱきと確認するとワゴンのドアを開けた。シャーロットは後の席に着くと隣に座るように合図したが、アイリスは荷台に立ってメイドから荷物を受け取った。
ウィリアムは一旦馬車を後退させてから(アイリスの家がある)西のプランテーションへ続く庭園を常歩で進んだ。庭園の出口で馬車を止めさせるとシャーロットはワゴンから出て荷台に上がり、西のプランテーションを指差しながらアイリスに話し掛けた。
「プランテーション」
此処は元来西から東へ河川が流れる原野であったが、二百十年前にブラウン家の初代当主がイギリスから渡航して川の扇状地に館を建て、円形の庭園を石堤の堀で囲み、東西南北に堰を設けて、林道と堀を伸ばしてきた。
見渡す限りの緑の大地に、川は堤の中を西から流れて庭園の下の堰で南側と北側に分かれ、東の堰で合流してプランテーションを過ぎて川に戻る。
東西南北の其々の堀には等間隔で水止め板が設けられていて、板を入れただけで水はプランテーションの区切られたエリアに流れる仕組みになっている。
即ち、東西南北の堰で各堀の水位が調整されると共に、水止め板を移動することでプランテーションの各区域に水を流すことが容易であった為、ブラウン家では水を汲む従事者は不要だった。
堰に架かった橋を渡ると、林道の左右には家内従事者の住居が並んでいる。左側の手前はリリーの家で、奥がアイリスの家である。
ウィリアムが馬車を停めるとアイリスはワンピースや荷物を抱えて家を行き来した。
沼を過ぎて西側菜園の間を抜けるとジャガイモと豆畑が続き、その奥には背の伸びたトウモロコシ畑が広がっていた。
様々な葉物野菜が茂る菜園は東西南北にあり、其々のエリアの責任者が屋外従事者を使って管理していた。責任者の許可を得れば誰でも自由に採取が出来るため、仲間内では何処の菜園の物が美味しいかが話題だった。
トウモロコシやジャガイモは毎月頭数分が(玄関先に)配給されたが、キャッサバやヤムイモを好む者は家庭菜園で自ら作っていた。アイリス達も普段はトウモロコシを粉にしたシマが主食であったが、慶事にはクスクスを作った。
ジャガイモ畑を過ぎると林道脇にはバラセンで囲われた食堂と病棟があり、その奥には
二階建ての監督官の家があって、ジャガイモ畑とトウモロコシ畑を区切るように、日干しレンガの平屋が南北に弧を描くように続く。
家内従事者の家は木造で床板が張ってあるが、屋外従事者の家は土間が二間続いているだけだった。
ブラウン家の煙草プランテーションは連作障害を避けるため、三年間煙草を作ったら、四年目はトウモロコシやジャガイモを作る畑になる。即ち、時計の針のように一年ごとに畑の順番が東から南、南から西、西から北、
北から東へと替わる。
この時期、南のプランテーションでは煙草の移植作業が行われていて、林道の木陰を煙草の苗を運ぶ荷馬車が行き来していたが、西のプランテーションでは豆の収穫が始まり、大人は豆の株を抜いて袋に詰めて運ぶと、子供達はこぼれた落穂を拾って歩いていた。
嘗て、屋外従事者だったウィリアムは荷台のシャーロットとアイリスにも聞こえるように説明しながらトウモロコシ畑を過ぎて雑木林の手前で馬車を返した。
雑木林は未だ未開墾のエリアで誰でも自由に立木を採ることが出来たが、ウィリアムは枝を伐採し、手押し車を引いて男手が無いアイリス達を助けた。
「ロバート」
是まで、アイリスは父親の名前を訊ねると、マリアは執事で家内従事者の管理的立場にあるロバートの名前を挙げたが、同居にはその都度顔を曇らせるだけだった。
誕生日やイースター、クリスマスに父親が居ない寂しさには慣れたが、目の前(ロバートの家は屋敷を挟んだ反対側だった)に居る父親が何故、会いにも来ないのかとアイリスは恨んでいた。
然し、昨日、其の男に対面してアイリスはマリアの判断が理解出来た。爬虫類のような冷たい眼には父親の温もりも、慈愛の欠片も感じられなかったからだ。寧ろ、アイリスは何時も陰ながら見守ってくれているウィリアムに父親のような感情を抱いていた。
ウィリアムは沼の上の林道脇で馬車を停めると、小型の双眼鏡をシャーロットに渡した。
シャーロットは荷台の上でピントを合わせて、アイリスに渡しながら家の方を指さした。レンズの中には、ジャックが桶を抱えて覚束ない手で畑に水を撒いている姿と地面を突っつく鶏がクッキリと写っていた。
兄のジョージがロンドンのボーディング・スクールに行ってからシャーロットには寂しい日が続いていたが、ウィリアムと此処を通った時に明るい笑い声が聞こえてきて、以来、シャーロットは双眼鏡越しに“度々アイリス達を眺めていた“と言う。
シャーロットにはもう一人、兄のハリーが居たが陰険な性格でシャーロットとは気が合わなかった。それでシャーロットは同じ年頃の話し相手をマーガレットに願望したところ、ロバートはローズを連れて来た次第だった。
豆を積んだ荷馬車の御者はシャーロット達(アイリス)に気付くと、驚いた顔で挨拶も忘れて駆けて行った。豆の天日干しは南側庭園の広場で行われ、二週間が過ぎると屋敷の倉庫で保管される。屋敷に戻るとウィリアムは手を伸べてシャーロットとアイリスを抱きかかえて荷台から降ろした。
帰宅するとジャックは首を長くして待っていたが、アイリスの身なりに呆然と立ちすくんだ。着替えを終えて水汲みに行くことを告げると、ジャックはバケツを取りに戻ってアイリスと肩を並べた。
距離的には沼の方が近かったが、足場が悪い為アイリスは堀に向かった。林道の木立に釣瓶が繋がれていて、これを下げ入れて水を汲む訳だが、水位が下がっている時や流れが速い時は危険だった。
水汲みは何処の家でも子供の仕事だったが、ウィリアムは一人で汲むに行く事を禁じていた。三つのバケツの一つを二人で持って緩やかな丘を登る。六歳になったばかりのジャックは男子の子らしく頑張ったが、アイリスは丘の上で止まって手を入れ替えさせた。
三往復して水を貯えると次は夕餉の準備で、(ウィリアムが作った)小屋から火起こし用の小枝と薪を運んだ。(ごみが入って)眼を擦ろうとするジャックの手を抑えて、アイリスはジャックの頭を左腕に抱えて瞼を開いた。
「従者アイリス」
ナースのララは仕事柄帰宅が不規則な上に、
急な夜勤で帰れない日もあった。それは通いの馬車が知らせる訳だが、そんな時はベッティーとマリアが夕餉を作り、ウィリアム達はアイリスと一緒に食べる。こうして、二つの家族は助け合ってきた。
今日もララの帰りは遅くなりそうで、リリーの後からベッティーとマリアが入って来ると、開口一番、ベッティーが“どうだった”と尋ね。アイリスはシャーロットお嬢様と奥様のことを話して、「従者」に選ばれた事を告げた。シマを捏ねながら聞いていたマリアの手が止まり、アイリスに聞き返す。
マリアはてっきりメイドに請われるものと思っていたが、“従者”がどの様なものなのか、マリアもベッティーも初耳で顔を曇らせた。当然、アイリスにも分かるはずはなかったが、アイリスに不安はなかった。
ウィリアムが入って来ると、二人は矢継ぎ早に問い質した。いつもは言葉少ないマリアも手を止めてウィリアムに対峙し、…其の形相にアイリスは初めて事の重大さを感じた。
ウィリアムが知る範囲ではメイドと“従者”は雲泥の差で、従者は“お嬢様と同じ身分・同じ教育を受けられる”と言う。それを聞いてアイリスの胸は高ぶった。
大概、農園従事者は世襲で屋外従事者の家に産まれた者は屋外従事者に、家内従事者の家に産まれた者は家内従事者になるものと思っていた。“お嬢様と同じ教育を受けられる”ことに、アイリスの目の前は一瞬に変わった。
食事が終わるとアイリスはシャーロットが言ったようにリリーに黄色のワンピースを渡し、他のワンピースもリリーに合わせてみた。
例えこれらが着古しであっても、お嬢様は私達の立場を熟慮して選んでくれたのだろう。
リリーには紫系も群青系もよく似合う、アイリスはお嬢様の気持ちを伝えながらそれらもリリーに渡した。
ウィリアム達が帰るとマリアは布地を広げてみた、袖を付けても十分に三着は作れる大きさだった。ブラウン家の従事者の服を作っているマリアには造作は無かったが、お嬢様より目立ってはいけないし恥をかかせてもいけない。裏地はなかったが、頂いたワンピースを真似てひだ付と前開きを作り、布地が余ったらジャックのズボンを作ることにした。
翌朝、皆で通用門に差し掛かると(アイリスが“従者”になったことを伝えられてる)門衛の一人が近寄ってきて、アイリスに“玄関から入るよう”に言う。家内従事者の全員が通用門から入館する中、十歳になったばかりのアイリスは通用門に向かうロバートを横目に玄関前に立った。
門衛は互いに目で合図しながら荘厳で重層なドアを開き、静寂なロビーに“コツコツ”とアイリスの小さな足音が響いた。
階段の上でシャーロット付のメイドが待っていて、“此処で…”と応接室のドアを開けた。バルコニー側の遮光カーテンは両端に引かれて、採光レースの向こうには西側の庭園が覗いていた。
バルコニーを背にして両袖タイプの幅の広い机が置いてあり、その前には三人掛けと一人掛けのソファーが二脚づつあって、間には低いテーブルがあった。
右の壁側にはカウンタータイプの本棚が一面に繋がり、左側の壁の真ん中にはアップライトピアノとその両サイドには四頭のドラゴンを施した燈台がある。
マーガレット奥様とャーロットお嬢様が入ってきて、振り向くと奥様は大きく腕を開いてアイリスを抱き寄せた。フリルの付いた柔らかい胸元に顔を付けると奥様の胸から甘い百合の香りが漂う。
シャーロットがアイリスの手を取って一緒にソファーに掛けると、奥様は「従者の身分」について語り出した。…アイリスはシャーロットと同格で、食事も学習も何をするにもシャーロットと一緒で、トイレも同じトイレを使って良い…と言う。
そしてマーガレットはアイリスをシャーロットの従者に選んだ事由について話し出した。マーガレットは腎臓の機能に異常があり、発症すると命の危険があるとのこと、十歳のアイリスには病気のことは分からないが、シャーロットの手は汗ばみ震えていた。
そしてマーガレットは「私に万が一の事が有ったらシャーロットを支えて欲しい」と、涙を浮かべてアイリスの頬を撫でた。
アイリスはシャーロットの手を両手で握り締めながら「お嬢様のためなら何でもする」と答えると、奥様は即座に「アイリス、貴方はシャーロットの従者なのよ、“シャーロット”と呼びなさい」と言う。シャーロットも頷いて、アイリスに微笑んだ。
「初めての朝食」
メイドが朝食の準備が整った事を告げてシャーロットは奥様に続いたが、朝食を済ませてきたアイリスが立ち止まるとシャーロットは振り返ってアイリスの腕を抱き抱えた。
階段を降りるとメイドが小食堂の前で待っていて、私達が近づくと扉を開けた。小食堂は二階応接室の下にあって、旦那様方や来賓をもてなす際に使用される。又、階段を挟んだ来賓室の下には大食堂があって、夜勤者の朝食や家内従事者が昼食に使用した。
小食堂の西側のガラス窓には、明るみ出した春の陽と風が入り込んでいた。私達が中に入ると先に席に着いていたハリー坊ちゃんが席を立って奥様に朝の挨拶をし、シャーロットは軽くハグをするとアイリスを紹介した。アイリスはハリー坊ちゃんが差し出した手に右足を後ろに引いて応えた。
奥様が正面でハリーが北側にシャーロットとアイリスが南側の席に着くと、奥様は呼び鐘を鳴らした。メイドがドアを開け、給仕係が各々のワゴンを押して入って来る。
ブラウン家の朝食の配膳は食器係が一通り食器を並び終えると次の係が野菜サラダを盛り、次の係はハムや卵を乗せ、次の係がパンを乗せていく。盛り付けの量や調味料の種類はその都度給仕に伝える。
炭水化物や糖質が制限されている奥様はスクランブルエッグにトマトケチャップとパンが一個で、ハリーは野菜サラダが少なめで半熟の目玉焼き2個に塩胡椒とパンが4個乗っていた。シャーロットも半熟の目玉焼き2個に塩胡椒とパンが2個で、アイリスは目玉焼き一個とパン一個を頼んだ。
残ったパンがテーブルの中央に盛られると、食器係がスープカップを並べた。正装をした給仕がスープポットを乗せたワゴンを押して奥様の後ろで止まり、野菜スープを注いだ。ハリーはポタージュで、シャーロットとアイリスはクリームスープを頼んだ。
配膳が終わると給仕達は其々のワゴンを脇に置いて出口の壁を背にして並んで目を伏せ、
正装した給仕だけが私達をうかがっていた。
奥様の合図で食事が始まったが、ナイフとフォークを使ったことが無いアイリスはシャーロットに教わりながら食べた。
食事中は無言だったがくだものと牛乳が運ばれて来ると、奥様は今日のプランテーションの予定と自分の行動予定を話し出した。
ハリーはボーディング・スクールの受験準備とアフタヌーンティー後はロバートと庭園を散策したいと言う。奥様は一瞬顔をしかめてからシャーロットに目を向けた。
シャーロットは南プランテーションの煙草の移植作業を見学して、午後からはアイリスと学習の擦り合わせをしたいと告げた。
奥様が給仕頭に目を遣ると、彼は足早に近寄って要件を訊いた。奥様は御者にウィリアムを指名して2頭立のバルーシュを準備するように指示した。バルーシュは奥様専用の馬車で、ウィリアムを屋外従事者から家内従事者に取り立てたのは奥様だった。
「ウィリアム」
奥様が席を立ち、アイリスが立ち上がるとハリーと目が合ってアイリスは目を伏せた。其処には子供心にも優しさの無い、不安が感じられたからだ。部屋に戻るとシャーロットはクローゼットから帽子を出して、アイリスに似合うのを選んでトイレに連れだった。
階段を降りてロビーに出ると、門衛はシャーロットとアイリスの顔を交互に見ながら大扉を開けた。玄関の前には王女様が乗るような綺麗な馬車が停まっていて、ウィリアムは正装を纏っていた。
シャーロットを座席に導くと、ウィリアムは白手袋の手を伸べて、小声で「王女様どうぞ」と、アイリスの手を取ってシャーロットの脇に座らせた。
ウィリアムは踏み台を後ろに固定して前の高いボックスシートに乗ると、掛け声と共に手綱を叩いた。二頭の馬は足並みを揃えて庭園を廻り、南の堰の前で止まった。
堰の両サイドには二人の頑強そうな若者が居て、南に延びる堀を伺いながら仕切り板を抜こうとしていた。
煙草の苗の移植作業は各区画に適度な水量が求められる為、川の流量によっては西側の堰で南側と北側の流量を調整して、且つ、南の堰で南側の堀に流れる流量を調整しなければならない訳だが、川の流量が多い時は危険な作業だった。
堀の向こうで青い旗が振られて二人は仕切り板を入れて東側に流れる水を止めた。水しぶきが上がり堰の水位が急上昇すると水は波を立てて南側の堀を進み、私達は川面の波を追って林道を駆けた。
バルーシュの心地良いクッションと初春の爽やかな風を受けながら駆けて行くと、苗を積んだ荷馬車が私達を追い越して先ほど旗を振っていた場所で停まった。
仕切り板で止められた水は畔を伝って区画に広がり、先を平にした棒を持った男性陣が真っ直ぐ畑の奥まで水を引いて行く。
仕切り板の前には渡り板が掛けられ、荷台からトレイ一杯に育った苗が土手に置かれると、アイリスと同じ年頃の女の子が二人一組でトレイを植える場所に運ぶ。
女性陣はトレイから苗を鷲掴みして手早く植え、区画の苗を植え終えると手直し作業を行う。男性陣の作業は区画の畔の手入れと、全ての苗に水が行き渡るように轍を作ることだった。
区画に水が満たされると赤い旗を振って水の流入を止めてもらい、仕切り板を挙げて次の区画の仕切り板を下げる。
畑の中の者は裸足で、男子はつなぎズボンを膝の上までめくり、上はTシャツだった。女子はゴム付きのフレアスカートの丈を捲り上げ、上はお揃いのTシャツを着ていた。
シャーロットとアイリスは立ち上がってウィリアムの説明を聞いていたが、ひっきりなしに監督官の罵声染みた声が飛ぶ中では二人に目をくれる者は希だった。
男性陣は「畔が破れた!」、「轍を早く引け!」と檄が飛ぶ度走り廻り、女性陣は植え付けを煽られて腰を伸ばす暇もない。子供でさえも苗を落とすと罵声が飛んだ。
シャーロットはウィリアムに合図してその場を離れた。如何なる事情であっても怒鳴り・罵声を浴びせる事をシャーロットは快く思わなかったし、益して子供への罵声は胸に刺さるほど辛かったからだ。
ウィリアムにそれを告げると、“ブラウン家の農園はまだマシな方で、投打や鞭を使う農園もある”と言う。
シャーロットには奴隷制度のことは分からなかったが、握り締めた手は震えていた。日頃、白人の理不尽さを聞かされているアイリスには、シャーロットが同苦し・憐れんでくれることが嬉しかった。
本来、従者は住み込みで二十四時間主人に附いていなければならなかったが、奥様はアイリスの年齢を考慮して暫くは家から通わせる事にした。
従い、アイリスは登館するとシャーロット
の部屋に出向いて、着替えてから一緒に食堂に入る。
テーブルにはマーガレットとハリーが座っていて、食事制限があるマーガレットのテーブルにはパン用の皿とナイフが無かった。
アイリスは焼き立てのパンにバターを塗り、搾りたての牛乳を初めて飲んだ。ハリーはテーブルマナーを知らないアイリスを茶化したが、マーガレットは目でハリーをたしなめた。
シャーロットはアイリスが食べたいもの・飲みたいものをゆっくりと食べて飲んでみせ、アイリスはシャーロットの手振りを真似た。
食後、マーガレットは“今度の土曜日に旦那様がフランス語とピアノの先生を連れて来ること、二人とも幼い子供を抱えているので、厩舎傍の一軒家に同居させる”と言う、其処は以前調教師家族が住んで居た住居だった。
「ガヴァネス」
シャーロットは目を輝かせ、アイリスの手を取って応接室に駆け込んだ。知識のある女性は忌避された時代、父親のジェームズもマーガレットも良き伴侶に出会える事を願ってシャーロットを育ててきたが、当のシャーロットは手に職を付けるかプランテーションの運営に関わりたいと思っていた。
従い、シャーロットはピアノもダンスも絵画や刺繍も不要だと言うが、アイリスは其れを黙って聞いていた。何故なら黒人従事者の子供にとって従事者は世襲制であって、ベッティーのように料理の仕事か、マリアのように裁縫の仕事に就くのか、いずれにしても家内従事者として生きることしか教わって来なかったからだ。
勿論、ロバートのように自由黒人になる道もあったが、職に就けなければ栓なしだった。只、ベッティーもマリアも読み書きと計算は大事だと言い、機会がある都度ウィリアムに頼んで本を手に入れさせてきた。
中でも辞典は高価でなかなか手に入らなかったが、ウィリアムはマーガレットの伝手を得て購入した。(リテラシー教授禁止規定の下、黒人従事者が読み書きを学ぶことを嫌うプランテーションが大半の中)ブラウン家の主人は寛容だったが、アイリスとリリーは隠れるようにして学んできた。
そんなアイリスをマーガレットは(ウィリアムを通して)五年間見守り続け、シャーロットの従者に推奨した。
シャーロットは、リリーを庇い・ジャックを親身に面倒見ているアイリスを好ましく観て来た訳だが、シャーロットにはどうしても確かめたい事があった。
シャーロットはアイリスを応接室のソファーに座らせると、次々と本を重ねて横に掛けた。初めに手にしたのはガリバー旅行記で、シャーロットは適当なページを開いてアイリスに「此処から朗読してみて」と言う。
…アイリスは“家族以外の者(特に白人)には読み書きが出来る事を知られてはいけない”と固く言われてきたが、シャーロットなら良いだろうと即断した。…
「ガリバー旅行記」や「くつふたつの物語」は表紙が擦れるほど、何度もリリーとジャックに読み聞かせて来た本だった。
アイリスは滑らかな発音とアクセントで読んでいくと、シャーロットは驚いたような顔をして次の本を開いた。
「ハムレット」は初めてだったが冒頭から読んでいくと入口で拍手が鳴り渡り、マーガレットはシャーロットとアイリスに満面の笑みを投げた。
メイドにお茶の準備を伝えるとマーガレットは“どの様に読み書きを覚えたのか”と尋ね、アイリスは“読み方は辞典で、書くのはかまどの前の土間で練習した”と答えた。“独学でこれだけ綺麗な発音が出来るのは素晴らしい”と褒めて、シャーロットと見合った。
そして、読みたい本や使いたい辞典があったら、本棚の物を自由に持って行って良いと言う。アイリスは立ち上がってマーガレットに感謝を述べた。今、アイリスが使用している辞典は古く、分量も少なかったからだ。
マーガレットが出て行くとシャーロットは繁々とアイリスを見入った。…それは兄のジョージからの手紙で、本国では奴隷貿易禁止法が成立したので“近い将来、奴隷制度は無くなるだろうが、其の時、彼等には自活する力が必要だ”と切望していた。…
マーガレットの願望も其処にあって、ブラウン家のプランテーションに居る間は“少しでも益な生活を送れるよう、其々がスキルを高めていけるように”と助言してきた。マーガレットの姿を見て育ったシャーロットも同じ考えで、今、アイリスを目の前にした二人は一抹の希望を膨らませていた。
「ジェームズ」
其の日、家内従事者の大半はマーガレットを中心にして玄関前に並んで、旦那様の帰りを待った。カブリオレを先頭に十台のキャラバンが東側の庭園を進んで来た。人一倍身体が大きくカブリオレの御者をしているのは守衛頭のトムで、トムは誰憚ることなくシャーロットの守護神を自負していた。
トムの合図で全体が停まりカブリオレから旦那様のジェームズが降りると、マーガレット、ハリー、シャーロットが挨拶に出て、マーガレットはアイリスを紹介した。
旦那様が秘書のエミリーとロビーに入るや否や、トムはシャーロットを抱きかかえて頬ずりした。嫌がる声とは裏腹にシャーロットの両腕はトムの頸に巻き付いていた。
二人のガヴァネスは既に住居に着いていたが引っ越しの片付けなどがあって挨拶に見えるのは明日とのことで、ウィリアムが館と住居を行き来して食器や食材などのフォローをしていた。
トムの合図でキャラバンが入れ替わると、
次の関係者がキャラバンを取り囲んだ。ブラウン家では一年に一度、余剰のトウモロコシや豆をリッチモンドで売りさばくと共に農機具や食器・布地・調味料などを買い付ける。
又、煙草の出荷もリッチモンドであった為、
ジェームズはジェームズ川河畔近くに倉庫付き一軒家を購入して乾燥・梱包した煙草を小船で運んでこの時期に競売した。そして街の間を忙しく行き来したが、それでも用が足せない場合はノーフォークまで足を延ばす。
翌日、応接室には旦那様と二人の御婦人が居て、アイリスは二人の視線を感じながらシャーロットの隣に掛けた。奥様はアイリスがシャーロットの従者であり、一緒に講義を受けること、講義中はメイドがご子息・ご息女の世話をすることなどを伝えた。
フランス語と一般教養は年長のジェシカが午前中に、ピアノとダンスと礼儀作法はエヴァが午後に講義するが、土・日は休みだった。
二人から“土・日にウィリアムを使わせて欲しい”との要望が為されると、マーガレットは“土・日はウィリアムが、ウィリアムが行けない時は別の者を行かせる事と、平日はウィリアムの娘のリリーが手伝いに行く”ことを伝えた。二人が旦那様と部屋を出ると、奥様と私達は踊り場傍の談話室に入った。
談話室は旦那様が年間の計画や月間の予定を各監督官や責任者と協議する為に使われていたとのことで、(テーブルや椅子などが部屋の壁側に片付けられ)部屋の真ん中には書斎机が2台並んでいた。
マーガレットに言われて引き出しの中を覗くと上の引き出しには小さな棒と石鹸のような物があって、下の引き出しの左側には白い綺麗な紙が積んであり、右側にはノートが5・6冊入っていた。マーガレットは“足りなくなったら申し出て”と言い、これ等を手に入れる為に旦那様はノーフォークまで足を延ばした事を付け加えた。
シャーロットは紙を一枚出して棒のような物で紙をなぞって「アイリス」と書くと、小さい石鹸で紙をこすって文字を消した。アイリスが魔法を見るような顔を浮かべると、シャーロットは“これが鉛筆で、これは消しゴム”だと言う。
シャーロットは立ち上がって黒板にスペルを綴り、「これは何て読む、どういう意味」と訊き。アイリスはリリーと砂の上や釜戸の前で書いては消し、書いては消して辞書の大半を暗記していた。シャーロットは其の事を知っていたが、確かめるように何度も訊いては書かせた。
読み書きが終わると次は算数で、シャーロットは黒板に足し算や引き算・掛け算の問題を書いていく。アイリスは答えを書きながら算数はリリーが得意であることを伝えると、シャーロットはポツリと“リリーも一緒に学べたら良いのに”と吐き、アイリスはリリーの分も学ぼうと思った。
「フランス語」
午前中、談話室でフランス語の講義を受けると午後は応接室でピアノの練習で、初夏は瞬く間に過ぎて庭園の植木も彩始めた。未だアイリスは家から通い、夕方早くに帰宅する毎日で、朝、鶏を放して卵を取ると畑に水を撒いてから登館し、夕方はジャックを連れて水汲みに行った。旦那様や奥様との食事にも慣れたが、ナイフもフォークも使わない・気兼ねの無い我が家での夕食は格別だった。
夕食が済むとアイリスはリリーとフランス語の復讐をして、リリーはアイリスのノートを写した。土日はジャックに読み書きの勉強をさせながら、ピアノに見立てたテーブルをなぞってリリーと口ずさんむ。
ベッティーもマリアも、アイリス自身も、初めは“お嬢様の気まぐれ”と思っていたが、日が嵩むにつれて、アイリスを従者に選んだのはマーガレットとシャーロットの思い付きでなかった事が身に沁みた。
何故なら、シャーロットはフランス語やピアノは既にマーガレットから教わっていて、全ての講義はアイリスの理解度に合わせて進められていたからだ。シャーロットはフランス語で「眠り姫」や「赤ずきん」も暗記していたし、「きらきら星」や「ひなげし」、「月の光に」なども楽譜を見ないで弾いたが、シャーロットはアイリスが一つマスターする度に、マーガレットを呼んでアイリスの進度を共に讃えた。
何故、ここまでしてくれるのか、それがプロテスタント的精神であったとしてもアイリスやマリアには半信半疑だったが、冷たい小雨が降る午後、シャーロットはトムを部屋に呼んで「アイリスは私の大切な妹なの、守って欲しい!」と真顔で言うとトムは胸に拳を当てて「必ず守る」と誓った。
トムはウィリアムと同じく屋外従事者だったが、身体が人一倍大きい割には温厚で、旦那様は彼を守衛頭に抜擢した。トムには子供が無く、シャーロットが生まれると、彼はジェームズにシャーロットの守護者になることを願い出たとのこと。
アイリスにはシャーロットが何故ここまでしてくれるのかは分からなかったが、シャーロットとマーガレットの誠意は本物で、アイリスをより高き女性に導こうとしていることは察しが付いた。
アイリスは二人の期待に応えるべく無我夢中で学んだ。講義で教わった内容は紙にメモして、その日のうちに単語ノートや対訳ノートに綴った。又壁板には動詞活用表を貼って毎日眺めて暗記した。
其の日、食卓には久し振りにウィリアムが居て、間もなくしてララも夕餉に加わった。
ブラウン家のプランテーションでは刈り入れた煙草の葉は庭園南側の斜面で天日干しした後、乾燥小屋で薪を燃やして乾燥される。
この時期、乾燥小屋には外部から賃貸で雇われた者が二十四時間体制で小屋の温度を管理していたが、薪の伐採や運搬、葉の入れ替え作業などを手伝うウィリアムも、結局、約二か間小屋で寝泊りをしていた。
ウィリアムは“エヴァとジェシカの処にも暫く顔を出していなかったし、馬達の状態も心配だ”と言いながら(フランス語の単語を記述した)壁の張り紙に見入った。
アイリスはリリーもフランス語の『眠り姫』を読めるようになったことを告げて、来週の「収穫祭」にはシャーロットとピアノの演奏をすることを伝えた。
毎年、収穫祭には近隣の旦那様や奥方様が招待されて、家内従事者や屋外従事者の歌自慢・踊り自慢が歌い踊るが、祭りの日、ウィリアムはお客様の馬車の面倒を見なければならなかったし、ベッティーは厨房で、マリアとララは会場の手伝いに駆り出された。
従い、ジャックの面倒も有ってアイリスとリリーはこれまで祭りには行けなかったが、今年はリリーも手伝いに出る。
「収穫祭」
玄関の階段を上がった大扉の前にピアノが設置されると、二階のバルコニーから南北の庭園際に彩とりどりの布を取付けたロープが左右に張られ、その下には来賓用の日避け天幕も組まれていた。
通用門の前に間隔を置いてテーブルが並べられると門衛の一人が大扉の前で銅鑼を叩き、
呼応するように東西南北の見張台の銅鑼が鳴り響いた。
東西南北から屋外従事者の年配者や子供達
が荷馬車に乗って募り、玄関前の庭園の入り口付近を占めると、続いて大人達が庭園の中通路や館の廻りを埋めた。
メイドと守衛が通用門から出て来て玄関前に左右に分かれて並ぶと、大扉が開いて正装をしたトムがジェームズとマーガレットを天幕にエスコートした。続いて来賓の一組が現れると、両側から守衛とメイドが前に出てきて天幕にエスコートする。二組・三組…と続き、最後に司会役ののエミリーが出て来ると大扉は閉じた。
…遠方から来られた来賓者が二組あって昨夜は館に泊まったとの事、朝食の際、アイリスは紹介を受けて丁寧にカーテシーをしたが、手を差し伸べる方は居なかった。…
朝食が済むとシャーロットはアイリスを部屋に呼んで、スカイブルーとクリーム色のドレスを取り出した。ドレスを着たことがないアイリスはシャーロットを真似て、長い靴下を履き、コルセットを巻いてスカートを二枚被り、ショールと上着を付けた。二つの顔を鏡に並べるとシャーロットは満足の笑みを浮かべてマーガレットに報告した。
前列を裸足の子供達が占める中、シャーロットとアイリスはピアノの前に座った。エヴァが譜面台の楽譜を捲り、アイリスが「きらきら星」を弾くとシャーロットは傍に立ってフランス語で歌い出した。
澄み渡った空にシャーロットの軽やかな声が流れると、次はシャーロットが「ロンドン橋落ちた」を弾いて、アイリスがフランス語で歌った。
フランス語を知らない黒人従事者達にはクリーム色のドレスを着たアイリスの姿が眩しく輝き、フランス語を嗜む白人の来賓者達はアイリスの的確な発音に讃嘆した。
「オレンジとレモン」、「6ペンスの唄」を交互に歌い、最後は「トルコ行進曲」を二人で弾いた。シャーロットはアイリスの手を取ると、来賓席と多くの観客に向かって二人でカーテシーをして部屋に戻った。
ドレスを脱いで下に降りると大扉前のピアノは片付いていて大小の太鼓が並び、綱が張られた前列には子供達に替わって大人達が顔を埋めていた。
普段は顔を合わさない屋外従事者の肌色は様々で、同じコンゴ系とは言っても彼等の大半は赤味罹った黒か黒茶だった。
アイリスとリリーの祖先はザンベジ川の源流近くとのことで、二人の肌色は黒味の薄いきつね色だった。然し、祖先がアンゴラ出のロバートの肌は黒茶だったので、ロバートに似なかったことがアイリスにはせめてもの慰めだった。
肌の色で凡そ其の出自が判別出来た訳だが、部族が異なれば言葉も気質も違う為、東西南北のプランテーションはコンゴ族を主体に部族別に分けているとの事。
玄関階段下の両袖には腰蓑を付けた男女の踊り手が出番を待っていて、太鼓が鳴るとリズムに合わせて踊り手が腰を振り脚を踏んだ。
男女が踊りながら近寄ると観客は舌を鳴らして囃子立て同じく脚を踏む。太鼓の音が木琴に替わると踊り手の動きはリズムカルに速さを増し観客もそのリズムに心酔していった。
エミリーが配給の準備が出来た事を告げると子供達は争うように通用門前のテーブルに群がり、女性はその隣のテーブルに並んだ。
子供達の狙いは焼き立てのパンとクッキーで、大皿で運ばれて来たパンとクッキーをマリアは四角に切られた紙に乗せて配る。
先を急ぐ子供、慌ててクッキーを落とす子供、何度“列を作るようにと”言っても、蜂の巣を突っついたような状態が続いた。
白いクロスを掛けた隣のテーブルには木製の大皿がが積んであって、後ろのテーブルには七面鳥の丸焼きやマッシュポテト、インゲン豆とマッシュルームの煮物と自家製のパンが並んだ。
ベッティー達が厨房から出てきてモモ肉・毛羽・ムネ肉・ササミに捌くと、もう一人の料理人が大皿に盛り付けていく。
大皿は一家族一枚で大抵は持って帰るが、ブラウン家のプランテーションでは七面鳥も飼っていて、年に一度は生きたままの七面鳥を配給していた。
太鼓の音が続く中、ジェームズとマーガレットは席を立って来賓方を労い、メイドは厨房と天幕を行き来してワインやビール、又はオードブルを運んだ。
農園の従事者は、平日の飲酒は禁止されていたが、彼等はトウモロコシを発酵させた自家製の「チブクビール」を飲料していた。シャーロットは小腹が空いたので「厨房に行こう」と言う、シャーロットはベッティーとマリアに今日の感想を聞きたいのだろう。
「ベッティー」
お嬢様の来訪に厨房は急に静まり返り、シャーロットが「ばぁや!」と呼ぶと、ベッティーが前に出てきた。アイリスが驚いたようにシャーロットの顔を覗くと、シャーロットは意地悪く微笑んで、ベッティーに今日の感想を訊いた。
マリアが傍に来てアイリスの成長のお礼を述べ、ベッティーは頷きながら涙を滲ませた。
六十歳を過ぎたベッティーでも黒人の従事者が従者になった試しは聞いたことも無かったし、フランス語を話し、ピアノを弾く孫の姿に感動したものの不安でもあった。
クッキーを頬張るシャーロットにアイリスがベッティーとの馴れ初めを訊ねると、ベッティーはシャーロットの離乳食を作っていたが、“物心が付いてからも抱っこして食べさせてくれた「ばぁや!」だ”と言う。
アイリスはベッティーやマリアの縁が今の自分の立場を生んでいたことを知って感慨に浸ったが、何時までも格別な扱いに甘んじていてはいけないと思った。
実際、これまでの講義はアイリスの度量に合わせていた為、シャーロットには復習にもならないレベルだった。早くシャーロットのレベルに追いつかなければならない。
アイリスはベッティーとマリアに打ち明けると、リリーとジャックに伝えて館に住み込むことを決意した。リリーは不安を浮かべ、ジャックは涙ぐんだが、ジャックは水汲みも安全に出来るようになり最近は野菜の水くれも上手に遣っていた。
翌週、館に住み込む事を告げると、シャーロットは喜びを顕わにしてマーガレットに伝えた。それでも、マーガレットは土・日には家に帰って良いと言って、シャーロットとマーガレットの間にある部屋を案内した。
且つては子供部屋だったとのことで、部屋にはロッキングホースが二台と子供用の小さいベッドが置いてあり、内開きの小さな窓には赤いビロードのカーテンが掛かっていた。
マーガレットが「欲しい家具は無いか」と訊ね、アイリスは小声で「机が欲しい」と答えた。マーガレットはシャーロットから紙と鉛筆を受け取って、机・ベッド・ドレッサーに椅子とメモっていくと、シャーロットがソファーとテーブルとキャンドルと付け加えた。そして、家具類が整うまでの間アイリスを自分の部屋で寝起きさせると言う。
マーガレットはロバートを呼びつけて“アイリスが今日から館で同居すること、家具類の買い付けに行くので、バルーシュと荷馬車を二台準備すること、御者はウィリアムに決めさせること”を指示した。
館に来て初めての晩餐、オードブルは菜園で採れた葉物野菜と自家製の燻製肉にミントで、スープはかぼちゃのポタージュにコーン、
メインディッシュは七面鳥だった。
給仕頭がワゴンの上で捌いてジェームズとマーガレットにササミの部位を取ると、ハリーとシャーロットはモモ肉をアイリスはムネ肉を取った。
マーガレットの前に皿に入ったサツマイモ入りの蒸しパンが置かれると食事が始まり、デザートのケーキが配られるとマーガレットはアイリスが今日から同居する事、来週は家具類の調達に行くことを伝えた。
シャーロットはメイドを呼んでナイトウェアと湯浴みの準備を言いつけた。マーガレットは朝方に湯浴みをするのが常だったが、シャーロットは寝る前が好みだった。又、湯浴みの桶やお湯は部屋にも運ばせることが出来たが、部屋に準備させる為には時間を要した。
一階のトイレの隣にはタイル張りの湯あみ室があって、入口の脱衣篭には真っ白なナイトウェアとバスタオルが畳んであった。
メイドの一人が床にお湯を撒くと、部屋中に薄っすらと湯煙が立ち上がり、シャーロットは着ているものを脱いで裸になった。白く透き通った肌に長いブロンドの髪、細身ではあったが胸は大きく張っていて大人の女性のような色香が漂っていた。
二人のメイドが前後から綿の布で身体をなぞってりお湯で流すと、シャーロットは身体を拭かないままアイリスを中に入れて自ら石鹸を付けてアイリスの身体を洗い出した。
メイド達は慌てて代わろうとするがシャーロットは後ろ、後ろから前へと、幼子を扱うように洗い、優しくお湯を掛けて流した。未だ初潮も少女らしい丸みもなく、ごつい手は恥ずかしかったが、アイリスはジャックのように身を任せた。
“素肌に触れてはいけない”と指導されているメイド達は、シャーロットの行為にどぎまぎしたがマーガレットもそうだった。マーガレットは部屋に救急箱を持っていて館でケガ人が出ると何をおいても現場に駆け付け、自ら手当をすると、原因を調べて是正案を指示した。
又、定期的に屋外の病棟や食堂を訪問して、患者の症状や食事の状態、生活環境に問題はないか、無理な作業や不当な体罰はなかったかなどを直接調べてジェームズに報告する。
泊まりのメイドが入ってきて、ベッドスカートを外してキャンドルに火を点した。館では夕餉が終わると、メイドや守衛は交代して明朝まで勤める。
従い、夜勤のメイドには夜食を温め、ベッドメイキングや掃除・洗濯・アイロンがけの作業が求められる訳だが、下着やシーツなども其々に管理しなければならない為、旦那様とマーガレット・ハリー・シャーロットには専属のメイドが就いていた。その他、責任者とサポートをする見習いが居て、リリーは日中だけジェシカ達の手伝いに行っていた。
使い古しではあったが、奥様は下着やナイトウェアなどを準備していて、アイリスはピンク、シャーロットは水色のガウンを着てベランダに出た。西日が落ちかけた渡り廊下の手摺にはシャーロットの部屋の前とハリーの部屋の前のランタンが灯り、ロビーでは玄関の両側と中央の壁のランタンが輝いていた。
突然、ハリーの部屋のドアが開いてメイドが胸元を抑えて飛び出し、シャーロットは顔をしかめて「ハリーのバカ!」と投げ捨てた。アイリスは館に来て凡そ半年になるが、これまでシャーロットとハリーが談笑する光景を見たことが無かった。
シャーロットはガウンを脱いでダブルベッドの掛け布団を捲り、「堅いのと柔らかいの、
どっちが良い?」と訊く。アイリスは堅い方を選んだが、家で使っている枕よりも倍以上の大きさがあって枕カバーは肌触りの良いビロードだった。
ナイトウェアの長い裾を伸ばして横たわると、シャーロットは優しく布団を掛けながら「来年にはジョージが帰って来るのよ、きっと貴方も好きになると思う」と言う。羽毛の詰まったマットレスに寝るのは初めてで、アイリスは心地良い眠気とシャーロットの語りの中で寝入った。
明け方、目を覚ますとシャーロットの端正で聡明な横顔が目の前にあった。シャーロットは黒人従事者のアイリスを実の妹のように接してくれるが、その行為の根底にはジョージへの敬愛があることが分かった。
ジョージの事を話す時、シャーロットの顔は輝き・声は上ずっていた。“農園内に学校を造りたい”と言うジョージに、アイリスのことを手紙で知らせると喜んでいたと言う。アイリスは女神のようなシャーロットの寝顔に頬ずりして起き上がった。
ガウンを羽織って廊下に出るとロビーの暗がりでハリーとロバートがひそひそ話をしていて、アイリスに気付くと同じ爬虫類的な目
を返した。父親としての愛情が微塵も感じられないことは悲しいが、それでも、アイリスにはウィリアムが居て今はまだ見ぬジョージも居た。
「ハリーの凶行Ⅱ」
翌々日、マーガレットはジェームズと一緒にリッチモンドに出掛けた。アイリスの家具類の調達と持病の薬の入手との事で、二・三泊する予定だった。夕食に降りて行くとロバートが入口に立っていて、シャーロットに“食後、食器倉庫の立会をして欲しい”と言う。
食堂の中には既にハリーが座っていて、素知らぬ顔で給仕頭と談笑をしていた。…食事を終えるとロバートとハリーのメイドのセーラが待っていて、セーラは“監督官室ののシーツを替えたいので立ち会って欲しい”と言う。(メイドは、許可の無い部屋に一人で出入りする事は禁じられていた)
シャーロットがロバートと倉庫に向かうと、
セーラはラタンを片手にアイリスを導いた。監督官室のドアを開けて部屋のキャンドルに火を点すとセーラはドアを閉めて出て行き、暗がりの中に残されたアイリスは動転した。
目が慣れて来るとキャンドルの火が徐々に大きくなり、目の前に人影が立っていた。アイリスはとっさに逃げようとしたが、腕を掴まれて其のままベッドまで引きずられた。
アイリスは恐怖で声も出せず、ただ目を閉じて神様に祈った。男?はアイリスのチュニックガウンの帯を解いて紐を解くとシュミーズの肩紐を下げて顕わになったアイリスの乳房を掴んで乳首を噛んだ。アイリスが声を挙げると、男はガウンとシュミーズを頭まで捲り上げてドロワーズを脱がそうとしたが紐が解けない。
男は力ずくでドロワーズを剥ぎ取ると、アイリスの両脚を開いて覆いかぶさった。男の荒い息と下腹部の痛みが続く中、ドアの開く音がしてランタンの灯りが首を持ち上げた男の顔を照らした。シャーロットが強い罵声と平手打ちを浴びせると、ハリーは起き上がって薄ら笑いをしながら出て行った。
シャーロットは「ごめんね!ごめんね!」と、目隠ししたアイリスの両手を開く。…立会中、シャーロットは嫌な予感がして切り上げようとしたがロバートは執拗に確認を求めた。…立ち合いを終えてロビーに出ると、セーラがランタンを持って立って居て、予感が的中したことを察して部屋に飛び込んだ。
アイリスを抱き抱えて部屋を出る際、黒いマウントを羽織ったロバートが一瞬振り向いて正面玄関から出て行った。爬虫類的な目、薄い唇は薄ら笑いしているように見えた。
暗い湯浴み室にアイリスを導くと、シャーロットは守衛を呼びに行かせながら自分で湯浴みの準備をして、駆け付けた守衛にセーラを探して牢に入れるように告げて湯浴み室の灯りを点けた。
震えが止まらないアイリスの身体を摩りながらガウンを剥いで、シュミーズを脱がせた。シュミーズの裾には鮮血が点在し、ストッキングとガーターには血が滲んでいた。シャーロットは涙を堪えながらアイリスの股にこびりついた血跡を拭いた。
ベッドに入ってからもアイリスの震えは止まらない、シャーロットは抱きしめながら「明日の講義はやめようか」と言うと、アイリスは首を横に振った。
“何をされても白人には逆らっていけない”と教えられていた訳だが、アイリスにはハリーの行為が何だったのかも分からなかった。
只、暗闇で襲われた恐怖が残っていただけだが、シャーロットが自分の為に必死に立ち向かった姿が目に焼き付いた。自分もシャーロットの為なら、そう想うと涙が溢れシャーロットの胸に顔を埋めた。
翌朝、館は異様な雰囲気で朝を迎えた。トムとロバートが部屋に揃って顔を出して“セーラと母親を拘束して守衛室の牢に入れた”と言う。娘が乱暴にあったにも関わらず、ロバートは平然と上目づかいにアイリスの顔色を窺っていた。
食堂に入るとハリーが「昨夜はワインを飲
み過ぎてしまった」と悪びれた様子もなく口
を開き、給仕頭が合図打ちをした。シャーロ
ットはスープを分けにきた給仕頭からポット
を取り上げ、無言のままアイリスのカップに
注いだ。給仕頭は面食らって顔を青ざめ、自
分がしでかした事の重大さに気が付いたが、
ハリーが居る手前、言い訳すら出来ずに首を
傾けた。館でシャーロットに嫌われることは
旦那様の信用を失う事と同じだったからだ。
館での出来事は人から人へと瞬く間に伝搬
する、大概は尾ひれが付いて歪曲される訳だ
が、アイリスが従者に選ばれた事への妬みは
“奥様はローズを従者に指名したが、シャーロットは純朴なローズよりも男好きのするアイリスを選んだらしい”と言い、其れが今般の出来事を生んだと言う。
ベッティーもマリアも心配で仕事が手に着かない状態だったが、さりとてアイリスに直接会いに行くことは出来なかった。フランス語の講義が始まる前に、メイド服を装ったリリーがお茶を運んで来た。
心配げにアイリスを見つめるリリーをシャーロットは強く抱きしめて「リリー、心配しないで!アイリスは必ず私が守るから」そう言うと、リリーは安堵の顔を浮かべて戻った。シャーロットお嬢様が「必ず守る」と言えば、そうなる事は誰でもが知るところだった。
フランス語の講義時間中は英語の使用が禁じられていたが、ジェシカは気遣って英語で挨拶した。然し、アイリスはフランス語で応え矢継ぎ早に質問した。“シャーロットの手足にならなければならない”そう決めたアイリスはどんな事にも耐えられた。
「ジェームズの怒り」
翌日の午後、ウィリアムが騎乗するバルーシュを先頭に、荷物を満載した荷馬車が二台
戻って来た。トムと守衛が玄関前に列をつくるとロバートと家内従事者がそれに続き、ハリーとシャーロットとアイリスが大扉から出てきて迎えた。
ジェームズがマーガレットの手を取って降りて来るとロバートは前に出て挨拶したが(一昨日の出来事は既に耳にはいっているらしく)旦那様はけんもほろろにハリーとロバートを書斎に呼びつけ、マーガレットはアイリスの肩を抱きながらロビーの中に入った。
ウィリアムが荷馬車の荷を解くと、家内従事者は総出で荷物(ベッド、机、椅子、ソファー一式、クローゼット二台など)を二階の踊り場までを運び込んだ。クローゼットの中にはドレスやガウン類がびっしりと吊ってあり、引き出しの中には下着類や靴下などが段毎に分けて畳んであった。
メイドを伴わない中でマーガレット奥様が一つ一つ選んで整理した事を思うと、涙が溢れ出てマリアは階段を駆け下りた。
書斎机を挟んでハリーは“ワインを飲み過ぎて、何をしたか覚えていない”と言い続け、ジェームズの声が大きくなるとマーガレットはアイリスを部屋に置いて書斎に向かった。
言い訳を繰り返すハリーにジェームズが机の下にある棍棒を取り出すと、マーガレットは跪いたハリーに覆いかぶさった。
…ハリーは端正なジョージと清楚なシャーロットの間で、比べられて育って来た。同じように愛情を掛けて育てたつもりでも、子供は其々の因縁を重ねて成長する。いつの間にかハリーの廻りにはロバートのような姑息な者が近づくようになってしまった。…
閉鎖的なプランテーションでは男女のトラブルが頻発し、その多くはアルコールに起因したが、去りとて、禁酒を厳格にすれば労働意欲が低下する。
又、甚だしいのは白人の監督官による痴漢や強姦であったが、楽しみの少ない農園では一時のアバンチュールを求める少女達も居た。
(現に、北の監督官の宿舎には若い女性が出入りしていた)混血の児童も見かけるようにもなったが、困るのは監督官が本国に帰ってから妊娠が判明する場合だった。
夕方、食堂にはハリーの姿がなく、食後、ジェームズはハリーがニューヨークの寄宿学校に入る事を告げた。
(ワイン倉庫の鍵の使用は奥様の許可が必要だったが)勝手にワインを出し、アイリスを貶めた事由を問い質してもセーラは何も応えなかった。ハリーを庇っている事は明らかだったが、其処にはアイリスへの妬みも見え隠れしていた。
セーラは母一人子一人の私生児で母親は実態の無い穀物倉庫の管理の職についていたが当初から、セーラの父親はロバートではないかとの噂があった。今般の件でセーラと母親はジョージアの農園に行く事が決まり、ロバートが連れて行くとのこと。
シャーロットはロバートの解雇もジェームズに迫ったが、契約が後一年残っているとの事で保留になった。給仕頭の顔は見当たらず、屋外従事者に格下げされたらしい。
「アイリスの部屋」
天井カーテンや揺りかごは撤去されたが、
部屋の隅には木馬が残されていた。アイリスの部屋はシャーロットの部屋のように女の子らしい部屋になり、二台のクローゼットにはガウンやワンピースがびっしり吊り下げられ、ドロワーズやュミーズも全てが新品だった。又、“女性らしい装いをするように”と、コルセットやネックカチーフも揃えてあった。それらの服をシャーロットと眺めながら、アイリスは眠れない時を過ごした。
雪が舞い降りて来ると、男性は木の伐採で女性は麦踏みや煙草の種まき作業が続く。館で使用する一年分の薪を積み上げると、各家庭にも配給される訳だが、火種用の小枝などは自分で拾いに行く。
小麦の収穫は6月頃であるが、館で一年分を備蓄すると昨年の残り物や余った小麦はトウモロコシなどと一緒に街の穀物店に配給された。木の伐採が終わると男性は水路や林道の補修を行い、女性は煙草の移植やトウモロコシ・豆などの種まきや畑の除草作業をして春を迎える。
春にはジョージが帰って来る、ジョージに成長した姿を見せたいシャーロットは懸命に学び。アイリスもマーガレットとシャーロットの期待に応えるべく食後も机に向かった。
一つは復習の為であり、リリーのためのノート取りだったが、…シャーロットが壁に貼った紙を見つけて茶化すと、アイリスは頬を膨らませた。…そんな折、アイリスに初潮が訪れて、うろたえるアイリスをシャーロットが見守り、マーガレットはマリアに伝えた。
アイリスが家を出てからベッティーもマリアも寂しい日々を過ごした。アイリスがお嬢様と同等の待遇を受けているのを目の当たりにして驚きと不安が充満し、マリアは近くに居ながら離れて行く我が子を心配した。
アイリスの穴を埋めるようにリリーもジャックも頻繁に顔を出すようになり、“おばさん!何かすることはないかい!”と、ウィリアムと同じ口を利くようになった。又、毎晩、英語の読み書きを教わっていたのだが、睡魔が来ると「アイリスに叱られるよ!」と激が飛んだ。昨今、リリーはジェシカと居る時にはフランス語が日常会話になっていた。
「ジョージの帰国」
西側・南側及び東側農園の苗の移植作業が終わる頃、北側プランテーションのトウモロコシは背を伸ばし、林道の草木は新緑に輝いていた。シャーロットの顔も恋人を待ち焦がれるように輝いて三年振りの春を迎えた。
長男のジョージはロンドンの寄宿学校に入っていて、三年前に夏休みで帰ってきた時以来の再会だった。ジェームズとマーガレットが揃ってノーフォークまで迎えに行くとの事で、胸が騒いだが同伴は叶わなかった。今日か明日か聡明なシャーロットではあったがジョージの顔が目の前に浮かんで、何も手に着かない様子をアイリスは静観していた。
東の見張台で銅鑼が鳴ると守衛が玄関前に駆け寄り、ランドーが庭園の入口に現れた。
御者台にはトムとウィリアムが並び、トムが角笛を吹くと家内従事者の大半が顔を出した。
ウィリアムは手綱を引いて歩を緩め、皆はジョージの顔を見ようと詰め寄った。歓声の中、シャーロットは駆け寄って抱き付き、アイリスは奥様に紹介されて挨拶したが、ジョージの優しい眼に合って胸が熱くなった。
ジョージはシャーロットが話していた以上に理性的で、本当の王子様のように端正な容貌だった。ジョージが玄関の上で手を振ると、男性は歓声を上げ・若い女性のため息が続き、シャーロットはジョージの腕を抱えてロビーに入った。アイリスは”高望みはすまい“と思いながらも、新しい日々の始まりに胸が高鳴り、ジョージの背中を見つめた。
ハリーが居た席にジョージが座ると夕食は和やかな雰囲気で、新しい給仕頭の女性も笑顔で対応したがマーガレットは顔色が優れない様子だった。食後、ジェームズがプランテーションの業務の一部をジョージに委譲する話を切り出すと、マーガレットもシャーロットに家内業務の手伝いを言い出した。
館と庭園の人と物の管理や診療所と屋外の各病棟と食堂の運営、屋外従事者の衛生管理などがマーガレットの役目で、“将来、何処に嫁ぐにしても役に立つから”と言う。
初め、アイリスにはメイド頭が就いていたが、暫くすると若いメイドが就いて、ジョージには奥様担当だったカトリーヌが就いた。
アイリスがナイトウェアに着替えてシャーロットのベッドでくつろいでいると、突然ジョージがカトリーヌの後から入って来た。二人は慌てて身繕いをしたが、ジョージは笑いながら「お前達は本当の姉妹のようだね」と言うと、シャーロットは「アイリスは可愛いでしょう」と返した。シャーロットから“可愛い”と言われたのは初めてで、シャーロットの美しさとは比べられないと思っていた訳だが、アイリスはジョージの視線を感じて身体を熱くした。
ジェームズに代わってプランテーションの現場管理はジョージが行うようになり、ジョージは毎朝トムを伴って馬で出掛けた。
シャーロットもフランス語の講義が始まる半時前、マーガレットから館の管理手法を学び、傍らでアイリスはマーガレットの一字一句をメモした。夕食後、アイリスはメモを整理して翌日の朝食、又は昼食時にマーガレットの確認を頂く。
従い、夕食後のアイリスの日常は慌ただしくなって、シャーロットの部屋に顔を出すことも出来ず、気が付くとメイドのシンシヤがソファーで寝ている。
それでも土曜日の夜は応接室に居て、ジョージのリクエストでピアノを弾き、フランス語の朗読をした。初めは手が震え、声が震えたが、回を重ねると心地良くなった。時折、ジェームズとマーガレットが顔を出すとピアノの伴奏でダンスが始まり、アイリスは初めて白人の男性と踊ったが、ジェームズも黒人の女性と踊ったのはアイリスが初めてだった。
青い大きな目に口髭を伸ばし、館の絶対的権力者であるジェームズもマーガレットの前ではただの愛妻家で、何をするにもマーガレットが第一だった。又、シャーロットには猫のように接するのが可笑しかったが、父親の愛情を知らないアイリスには羨ましかった。
ジョージとのダンスは格別で、その大きな手に触れただけで、アイリスの身体は木の葉のように震え熱くなった。「あら!お似合いね」と茶化すマーガレットの傍で、ジェームズは顔をしかめたように見えた。十二歳になったばかりのアイリスには、習いたての「ロミオとジュリエット」を彷彿させた。
「乗馬」
日曜日の朝、食事を済ませて馬場に行くと、
柵にもたれてメイド服を装ったリリーが馬を
眺めていた。ジェシカ達の処に行った帰りなのか、シャーロットが声を掛けるとリリーは振り返ってジョージの顔を見て驚いたように挨拶した。ジョージはリリーの頭をなでながら「可愛いね、話は聞いているよ、勉強は進んでいるかい!」と尋ねると、リリーははにかみながら頷いた。
ウィリアムが栗色の大きな馬に乗ってシャーロットの白馬シルクを曳いて来た。ジョージが「キング!」と呼ぶと、栗毛は旧知の友を得た如くジョージに近寄って首を大きくかぶってジョージの耳を噛み・髪の毛を噛んだ。
アイリスもシャーロットに勧められて乗馬の練習をしてきたが今日に至っても独りで乗ることは叶わず、(キングの鞍の前には毛布が掛けてあった)シャーロットがシルクの背に飛び乗ると、ジョージはアイリスを軽々と鞍の前に引き上げて引き寄せた。
アイリスが左手をジョージの背に回すと、シャーロットは「しっかり掴まって!」と言って駆け出した。横乗りで背筋を伸ばし、長い髪をなびかせて駆けるシャーロットの姿は、一幅の絵画を観る様に美しい。 キングが歩み出すと、アイリスは貴公子のようなジョージの上着に両手でしがみついた。
庭園奥の馬場を抜けて南側堰を過ぎるとジョージは手綱を叩いて速度を上げた。菜園・食堂・病棟を過ぎる頃、シャーロットは林道の奥に姿を消し、ジョージは左手でアイリスを引き寄せながら駈足で生い茂った煙草畑を抜けた。
南側プランテーションの奥には雑木林を開墾した小高い丘が続き、馬や牛の放牧地にしていた。丘の上には大きなもみの木があって、シャーロットは切り株に座って待っていた。
アイリスが傍に座ると“此処はジョージが
イギリスに行く前に度々連れて来てくれた処なの、あの頃はアイリスのようにジョージに抱っこされていたのよ“と言う。ジョージが戻ってきて「シャー、上手になったね」とシャーロットの頬に口付けをした。
初夏の緑に包まれてキングとシルクが仲良く草を食む中、シャーロットが指を差して「向こうの川岸にはハナミズキが群生して綺麗なのよ」と言い、赤い鳥がさえずる楡の木の林道を常歩で並んで帰った。週に一度の休養日で煙草畑に人影はなく、道端には紫掛かったアネモネが咲き、ヴァージニアストックが風に揺れていた。
食堂の前で走り回っていた子供達が足を止め、家の前では櫛かんざしで髪を梳いている女性や野菜の土寄せをしていた女性達が手を止めた。
松林の林道を抜けると十mの高さに芯止めされた楡の木が、左右にイソヒヨドリの翼のように羽を広げて庭園を包む。其れが、旦那衆から「楡家」と呼ばれる所以だった。
東西南北の庭園は其々イヌシゲ・サザンカ・キンモクセイ・レッドロビンの生垣で囲われ、季節毎にヴァージニアストックやアネモネなどの花々が咲き、ピーチや梨などの果物が採れた。
馬場に戻るとウィリアムはモンブランを馴らしていた。モンブランはマーガレットの馬でバルーシュの馬車馬でもあったが、アイリスが譲り受けた。栗毛に鼻筋が白い中型のモンブランはウィリアムの手綱捌きで駈歩から速歩に、速歩から常歩に変えて近づいて来た。人懐こい馬であったが、アイリスは馬の背に乗った時の高さや横乗りの不安定さが怖かった。ジェシカとエヴァが家の前から覗いていたが、リリーの顔はなかった。
「病床」
アイリスは満たされた気分で館に戻ると、普段着に着替えてマーガレットに帰宅の許可を申し出た。奥様はベッドの背もたれに身体を預けながら返事をしたが、ハリーの事なのか思い詰めたような顔をしていた。
庭園の右手には白く可憐なアネモネの花が風に揺れ、左手のキンモクセイは緑を濃くしていた。久し振りの帰宅で昼時前のテーブルにはジャックが座っていて、ララが釜戸でシマを捏ねていた。
アイリスはジャックの頭を抱えて「しっかりお手伝いをしているの、勉強は」と訊くと、ジャックは目を大きくして「一生懸命やっているよ」と言い、アイリスは健気なジャックを抱きしめた。
リリーが戻り、間もなくウィリアムが戻って来るとテーブルの上に皿が並び、ララがボウルを被せた大皿をテーブルの真ん中に置いた。ベッティーはマーガレットから頂いた七面鳥を朝から焼いて、ウィリアムとジャックにはモモ肉を配った。アイリスの好きなインゲン豆とマシュルームの煮込みもあって、久し振りの御馳走にジャックは舌を鳴らした。
ララが大皿のボウルを取り上げると、黄色くモッコリした山から湯気が立ち上がってマリアも席に着いた。ララがボウルに水を入れて戻って来ると、ウィリアムは右手をボウルの中に入れて四指を濡らした。
シマの食べ方にもマナーがあって、四指の腹でシマを摘み親指でシマの先を押して窪みを造り、其の窪みに煮汁とおかずを挟んで食べる訳だが、煮汁の摂り過ぎや手の平を使うと叱られた。
食事が済むとリリーが今朝の光景を話し出し、ベッティーとマリアは顔を曇らせた。イギリス本土では当の昔に奴隷制度が廃止されていたとは言え、アメリカ、益してヴァージニアでは其の気配さえ感じられないご時世に白人の男性と黒人の女性がくっ付いていることは色眼鏡で見られる、例え其れがジョージ坊ちゃんでも誤解を受けることは必定だった。
現に、プランテーションの南側には白人の監督官と十代の屋外従事者の間に出来た混血の男の子が居て、(混血は黒人と見なされるものの)男の子は何時も独りぼっちだった。年季が明けると監督官は少女をぼろきれのように捨ててイギリスに帰国した。
「学校の開設」
夕食に奥様の顔が無く、気遣うジェームズの眼がうつろにシャーロットを追っていた。食後、ジョージは「学校の開設」を報告したが、ジェームズの返答は生返事だった。ハイチではアフリカ人奴隷の反乱の結果、自由黒人の共和国が建国された。アメリカ国内でも黒人奴隷の反乱や蜂起が繰り返され、逃亡奴隷の追跡も頻繁に行われていた。
「奴隷解放の日は近い」のだろう、然し、例え解放されたとしても自活する術が無ければ露頭に迷う。“ブラウン家の農園からは落伍者を出さない”その為には読み書きを教え、特殊技術を身に付けさせるか熟練従事者に格上げする必要があった。
ジョージは何度もジェームズと話し合ってきたが、マーガレットからは即座に賛同を得たものの、監督官達の反発を予想するジェームズからは未だに許可を得られなかった。ジョージの構想は東・西・南・北及び館の五つに分けて、一週間に一度、午後の作業を免除して学習させることであったが、監督者協議会に掛けると全員が反対した。
一つは一週間の半日を休ませた場合の各作業の遅れであり、一つは黒人に読み書きを教える是非であった。又、農作業の内容によっては中断を出来ない工程もあった。
結局、週2時間のペースで遣ってみることに決めて、作業の都合で出席出来なかった者の為には土曜日の午前中に館で再構することにした。勿論、シャーロットとアイリスも全面的にジョージをサポートした訳だが、マーガレットの症状は改善されず、マーガレットは屋外従事者の食堂・各病棟と診療所の管理をシャーロットに委譲した。
月曜日の午後三時、東側農園の食堂はテーブルを撤去しても人で埋め尽くされ、椅子に座れない者は床に、女性の多くは窓から顔を出していた。紙も鉛筆も無い者にどの様にして教えるか、ジョージは大きな板に墨汁を塗って黒板を作らせてチョークを手配していた。
火曜日は北側農園、水曜日は西側農園、木曜日は南側農園、金曜日は館で教えると、土曜日はシャーロットとアイリスが受け持った。暫くすると“作業のメリハリが出来て作業の効率が良くなった”と言う監督官と“休憩時間に読み書きの練習をしている者が居て作業に掛かるのが遅れる”と言う監督官が居て、意見は分かれたが後者は初めから反対していた監督官だった。
「農園の運営」
高温・多湿の夏が来ると農園はトウモロコシや豆の収穫と煙草の刈り入れに活気付いたが、マーガレットは動悸・息切れやめまい・立ち眩みが頻発していた。月に一度の通院も昨今はリッチモンドから主治医が往診に来て、「食事の制限」と「軽度の運動」を指導した。
毎朝、シャーロットとアイリスは食事前にマーガレットを連れ出して庭園の散策をしていたが、日々衰えていくマーガレットの容体にシャーロットは為す術もなく涙ぐみ、アイリスはマーガレットから託された食器類・調味料の買い付けや館の賄い、建屋の修繕・家具類の調達と管理方法や庭園の維持方法などを一字一句書きとめて整理した。
悪化するマーガレットの容体に途方に暮れるジェームズは館の管理の全権をシャーロットに委譲したが、マーガレットが家内従事者全員の名前と誕生日を覚えているのに対し、シャーロットは十四歳になったばかりだった。取り敢えず、シャーロットはロバートが抜けた後の家内従事者頭にトムを指名したが、トムは読み書きが出来ない為、アイリスに補佐をさせることにした。
時を待たず、ジェームズもプランテーションの管理全般をジョージに委譲した。タバコ栽培のプロセスは、種まき、移植、雑草駆除、害虫駆除、刈り入れ、保存、梱包と連作障害の対策で、寄宿学校に入るまで、毎日ジェームズの背中を見て育ってきたジョージには農園の運営に不安は無かったが、監督官達をどの様に掌握するかが不安だった。
現に西側と南側農園の従業員は和気あいあいと働いていたが、東側と北側の農園の従業員には笑顔が見られなかった。特に北側は何時も殺気だっていて“其れが民族の気性のせいなのか、監督官が厳格過ぎるせいなのか”が分からなかった。
其の五十代の監督官Aは、(食堂裏手の監督官宅に手伝いと称して十代の少女を囲っていた訳だが)、ジョージが煙草栽培に替えて高収入が期待される綿花栽培を提案すると、彼はあからさまに反対した。
又、従業員の読み書きの進捗も同様で、出席率は北側プランテーションが極端に低かった。一年分の給金を出せば監督官の契約を解約することが出来るが、日々悪化するマーガレットの症状に気落ちしているジェームズには心配を掛ける事も出来なかった。
マーガレットが朝の散策も出来なくなると、ジェームズは馬車に乗せて秋の木漏れ日で癒し、冬の陽だまりでマーガレットを抱き締めていた。
「マーガレットの逝去」
死期が迫るとマーガレットは自ら牧師を呼び、ハリーをニューヨークから呼び戻した。
ハリーと聖餐式を受けながらマーガレットは
ゆらゆらと舞い降りる楡の葉のように静かに息を引き取り、牧師は奥様の唇を水で湿らせた。ジェームズが肩を落として別れを告げるとジョージとシャーロットが後に続き、ハリーはその場に泣き崩れた。
アイリスはメイド頭に死化粧を指示すると、
応接室で牧師と納棺式の確認を行い、家内従事者を集めて生前マーガレットから受けていた其々の指示を読み上げた。付き合いのあった旦那衆などに訃報を伝達する者、祭壇を飾る者、参列者の受付をする者、宿泊者の部屋を準備する者、前夜式・告別式の賄いの準備など、アイリスはノートを見ながら上へ・下へ指示内容の確認に走り回った。
十三歳になったばかりの少女だったが、マーガレットが床に臥してからは実質的に館を管理して従者としての責務を行ってきた。勿論そこには、トムとウィリアム、ベッティーとマリアとリリーの全面的なフォローがあった訳だが、…
アイリスは応接室の家具類を退かしてピアノ側を頭にして棺を置かせた。両側にテーブルを並べて白いアネモネの花を積ませると、枕側にサイドテーブルを置いて白いレースで包んだ。その上にキャンドルスタンドと十字架と聖書を並べて、納棺式の準備が整った事をトムに伝えた。
日没にはまだ早いが玄関前の両端にランタンが高々と掲げられると告別式に出られない家内従事者と監督官達が応接室に参集した。車椅子のジェームズとジョージが入室し、ハリーが後に続く。シャーロットを先頭にシーツに包まれたマーガレットの遺体が正装した守衛六人の手で運ばれて来た。
牧師は入って来るとキャンドルに火を点し、
聖書を片手に安息を祈った。お気に入りのドレスに包まれたマーガレットの遺体がシーツごと棺の中に納まると、メイド頭はシーツで遺体を包んだ。絶対的権限者だったジェームズの目から涙が溢れ出ると、そこかしこからすすり泣きが聞こえた。
マーガレットの遺体は白いアネモネの花で包まれ、最後にシャーロットが胸の上に花を置いた。棺に蓋がされて白い布が被せられると納棺の式は終わって、引き続き前夜式に入る。讃美歌が厳かに響き、牧師の説法が終わると、白い布で覆われた献花台に奥様が好きだったヴァージニアストックが次々と捧げられた。
式が終わると踊り場には軽食が用意してあって、朝から何も食べていなかったアイリスは牧師に告別式の式次第を訊きながら食した。そして、近隣農園へ伝達に行ったウィリアムが戻ると、参列する旦那衆の名簿を作成した。階段の下ではプランターや献花台・椅子などを運んで告別式の準備が始まっていた。
マーガレットのリストではノーフォークの運輸会社に嫁いだオリビアが居て、リッチモンドには懇意にしているお店があった。ランタンの灯りが輝き出した頃に早馬が戻り、アイリスは参列者のリストをエミリーにタイプして貰い献花の序列をジョージに確認た
正装した守衛が燭台の両側に立って居て、前夜式に参列出来なかったベッティー達が覗き窓から別れを告げていた。ノートを開いてジョージに渡すと、(何度か手直しをして)アイリスに労いの言葉を述べて返した。本来、告別式は前夜式の翌日に行うが、遠方からの参列者が有る為一日遅らせた。
翌朝、食堂にはジェームズとハリーの姿は無く、食後アイリスは手書きの式次第をジョージとシャーロットに渡した。二人の確認を得て、アイリスは告別式の司会を務める秘書のエミリーと式次第の詳細を練った。
(エミリーは、以前、オリビアが嫁いだ運輸会社で通関業務などに携わっていた。アイルランドの貧しい農家の出で、カレッジに入る学費を得るため単身アメリカに渡って来た)と言う。ブラウン家でのエミリーの仕事は秘書で従事者との契約書などをタイプライターで作成して管理すると伴に、ジェームズ又はジョージの依頼でレターなどを作成する事だった。春にはアイルランドに戻るとの事で、アイリスに“大学に行け”と言う。
エミリーは“女子も大学に入れるようになり世の中は男女平等の時代だと言う”が、黒人社会で育ったアイリスには信じ難い話だった。午前中は近隣農園の御夫妻方の弔問を受け、午後に入ると遠方の農園主、煙草の買い付け業者・農機具販売業者・肥料問屋・反物屋・雑貨屋などとオリビア夫妻が来館した。
東門の見張台で銅鑼が鳴ると玄関の守衛の一人が銅鑼を鳴らし、喪服のウィリアムとアイリスは玄関で来賓を迎えた。ウィリアムは各御者に馬や馬車の調子を尋ねて同じ色の紐を馬と馬車に付けて係に手入れを指示し、アイリスは部屋割りや食事・シャワー室の使用などを訊いてメイドに案内させた。
ジョージとハリーと監督官の部屋を殿方に割り当て御者は来賓室に相部屋で、御婦人方にはシャーロットとアイリスの部屋を当てた。従い、ジョージとハリーは応接室で、シャーロットとアイリスは奥様の部屋で寝た。
食事は大食堂で深夜まで食べられるようにして、食堂の片隅には御者のための席を設けた。そのような訳で、マリアは厨房と給仕係に、ララもメイド係の応援に来ていた。
夕暮れ時、玄関前のランタンが輝き、ロビーの常夜灯に灯りが点くと白い布で覆われた献花台が暗がりに浮き上がっていた。入口には庭園から摘んできた献花用の花々が水を入れた桶に束ねられていた。
アイリスはエミリーから告別式の式次第のタイプ紙と手書きの来賓者名簿を受け取り、式次第を各部屋に配りながらドアの前に名札を貼って回った。マーガレットは家内従事者のアイリスがシャーロットの従者になった事を周知していて、旦那衆は好奇心で見入り、奥様方は試すようにフランス語を投げかけた。
マーガレットから託された準備を終えて部屋に戻ると、シャーロットは遺言書の開示に立ち会っているとのこと。アイリスも立ち会うように言われたが、多忙を理由にシャーロットに委任した。
喪服を脱いで大食堂に行くとウィリアムと厩舎係達が食事に来ていて、アイリスがテーブルに着くとウィリアムは同席して労いの言葉を掛けてきた。ウィリアムの優しい言葉に涙が溢れたが、ウィリアムが“厩舎に戻って馬車の修理をする”と言って席を立つとアイリスは我に返った。
覗き窓からマーガレットに今日の報告をして部屋に戻り、暫くすると幾つかの足音が部屋に消えてシャーロットが戻って来た。三日三晩泣き崩れたシャーロットの頬はこけ、目の下にはクマができていた。
アイリスは黙って喪服を脱ぐのを手伝い、メイドにお湯を持って来させて二人で身体を拭いた。ベッドに入る前シャーロットは「アイリス、マーガレットは貴方に店の権利書を遺したのよ」と言う。シャーロットの話も耳に残らないまま、アイリスは夢の中に居た。
マーガレットはベッティーを乳母に選び、アイリスをシャーロットの従者にした。マーガレットは何時から私を見ていたのか。…
告別式の朝、瞬きして目を開けるとシャーロットがアイリスを見下ろしていた。眠れなかったのか、透明感があった顔は少しやつれて大人びて見えた。起き上がると「アイリス、今日はお願いね」と頬を撫で、アイリスは黙って頷いた。
昨日、アイリスは旦那衆から“ヴァージニアが合衆国を脱退して南部連合国を結成したこと、近々部隊編成のため兵員を募集すること”を聞いた。そうなればジョージが駆り出されるのは必須で、農園の管理が危ぶまれた。又、来春にはハリーが戻って来ることもあって、其れもジョージとシャーロットには頭の痛いことなのだろう。「何としてもシャーロットを守らなければならない、何としてもブラウン家を守らなければならない」其れがアイリスの覚悟だった。
「告別式」
階下で声がしてアイリスがガウンを羽織って降りて行くと、薄明りの中でトムが伝道所からオルガンを運んで来た。(伝道所は北側庭園の一角にあって、マーガレットは時折リッチモンドへ送迎の馬車を出して牧師を招いていた)アイリスはトムにオルガンを階段左の壁側に置かせ、その前に聖歌隊を並ばせる手筈だった。
シャーロットが降りてきてトムとアイリスに「食事に行こう」と言う。大食堂にはララとリリーが手伝いに来ていて、温めた牛乳とスープを運んできた。シャーロットは献花を始める前の来賓の警護について、ジョージからの指示をトムに伝えた。今日は農園の作業は休みにして屋外従事者も献花に来られるようにしたが、献花台を来賓席の後ろに設ける為、警護が不安だった。
部屋に戻って喪服に着替えると、アイリスの喪服はシャーロットが着ていたもので、シャーロットはマーガレットが着ていた(少し大きめの)喪服を着用した。着替えるとシャーロットは黒い帽子とヴェール・手袋・靴を持ってきた。
屋外従事者の女性は布地を半分に折って真ん中から頭を出したワンピースタイプで、男性は其れの前を裂いてボタンを付けたレインコートタイプにした簡素な物だが、マーガレットは屋外従事者にも喪服を配給していた。
晴天の朝、庭園の芝生には薄っすらと霜が降り、朝日を浴びながらウィリアム達が来た。アイリスは挨拶をしたが、ウィリアムは間をおいて漸くアイリスを認識した。徹夜で馬車の修理をしていたとのことで、アイリスは食堂に行くウィリアムと歩きながら「埋葬後、来賓の一部が直接帰る」ことを伝達した。
二階の廊下には旦那衆や奥様方が顔を出して、色とりどりのプランターとアイリスを見下ろしながら階段を降りて来た。アイリスはノートを開いて調理責任者にランチボックスの数を知らせ(式後の)、会食の準備をお願いした。又、給仕頭に会食のテーブルに来賓の名札を付けることと、テーブルの配置順位と後部に御者の席を設けることを指示した。
黒のワンピースに赤のベストを着た聖歌隊の少女達が通用口側から入って来た。彼女等は全員家内従事者の子女で、廊下が賑やかになるとアイリスはオルガンの前に連れて行って椅子に座らせた。
アイリスは譜面台の横にノートを置いて、楽譜に目を遣りながら時の来るのを待った。玄関前で開始十分前の銅鑼が鳴ると、大扉からトムを先頭に守衛が列を組んで入って来た。トムと六人が階段を登り、小銃を担いだ四人が献花台側と入口付近に分かれ壁を背にし、トムも珍しく腰に拳銃を下げていた。
エミリーとメイド頭が出て来るとアイリスは目で合図をした。エミリーは聖歌隊の左前のサイドテーブルに原稿を置いて、メイド頭は二階に上がって行った。
ジョージとハリーとシャーロットは近隣農園の旦那衆を迎える為、ロビーの入口に並び。
ジェームズはトムに抱え上げられて降りて来て前列真ん中の席に座った。
近隣農園の旦那衆が到着する都度、ウィリアム達は馬車を馬場に曳いて行き来場者は決められた席に着いた。遠方の旦那衆が部屋を出ると、メイド頭は各部屋を確認して牧師を階段右側の演台に導き。エミリーが牧師の許可を得て告別式の開始を告げて、アイリスは葬送行進曲を弾いた。
二階踊り場からマーガレットの棺がゆっくり厳かに降りて来て、プランターの花で囲われた供物台に乗せられると、アイリスは聖歌隊を立たせて讃美歌439番の指揮を執った。
牧師が聖書を朗読して祈りを捧げ、隣の農園の奥様が弔辞を述べた。再び讃美歌を斉唱して牧師が出棺の祈りを捧げ、エミリーが「献花!」を発すると、棺を背にしてトムが後ろの献花台を凝視した。
大きな身体、飛び出た丸い大きな目は屋外従事者にはサタンのような怖い目であったが、シャーロットとアイリスには優しい守護神だった。エミリーが出棺を告げると、トムの指示で六人の守衛が棺の両側に就いて棺を持ち上げた。玄関前には黒い布で覆った荷馬車が停まっていて、六人の守衛は棺ごと荷台に乗った。トムを先頭に小銃を担いだ四人の守衛が騎乗で続き、その後をウィリアムが棺の馬車を曳いた。
ナットターナーの反乱が勃発して以来、トムには気の抜けない日々が続いていた。ブラウン家の墓地は北側庭園を抜けた伝道所の下にあり、棺の後を旦那衆の馬車とジョージ達の荷馬車が続いた。
林道に続く道は馬車で埋まり、アイリスはジョージ達と荷馬車を降りて歩いた。墓穴の前に棺が置かれると牧師は十字架を載せ、ジョージ、ハリー、シャーロット、アイリスが献花をするとオリビアが続いたがジェームズは館に残った。
牧師が聖書を朗読し、守衛は墓穴の両側に立つとロープを操作して棺を穴の底に降ろした。棺の前に墓石が置かれると、アイリスはマーガレットとの責務を終えた安堵からどっと涙が溢れ嗚咽が漏れた。
ジョージは泣き崩れたアイリスを抱き抱えて荷馬車に乗せ、シャーロットは続いたがハリーはその場に残った。参列者はアイリスを「小さな執事」と呼んだが、未だ十三歳の少女だった。
「戦争の足音」
墓所の近辺は会食に参列する旦那衆と参列しない旦那衆で入り乱れ、トムは収拾にあたり騎馬の二人の守衛がジョージに続いた。ウィリアムは館に戻ると近隣農園の旦那衆の馬車を館周辺に、遠方の旦那衆の馬車を馬場に振り分けて整理した。
ジョージとシャーロットは各席を返礼に回ったが、話題の大半は近づく戦火の中でのプランテーションの運営だった。
ジョージはジェームズから農園の運営を引き継いで以来、旦那衆との会合に顔を出して運河や道路の整備・鉄道の建設などを話し合ってきたが、ナットターナーの反乱が勃発すると会合の話題は自警団の設立や、奴隷解放を唱える北部に対抗する為の南部連合の結成に発展していた。
ジョージ自身は独立宣言で「…すべての人は平等…」と明記されている通り、奴隷は解放されるべきと決意していたのだが、イギリスにおける奴隷解放の実態を見て来たジョージには“読み書きも出来ず・スキルも持たないまま野に放つ事は出来なかった”現に、ヴァージニア北部の綿花農園では黒人を解放したものの、生活基盤が与えられていなかったため、その多くが再びプランテーションに戻ってきたとのこと。
戦争の足音が聞こえ出しても、ジョージは週一の勉強会を続けていた。然し、子供達は目に見えて上達したものの大人を教える事は容易でなく、ジョージには勉強会の継続と新しく始めた綿花畑の運営が気掛りだった。
何故なら、白人監督官の成り手が居ないご時世に、頼りにしていた南側農園の監督官が春先に本国へ帰り、本来、契約を切る筈だった北側の監督官を「総監督官の意に従うことを条件に」再契約するしかなかったからだ。
戦争景気なのか運輸業は人手不足で、フランス語教師のジェシカとピアノ教師のエヴァも年内にオリビアの運輸会社に移る。エミリーにも破格の条件を出したが断られたとのことで、シャーロットはエミリーの代わりにリリーを推薦した。
旦那衆からは馬と馬車の手入れが行き届いていたとの賛辞と、奥様方からは「小さな執事」への感嘆の声が挙った。折よく、シャーロットが泣きはらしたアイリスを部屋から連れて来ると、奥様方は次々とアイリスに手を伸べた。
当初、奥様方はシャーロットに黒人の従者を付けたと聴いていぶかっていたが、アイリスに対面してマーガレットがアイリスを従者に選んだ事由が分かり、奥様方は好意の目でアイリスに接した。
牧師とオリビア夫妻を除いて来賓客が帰ると、私達は弁護士に呼ばれて書斎に入った。牧師とオリビアを立会人にして弁護士は奥様からアイリスへの遺言書を読み上げた。
リッチモンドのジェームズ川傍の倉庫一帯がアイリスへの譲渡資産とのこと、アイリスが「黒人奴隷が資産を…」と言い掛けると、「貴方は奴隷じゃないのよ」とシャーロットが言い、子供が居ないオリビアは「私達の養子に為りなさい」と言い。更に、オリビアの夫のデーヴィスは「南軍が負ける事は目に見えているので、農園を辞めて皆でノーフォークに来なさい!」と言う。ジョージは“未だ、農園の従業員を野に放つ事は出来ない”と応えた。その他、イギリスにはマーガレットがジェームスに嫁ぐ際に母親から頂いた山林と原野があったが、其れはハリーに譲渡された。又、マーガレットはトム夫妻とウィリアム一家、ベッティーとマリアにも解放証書と通行証を発行していた。
翌朝、ノーフォークに戻るオリビア達に伴
ってウィリアムは牧師と弁護士をリッチモン
ド迄送って行ったが、その夜ハリーは館に戻
らなかった。(人伝で)ハリーにはマーガレ
ットの遺産がアイリスに分配されたことやシ
ャーロットとアイリスが我が物顔に館を牛耳
っていることが我慢出来なかった訳だが、剛
腕で兄のジョージが居る前では何も言えなか
った。ロバートもいなくなった今、ハリーの
話し相手は北側の監督官だけで、二人はジョ
ージが南軍に入隊して居なくなってからの策
略を練って、翌々日、ハリーはニューヨーク
に戻った。
「出征前夜」
哀しみに暮れる間も無く冬が訪れ、ジョー
ジは東の監督官を総監督官に指名して今年の
プランテーションの作付けを指示した。昨年
は隣の綿花農園から監督官と五名の熟練従事
者を借り上げて綿花栽培を立ち上げた訳だが、
今年は綿花農園の監督官が居ない上に非協力
的な北側農園の綿花畑を立ち上げる番だった。
多難な状況の中でジョージは万が一の出征
を考慮してシャーロットに農園の管理方法を
教え、アイリスもエミリーから秘書の仕事を
教わっていた。十四歳と十三歳の少女には肩
の荷の重い日々が続いたが、唯一の癒しは宵
の一時だった。
燭台の灯りが暖炉の炎に替わる頃、ジョー
ジはジェームズへの報告を終えるとグラスを
片手に書斎に来る。大概、暖炉の前のソファ
ーにはシャーロットとアイリスが並んで掛け
ていて、当初はアイリスもガウンを羽織って
いたが、今はローブ姿で髪を乾かしていた。
アイリスは揺らめく火を見つめながら“こ
の瞬間が続いて欲しい“と願ったが、南部7
州は連合国を結成して戦争の足音は近づいて
いた。
其の日、シャーロットが遅れて書斎に入る
と、ジョージがアイリスの横顔を愛おしく見
つめていた。限られた時間、ジョージは愛の
告知に迷い、アイリスは温まってきた身体に
吐息を吐いた。ジョージがアイリスと馬に相
乗りをした日から、シャーロットはこの日が
来ることを願ってきた。
突然、「アイリス!ジョージが貴方に大切
な話が在るんだって!」と、シャーロットは
後ろから声を掛け、アイリスは驚いたように
振り返った。二人の視線が交わるとシャーロ
ットは部屋を出て、夜が明けるのを待った。
翌朝、一卓のダイニングテーブルを挟んで、
シャーロットはジョージとアイリスを覗いた。
アイリスは恥じらうように目をそらしたが、
緩んだ口元は愛の戸惑いを醸し出していた。
ジョージは、迫る徴兵の知らせと幼い少女への告白の狭間で高ぶる血潮を顕わにしたが、
食事を終えると意を決したようにジェームズの部屋に入って行った。
農園を託されたシャーロットは新任の総監
督官とトムを伴って朝から各農園を走り廻った。南側農園では今年で最後の煙草の種まきが終わり、移植の準備が始まっていた。東側農園は二年目の綿花栽培で、監督官が隣のプランテーションから来ている賃貸従事者に確
認しながら整地の指示を出していた
北側農園では今年から綿花栽培が始まる訳だが、監督官の姿は無く指導に当たる賃貸従事者と北側農園の主要メンバーとの間で土壌改良の方法で殺気だった雰囲気が続いていた。
綿花栽培は日当たりが良く風通しの良い場所で、水はけの良い土壌を好む為、東側農園では川砂を加えて耕したのだが、北側の彼等は“水はけは十分だ!”と言い張って、川砂の搬入を拒んでいた。
総監督官が東側農園での実績を話して指導
に従うように命令すると彼等は渋々引き下が
ったが、彼等にはトムが携帯している小銃が怖かったのだろう。今年、西側農園は畑作の順番でトウモロコシや豆類の種まきが終わり、種イモの選別とサツマイモの苗造りが行われていた。
午後、シャーロットからの報告を受けて北
側監督官の家を訪ねると、“体調が悪いので
寝ていた“と言う。ジョージは”無断で休む
事は契約違反である事“を述べて、今度、契
約を破れば辞めてもらう事を告げた。
ジョージは自分が居なくなってからの北側
農園の管理に不安を抱いていたが気の荒い北
側農園の従事者達を懐柔する事は至難だった。
又、ジョージは自分に譲渡された農園の権
利をアイリスに委譲することを報告したが、
ジェームズには何故アイリスなのかが理解さ
れなかった。ジョージも年端もいかない黒人
の少女を愛しているとは言えなかった訳だが
、年の瀬が迫ると、ジョージはベッティーと
マリアを書斎に招き、シャーロットとトムを
立会人にして「出兵から戻ったら、アイリス
と結婚する事」を告げた。
シャーロットは歓呼の声を挙げて祝福して
くれたが、“異人種間結婚禁止法”が有るヴ
ァージニアでは其れは絵に描いた餅だった。
然し、父親の愛情を知らないまま育ったアイ
リスには結婚出来る・出来ないは大した意味
はなく、優しいジョージが自分を想っていて
くれるだけで幸せだった。
ジェシカ達がノーフォークに行く前日、オ
リビアの誘いでノーフォークの学校に通う事になったリリーとジャックが館に挨拶に来た。リリーとは頻繁に顔を合わせていたがジャックとは久し振りだった。
ジャックはジョージが居る前で「お姉ちゃん、綺麗になったね!」と、ませた口を利いた。シャーロットと玄関まで見送りに出ると、家内従事者の大半が顔を出していて、キャラバンにはジェシカとエヴァの家族の他ララも乗っていた。勿論。御者はウィリアムでノーフォークのオリビアの家まで二人で送り届けるとの事だったが、物騒なご時世、ジョージは護衛を二人付けて送り出した。
年が明けてエミリーがニューヨークへ行くと、アイリスは名実ともにブラウン家の秘書兼執事になった。毎朝、書斎で郵便物を開封し、返信の必要な書類はシャーロットに相談してジェームズの確認を得てタイプライターを叩いた。
アイリスは執事と秘書の業務を熟す為、書斎からファイル棚やタイプライターを一階の執務室に移した。ジョージとシャーロットが執務室に度々顔を出すようになると、同じ階に居るメイド達は気が抜けなくなった。益して、館の住人が少なくなった昨今、館では家内従事者の人員削減の噂が飛び交っていた。
ジョージは北ヴァージニア軍からの徴集を
受けて、入営の準備に掛かった。騎馬兵とし
てリッチモンドの兵舎に入るとのことで、馬
と馬車と小銃の他黒人従事者の供出要請があ
った。黒人は兵隊ではなく前線で様々な支援
の任務に当たると言うが、ジョージは東西南
北の農園から二名ずつと家内従事者から二名
の未婚の青年十名を選んだ。馬はキングとボ
スと農耕用の馬四頭を選んだが、小銃と拳銃
は自分の分だけにした。又、南軍は制服を用
意しておらずアイリスはマリアに頼んで農作
業用の布地でズボンとジャケットを作らせ、
同伴する十人の吊りズボンも新たに作らせた。
出征前日、アイリスは訳もなく涙ぐみ、何
も手につかないまま夜を迎えた。暖炉の火が
揺れてジョージが入って来るとシャーロット
は声も掛けずに出て行き、ジョージはアイリ
スを立たせて細い身体を優しく包んだ。
アイリスがジョージの胸にしがみ付いてむ
せび泣くと、ジョージはアイリスの短く伸ば
した髪を両手で挟んで口付けをした。アイリ
スの腕は無意識に屈み込んだジョージの頸に
巻き付き、ジョージは軽々とアイリスを抱き
抱えたまま書斎を出てアイリスの部屋に初め
て入った。
ナイトライトの薄明りの中でジョージは布
団を捲ってアイリスを横たえると、ガウンを
着たままベッドに入ってアイリスを抱き寄せ
た。透けるほどに薄いネグリジェからすすり
泣くアイリスの鼓動と小さな胸の膨らみが伝
わり、ジョージはアイリスの冷え切った足を
温めながらアイリスが泣き止むのを待った。
アイリスは“何故、自分は泣いているのか、
何故、こんなにも胸が苦しいのか“が分から
なかった。マーガレットが亡くなった時も、
リリーが去った時でさえも、寂しさ・哀しみ
はあったが、こんなに切なく胸が苦しくなっ
たのは初めてだった。
ジョージの胸に顔を埋めていると顔が火照り、足先がだんだん暖かくなって締め付ける胸の苦しさが薄らいできた。そして、其処にはジョージの愛撫を求めている自分が居る事に気付いた。
アイリスは恥じらうように両手で顔を隠したが、ジョージはその手を取って左手でアイリスの頭を抱えると右手でアイリスの頬を支えて口付けをした。恥じらう自分と、求める自分が交差する中、アイリスの腕は無意識に
ジョージの頸に巻き付いていた。
…出征すれば生きて還れるか、何時還れる
かが分からない身で、未だ幼いアイリスを抱いて良いのか…ジョージは抑えがたい情念と理性の葛藤の中で「アイリス、ごめんね!」と、ネグリジェの上から小さい乳房をまさぐり、裾を捲り上げた。アイリスは恥じらいな
がらも夢中でジョージの全てを受け入れた。
楡の林の向こうに朝焼けが昇り、透き通るような青空が広がっていた。アイリスは火照った身体を冷ましてベッドに戻ると、ジョージは掛け布団を抱いて寝ていた。起床するには未だ早く肌寒い、掛け布団を引き戻しながら“時間が停まって欲しい”とアイリスはジョージの顔から首へ、肌蹴た胸へ刻印を押すように口付けをした。
ジョージは夢心地で抱き寄せると、か細い
身体を仰向けにして「ごめんね!」と静かに
圧しかかった。アイリスは頚を横に振って其の小さい手、柔らかい唇、幼い乳房で精一杯ジョージを受け入れた。シャーロットと同じバロック様式の寝室で、天蓋カーテン付のベッドと薄いピンク色のクローゼットと化粧台が少女らしさを醸し出していた。
「出征」
玄関前にはキングを先頭に同伴する十人が
乗った荷馬車とボスが連なり、小銃を下げた二人の守衛が脇に付いていた。家内従事者の大半が顔を並べ、屋外従事者の家族も見送りに来ていた。大扉を開いてトムとシャーロットが出て来ると、続いてジョージとアイリスが並んで出て来た。朝方の晴天とは打って変わって空はアイリスの顔のようにどんよりと曇り、冷たい北風が吹いてきた。
ジョージはキングに飛び乗ると後ろも振り
返らずに東のゲートに消え、アイリスはジョージの姿が見えなくなっても呆然と手を振り続けたが…限界だった。シャーロットが目配りすると、トムはアイリスを抱き抱えて部屋まで上がった。目を覚ますと暗くなった窓ガラスに雨粒が伝わっていて、アイリスは“濡れないで無事に着いただろうか…”と神のご
加護を祈った。
食堂に行くとシャーロットが給仕頭とメイ
ド頭を呼んで話をしていた。館の住人が少な
くなった今、シャーロットとアイリスの為に
(来賓用)小食堂を運営するのは無駄だった。
ジェームズの部屋食は仕方がないがシャーロ
ットとアイリスは厨房の作業台で食事を摂る
事を提案した。それは料理の下ごしらえや彼
女達の休憩に使われるテーブルだったが…然
し、ベッティーは「お嬢様が厨房で食事をし
てはいけない」と反対する。
結局、執務室に食事用のテーブルを置く事
が決まると、次は警備面を考慮してジェーム
ズとシャーロットとアイリスの部屋を一階に
移す事だった。翌朝、シャーロットがトムを
伴って農園に出向くと、アイリスは手の空い
た家内従事者を集めて館の模様替えを行った。
ジェームズとシャーロットのベッドを其々
監督官室に入れると、ジョージとアイリスの
ベッドは総監督官室に並べた。クローゼット
などを運び入れると、二階は無人になって作
業の効率が図れる上に、トムが心配していた
警備範囲の集約もできた。
シャーロットは農園から戻ると「滔々二人
になったわね!」と寂しく笑った。アイリス
は“何があってもシャーロットを守らなけれ
ばならない、ジョージが戻って来るまでは農
園を守らなければならない“と決意した。
“奴隷解放”の機運が高まる出征前、ジョ
ージは東西南北の屋外従事者の代表者を集め
て“全奴隷の解放やプランテーションの分割
委譲“などを話し合った。然し、“解放され
ても何処でどうやって生きて行くのか“又、
農園を細かく分割委譲されても“如何すれば
食べて行けるのかが分からない“と言う。
結局、ジョージは前年度の損益計算書を作
成して、各従事者の役割分担に応じて利益を
分配する方法を提案して今日に至った。又、
代表者からの要望で今年は牛肉と鳥肉の分配
を増やす予定だった。
十人の男子が抜けた穴をメイドと給仕で頭
数を合わせたが戦力の軽減は否めず、川砂を
入れて土壌の改良を行っている北側農園では
不平不満の声が上がっていた。然し、南側と
東側農園では自分達だけの労力で土地の改良
作業を行ったのに対して北側の彼等は他の農
園の応援を受けていたのだが、…監督官の違
いなのか、民族性の違いなのか、北側農園の
扱いは大変だった。
「ハリーの暴走」
大学を終了するとハリーは仕送りが断たれ
たためニューヨークから戻って来たが、館に
は何処にもハリーの居場所は無かった。元来、
ハリーは農園の作業は勿論の事、乗馬・狩猟
や魚釣りなどの興味もなく、館ではもっぱら
女だった。
ロバートが居た頃は容易に女も調達出来た
が、ロバートが居ない今、話し相手は北の監
督官だけだった。シャーロットは部屋と担当
のメイドを準備していたが、ハリーはメイド
と賄いを通いで来させる事を条件に館には入
らずに北の監督官の家に同居すると言う。
監督官との同居を好まないジェ―ムズは、
ロンドンやニューヨークで仕事に就く事を望
んだがハリーは“ジョージが居ない今、何故、
館の運営を自分に委譲しないのか“と責めた。
四月に入ると南側農園では始めての綿花の
移植作業が始まり・女性陣が苗床から苗を根
元ごと取り出して植え付けると、男性陣は轍
の端まで水を曳き、子供達は水を撒いた。
食料の小麦やトウモロコシを作る西側農園
ではトウモロコシと豆類の種蒔が終わり、小
麦の穂が風になびいていた。今年は南軍への
上納も考えられるため全ての品種を多めに植
えたとの事。又、南側プランテーションの奥
には放牧地が広がっていて、近々放牧が始ま
るとの事で、ウィリアム達は準備に追われた。
南軍勝利の報が続いていたが、オリビアか
らは「海上が封鎖されて南軍への物資が断た
れ、煙草や綿花の輸出も出来なくなった」と
の伝言が入った。封鎖の突破を試みる船もあ
ったがそれは一様に小舟で、大海を渡れるよ
うな船ではなかった。
売れない物を作ればブラウン家の赤字は嵩
むだけだったが、シャーロットは綿花の栽培
を続けるしかなかった。今、彼等・彼女達を
野に放つことは出来なかったからで、益して、
ジョージが居なくなって忙しい中でも読み書
きの講習を続けてきた。
ジョージは兵役三年の契約で北バ―ジニア
軍の騎兵連隊に配置された。大卒なので当初は伝令の役に就いたが(農園から連れて来た十人の荷役兵と離れる事になる為)騎馬砲兵隊を志願した。
東部戦線において南軍は勝利を重ねていたが脆弱な輸送網の中で物資が不足すると、ジョージは食料と荷役兵の更なる追(十名)を要求された。
ウィリアムは荷役要員十名を送り届け、小麦やジャガイモなどをリッチモンドの兵舎へ献上して戻ると、ジョージから“衣類の補充依頼”もあったと言う。
「ジェームズの逝去」
シャーロットとアイリスが農園の運営に心
血を注いでいる頃、ハリーは頻繁に館に顔を
してジェームズに農園の権限の委譲を要求し
たがジェームズの怒りは日々大きくなった。
其の日の夕暮れ前、ホールを挟んだ部屋か
ら大きな金属音が聞こえてアイリスが執務室
からホールに出ると、(ジェームズの部屋の
ドアが開いていて)ハリーが玄関から飛び出
て行った。入れ替わるように守衛が駆け付け、
私達は一緒に部屋に入った。
床にうつ伏せに倒れているジェームズをベ
ッドに戻させるとアイリスは枕元からニトログリセリンを取り出してジェームズに与え、医者とシャーロットを呼びに行かせた。
ジェームズの呼吸は一瞬戻ったように見え
たが、シャーロットが戻って来ると再び苦しそうな症状に変わり、シャーロットは何時もと違う症状に心配な顔をした。医者が駆け付けてもジェームズの意識は戻らず、再び呼吸困難に陥って明け方に息を引き取った。
部屋の燭台は飛び散り、サイドボードの上
に在った手提げ金庫はサイドボードごと床に
転がっていた。トムは守衛を集めてハリーの
探索を行ったが、農園内に姿は無かった。又、
馬車や馬もそのままで、如何様にして出て行
ったのかも分からなかった。
戦時下、リッチモンドまでの道路は南軍が
支配していたが、脱走兵などの出没を考える
と銃を携帯出来ないウィリアムには夜間の走
行は危険だった。リッチモンドの兵舎を尋ね
たがジョージの姿は無く、(言伝を残して)
その足でノーフォークに向かった。
港に面するオフィースの前面は低いカウン
ターで仕切られていて、ウィリアムが入って
行くと窓口係の事務員達が一斉に顔を向けた。
ジェシカが事務所の奥に座って居てウィリア
ムに気付いて出て来たが、“デーヴィスは不
在で、オリビアは屋敷に居る“と言う。
オリビアの屋敷は建ち並ぶ倉庫を見下ろす
ように高台の上に立っていて、大火の後に建
てられた真新しいジョージアン様式の屋敷だ
った。新緑の芝生に囲われた玄関前に馬車を
停めると、オリビアは悲報を悟ったようにメ
イドを伴って扉を開けた。
デーヴィスはニュ―ヨークへ商談に出掛け
て不在なため、オリビアが事務所に連絡・指
示を出しに行くと、ウィリアムは二頭のハー
ネスを外してランドーの手入れを始めた。途
中、メイドが中で休むように伝えに来たが、
オリビアが居ないところでは中に入れない。
オリビアは戻って来ると外に居るウィリア
ムに詫びを言って中に招き、一息するとリリ
ーとジャックの部屋を案内した。湾に面して
横長に建てられた二階には、階段を中央にし
て幅広の廊下が真っ直ぐ南北に続いている。
ジャックの部屋は北側の端で、長いカーテン
が吊るされたベランダ側の前方には倉庫の屋
根と屋根の隙間には積み荷を運搬する人々が
行き交っていた。頑丈そうなベッドと勉強机
以外に飾りが無い部屋だが、北側の窓には帆
船のマストが覗いていた。
手前がリリーの部屋で、花柄のベッドカバ
ーと机の上の一本刺しを一見するとウィリア
ムの脚は躊躇した。家を離れて間もない我が
娘だったが女の子の成長の速さが感じられた。
ジャックが帰宅すると、暫くしてリリーも帰
宅した。ノーフォークでは分離教育が行われ
ていて、二人は黒人の学校に通っていた。
翌朝、オリビアはリリーとランドーに乗っ
たが、馬車の前後には保安官事務所から斡旋
された白人の護衛が付いた。館に着くとジョ
ージは戻っていてアイリスがメモを取る中、
シャーロットと葬儀の段取りを話していた。
戦時下、取引業者も近隣の旦那衆も参列出
来る方は限られていて、オリビアは“取り敢
えず身内で葬儀を行い、告別式は終戦後に行
えば良い“又、今般のハリーの行為を鑑み、
“遺言書の見直しをすべきだ”と言う。
ジョージは(明朝)牧師と弁護士を迎えに
行くように指示すると、トムを呼んで館の警
備について話し合った。ナットターナーの反
乱以降、黒人従事者の反乱や暴動は鳴りを潜
めていたが脱走兵による略奪や、行方不明の
ハリーが来る事が危惧された。
ジョージは農園の警備を減らして館周辺の
警備に重点をおくことを指示し、トムとウィ
リアムに館に移ることを提案した。トムは、
強制荷役として徴集された家族や男手の無い
女所帯では不安な夜を過ごして居る者も多い
と言い、“住居の集約化を図りたい”と言う。
ジョージは屋外従事者の住居の移動は各監督
官に、家内従事者の住居の移動はトムの権限
で行うよう指示をした。
久し振りに食堂に灯りが点り、オリビアと
リリーは並んでテーブルに着いた。背筋を伸
ばして手慣れた素振りでナイフとフォークを
使いこなすリリーを、ジョージはやせ細った
頬で目一杯茶化したが、笑みは直ぐに消えて
明日の午後には兵舎に戻ると言う。
ブラウン家からは二十名の黒人を出したの
で“長男であるジョージは兵役を免除される
べきではないか“とオリビアが言ったが、ハ
リーが行方不明になっている現状ではそれも
言えなかった。
オリビアは“危なくなったら直ぐにノーフ
ォークにお出で!“と、シャーロットとアイ
リスに繰り返した。戦時下のご時世、女子を
人里離れた農園に置く事には反対だったし、
年相応の教養と出会いを与えたいと言う。
然し、シャーロットが“今、農園を止めた
ら彼等・彼女達は何処で、どうやって生きて
行くの、マーガレットは「農園で産まれた者
は死ぬまでブラウン家で看取る」と言ってい
た“と涙ぐんで言うとオリビアは口を閉じた。
只、戦時下で海上封鎖をされている中でも
海運業は好景気らしく、先日も、ヴァージニ
ア産の綿花をイギリスに届けたとか、還りの
船には戦争物資を積んで来たとの話題が出る
と、ジョージも“先般、ヴァージニア・ビー
チで輸送船から投げ下ろされた木箱を回収し
た“と言う。
これまで戦争のことは話さなかったジョー
ジの一言に、アイリスの顔が曇って来ると、
シャーロットはオリビアとリリーを連れて食
堂を出た。ジョージは荒々しくアイリスの腕
を取って部屋に導き、灯りを点けたままアイ
リスを引き寄せた。常夜灯を一つにしてアイ
リスをベッドに横たえると、ジョージは裾を
胸の上まで捲って荒々しく圧し当てる。アイ
リスは下腹部に当たったバックルに腰をよじ
ながら胸元の紐を梳いて小さな乳首をジョー
ジの唇に押し当てた。
翌日、ジョージはグレーの軍服に着替えて
馬上に消え、館は一瞬に侘しい女所帯に変わ
った。トムとウィリアムに加えマリア達も館
に住むことになったが、アイリスにはージョ
ジの温もりだけが生き甲斐だった。
オリビアの家は大火の後に建てられた白亜
の屋敷で、庭の北側からは新しいノ―フォー
クの街と色々な国の船が見えると言う。又、
学校は別々であったが黒人も自由に学ぶこと
が出来るとのことで、リリーは中学校へジャ
ックは小学校に通っていた。科目も国語の他
算数や自然科学などがあって、オリビアは二
人を4年制の大学に行かせたいと言う。
…その年、ノーフォークは南軍に占領され、
翌年には再び北軍に占領されて戒厳下に置か
れたが、リリー達の通学にはさほど支障は無
かった。又、封鎖ランナーは小型ではあった
があらゆる戦争物資を南軍まで運び、バージ
ニア産の綿花を積んで帰った。…
翌日、ジェームズの遺体が納棺されて前夜
式を終えると、オリビアはジェームズ名義の
海運事業の権利書をジョージに書き換え、ジ
ョージに万ガ一が生じた際はシャーロットに
譲渡されるように提案した。
又、ハリーに譲渡されていたイギリスの山
野はシャーロットとアイリスに分割された。
その他、弁護士は小規模商店の権利書や倉庫
などの登記書を読み上げて確認すると、それ
らを一部ずつ金庫と鞄に入れて鍵を掛けた。
葬儀と告別式には家内従事者だけを参列させ
ることにしてシャーロットはトムとベッティ
ーに準備を依頼した。
細身の白い肌に栗色の長い髪、シャーロッ
トは典型的な白人のお嬢様だったが同じ年頃
の少女とは言え、憂いのあるアイリスの顔に
は及ばなかった。リリーは思わず「お姉さん
綺麗!」と口にすると、シャーロットは振り
向いて頷いた。アイリスの内面から滲み出て
来るような美しさはジョージがリッチモンド
に入隊してからで、シャーロットは「ジョー
ジが帰って来ると、アイリスはただの子猫な
のよ!」とアイリスを観ながら言う。アイリ
スが恥ずかしさに顔を染めて俯くと、暫くし
てリリーもその意味に気付いて顔を染めた。
ジェームズの棺は家内従事者に見送られて、
マーガレットと並んで埋葬された。式が終わ
ると牧師と弁護士はトムの馬車で墓地から直
接帰った。オリビアとリリーは明朝に戻ると
の事で、ベッティーはリリーの為にシマを作
りアイリスも厨房に呼ばれた。
下ごしらえ用の作業台には既にウィリアム
とララが座って居て、私達が席に着くとマリ
アはシマが入ったガラスのボウルを運んで来
た。戦火の中、小麦や肉の値段は高騰してノ
ーフォークでは生の肉が手に入らなかった。
館でも度重なる徴集を受けて牛肉の分配回
数を減らし、盗難を防止するために放牧して
いた牛も夜には牧場に集めた。べッティーは
貴重な干し肉と野菜を炒めてシマのおかずを
作り、鶏を丸焼きにしてリリーに食べさせた。
翌朝早く、オリビアとリリーがランドーに乗
ると、ベッティーは朝食兼昼食のランチボッ
クスを渡し、マリアとララは小麦とジャガイ
モと干し肉が入った袋を積み込んだ。ノーフ
ォークの街に入るまでは南軍が制圧している
との事で御車台にはサザンクロスの旗を掲げ、
馬車の前後に護衛をつけた。
「戦時下二年目」
戦時下一年目は煙草から綿花生産への転作
や南軍からの荷役兵の徴集などがあって、生
産は思うようにいかなかったが綿花は品不足
で予想以上の値段で売れた。然し、其れは男
手が不足する中で女性陣と子供達が頑張った
結果だった。
シャーロットは増収分を彼女達の寝具類や
衣服に注ぎ込んだが、北の監督官の不平は続
いていた。彼には不得手な綿花栽培や若輩の
総監督官の指示に従うことが我慢出来なかっ
たからで、其れを公然と口にして若者を煽っ
ていた。トムは北側農園の不穏な状態をシャ
ーロットに報告して監督官を監視した。
これまで農園の牛肉は川原に放牧した牛の
自然交配で賄っていたが、昨年は南軍からの
度重なる徴集があって不足した。従い、戦時
下二年目、シャーロットは小麦や穀物類の生
産量の増加は勿論のこと、仔馬や仔牛も買い
入れた。
そんな折、ジョージは昨年徴集された二十
人の荷役兵を荷馬車に乗せて戻って来た。アイリスはワイン倉庫を開けて大食堂のランタンに火を点し、ベッティーは仔牛を丸焼きにして腕を振るった。宴がたけなわになってくると場は戦場の話題で盛り上がり、トムとウィリアムはワインを注ぎながら聞いていたが、シャーロットとアイリスは場を外した。
彼等は“生きて還れたのはジョージ坊ちゃんのお蔭だ”と言って、何度もジョージに礼を述べた。ジョージは砲兵師団の下級指揮官として荷役兵の彼等を指揮して敵陣に砲弾を撃ち込むと、戦場を素早く前後左右に駆けて敵の反撃から逃れる。
従い、他の砲兵団と異なって“戦火を浴びる危険が少なかった”と言う。又、殆どの兵士が軍服も配給されていない中、“丈夫な作業服を着ていて妬まれた”と言う。(他の農園と違って)鞭を打たれることも無く、穀物も余るほど支給され、肉も食べさせてくれる、“ブラウン家の従事者であることがどれだけ恵まれているかなど”を話し合っていた。
春先の宵、アイリスは食堂と部屋を行き来しながら酒盛りが終わるのを待った。ジョージは明日中には兵舎に戻らなければならないとの事で、相談をしたいシャーロットも二度
・三度と部屋に顔を出した。
翌日の昼近く、ジョージは新たな荷役兵二十人を馬車に乗せてリッチモンドへ発った。荷役兵は一年で交代させたがジョージの兵役は三年で、アイリスは着替えや干し肉を詰めた袋に願いを込めた。
夏が来ても雨は少なく近辺の農園では深刻な干ばつが発生していたが、ブラウン家では河川から直接取水する方法が功を成して穀物などの栽培にも支障は無かった。
第一次・第二次ブルランの戦いでは遠くか
ら砲弾を打つだけで敵の顔を見ることも無か
ったが、アンティータムの戦いでは足の踏み場も無い戦場を重い砲身を移動させて砲弾を運ばせた。ジョージは農園から連れて来た彼等を健全な身体で還すことが自分の責任と感じていたし、農園で産まれ育った一人一人が
幸福な人生を送れることを願っていた。
“何故、こんな無意味な殺し合いをしなければならないのか、敵であれ、味方であれ同じ人間ではないか”と、ジョージは無惨に倒れ・蠢く生身の身体を憂い・憐れんだが、ア
ンティータムの戦いに至って“何の為の戦争
なのか”と呆れ果てた。
北軍は川を渡り遮蔽物もない川原を何度も
進んで来たが、高台で構えるジョージ達には蟻の行列を叩くようなものだった。カノン砲に砲弾を込めて打つと十名前後の兵士が虫けらのように飛び散り又飛び散った。砲弾から逃れて駆け上がっても、エンフィールド銃が
容赦なく兵士を射抜いた。
連戦連勝の南軍ではあったが昨年の干ばつ
は深刻な食糧不足を招き、海上封鎖と脆弱な
輸送網の中でリッチモンドではパン暴動さえ起きて脱走兵が後を絶たなかった。
従い、南軍では人材が欠乏して軍役を終えた多くの兵士を再登録せざるを得なかった訳だが、北軍では黒人からも志願兵を募っていたので兵員が不足することはなかった。
東側見張台の銅鑼が鳴り渡ると家内従事者が玄関前に顔を出し、屋外従事者も作業を中断して集まって来た。荷馬車が荷役兵と一つの棺を乗せて玄関前に停まると、故人の両親と乳飲み子を抱いた新妻が棺に縋りついた。ジョージは皆の前で“遺族に弔慰金を与え、還って来た荷役兵に報償金を支給するように”シャーロットとアイリスに指示した。
食堂には昨年と同様に歓迎の席が設けられたが、故人を偲ぶ場はしめやかだった。そもそもジョージは奴隷制には反対であったが、北部が言うような(無慈悲な)解放の仕方にも同意出来なかった。何故なら七代続いたプランテーションでは殆どの者は農園で産まれ
て土に還る。従い、農園主側から見れば彼等
・彼女達は我が一族・我が子だった。
ブラウン家の初代当主の思惑は計り知れないが、ジェームズとマーガレットは“他の農園で働く従事者達よりも幸せに”との思いで農園を運営して来た。自由黒人の数も他の農園とは比較出来ない程多く、近隣の旦那衆からは“甘すぎる“と揶揄されるがブラウン家では”他の農園でも重宝がられるように育成
して“自由黒人にしてきた。
従い、彼等は北部で働くことも、西アフリ
カへ帰還することも出来た訳だが、彼等は毎年契約を交わしてブラウン家に残った。ブラウン家では彼等に衣・食・住を提供する他、僅かながら年俸を支給していたからだ。従い、この戦争はジョージにとっては無意味で理不尽なことだったが、南部で生きている限りは組みするしかなかった。
呆然と天井を見上げるジョージの胸に、アイリスは頬を付けて抱きしめた。北側農園を見渡す墓地には従業員七代の墓標が並んでいて、葬式を済ますとジョージは新たな荷役兵二十名を馬車に乗せて発った。本来、二十名以上の荷役兵を提供している農園主は兵役を免除されるはずであったが…
「戦時下三年目」
女主人(イザベラ)が亡くなってアダムスは漸く名実ともに遺産相続人になった訳だが、父親の代から執事をしてきたローガンは“親戚方から養子を取る話しが続く中で、奥様は旦那様の遺言を守って来られた”奥様を怨まないで欲しいと言う。
義母の葬式はローガンと弁護士で執り行なわれ、アダムスは一ヶ月後に屋敷に入って弁護士に会った。奴隷制廃止法は制定されていたが社会通念では混血(黒人)のアダムスが屋敷の主人になり雑貨店の経営者に為る事は困難だった。弁護士は“金銭で譲渡すること”
を薦めたが、大学で経済学を学んできたのは
“父親から褒めてもらいたい”からだった。アダムスはローガンに店と屋敷の“代理人”に為ることお願いして契約書を作成した。
屋敷の従業員はローガンとコック以外は黒
人だったが、全員がバントゥ系民族とのことで肌の色は薄い茶褐色をしていた。アダムスは母親の遺骨を父親の墓石の傍に移すと、弁護士とローガンを伴って本店での役員会議を開催した。雑貨店の運営はアメリカやインド
・アフリカなどの支店を含めて本店マネージャーのジョンが担っていて、弁護士はローガンを“代理人”に立てたことを告げた。
諸手続きが済むとアダムスは逸る気持ちを抑えて、ローガンと戦火のアメリカに渡った。ニューヨークからワシントンまでは汽車も駅馬車があったが、ワシントンからヴァージニア方面は(希にインディアンの襲撃と逃亡兵による窃盗があり、又、戦場に近づく危険があるとのことで)駅馬車も皆無だった。
アダムスは保安官事務所に出向いって、斥
候と御者を二人づつと馬車の前後に四人の屈強な護衛を選んで決死隊を編成した。又、ローガンは四輪六頭立ての馬車を馬ごと買い上げてきた。
戦火の中、命懸けで訪れたアダムスにシャ
ーロットは抱き崩れ、トムが警戒を解くとウィリアムは馬車と馬を厩舎に連れて行き、アイリスは二階会議室に護衛達のベッドを用意させて大食堂を開放した。
夕食後、アダムスがアイリスとトム達を立会人にして求婚するとシャーロットはうれし涙を溜めて受け入れ、アイリスと祝福の抱擁を交わした。「一緒にイギリスに行こう」と言うアダムスにシャーロットは「ジョージが戻るまで、戦争が終わるまで館を離れられない」と応え、アダムスはもどかしい花の開花を刻んでイギリスに戻った。
じめじめした夏が終わるとジョージが急に還り、荷馬車一杯に小麦粉とジャガイモを積んでリッチモンドに戻った。翌月、南軍敗戦の噂が飛び交い、アイリスはジョージの安否を確認すべくウィリアムをリッチモンドの兵
舎に行かせたが、三日経ってもジョージの安
否が分からないままウィリアムは帰って来た。
敗戦と食料不足が噂される中、トムは脱走兵の略奪を防ぐために夜間の巡視を強化した。又、ブラウン家では農園内での銃の使用許可を得ているため、守衛に銃を携帯させた。
そんな中ジョージと十五人の荷役兵が闇夜に隠れて戻って来ると、館は大騒ぎになり其処かしこで灯りが点った。戦場から逃れて来た彼等は悪臭と空腹で疲れ果て、アイリスはジョージの服を脱がすと身体を拭いてベッドに寝かせた。
夜分に起こされたベッティー達はパン生地を捏ねると、七面鳥を焼いてコーンスープを作った。食堂では半裸になった荷役兵達がメイドの運んで来た湯で身体を拭き、マリアが用意した作業衣に着替えた。食堂の奥のテーブルにはシャーロットが居て、怪我をした荷役兵の傷を消毒して包帯を巻いている。
シャーロットは小さい頃から定期的に奥様と診療所の手伝いをしてきたので傷の手当には慣れていた。シャーロットが手当をしながら経緯を尋ねると、南軍の無謀な攻撃が続く中、五人の仲間が行方不明になりジョージ達は砲火の中を右往左往して逃げ延び、北軍に追われながら闇夜に隠れて館にたどり着いたとの事。食べ物が運ばれて来ると彼等は貪るように次々と平らげ、満腹になると其々の家
へ帰って行った。
ジョージはスープを一杯飲むとアイリスの胸に顔を埋めて瞬く間に寝入り、朝方目を覚ますとアイリスと厨房に駆け込んだ。ベッティー達は朝食の準備をしていたが、ジョージの顔を見るとメニューを替えた。ジョージの声を聞きつけてトムとウィリアムが厨房に入って来て、食事中のジョージにウィリアムは馬の交代とケーソンの修理を申し出た。
ジェームズの馬だったボスは昨今の戦場で倒れ、キングも力が尽きる寸前だった。夕方にはリッチモンドに戻ると言うジョージにウィリアムはキングの代わりと十五頭の砲兵馬の代わりを準備して、リンバーとケーソンを修理した。夕方、十五名の荷役兵が集合すると、ジョージは空になった弾薬箱に食料を詰めさせた。
行方不明者の家族は安否の確認を懇願してジョージに詰め寄り、見送る家族は祈るように手を振った。暮れ掛けた夕陽にジョージの背中が霞むとアイリスも涙を浮かべて無事の帰りを祈り、この戦争が一日も早く終結する事を願った。
翌日、アイリスはジョージが去った余韻を抱きながら馬場でキング達を眺めていた。モンブランがアイリスに気付いて駆け寄ると、後からキングも頸を振りながら近付いて来た。手を差し出すとモンブランはねだるように手を噛み、キングはジョージ匂いを探すように鼻を押し当てた。
キングの仕草が愛おしく、白い鼻筋を撫でているとウィリアム達が放牧牛を集めて帰って来た。馬場柵を開けるとキング達は厩舎に戻り、入れ替わって放牧牛が馬場に入って行った。アイリスはモンブランに鞍を付けて貰うと、放牧牛とすれ違いながら並足で東の菜園に向かった。
菜園奥の堀沿いには水車式の製粉小屋があ
って、二台の羽根車が軽快に回っていた。来訪を知らせると耳当ての付いた作業帽子を被り、粉まみれになった小父さん(グリーン)が布のカーテンを引いて顔を出した。マーガレットは衛生面を考慮して製粉作業をグリーン一家に固定して着替えも小屋の中でさせてきたが、今般の戦争で息子が出征したためグリーンは一人で製粉作業を行っていた。
…先般、ジョージが持ち込んだ野戦砲を修理する為に水車や製粉機修理用のオーク材を使用したとの事で…グリーンは不足になった
部材の寸法や員数を記入した紙を広げ、アイリスは舞い上がる粉塵の中でグリーンの依頼を書き写した。
オーク材は船にも使われていて、(戦時下でも)オリビアに頼めば手に入れる事は容易だった。アイリスはそれらを確認して“小父さん、手は足りているの”ベッティーが心配していることを告げると、“忙しい方が、気が紛れる”と応えた。トムの話では“この間から、夜遅くまで灯りが点いている”とのことだが、グリーンは手伝いを求めず、息子が無事に帰って来ることを待っていた。
ウィリアムの話では、ふるいを振って小麦
の表皮を除く作業も、梯子を登って小麦を投入する作業も楽な作業ではなかったが、表皮の混入や粒の大きいひき割りは“パンを焼いたときにごわごわした食感になる”との事で、
グリーンは何度も梯子を昇り降りした。増して、ベッティーは“挽き立ての粉が良い”と言う為、グリーンはその都度必要な分を訊いて倉庫から小麦を担いでいた。
アイリスは出来るだけ早く補修部材を入手することを告げて小屋を離れ、玄関前でモンブランを放った。トウモロコシを収穫して天日干しを終えると次は綿花の収穫だったが、海上封鎖でノーフォーク港から綿花の出荷が出来ないことが分かると煙草の乾燥小屋で乾燥させてからリッチモンドの倉庫に保管した。
不明だった荷役兵の二名は兵舎に戻っていたが三名の安否は分からず、ジョージは十七名の荷役兵と十五頭の馬を連れて騎馬砲兵隊に加わった。春の訪れは遅く西部戦線では北軍の戦勝が続いていたが、ジョージは其れを荷役兵に伝えることも出来ず、東部戦線の度重なる火蓋も最終を迎えているように感じた。
夏の初めの早朝、スペンサーの一発が小高い丘に火を放つと、銃声は瞬く間に裾野に広がった。一日目、南軍の歩兵が攻め入ると北軍は防衛線を構築して応戦した。二日目の午後も、南軍は陣地を突破しようと幾度も駆け上がったが、銃口に射抜かれた肉片は堕ち掛
けた夕陽に飛び散り蠢く屍の上に崩れた。
ジョージ達はリンバーとケーソンを曳いて森の中に隠すと、馬の世話をする者、野戦砲の手入れをする者、食事の準備をする者などに分かれ、ジョージは次の命令を受けに指揮所に出向いた。三日目の早朝、南軍は昨日に続いて丘陵を攻めたが、昼時が近づいても殺戮は続いていた。
午後砲兵隊は森を出て、丘の下の拓けた場所に野砲を並べた。従来、ジョージはハーネスの綱を長くして馬を繋いだままケーソンを固定して四・五弾打つと、次の木陰にリンバーとケーソンを移動して土嚢を積む。直線的に飛ぶ砲弾は一・二弾打つと敵から居場所が分かってしまうからで、ジョージは誰よりも早く敵にダメージを与えると、直ぐに移動して次の攻撃に備えた。
そうやって荷役兵と馬を守ってきた訳だが、今ジョージ達は砲弾が降り注ぐ草原に居た。開戦間もなく大量の白煙と火薬滓が舞い上がり、時を待たずに其処かしこからうめき声や
断末魔の叫び声が聞こえて来た。ジョージ達
の傍にも砲弾が降って来て右方の二人の肉片
が飛び散り、続いて左方二人の肉体が飛んだ。打ち終えれば戦線を外れることが出来るジョージ達は我武者羅に打ちまくったが、無駄弾を放つのは空しかった。最後の一発を打ち終えると、ジョージは荷役兵に声を掛けてリンバーとケーソンを置いて森に駆け込んだ。
生き残った十三名も爆風で目を遣られ砲弾で脚を飛ばされた者も居て、彼等の手当をしていると南軍の兵士達が続々と逃げ込んで来て其処かしこからうめき声が聞こえてきた。暫くしてジョージはズボンの血のりに気が付いてズボンを割くと、スペンサー銃の弾丸が右脚の太ももをえぐっていた。
野戦砲の音が止むと連隊長はサーベルを翳
して「突撃!」の号令をかけた。ジョージと同年代の将校達が赤地にⅩ字のバトル・フラッグを掲げて立ち上がり、横一列に並んだ歩兵が後に続く。野戦砲の援護が無い中、野ざらしの丘を登るのは無謀だった、赤い軍旗が飛び、歩兵達が転がるように倒れた。
ジョージは「止めろ!止めろ!」と叫んだが、砲撃と銃声は続く。一個連隊が丘の中腹で全滅すると、連隊長は再びサーベルを翳した。丘の上まで到達する者は希で南軍の歩兵は勿論のこと、北軍の歩兵も次々と倒れる。何と儚い命なのか、誰が何の為に始めた殺戮なのか、遣り切れない現況にジョージは「馬鹿野郎ー馬鹿野郎!」と声を挙げた。
銃創の上に止血の包帯を巻いて、ジョージは上官に“暫く戦列を離れる”ことを告げて馬に乗った。南南西に進めば館までは凡そ三日の距離であったが、ジョージは熱に浮かされて気が付いた時にはベッドの上だった。やつれたような顔で心配そうに覗くアイリスの顔、ホットした様子で見下ろすシャーロットの顔があって、白衣を羽織った町医者が症状を説明していた。“弾は取り出したが、傷の炎症が酷く熱を出した”とのことで、“消毒はしたが銃創が深かったため完治には日数が掛かる”とのことだった。
四人の亡骸と前回の開戦で行方不明になった三人の合葬を終えても、ジョージの脚は赤く腫れあがり痛みは増していった。再び町医者を呼び寄せると“患部が化膿している”とのことで、“膿みが出切るまで治らない”と言う。又、“膿の箇所が広がって深いところにたまると、痛みや、熱感、腫れが酷くなり、傷がグジュグジュして治らなくなる”と言う。アイリスは痛がるジョージを説得して医者に教わった通り、針を消毒して傷口に小さな穴をあけて膿を絞り出した。朝晩、膿を絞り出して水で洗い流し、消毒するのがアイリスの日課になった。ジョージは“傷口が塞がれば兵舎に戻る“と言うが、戦前に行かせたくな
いアイリスにはジレンマの日々が続いた。
八月に入りジョージの脚が馬に乗れるまで回復すると、シャーロットは漸く北の監督官の処分について相談した。先月、十代半ばの男の子が鞭打ちの刑にあったとのことで、翌日、シャーロットは診療所を訪ねた。診療所に入ると血だらけになった壮健な肉体が悲鳴をあげて痙攣を起こしていて、付き添いの母親はシャーロットを見ると涙ながらに哀願した。…ブラウン家ではむち打ちの刑は禁止していて、万一、むち打ちを行う際は当主の承諾が必要だったのだが…
シャーロットが町医者に合図打ちすると、
彼は鞄の中から透明なガラス瓶を取り出した。トムが身体を、ララが頭を押さえ付けると、町医者は瓶の液体をガーゼに含ませて彼の口と鼻を塞いだ。暫くすると彼の身体は大きく仰け反り、ゆっくりと力が抜けたようにベッドに沈んだ。町医者は二度・三度とガーゼで口を塞ぎ、呼吸が止まると脈を確認してシャーロットに報告した。
両親の呼び掛けは嗚咽に替わり・外で見守っていた友人達に伝わる。監督官宅に圧し掛けようとする彼等をトムは体を張って制止し、監督官に危害を及ぼさないよう守衛に銃を携帯させた。シャーロットがララを手伝って涙ながらに彼の身体を洗っている間、両親は恐縮したがそれはマーガレットもしてきたことだった。口数の多い生意気盛りの青年ではあったが、勉強会にも欠かさず参加するブラウン家の一員だった。聞き終えるとジョージは弁護士の来訪を待たずにトムを連れて監督官
宅に殴り込み、彼との契約を解消した。
翌月、ジョージは荷役兵を伴わないで兵舎に戻り、見送るアイリスはシャーロットの背でむせび泣いた。戦時下、シャーロットもアダムスとの手紙の往来さえも儘ならないご時世に“早く終われば良い”“何故、同じアメリカ人・同じ人間同士が殺し合わなければならないのか”と世相を怨んだ。
「戦時下四年目」
…ブラウン家はロンドン近郊で畜産や小麦などの栽培を行っていたが、(ヴァージニアで煙草の栽培が始まると)長男のデービッドは八人の奉公人を連れてジェームズタウンに入った。ジェームス川を上って中州の高台に着いたが其処には既にインディアンのロングハウスが建っていて、植民地総督に届け出たことを告げると族長は“聞いていない”と言
い、(タバコ栽培を始める為に)高台を中心に五百エーカーの土地を届け出たことを告げると、族長は“タバコ栽培と放牧をして自給自足を行う為には二千エーカー以上あった方が良い“と言い、結局、ロングハウスを含め
て四㎞周囲を空けてくれたとのこと。
インディオに対する(イギリスの)暴虐無人な振舞いが繰り返されている中で、族長は
「全てを分け合う」とのインディオの理念に
基づいて、食料や水とトウモロコシに馬や牛
を譲ってくれたばかりか、タバコの栽培方法も教えてくれた。
入植者の四人に三人が亡くなるご時世、ブラウン家では族長の助勢のお蔭で一人の奉公人も失わなかったが、彼らの仲間は(白人の理不尽な仕打ちへの報復として)ジェームズタウンを襲撃して街の三分の一の白人を殺害
した。その後、白人の入植者が増えてくると
インディアンは略奪・強姦・殺人・放火などを受けてヨーク州以北へ追いやられ、更には
「ベーコンの反乱」でヴァージニアのインディアンの殆どが壊滅した。…
そんなこともあって、ブラウン家の若き初代当主はリッチモンドの評議会や代議会を遠ざけていたため、名家の出であったにも拘わらず誤解を受け続けた。益して、ブラウン家では黒人従事者を鎖で繋ぐこともせず、当主の許可がなければ鞭を打つこともしなかった。
近隣の農園主からは「黒人(奴隷)の扱いが甘い」と揶揄され逃亡した従事者も居たが、彼等は時が経つと戻ってきた。外出許可書を持たず、自由黒人の証明書を持たない黒人は捕まればひどい目にあったし、ブラウン家に居れば守られることが分かったからだった。フロンティア精神に燃える若き当主は八人の奉公人と黒人達と石垣を組んで中州の丘の上(ロングハウスが建っていた場所)に館を築いたと言う。…
ジョージとシャーロットは初代当主の生き
様や“涙の旅路”を聞かされて、農園では“
血を流してはいけないこと、弱い立場の者を虐げてはならないこと”をマーガレットは事あるごとに話してきたが、それに反したのがハリーであり北の監督官だった。リッチモンドの街並みで“監督官を見かけた”との噂は出たが、ハリーの行方は分からなかった。
翌年、ジョージはアトランタ方面の作戦に参戦したが、騎馬兵とは名ばかりで物資の調達・運搬が主な任務だった。四月の初旬、ジョージは二十人の兵士と十台の幌馬車を伴って館に戻って来た。輸送網が断たれている南軍は砲弾や弾の他、食料も不足していて兵士による窃盗や脱走が横行していた。ジョージも無意味な殺戮から逃げ出したかったが、同胞を裏切った場合に受ける仕打ちを考えるとそれも出来なかった。
ジョージは小麦粉やトウモロコシ・ジャガイモと牛肉などの供出をシャーロットに告げ
ると、近隣の農園へ徴集に出掛けた。シャーロットは南軍からの徴集を想定して小麦はかなり多めに種を撒いたが、冬小麦の収穫は六~七月で春小麦は九月だった。ジャガイモは五月、トウモロコシは七月が収穫期で、シャーロットはアイリスと顔を見合わせながら提供可能な量を決めた。グリーンは息子が戻って居て一・二晩なら徹夜が可能だと言うが、トウモロコシも曳く必要があった。
二日後、ジョージは四台の幌馬車に小麦粉四十袋・トウモロコシの粉四十袋と干し肉・ジャガイモを積み、生後二十ヶ月になった牛二頭と四頭の馬を連れて東に向かった。他の幌馬車と合流して南に向かうとのことで、二晩、ベッティーは十人の若い兵士をもてなした。十人の兵士は全員が契約白人で、雇用主
の代わりに出兵していた。ジョージがアイリ
スを紹介すると彼等は一瞬怪訝な顔を向けたが、ピアノを弾くアイリスの姿に頷いた。次
に、彼等は遅れて入ってきたシャーロットに目を向けたが、シャーロットが“婚約している”ことを告げると彼等は意気消沈し、シャーロットの一撃にジョージは狼狽えてアイリスの顔を覗いた。
ジョージ達が去った後、シャーロットとアイリスは暫く呆然としていたが春小麦の種蒔が始まりジャガイモの収穫がはじまると、二人は畑に出て手伝った。綿花畑では肥料の散布と移植作業が行われ、水車もあれから休まずに回っていた。
東側農園奥の川原には牛を吊るす架台があ
って晴天が続いた早朝、トムは四人の守衛を
連れて川原に降りた。其処にはウィリアムが連れて来た二頭の牛が繋がれていて、銃声で木立の小鳥が一斉に飛び立つと二頭の牛は眉間から血を流して倒れた。馬を使って牛を架台の下に引き寄せると、守衛はロープで後ろ
足を縛って四人掛かりで架台に吊るした。
トムが解体用のナイフで頸動脈を切ると、血しぶきが草むらに飛び散り川原を染める。血が抜け切るまでは四・五時間を要するが、しっかり血抜きをしないと残血や血班部分が出来て、是までもトムはベッティーから何度も叱られてきた。然し、牛の各部位を的確に切り分ける作業は大変で、結局、ベッティーはトムに依頼する。通常、肉片が運ばれて来るとベッティー達は各部位を適当な大きさに切り落として園内に配給してきたが、今般は殆どが館用の干し肉になるとのこと。
翌朝、厨房脇のテーブルにはトムとウィリ
アムが座っていて、シャーロットとアイリスが入って来るとトムの奥さんは茹で上がった
ジャガイモの皿を抱え、ララは取り皿を配っ
ていた。二人で手伝って食器を並べていると焼き上がったパンの匂いが漂い、油の跳ねる音が大きくなってきた。何時もの顔ぶれが揃うとマリアはスープジャーをテーブルに置いて厨房に戻った。焼き立てのパンが入った籠とソーセージの皿が並び、ベッティーが座わると朝食が始まる。給仕もメイドも最低限の人数を残して農園に戻したので、館に居るのはこの顔ぶれと泊りの守衛だけだった。
「戦時下五年目」
南軍はアトランタが陥落するとカロライナからも追いやられ、リッチモンドまで敗走した。四月初旬、宵の帳が降り掛けると、ジョージは突然館に戻って東西南北の見張台の半鐘を鳴らさせて「全員呼集」を掛けた。
玄関前に点ったランタンに引き寄せられる
ように、上弦の月明かりの下から寝ぼけまなこの子供達や肌寒さに震える女性達が出て来た。ジョージはトムの合図で階段の上に立つと、(獣と化した敗残兵の行為を見て来たジョージは)南軍が来るので「若い女性と子供は直ぐに避難するように」と指示を出した。
…南軍は明け方前に農園に着いて夕方には南方に発つ予定だったが、戦況の変化は否めない。年寄と幼児を残して屋外従事者を載せた荷馬車が四方に散ると、家内従事者の家族は歩いて家に帰り、毛布や着替えや食べ物を抱えて戻って来た。トム達は年寄と幼児・その母親達を幌馬車に乗せ、元気な子供達と若い女性達は荷馬車に乗せた。…
ベッティーは残ったが、マリアとララはジョージの指示に従ってシャーロットとアイリスと一緒に荷馬車に乗った。ワインを積んだ馬車の後ろには乳牛とシャーロットの馬(シルク)が繋がれ、ジョージはアイリスを祈るように見送った。南軍の暴虐無人な振舞いを見て来たジョージには妻帯者であれ、子供であっても安心出来なかったからだ。女気が消えた館でベッティーは孤軍奮闘して、厨房に手伝いに来た者や外で調理をする男達に次々と指示を出した。
朝もやの中で斥候が姿を見せると、暫くして本体の先陣が玄関前を埋めた。ベッティーは玄関前にテーブルを並べてポタージュスープの入った大きなストックポットとパンを入れた籠を置いた。群がる兵士を前にジョージは“パンは一斤だけ、スープは一杯だけ”であること、足りない場合はジャガイモを焼いて食べるように伝えて薪を準備させた。
スープが行き渡らないうちに第二陣・第三
陣が押し寄せると、館の石窯だけでは間に合わなくなってベッティーは自家製の酵母菌が入ったパン生地を鉄板で焼かせた。パン生地も寝かせる時間が足りなければ膨れないし味も落ちる訳だが、押し寄せる人並みを見れば
仕方がなかった。
腰にサーベルを下げた若い士官に囲まれて長いコートに身を包んだ将軍がロビーに入って来ると、ジョージはシャーロットとアイリスが一緒に使っている大きい部屋を提供した。是までもジョージは南軍政府の調達要請に従って馬や食料を提供する傍ら、陰ながらイギリスからの武器輸送にも協力してきた。益して、ジョージは大学出なので、将官の任に就くことを期待されて来たが若さを理由に断り続けていた。
(従い、ジョージに対する将軍や将官達の対応を見ている者はジョージの立場を見聞きしていたのだが)兵士達は腹が満たされると勝手に休める場所を探して庭園に入って毛布を敷いた。玄関前で火が焚かれると館の裏手でも火の手が上がり、庭園を仕切っていた柵や植木の支柱が燃やされ、それらが無くなると楡の林で枝を集め、小屋の板を剥がして燃やしていた。ベッティー達は休む間もなく夕餉の準備をしていたのだが、夕方近くになると何処からともなく七面鳥や鶏を下げた兵士や牛の脚・肉の塊を運んでくる兵士が居た。
結局、夕方には出立せずに「起床ラッパ」が鳴り渡ると、兵士達は隊列を組んで朝もやの中を南に向かった。南軍が去った後の庭園はヴァージニアストックやアネモネバージニアの茎が踏み倒され、あっちこっちで異臭を放っていた。
トムは残った者に館の廻りや部屋の掃除を指示すると徹夜が続いたベッティーを休ませようとしたが、ベッティーは戻って来るシャーロット達の為に食事の準備をしたいと言い張って、椅子に座りながら厨房の女性陣に指示を出していた。
ジョージに付いて行った守衛が戻って来ると、トムはシャーロット達を呼び戻す為に伝令を出した。昼近く、館の廻りの異臭と燃えがらなどは片付いたが、シャーロット達は未だ姿を見せずベッティーは滔々倒れた。…幼くして母親を亡くしたトムにとってベッティーは母親代わりで…トムはベッティーをベッドに運ぶと、顔見知りの看護人を付けた。
園内の巡回に出した守衛達からの報告を受けて本日の農作業の中止を監督官と相談したが、種を撒いたばかりの小麦畑と移植中の綿花畑の手直しは早くしたいと言う。結局、午前中は休ませて午後から畑作業を行うことにした。兵士に荒らされた家内従事者の家々は散々な状態で、血まみれの馬場には牛の頭が五つ転がっていて内臓や骨が飛散していた。ウィリアム達は悔しさを抑えて馬場の片付けを終えると、牛を放牧して次の作業の打合せをした。柵や植木の支柱の手直しに小屋の板
の修理もしなければならなかった。
辺りが暗くなって玄関口と西側見張台にランタンが灯ると、暫くして見張台の半鐘が鳴って北側の半鐘も続いた。伝達係の守衛が馬から降りるのと同時に男達が玄関前に集まり、妻子の無事を確認するとパンや干し肉などを包んで帰宅した。ベッティーが倒れた事を訊いたシャーロットとアイリスは部屋に駆け込み、マリアとララが続く。年配のおばさんはマリア達と代わったが、おばさんはスープを乗せたワゴンを押して戻ってきた。冷え切った身体に暖かいスープが胃に落ちると、睡魔が押し寄せてアイリス達は部屋に戻った。
午前中は休みにしたので館は静まり返って
いたが、厨房に行こうとするベッティーをマリアが引き止めていた。アイリスはネグリジェのまま部屋に入ってマリアと代わり、マリ
アは年配のおばさん達と伴に厨房に立った。
シャーロットが着替えを終えて入って来ると、
アイリスは事情を話して入れ替わった。
遠くで大砲の音が轟いたような気がして、アイリスは窓を開けてジョージの無事を祈った。ウィリアムが放牧から戻りトムが食卓に着くと朝食が始まるのだが“隣の農園では女子供が乱暴を受けた”とのことで今朝のトムの一声は悲痛だった。結局、女子供を避難させて酒類を持ち出させたジョージの判断は正しかった訳だが、同胞を疑い・嫌悪しなければならないことは空しかった。益して、北軍とて同じ国民であり同じ人間である、何故、殺し合わなければならないのか“夕方になると大砲の音が言霊となって届いてくるとアイリスの懸念は大きくなった。
南軍に荒らされた綿花畑や小麦畑の手直し
をして、トウモロコシ畑も踏まれた箇所の種を蒔き直した。庭園の整備も必要だったが、
綿花の苗の移植が続いていたし、ジャガイモの収穫が間近だった。
(昨日、オリビア経由でアダムスからの手紙を受け取った)シャーロットは久し振りに「遠乗りに行こう」とアイリスに声を掛けた。ウィリアムはシルクとモンブランにサイドサドルの鞍を付け、シルクが駆けだすと(昨年シルクが産んだ栗色地に白い斑点の入った)
ノーティーが続いた。アイリスは奥様から譲り受けた長袖のジャケットにグレーの乗馬スカートだったが、シャーロットはオリビアが送ってきた紺色の乗馬用ドレスを着ていた。
十八歳になるアイリスは栗色の肌に聡明な顔立ちで、十九歳になったシャーロットは透き通るような白い肌に天使のような心根を持った乙女で、他の農園のお嬢様方と比べても二人は農園の宝であり自慢だった。そんなこともあって、すれ違う人々は二人を畏敬と羨
望の目で見送った。
アイリスは館で暮らすようになってから、ジャガイモの花が咲きヴァージニアストックのつぼみが膨らんで来るこの季節が好きになった。この時期、窓に差す陽だまりに誘われて林道や農園を散策していると赤みかかった小鳥が語り掛けて来るのだが、繁忙な執事の業務に就いてからは散策も容易でなくなった。
西側農園を過ぎるとシャーロットはシルクを曳いて川原に降り、ノーティーがそれに続いた。雪解け水のような流れに目を遣りながら、シャーロットはアダムスからの手紙の内容を話し出した。“戦争は近々終わるだろう、終わったら結婚の申し込みに来る”と言う。アダムスは昨年大学を卒業して名実共に創業家の当主として系列店舗の運営に携わっていた。リッチモンドやニューヨークにも支店があったが、創業家の屋敷を守る必要があるとのことで、結婚後はロンドンの屋敷に住むことを希望していた。オリビアはハネムーンでロンドンに行った事があって、館に来た際はロンドンの話で明け暮れたが、見渡す限りの大地で育ったシャーロットにはコンクリートに囲まれた都会よりも草木や野菜に囲まれた農園が好きだった。
畑を耕し・種を撒いて・水を遣って収穫する、そんな人々をシャーロットはマーガレットの背中を通して見て来た。マーガレットはジェームズとの結婚を決意すると親戚の医者に看護を学び、擁護している修道院で野菜作りを習ってヴァージニアに来たとの事で、マーガレットの信念は「母親は家族の健康を守らなければならない」だった。当初、彼等は奥様を訝しげに見ていたが、診療所で膿を口
で吸い取る姿に彼等は唖然と頭を垂れた。
…嫡子が生まれると婚外子のマーガレット
は家を追われ父親の愛情をも奪われた。そんな生い立ちのマーガレットは家柄や肌の色、先天的資質さえも侮蔑する行為を嫌悪した。従い、黒人の従事者であっても農園で働く者はマーガレットには「我が子」だった。其のことを知って義母はマーガレットをたしなめたが、以来、彼等はマーガレットを「聖母」と呼ぶようになった。…
シャーロットはそんな母親に憧れ・尊敬して生きてきた訳だが、農園を離れて自分はどう生きて行けば良いのか。…「アイリス!あなたはこれからどう生きて行くの」と尋ね、アイリスは「ジョージの為に生きて行くだけだよ」と答えた。…アイリスは“夫婦のなんたるか”も知らずに幼くしてジョージに身を任せた訳だが、ジョージが手を差し伸べた瞬
間からアイリスにはジョージが全てだった。
ベッティーとマリアは「異人種の婚姻は法
律で禁止されている事」や白人の正妻、益して由緒ある邸宅の奥様にはなれないことを言って、“過度な期待を持たないように”諭してきた。十八歳になろうとするアイリスには其の意味が漸く分かってきて、ジョージの妻としてどうあるべきかを考えさせられる昨今だった。
「終戦」
アダムスが言った通り「コートハウスの戦い」で南北戦争は終結し、ジョージは小雨降る五月の初旬に戻って来た。翌日、「全体集合」を掛けるとロビーには農園に従事する家族の代表が募り、ジョージは階段の中腹に立って「戦争が終わって奴隷制度が廃止された事」を告げた。ロビー全体から重いため息が聞こえて来たが、其れはブラウン家の農園から出されることへの不安だった。南部では産業化が遅れているため黒人の働ける場所は限られていて、北部に出る者は別として近隣の旦那衆は“小作”として契約していると言う。
ブラウン家では、“一人一人を自立させること”が彼等への罪滅ぼしだと思って遣って来た。衣食住を提供した上に(ジェームズの代からは)年に一度、剰余金を各個人に配当してきた。そして、配当金を使用する際はブラウン家が一時建て替えて、配当する際に清算するか預金通帳から引く方法を用いた。
これらの管理は執事の仕事で、アイリスは年に一度、各人と対面で借入と配当金を計算して通帳の残高を確認する。全員の確認を終えると、アイリスは銀行員を館に呼んで弁護士立会の下で銀行取引をした。従い、ブラウン家で働く大半の者はコツコツと増える通帳の残高を励みに働いていたが、“配当金が他の者より少ない”と騒ぐ者も居てその際はトムに立ち会ってもらった。配当金の分配率は
監督官が付けた評価と稼働日数から算出されるが、北側農園には不満を持つ者も居た。
然し、ヴァージニアでは(戦時中、綿花の輸出が出来ず)運営に窮する農園があった中でもブラウン家では労働への対価である配当金を支給した。オリビアの海運会社から利潤の分配を受けている為に出来ることであったが、農園で働く黒人の健全な自立の為には金銭的余裕も必要だったし、(ヴァージニアでは黒人への教育が禁止されていたが)“読み書き”の学習も不可欠だった。
ジョージが戻って来てシャーロットとアイリスは二階の部屋に戻った。アイリスは一人寝になるシャーロットを気遣ったが、シャー
ロットは毎晩アダムスの手紙を抱いていた。
踏み付けられたヴァージニアストックやアネモネの花が庭園の端々に顔を出すと、ウィ
リアム達は乗馬用・馬車用の馬と乳牛や仔牛
を厩舎に残して農耕馬や肉用牛を東側農園の牧草地に放牧した。対岸には拓けた場所があって、その奥には楡の大木が茂っている。
浅瀬を馬で渡って行くと、ウィリアムは木の根元に白骨化した遺体らしきものを見つけて近づいた。既に骨格は崩れ落ち、色褪せて抜け殻になったコートとブーツが辛うじて形を為していた。ウィリアムは一見してこの亡骸がハリーであることを感じ、放牧牛を蹴散らして館に戻った。シャーロットは畑に出ていたがジョージは守衛室に居て、報告を受けると保安官を呼んでくるように指示をして“
シャーロットとアイリスには未だ知らせないように”と告げた。
昼下がり、保安官が到着してジョージが玄
関に出るとトムが馬を携えて待っていた。トムを先頭にジョージと保安官が乗馬すると小さな棺を積んだウィリアムが続き、玄関の上には異常を察知したシャーロットとアイリスが立っていた。
楡の木の根元に転がるブーツを見てジョージは“このブーツはハリーの物だ”と言う。祖父母がハリーの誕生祝いにわざわざイギリスから取り寄せた物で、ヴァージニアでは手に入らなかった。頭蓋骨の脇には錆果てた型の古い拳銃が半分土に埋まっていた。其れはブラウン家の銃器庫には無い型で、トムは“
北の監督官の物じゃないか“と言う。保安官は頭蓋骨に開いた穴を確認してメモを取り終えると、遺体の処分許可を述べて帰った。身内で葬式を行う為、翌日、ジョージはウィリアムに護衛を就けてをノーフォークに出した。
祖父母に可愛がられて育ったハリーはジョ
ージやシャーロットと外で遊ぶことも無く、彼はもっぱらメイド達と戯れていた。従い、シャーロットにはハリーとの思い出は無かったが、あの日の不埒な出来事はハリーへの軽蔑を抱かせマーガレットを落胆させた。
そしてアイリスへの仕打ちで館におけるハリーの居場所は無くなった訳だが、寂しく自害したハリーは哀れだった。翌々日、ウィリアムはオリビアを乗せて戻って来ると、その足で牧師を迎えに出た。応接室には久し振りに灯りが点り、暖炉に薪をくべて湯浴みを終えるオリビアを待った。
戦時中、ノーフォークは南軍・北軍が入り乱れ、食料や物資の不足が発生した際は、其の都度、封鎖されているはずの港から船を出したとのこと。然し、牛肉は暫く口にしていないとのことで、アイリスはメイドを通して生肉と干し肉を準備させた。
ハリーの話になるとオリビアはマーガレッ
トの悲痛を聞いていて、“何故、あんなふうに育ったのか…”と泣いていたと言う。オリビアは話題を変えてリリーとジャックの近況を話し出した。事務所の仕事を手伝っているリリーは経営と経理を学びたいとのことで、来春からニューヨークの大学へ行かせるとの事。ジャックは荷役の仕事を手伝いながら高校に通っているが、未だ「何をしたいかが分からない」と言い、オリビアは本人以上に気がせいていた。子供の居ないオリビアはジョージかハリーを後継者に望んでいた訳だが、それが叶わない今、オリビアの期待はリリーとジャックにあった。其れをウィリアムに話すとララは我が子の成長を喜びながらも遠のく我が子に不安を抱いた。
「アダムスの来訪」
六月の初旬、東側農園の林道を色鮮やかなコンコードが土煙を上げて館の方に向かって
行くと、シャーロットは監督官を残して馬車を追った。手紙では六月の中旬頃になるとのことだったが、アダムスは荷台に沢山の鞄を積んで遣って来た。御者がシャーロットに気付いて常歩に変えると、アダムスがガラスの窓を開けて顔を出した。キャビンには執事のローガンと従者らしい二人の青年が居て、シャーロットに挨拶をしながら見張台を潜った。
ジョージとアイリスが執事室から出てきて迎えると、アイリスはメイド頭に部屋や飲み物の指示を出した。夕食迄の時間、シャーロットはアダムスを連れて墓地の方に足を運んだが、アイリスの頭はシャーロットの結婚式の準備でフル回転だった。そんなアイリスの傍らでジョージはアダムスの好物を言い出したり、飲ませるワインを探したりしてアイリスの手を煩わせた。夕食のテーブルにはアダムスの執事と従者の他、トム夫妻・ウィリアムとララ・ベッティーとマリアも席に着いた。
是までブラウン家の厨房はベッティー以下黒人女性が主体であったが、オリビアからの紹介でノーフォークから温厚そうな白人男性の料理長が厨房に入っていた。一人息子を戦争で失ったとの事で悲嘆に暮れる奥さんを連れて厨車傍の一軒家に越して来たが、ブラウン家特有の事情もあってベッティーは未だ厨房に立っていた。
夕食が終わると一同は場所を応接室に替えて、シャーロットとアイリスが交互にピアノを弾く中をダンスに興じた。トムの大きなお腹がぶつかって笑いを誘う中、シャーロットが踊り出せば優雅さに見とれ、アイリスが踊り出すと場はその美しさに見とれた。
翌日、朝食が終わるとアダムスはシャーロ
ットとアイリスを応接室に呼んでイギリスから持って来た鞄を並べた。余所行きのドレス
や普段着のベチコート・ガウンなどの他、靴
やストッキングが山のようにソファーを彩る。
二人は譲り合いながらも争奪戦を繰り返し、
歓声に釣られてメイドの大半とジョージも部屋に入って来た。
最後にアダムスは背の高い二人のメイドを指名して化粧鞄を開けさせた。中から淡いピンク色と薄い水色のウェディングドレスを取り出してメイドが其々のドレスを吊るし上げると、室内には称賛の拍手と感嘆のため息が入り乱れた。シャーロットはアイリスをドレスの前に立たせて、ジョージの顔をみながら「アイリス、水色が似合うョ、一緒に式を挙げよう!」と言う。
ジョージがアイリスを見つめると、アイリ
スは小さく頷いた。異人種間の結婚が禁止さ
れていることと戦争があって、ジョージは結婚式を躊躇していたが、水色のドレスを見つ
めるアイリスの目は既に潤んでいた。
「結婚式」
ウィリアムはノーフォークからリリーとジャック、オリビアとディービスを乗せて戻って来た。リリーとジャックは丸六年で、ディービスはマーガレットの告別式以来の来館だった。ヴァージニアストックとアネモネが色を濃くし、ジャガイモの収穫と小麦の刈り入れが続く中、手伝いに来た給仕やメイド達が快活に階段を行き来していた。久し振りに馬場に行くとモンブランが頸を振りながら駆けて来てアイリスにすり寄り、後からノーティーがシャーロットに歩み寄った。
ボスは五年前にキングは二年前に亡くなり、ウィリアムはキングの血統に繋がる二頭の牡馬とモンブランに似た牡馬と雌馬を曳いて来た。オリビアは十数年間馬に乗っていないこともあって、ウィリアムは手を貸して雌馬に乗せるとオリビアの馴らし乗馬に付き添った。乗り降りに不安のあるアイリスはジョージの手を借りて、手慣れているシャーロットはさっそうと乗った。ディービスとリリーとジャックは馬車に乗り、オリビアが戻って来ると出発した。
ブラウン家の伝道所と墓地と乾燥小屋・水車小屋を見て菜園を通ると、屋外従事者の男女が帽子を取り、子供達は手を振って応えた。生い茂っていた緑の煙草は綿花に変わり、来月には薄いクリーム色の花が一面を染める。小麦やトウモロコシの収穫も大事であったが、やはり綿花の収穫は農園の原資だった。
翌日、朝食のテーブルにはブラウン家の弁
護士も顔を並べ、食後、関係者は書斎に入っ
た。アダムスの執事がアタッシュケースを開くと、アイリスは書斎の金庫を開けた。アダムスが相続した遺産はイギリスの主要都市や、ニューヨークとリッチモンドなどに構える雑貨店で農機具の他、小麦粉やソーセージ・ワインなども扱っていた。
アダムスが提示した婚資はニューヨークとリッチモンドの不動産の他、合資会社の一員としての利益の配当で、弁護士はそれらの記述内容を確認するとジョージに合図打ちをした。ジョージはシャーロットへの持参金として、リパプールの不動産登記証書とマーガレットが保有していた船会社の合資権利書を出した。ブラウン家の賄いは綿花や小麦の売上で釣り合っていたが船会社からの配当金が無ければ運営に余裕が生まれなかったし、従事者の衣・食・住の改善も出来なかった。マーーガレットは結婚以来実家にも帰らず、好きな旅行もしないで農園に尽くしてきた。
シャーロットが「ジョージ、それでは資金
繰りが大変よ」と言うと、アイリスは「ジェームズの分が有るから大丈夫だよ」と答え。オリビアは言い掛けたが、ディービスの顔を窺って口をつぐんだ。オリビアとディービスは船会社の権利をジョージに委譲するつもりだったが、今はそのタイミングではなかった。
雨上がりの日曜日、年配の保守的な旦那衆は顔を見せなかったが、久々の結婚式に若い世代の男女や子供達、取引業者達でロビーは賑やいだ。当初、牧師は「結婚許可証」の無い挙式をいぶかったが、ディービスの「私が責任を負うから」との一声で式の段取りが急ピッチで始まって今日に至った。
伝道所から運んで来たオルガンの前には蝶
ネクタイに半ズボンの男の子と、バレリーナ
のようなスカートを履いた女の子が座って、
リリーの合図で行進曲を弾き始めた。ロビーの目は二階の踊り場を見上げ、開け放った大
扉からも多くの目が階段に注がれた。
白い布を敷き詰めた階段を淡いピンク色のウェディングドレスを着たシャーロットと、薄い水色のドレスを着たアイリスがディービスの腕を取って降りて来る。シャーロットの白く透き通っていた肌は日焼けしてアイリスの肌色とそん色がなかったが、胸元まで伸びたブロンドの髪にマーガレット似の小さい顔と優しい眼差しが魅力的だった。アイリスは黒地のカーリーヘアーを肩まで伸ばし、利発そうなオデコに見据えるような眼差しが輝いていた。
ブラウン家の家宝のような二人がウェディングドレスを纏って降りて来ると至どころ感嘆のため息が漏れ、ベッティーとマリアは涙に濡れた。オルガンの音に合わせて子供達が讃美歌を歌い、大人達が後に続いた。聖壇の前にはジョージとアダムスが立って居て、証人にはディービスとオリビアが就いた。シャーロット側の父母の席にはトム夫妻が座り、アイリス側の父母の席にはウィリアムとマリアが座っていた。
アイリスは執事として又は秘書として名実共にブラウン家の主人をフォローしていた訳だが、ウェディングドレスを着てジョージと並んで立っているだけでアイリスの胸は熱くなった。涙がこぼれ落ちるとオリビアがハンカチを差し出してくれたが、シャーロットも同じく嬉し涙に震えていた。
挙式はリリーの司会で進んで行ったが、アイリスには牧師の言葉も耳に残らず気が付けば花吹雪の中を潜って馬車に乗っていた。折り畳み式の帆を外したランドーの前の座席にはジョージとアイリスが座り、後ろの座席にはアダムスとシャーロットが座った。玄関から見張台まで人の輪が続き、折り畳みの帆は
畳まれてランドーの前にはシルクと兄弟姉妹
の四頭の白馬が繋がれていた。「おめでとう
!綺麗!」の歓声が上がる中、ウィリアムは御者台に乗って手綱を叩いた。各家の入口は子供達が作った花輪で飾られていて、通り過ぎる度歓声が上がり花吹雪が舞い、ランドーの後をオリビア達が乗った幌馬車が続いた。異人種間結婚への反発を考慮して、シャーロットとアイリスは綿花畑の端で馬車を止めると幌馬車に乗り移ってドレスを脱いだ。
アイリスは幼い頃に荷馬車に乗ってリリーとリッチモンドまで買い物に来たことがあったが、以来、農園の外に出た事は無かった。今般は、イギリスに渡るシャーロットを見送る為にノーフォークまで行く。日常の仕事を
離れる事も、ジョージと遠くまで出かける事
もノーフォークで海を見て船を見ることも楽しみだったが、戦後、都市部では“黒人がどの様に扱われているのか”を知りたかった。それは今後の農園運営の方向性を探る為でもあったが、アイリス自身が「どう生きるべきなのか」を考える機会でもあった。
シャーロットはノーフォークも何度か訪れていたが海外旅行は初めてで、大海原を渡る緊張とロンドンの屋敷で暮らす不安が交差していた。ランチボックスを頬張りながら戦時中の話題が続き、リッチモンドが近くなると行き交う手押し車が増えてきた。ジョージが“戦時中はリッチモンドとバージニア・ウエストの間を蒸気機関車が走っていた”と言うと、間髪をいれずにジャックが「僕、ヨークリバーで見たことがある」と言い、リリーが合図打ちをした。
そして、アダムスが“イギリスの主要都市
は鉄道で結ばれていて、馬車を遠出に使うことは少なくなったことやアメリカでもシカゴとサンフランシスコなどの西部方面が鉄道で繋がったことを話すとジョージは驚いて“何故、イギリスに居てアメリカの事が分るのか”と訊ねた。
アダムスは“世界の情報は電気通信で即座に送られてきて新聞で報道される”と言い、
これからは“運柚と通信の発展が世の中を変えて行く”と力説した。そしてアダムスはシャーロットの顔を見ながら“僕、運輸業か通信業を遣ってみたいんだよ”と言う。ウィリアムはリッチモンド手前のステージで馬車を停めると、昨今の黒人の現状を話し出した。
戦後、奴隷解放が宣言されるとプランテーションで酷使されていた黒人達は農園を飛び出したが(自給自足の生活から食べ物や生活必需品を買うようになると)現金を所持していない黒人達はその年に出来る収穫物の質権と引き換えに物を買わなければならなかった。そして多くの場合その負債額は収穫物の売値を越えていた為に借金で首が回らず、前よりも酷い状態にあった。又、新政府は学校を整えているが、子供達すら働かなければならない状況下では、なかなか学校に通えないのが実状とのことだった。
行き交う手押し車の半数は年季奉公又は移
民と見受けられる白人だったが、身なりは如
何様でも白人は白人のトイレを、黒人は黒人
のトイレを使用しなければならなかった。館
二階のトイレは白人専用だったが、マーガレ
ットとシャーロットはアイリスが使用するの
を許可していた。黒人の子供は幼少の時分か
ら白人との“違い”を学ぶ訳だが、それがど
んなに“理不尽”と思われることであっても、
従わなければならなかった。それが黒人とし
て生きる道だったからで、一途なアイリスを
ベッティーとマリアはなだめてきた。
州都のリッチモンドは綿花や煙草・小麦な
どが集まる活気のある街で、アダムスはメインストリートに農機具を主体にした雑貨店を構えていた。アイリスの倉庫も町はずれのジェームズ川の岸辺にあって、一昨年と昨年の綿花が積まれていた。リッチモンドを出ると農園は影を潜め、綿花や煙草を積んだ馬車が増えてきた。ノーフォークは度々戦火や大火に見舞われたとのことで、造船所や倉庫など新しい大きな建物が軒を連ねている。
港では荷馬車が積み荷を降ろすと、伝票を持った男性が馬車の入れ替わりを指示する。仲仕衆は列を為して荷物を担ぎ、左側の歩み板を昇って行くと右側の歩み板を駆けて戻って来た。船の接岸には時間の制限があるとのことで、船内の手動式クレーンも休みなく動いていた。ディービスは“ャックが倉庫の入
・出庫の処理やピッキングの作業が出来るようになった”と言うと、オリビアは“リリー
は事務処理が的確で、計算が早い”と褒めた。
際限のない海も海に浮かぶ黒い船を見るのも初めてだったが、農園で生まれ育ったアイリスには塩気の有る潮風と同様に違和感を感じた。ガラス張りの事務所は海に面していて、事務所裏方の高台にはバロック風の白い屋敷が建って居た。ウィリアムは坂を上り切って玄関前で私達を降ろすと、ステージに馬車を預けに行った。二階のベランダに立つと黒い大きな船が岸壁に並び、其の奥には帆を卸した白い船が旗をなびかせて浮いていた。
ディービスの書斎には保有する帆船と黒船の絵が飾られている。夕食が終わると男性陣はウイスキーを片手に数々の旅の話に耽り、女性陣はバスタブに浸かって旅の埃を流した。
街の給水場から手押しポンプで水をみ上げて石炭でお湯を沸かしているとのことで、屋敷の従業員もシャワーだけであったが使用時
間を決めて使用していた。
翌日、ジャックが学校に行くと、オリビアは事務所と倉庫を案内した。ジェシカとエヴァは戦争が始まるとに本国に戻り、代わりに通関士の御婦人がタイプライターを駆使して通関伝票や運送手配書の作成を行っていた。もう一人は倉庫の配置表を見直しして刻々と変わる在庫などを管理しているとのこと。十数名の事務員の中で接客業務に当たっているのは若い白人の女子で、黒人の女子は倉庫や荷役業務の補佐を行う為に事務所を出入りしていた。
倉庫の出入口には仮設の小屋があって、担当者は入庫伝票の受け取りと出庫伝票の受渡しを行って管理台帳に記入する。倉庫を出入りしている黒人達は従業員だったが、港で荷物を運搬している黒人達は日雇いとのこと。又、戦前は人夫を集めることが大変だったが
戦後は黒人労働者が余っていて人集めが容易になったと言う。尚、船の中で積み付けやピッキングの指示をしているのは読み書きが出来る黒人の従業員だった。
工業化が進んでいる北部とは異なって、南部では読み書きが出来なければ真面な仕事を得ることが出来なかった。従い、過酷なプランテーションから飛び出したとしても、住む家すら失って街裏や川原に雨・風を凌ぐだけの小屋が増えていると言う。そのような家庭の子供等は学校にも行けない為、貧困は次の世代まで続くことになる。
リリーはジェシカとエヴァから直接仕事を教わって、通関や配送業務も倉庫の管理業務も既にマスターしていた。従い、ディービスの思惑はリリーに経理の手法を学ばせて、会社の経営をフォローさせることだった。又、オリビアとディービスはジョージに会社を継がせたかったが、ジョージには農園の一人一人の生活基盤を確保させる事が優先だった。
「シャーロットの船出」
帆を畳んだ機帆船が汽笛を鳴らすと、シャーロットは甲板に出てきて手を振った。直行でリヴァプールの港に入る予定だったが、それでもノーフォークからは十日から十二日掛かると言う。陸の上なら良いのだが、シャーロットには海の上が不安だった。
手を振る人影が小さくなるとマストに白い帆が掛かり、シャーロットは青い空と海に吸い込まれるように消えた。アイリスは屋敷のベランダに立って、見えるはずがないシャーロットの姿を思い浮かべた。ジョージの優しい手が後ろからアイリスを包み、アイリスの目は涙で溢れ数々の想い出が頬を流れ落ちた。
アイリスはジョージに「胸の内」を打ち明
けると、オリビアの心配をよそに逸る想いで
帰路に就いた。従業員の大半が読み書きをマターした昨今、アイリスは週一で行ってきた勉強会を次のステップに移行したかった。其れは、農園で働く者の業務を世襲制的な分担から能力的な選別に変えることで、その為には現場での実地訓練と評価が必要だった。
ブラウン家の農園ではアイリスが従者になって以来、勉学の意欲が高まって十代は勿論のこと、二十代の大半も読み書きが出来るようになっていた。アイリスを従者に望んだのがマーガレットだったことを聞いて“何故、私を”と思ってきたが、結婚して漸く、アイリスにはマーガレットの想いが伝わっていた。「ジョージ!お義母さんは私達が結婚することを分かっていたかしら」と訊くと、ジョージは「分かっていたよ」と応えた。
「KKKの襲撃」
街に掛かるとウィリアムは手綱を緩めたが、教会から三角頭巾を被った男が近付いて来て“馬車を停めろ!”と怒鳴った。頭巾の男達が二人・三人と増えて十数人の集団になると
ジョージは異様な事態にライフルを構え、ウィリアムは落ちかけた夕陽を追うように六頭の馬に鞭を当てた。
砂埃を上げて三角頭巾から遠のくと轍道では距離を詰めて来る。遠のいたり近づいたりの繰り返しが続く中、溪谷に入ると拳銃の音が続いてジョージも弾薬を装填してライフルを放った。先頭の白装束は胸から血を飛び散らしながら飛ぶように転げ落ち、ウィリアムは岩陰に馬車を停めてジョージに「アイリスを連れて逃げろ!」と言い放った。そしてジョージからライフルを取り上げると、「幸せに!」とアイリスを抱き締めた。
ウィリアムは背中と太ももに銃創を受けていて瀕死の状態だったが、私達が溪谷を抜け出るまで援護の銃声は続いていた。ジョージは川に沿った開拓道路を赤い夕陽に向かってひたすら走らせたが、農園を目前にした轍で銃弾がジョージの顔を掠めると馬車は馬列をなぎ倒して土手を転げ落ちた。
ジョージの五体が高く宙に舞って河川敷に叩きつけられると、砕けるキャビンの中でアイリスは息を詰まらせて意識が遠のいた。ジョージは無意識の中で起き上がり、蠢く馬のハーネスを外して再びその場に倒れ。二頭の馬が東側見晴台を駆け抜けると、けたたましく打ち鳴らされる銅鑼の音にトムが林道を駆け、後を追うように守衛が続いた
川原には三人の白装束が居たがトムが射撃をしながら土手を降りて行くと、白装束達は守衛の隊列に驚いて土手を駆け上がり、後から駆け付けた白装束達と一緒に溪谷の方に逃げ去った。トムはジョージを抱き起して事情を訊くと、守衛達を連れて溪谷に向かった。
落ちかけた夕陽が溪谷を赤黒く染める中、ウィリアムはライフルを構えたまま岩陰に横たえていた。トムは白装束の気配が無いことを確認してウィリアムの遺体を馬に乗せて館に戻った。館の玄関前には大きなランタンが掲げられ、噂を聞いた人々が心配気に集まっていた。ジョージとアイリスは一階の監督官室に運ばれ、明々とランタンがをメイド達が行き来する。ベッティーはジョージの頭から滴る血を押さえ、マリアはアイリスのドレスを裂いて胸を冷やした。
玄関前の騒めきが悲鳴に変わると、トムが蜂の巣のように撃ち抜かれたウィリアムの遺体を抱き抱えて入って来た。ララは予知していたかのようにウィリアムを隣室のベッドに運ばせた。勿論、ララにはウィリアムの死は
耐え難い悲痛ではあったが、ジョージとアイリスを死守したことが誇りだった。ララは“
遣り抜いたように微笑むウィリアムに“頬ずりしながら涙を落とした。
アイリスは川原で気を失せたがマリアが胸を冷やす中で目を開けると「マリア!ウィリアムが私の本当のお父さんなの」と訊ねた。…暫くしてマリアが小さく頷くと、アイリスは安堵の顔を浮かべて再び眠りに就いた。隣のベッドのジョージは軽い脳震盪と後頭部裂傷の傷を負っていたが、朝方目を覚ますとトムの報告に指示を出した。駆け付けた町医者は忙しく治療に当たり、保安官と弁護士も午後には来る予定だった。
トムはリリーとジャックを迎える為に四頭立てのランドーを出したが、昨日の今日で二人は言葉を失うことだろう。…一人っ子だったウィリアムは幼少の頃からトムを兄のように慕い…リリーとジャックが生まれると(子供の居ないトムは)二人を我が子のように可愛がってきた。二人の悲しむ顔を想うとトムの目頭が熱くなったが、今は自分が館を守らなければならなかった。
アイリスの右胸には打撲による大きな痣が
出来ていて、医者の見立てでは肋骨にヒビが入っているとのこと。医者の治療が一段落すると、アイリスはネグリジェ姿のままウィリアムの亡骸を抱きしめた。昨夜ウィリアムの五体は白装束にいたぶられて蜂の巣のような穴を開けて戻って来たが、ララは包帯で全身を包んで服を着せ端正な顔に死化粧を施した。アイリスが頬ずりするとララは「黙っていて、寂しい想いをさせてごめんネ」と言う。
ウィリアムとマリアは愛し合っていたがロ
バートから求婚されると、ベッティーは屋外従事者のウィリアムより執事になったばかりのロバートを選んだ。ベッティーは“一世一代の失敗だった”と言ったが、マリアが妊娠を打ち明けるとベッティーは実家での出産を提唱した。…ベッティーの計算では妊娠が早すぎたことと、結婚前にウィリアムとの行為があったことをマリアが打ち明けたからだ。
翌年、ウィリアムはララと結婚したがララとマリアは義姉妹で、ララはアイリスがウィリアムの娘であることも知っていた。アイリスはリリーとジャックを妹弟のように面倒を見て来たが“本当の儀妹弟だった”ことを知って安堵するとともに、隣人同士の付き合い以上に親密だった事由が漸く分かった。今更思い起こすと、ウィリアムは何時もアイリスを優しく見守っていた。堀に落ちた時も、蛇に噛まれた時も、馬が暴れた時も助けてくれたのはウィリアムだった。反面、アイリスは是までロバートから父親らしい愛情を受けた事も無かったし、嫌われ者のロバートの娘であることが恥ずかしかった。ウィリアムが父親である事が分ってアイリスの心は晴れたが、
ウィリアムが身を挺して亡くなった事をリリーとジャックにはどの様に話せば良いのか…止めどなく涙がこぼれ落ちた。
保安官は白装束の正体について「K・K・K」と名乗る白人至上主義の秘密結社だったと言い、リッチモンド周辺や夜間の運行の注意を述べた。又、亡くなった白装束は元北側の監督官だった白人で、他の白装束の大半は契約白人だろうと言う。ジョージは弁護士を通して、白人が同行している際の“農園外における銃器の携帯許可”を申請した。
翌日、ランドーが玄関に着くと、リリーと
ジャックの後からオリビアが降りてきてジョージとララが迎えに出た。ランドーの後ろには二頭立てのカプリオレが続いて護衛会社の二人の白人が乗っていた。ウィリアムの変わり果てた姿にリリーとジャックの嗚咽が続き、傍でララとマリアがなだめた。
オリビアはララにお悔やみを述べると、ジョージを連れてアイリスを見舞った。ノーフォークの郊外でも「K・K・Kが出没している」とのことで、“農園は危ないのでノーフォークに来い”と言う。然し、ジョージは“
ブラウン家の償いが終わる迄、農園を出はられない“と、アイリスと顔を見合わせた。アイリスがベッドの背もたれに身体を預けて合図打ちすると、オリビアは呆れた顔で二人を見合った。又、オリビアが”命を賭して守ってくれたウィリアムへの償“いを訊ねると、アイリスは「叔母さん、ウィリアムは私のお父さんだったのよ」と応え、オリビアは驚い
てジョージの顔を見返した。
リリーとジャックが部屋に駆け込んで来て、
リリーはお腹にジャックは両脚に抱きついた。
アイリスは二人の頭を抱えて「ごめんネ、ごめんネ」と謝り、三人の目には悲しみと喜びの涙が入り混じっていた。
「ウィリアムの告別式」
アイリスが長女として献花をすると祭壇が置かれたロビーには感嘆の声が挙り、玄関前で献花を待っている人々にもうねりのように伝わって行った。誰にも親切で、偉ぶらない
ウィリアムを嫌う者は皆無で、埋葬されても
ウィリアムの死を弔う人の列は続いた。
オリビアはK・K・Kからの護衛の為に白人を雇い入れするように進言して帰ったが、護衛の仕事だけで白人を住み込みさせることには抵抗を感じた。現在、農園に居住する白人は総監督官で北側の監督官を兼務しているブライアンだけだった。アイルランド出身の彼は温厚で誠実な人柄で、大学に入ったご子
息の為に契約を五年間延長していた。
とは言っても、南側の監督官の彼の家には若い黒人の妾が同居していて、昨年、女の子が生まれたばかりだった。又、ブライアンは年に一度帰国する条件で契約していたので、
(黒人だけでの使いが出来なくなった昨今)
彼が本国に行っている間、ジョージは買い出しにも煩わされた。従い、ジョージはリッチモンドやノーフォークへの買い出し作業を兼ねて、農園の監督と執事業務者の採用を弁護士に依頼した。
小麦の収穫を終えた夏の初めの夕暮れ時、ジョージは飲み物と軽食を準備させて従事者
をロビーに集めた。子供や乳飲み子を抱えた
母親達は大扉を開け放った玄関前でパンなどを頬張っていた。ジョージは保安官から聞い
たK・K・Kによる昨今の事件のあらましを
報告して、農園の外に出る際の注意を述べて、
白人の執事と監督官を募集していることを話した。アイリスは初めて訪問したノーフォークでの体験を通して、黒人が高収入の職を得る為には“読み書きの他、スキルを高めなければならない”ことを話し、農園内の仕事で
遣ってみたい仕事があれば実習・訓練を行う
ので「希望職種を申し出るように」と話した。
白人の執事と監督官は容易に見つかって、先週は執事を希望する二人と面談をした。一人はリッチモンドの商家で番頭の職に就いていた五十代の男で、黒人女性との間に子供が出来た為に使用人部屋を追い出されたと言う。
もう一人は、リッチモンド郊外の煙草プランテーションで執事をしている男性で、年度内にプランテーションが閉鎖するとのこと。農
園の規模はブラウン家の半分も無かったが、「黒人を酷使する」との噂があった。四十代
後半のその男は銀縁の眼鏡を掛けていて、ロバートに似た印象を感じた。執事の選択はアイリスに一任されていて、アイリスは条件を提示して五十代のトーマスに馬場傍の住居を提供した。
監督官の募集には現役の監督官は勿論の事、
他所の農園で働いている多くの契約白人達が
募ったが、ジョージはアイルランドから出て来たばかりのアルフレッドを採用した。彼は貧しい農家出の苦学生だったが、産業革命による社会の変動や急進主義の横行に我慢できずに大学を退学して新天地を求めて西部に来たと言う。色の付いた白人を雇うより“無垢な青年を教えた方が早い”との判断だったが、アルフレッドは乗馬も出来なかった。ジョージは独り身のアルフレッドを“従者”として
ハリーの部屋をあてがった。
是までもブラウン家では屋外従事者を訓練
して熟練労働者に格上げしてきたが、今般のアイリスの計画は屋外従事者を家内従事者に取入れることであり、延いては、農園以外の業種でも勤まる人材を育成する為だった。アイリスは第一・第二・第三希望を記入させると、約三ヶ月間をかけて個人面談を行って、漸く全従事者の「希望職種表」を作成した。男子は御者や庭師・大工で女子は看護師・針子や裁断の仕事に集中したが、アイリスは振り分けに苦慮しながら“次回は優先順位を繰り上げる”と説得して調整していった。
「航海」
…シャーロットは(乾燥煙草を運ぶ為)農園の船着場からリッチモンドの倉庫まで小型運搬船に乗ってジェームズ川を下ったことがある。上りは曳舟道に屯する馬に船を曳かせる訳だが、トムは低い舳先で脚を大きく開いて怖がるシャーロットを支えてくれた。…
オリヴァーの貨物船は港を出ると機関を止めて帆を上げた。ノーフォークからリパプールへ波頭を叩き・波間を分けながら進んで行く。何もない、波の他は何もない海原が暗くなると満天の天の川が降り注いだ。
顎鬚を伸ばした大柄な船長のオリヴァーが部屋に入って来ると、待っていたアダムスに遅れた事を詫びてシャーロットにマーガレットとジェームズへの弔慰を述べた。船長室の燭台には火が点っていて、オリヴァーは私達を窓側の食卓に案内した。オリヴァーはシャーロットを見つめと、「本当にお母さんにそっくりですね」と言いながらジェームズとマーガレットとの出会いを語り出した。
オリヴァーの父親はロイヤルネービーの一
員で、ジェームズタウンを行き来していた折に現地の黒人女性との間にオリヴァーが生まれた。オリヴァーはジェームズタウンで少年期を過ごし、ニューヨークの大学を出ると父親の伝手で私掠船に乗ったとのこと。ジェームズ川を航行中にブラウン家の農園近くの浅瀬に乗り上げ、立往生しているところをジェームズに助けて貰った上に館に招待された。
折しも、オリビアがノーフォークの海運業の家に嫁に入り、ディービスが船長クラスを探していることを聞いていたジェームズはオリヴァーをディービスに紹介したとのこと。
リヴァプールで船を降りるとロンドンまで
は鉄道だった。オリヴァーはシャーロットの船酔いを心配したが、前後・左右のうねりは乗馬と比べると苦には感じなかった。寧ろ、揺れない箱のような乗り物にシャーロットは窮屈さを感じた。
アダムスの屋敷は庭も家屋もブラウン家の館の半分の広さも無かったが、高級住宅が立ち並ぶエリアの中では壮観な趣があった。アダムスの家筋やジェームズとマーガレットの家筋の他、懇意にしていた近隣の旦那衆や利害関係者などへの結婚のお披露目が終わると「シャーロット見たさ」に親戚筋が毎日のように圧し掛けた。農園の管理でシャーロットの顔や腕は小麦色に日焼けしていた訳だが、マーガレットを知る者は其の面影を重ね、知らない者は其の優雅な容姿に見とれた。
「ロンドン」
一連の騒動が落ち着くとアダムスは漸く、シャーロットをロンドンの街に連れ出した。圧倒的な経済力と軍事力で世界を覇権しているイギリスの大都市ロンドンは四百二十万人の人口を有し、金融街は格調高い建物が並び大英帝国の繁栄振りを如実にしていた。
人気のレストランや彩とりどりの品ものを
並べた店が連なるアーケード街では裕福な階層に属する家族が休日を満喫していたが、反面、街角には見るからに貧困に喘ぐ子供達が靴磨きや物乞いをしていた。急激な人口の集中化は工場や住宅の排煙などで昼でさえ暗く“霧の街ロンドン”を形成し、汚染や公害で蝕まれた貧民街を創り出していた。
そこでは貧困、失業、栄養不良が蔓延し、売春行為や犯罪、アルコール中毒、自殺などが横行していると言う。嘗て、マーガレットはロンドンには、“大人や社会からも見捨てられた多くの子供達が居る”と嘆き。“国内法では関知しなかった奴隷制を植民地では奨励している”イギリス政府の二枚舌外交と、非人道的な奴隷貿易を容認し続ける教会に失望してヴァージニアに嫁いで来た。
煙草プランテーションを営むブラウン家はジェームズが七代目で、約二千エーカーの農園と三千エーカーの雑技林には四百余名の従業員が働いていた。初代当主がインディアンの助勢で生活の基盤を築くと、ロングハウスの廻りに奉公人用の家を作り、本国から年季奉公人を募って煙草プランテーションを構築してきたとの事。初代は妻子をイギリスに置いて単身だったが、二代目は妻子を伴ってロングハウスで暮らした。館が完成したのは三代目の時で、其の頃には各監督官と執事とコックと御者を除く白人の奉公人は黒人に代わっていたと言う。
アイリスの祖先がヴァージニアに連れて来られたのはこの頃で、リッチモンドの奴隷市場の競りに掛けられて調理の下働きに入ったとのこと。ブラウン家では足枷も鎖の使用も禁止していた為、近隣の旦那衆は心配したが逃亡する場所も無い彼等は直ぐに戻って来た
し、二度と逃げようとはしなかったと言う。
更に、奴隷制度を否定するジェームズは、屋外奴隷が熟練奴隷に達すると「終身使役」の条項を削除して自由黒人にして年俸を支給した。ブラウン家の『奴隷解放』の噂は瞬く間にヴァージニア中の旦那衆に知れ渡り、ジェームズは旦那衆の集まりで再三やり玉にされたが、“農園で産まれ・共に生きて来た彼等は仲間であり・家族である”事を唱えた。
そんなジェームズに嫁いだマーガレットは、
東西南北の各農園に食堂を建て、賄い人を選任させて栄養指導を行った。其れまでは各自が家に帰って食事を摂る為、昼休みの時間を長くしていた訳だが、食堂で食べさせることによって昼の休み時間が短くなって作業効率が上がった。又、バランスの良い食事を摂る事が出来るようにもなった。
(屋外従事者の住居は土間二間で環境が劣悪だった為)マーガレットは、東西南北の食
堂傍に病棟を設けて管理を各家族に委ねた。
又、伝道所の傍に診療所を建て看護師を選任
すると、全従業員の「健康管理簿」を作成して自ら定期的に健康状態を管理した。其れは応急処置を施して重傷・重病化を未然に防ぐ為であったが、結局、街の医院に掛かる回数と入院日数が減少して生産性が向上した。
…結婚前、マーガレットはジェームズに農園の運営の問題点を訊いて看護の手法を習得しようとしたが、専門の学校も参考書なども皆無で、結局、懇意にしていた牧師の伝手で修道院に入った。二年弱の期間だったが結婚に反対する両親を諦めさせるには十分だったし、何よりも“自分がこれから為すべきこと、生きる目的を見出せた事”が嬉しかった。…
ジェームズとマーガレットの生き甲斐は“
農園の一人一人を「自活出来る人材」に育てる事“で、ジョージとシャーロットはそんな両親の後ろ姿を見ながら育ってきた、…ハリーも同じ様に育てたはずなのだが…マーガレットの最大の挑戦はアイリスをシャーロットの従者にしたことで、旦那衆はもとよりオリビアさえも初めは反対した。然し、アイリスの聡明な容姿に会って、優雅なフランス語の朗読やピアノの演奏に触れると忽ち熱烈な支持者に変わって行った。
マーガレットは黒人も白人と変わらない能力をもっている事を示した訳だが、子供が居ないオリビアは“アイリスを養子に欲しい”
と言い出す始末で、其れが叶わないと分かるとリリーを名指した。リリーも英語の読み書きは勿論の事、フランス語での会話やピアノも弾けた。
シャーロットは幼い時分からマーガレットの一挙手一動を見て育ってきた。農園で急患が出ると、マーガレットは診療所に急行して
長袖のワンピースと袖なしの白いエプロンに着替えた。そして泥まみえの衣服を裂いて患部を洗い、消毒して包帯を巻く、幹部が膿んでいる際は口で膿を吸引する訳だが、マーガレットの母親のような自然な振舞いは皆を安堵させた。実際、マーガレットの顔を見ただけで、待っている最中に快復する患者さんもいると言う。マーガレットが床に臥すと看護の役はシャーロットに継がれ、今はアイリスの一番大事な仕事になった。
ブラウン家では“奴隷”と言う呼び名は禁じていて“鞭打ち”も当主以外にはさせなかった。従い、シャーロットは其れまで“鞭打ちの刑”を見たことが無かった訳だが、其の日、シャーロットは午後のお茶会に招かれてマーガレットと近隣の農園を訪ねた。有刺鉄線で囲われたフェンスの出入口には門衛が立って居て、ウィリアムが来訪を告げると門衛は柵を開いた。馬車道は英国スタイルの屋敷
の玄関前まで真っ直ぐ続き、道端には遠目か
らでも分かる人だかりが出来ていた。
ウィリアムが速度を落としてその場を通り抜けようとしたとき「ビシッ!」と音がしてシャーロットは顔を向けた。処刑台の架台には両手を吊られた黒人男性が“鞭打ちの刑”を受けていて台の下には鞭を打つ白人を睨み付ける男の子が居た。白人が乗馬用の鞭を振り上げると子供の傍の女性が悲鳴を上げ、白人は見物する者をあざ笑うように鞭を打った。
…通常、鞭打ちの刑は一発目がヒットすると、この段階でほとんどの受刑者は失禁し、2回目では失神すると言う。意識を失ってもメディカルチェックを受けながら、鞭打ちの刑は続けられるが、鞭打ちの刑十回に耐えられる受刑者はなく、みな激痛で失神し担架で
運ばれて治療を受ける。…
黒人男性は背中から血を噴き出し、既に気は失せて処刑台に垂れ下がっていた。シャーロットが恐ろしさに震えながら泣き伏すと、マーガレットはシャーロットを玄関に置いて屋敷の中に入り、挨拶を済ませると直ぐに戻って来た。ウィリアムはマーガレットに一瞥して小走りで其の場を過ぎた。
…鞭打ちの刑は、放火や反逆行為・謀殺・獣姦・強盗・強姦・反乱・馬泥棒棒などを犯した場合に受ける罰であり、見せしめのためでもあるが、鞭打ちをされると一週間は寝たきりになり・肉に切れ目が出来て裂傷が骨格筋に達すると言う。打ちどころが悪ければ致命傷になり兼ねない。益して、妻子の見ている前でそれを行えば還って反感が増大する。、いずれにしても、人が人を鞭打つ行為は野蛮であり、非人道的なことで、マーガレットとシャーロットは顔を曇らせた。…
ヴァージニアでは“奴隷は単なる財産で人
でない”と公然と言い張る農園主や監督官が居たが、此処ロンドンでは面と向かって人種差別を公言する人は居ないものの、『種の起源』や「適者生存」の原理を人闇集団にも当てはめていた。即ち、「人闇には優等な人種と劣等な人種があり,優等な人種は適者なるがゆえに生存し繁栄する運命を与えられ、劣等な人種は消滅するのが宿命で,劣等な人種の消滅は人類の進歩を意味する」と言う。
又、ある者は「人間の起源は複数あって,黒人種は本質的に劣っており,文明はヨーロッパ人,とりわけゲルマン系ヨーロッパ人によって築かれたと主張した」又、個人と同様に,各々が特別の宿命をもっていて、「支配するように生まれつく民族もあれば,支配されるように生まれつく民族もあり、ヨーロッパ人は支配者となる宿命を創造主によって与えられていて,ヨーロッパ人に支配されることが人類の発展につながる」と言うが、シャーロットが知る限り“黒人が白人に劣るものはなく”寧ろ、計算はアイリスやリリーの方が速かった。又、支配される者を創造主が決めるならば、博愛を唱える創造主が奴隷を容認することであり、それは黒人への“欺瞞”であり、世も末だった。
「シャーロットの新婚旅行」
アイリスから手紙が届き、シャーロットは貪るように何度も読み直した。ウィリアムの訃報には息が止まるほどショックを受けたが、アイリスを逃がすためだったこと、ウィリアムがアイリスの実の父親だったことを知ってシャーロットは涙を拭きながら返事を書いた。来週、シャーロットは新婚旅行に出かける。フランス・イタリア・地中海を経由してエジプトへ行く。アダムスの父親と母親が出会った南アフリカや、アイリスの祖先が住んで居
たザンビアにも行ってみたかったが、交通の
手段が保障されないとのことだった。
初夏のロンドンを船で発ち、セーヌ川を上って「花の都」パリに着いた。万国博覧会の目玉になる高さ330mのタワーが建設中で、河畔には煌びやかな彫刻に守られたノートルダム寺院や芸術の粋を集めたルーブル美術館が横たわっていた。先般ヴァージニアに訪れた業務担当の三人組がしどろもどろに先導する中、私達はルーブルで著名な絵画などを見てから近場のホテルに入った。夕食後、アダムスは三人をラウンジに呼んで労いながら明日の日程などを話したが、行きたい場所は決まっていても(フランス語を知らない彼等では)移動の手段や宿泊の手配が決まらない。
見かねて、シャーロットはラウンジの従業員を呼んで座らせると、紙と筆記具を出してメモを取り始めた。細面に肩まで伸びたブロンドの髪が輝く目で流暢なフランス語で話し掛けると、シャーロットの容姿に見とれて廻りの客は耳目を傍立てた。そしてシャーロットの質疑に従業員が即答出来なくなると廻りの客が応え始め、シャーロットは王女様のようにお礼を述べて記録した。アダムスが自慢気に従業員にチップを渡すと、業務担当の三人は感服したようにシャーロットを見上げた。
昨今まで、パリは反乱と革命に明け暮れ、建物と建物の間隔が狭く、多層階の建物では光が当たらず、風通しが悪く、悪臭が立ち込め、非常に不衛生で病気や疫病が蔓延する街だった。産業革命もイギリスから数十年遅れたが、万博を間近にして目を見張るようなデパートやアーケード街が建ち並び路面電車も走っていた。一年のうち300日以上が晴れる温暖な気候のため、年間を通して多くの観光客が訪れ、青い地中海とアルプスの山脈に挟まれた南フランスは少し足を延ばせばブドウ畑やオリーブ畑、ラベンダー畑の美しい景色が続き、自然豊かな景観と美しい村々が続く「コート・ダジュール」は誰もが憧れる世
界有数の高級リゾート地だった。
暮れかかった浜辺を見下ろしていると、シャーロットの頬を一筋の涙がこぼれ落ちた。ヴァージニアの夏は蒸し暑く、部屋の中に居ても汗が滲んでくる。戦時中シャーロットは毎朝ベッティーが用意した水筒を下げ、ノーティーに乗って農園を走り廻った。各監督官から作業の進捗などの報告を受けながら、従業員一人一人の状態を確認するのが目的だった。年配者や病弱な家族が居る者、小さい子供が居る者など、心配な時は近寄って近況を訪ね、若い人には労いの声を掛け、気付いた事をメモって帰って来た。自然が相手の作業にはときめくような楽しみは少なかったが、汗を流し、アイリス達と食事を摂っているときの充実感は得難い想い出でだった。アダム
スが見つめると、シャーロットは堪えきれず
に涙が溢れた。
「農園の再建」
南北戦争後、プランテーションで働いていた南部諸州の黒人奴隷は解放されたが、それは名目上で実際には黒人を隔離する政策(ジム・クロウ法)は続き、土地所有の制限、異人種間の結婚の禁止、武器の所持や夜間外出の禁止、陪審員になれないなど、黒人差別は多方面に及んでいた。又、ジム・クロウ法のもとで列車は白人専用車と非白人専用車に分けられ、白人が利用するレストランや公共施設に黒人は入ることができず、白人が通う学校に黒人は我が子を通わせることができなかった。黒人も白人と同様に税金を払っていたが投票権も奪われ、とくに白人女性に声を掛け・反抗的な態度をとれば、それだけで黒人は解雇や集団リンチの対象となり、手足の切断、拷問、射撃の的、縛り首、さらには火を付けるといった残忍な仕打ちすら受けていた。しかもその場合、警察も裁判所も犯人を無罪放免にした。州政府や権力機関がKKK(クー・クラックス・クラン)など白人至上主義団体と結びつき、容認・共謀していたからだ。
そのような中、ブラウン家の農園では希望した職種の実習訓練が始まっていた。昨年、アイリスが希望を取ると壮年の男性は“料理人”で、若者は“御者や運搬”の職種が人気だった。又、既婚の女性は“仕立てやお針子”で、未婚の女性は“看護師やメイド”に希望が集中した。女性はほぼ予想通りだったが、男性の“料理人”は以外だった。一回目に希望職種に叶わなかった者にも二回目・三回目にチャンスがあることを説得して、週一回・一年間の実習が始まった。月曜日の午後は東側農園の者が、火曜日の午後は北側農園の者で水曜日の午後は西側農園・木曜日の午後は南側農園の者が其々の職場に実習に入った。金曜日は家内従事者の番で、男性は大工や鍛冶屋・粉ひき・運搬など多様な職種に分散したが、女性は外仕事の野菜栽培や園芸作業に集中した。熟練者が増えた今日、農園の作業も多少の無理は可能だった。
一ヶ月・二ヶ月が経つと午後は各職場から笑い声が聞こえて来るようになり、アイリスが顔を出すと笑い声は止んだが皆の目は笑っていた。好きな仕事を教わることは楽しく、誰かに教えることも遣り甲斐のあることなのだろうか、農園内は明らかに活気に満ちて来た。ウィリアムの事件以来、農作業に関連する資材・肥料などの買い出しは総監督官のブライアンが、それ以外の買い出しは執事のトーマスに担当させた。又、ジョージは従者のアルフレッドに乗馬を教えると、近隣農園の旦那衆や保安官と弁護士に紹介した。KKKの出没以来、黒人のみで農園を出ることを禁じ、街に出た際は言葉遣いや態度を注意させた。年配者は弁えていたが、若い人の中には(街に出ても)農園での接し方が抜けない者
が居たからだ。
エジプトからの絵葉書が届くと、間もなくしてシャーロットから大きな木箱が届いた。
大量の紙やノートの他、六角形の鉛筆と読み書き用の教材・辞書と「ガリバー旅行記」や
「ロビンソン・クルーソー」などの本が送られてきた。新しい教材は発音、綴字、分節、句読法、抑揚、強勢、品詞などが詳しく説明されていて、正しい読み書きのためには文法の学習が重要であることが強調されていた。
ジョージに聞くと“教養の高低は文法の使い方で判別されるので、それなりの処で働く為には文法を正しく学ぶ必要がある”と言う。職種別実習が行われている昨今、アイリスは子供達の読み書きに文法の学習を加え、屋外の各食堂にテキストの写しを週単位で張替えた。後日、今年から仕事に就いたばかりの十歳の女の子が「テキストの内容に解らない処がある」と言って、結局、アイリスの前に連れて来られた。父親が大工で、母親はマリアと一緒にお針子の仕事に就いている“アーヤ”だった。アイリスは自分と同じ目をしたアーヤに勉強の仕方を教え、タイプライターの打ち方を教えて執事の手伝いに就けた。
アイリスが妊娠を伝えると、シャーロットからお祝いの言葉と真っ白で肌触りが柔らかい綿の布地が送られてきた。綿は吸水性・通気性に優れ、肌触りが優しいので産着には最適だったが、ヴァージニアでは紡ぎ職人が摘んだ綿花を棒で叩き・水にさらして掬い取り・薄く延ばし丸めて糸にして、手動式の機織り機で布にするため、手間が掛かるので高価だった。然し、産業革命後のイギリスでは、
蒸気機関を駆使した機織り機で高速に生産で
きるようになった為、綿生地は安価とのこと。
ベッティーは栄養のバランスを必要とするアイリスの食卓には、白人のコックが調理した食事の他に野菜サラダや牛乳などを加えた。
妊娠後、乗馬を禁止されたアイリスは診療所の管理業務をララに任せ、屋外食堂の巡回はアーヤに任せようとしたが、軽度の運動も必要との事でアーヤと歩いて回るようにした。
シャーロットがイギリスに行ってからはアイリスがララを手伝ってきたのでお産の流れは解っていたが、お腹が膨らみ出すと不安は大きくなった。
見守るジョージの顔に不安と歓喜が交差し出した頃、シャーロットからも“妊娠”の知らせが届いた。是までイギリスでは修道院で出産をする人が多かったが、昨今は病院に行く人が増えて来たとの事でシャーロットは無痛分娩が出来る病院を選択した。マリアは二人分の産着やオムツ作りに追われたが、それは嬉しい悲鳴でもあった。
ヴァージニアの夏は蒸し暑く大きなお腹を抱えた妊産婦には堪えるが、オリビアは夏休みに入ったリリーとジャックを連れて訪れた。
浜風が吹き、見晴らしの良いノーフォークの街は気候的には住み易かったが、見渡す限りの平原と小高い丘に囲まれて育ったオリビアには館が一番だった。ニューヨークの大学に入ったばかりのリリーは朝晩テキストを抱えて涼みで勉学を続け、ジャックは牧童の真似事をして夏休みを過ごした。
一方、シャーロットはアダムスから薦められて早々と入院したが、近しい人が居ないロンドンの街を病室から見下ろすだけの日々が続き、マリアからお揃いの産着が届くとヴァ
ージニアの香りに涙した。
ジョージは万が一の為に町医者を待機させ
ていたが、アイリスは安産で丸々とした男の
子を産み、オリビアはその子を“リチャード”と名付けた。リチャードの誕生を祝う為にジョージは一家に一羽の予定で街中から七面鳥を買い入れ、収穫祭を間近にして飼育小屋は七面鳥で溢れた。川原の木立にロープが張られ、片足に紐が付いた七面鳥が運ばれて来ると、何処からともなくカラスが集まり足下まで近づいてきた。ロープに紐を繋いで頸を切り落としても、七面鳥はしばらく羽をばたつかせて鮮血を飛ばし、カラスは争うように落ちた頸を掴んで飛んで行く。川原の石でこさえた釜戸には鉄製の大鍋が乗っていて、放血を終えた七面鳥は熱湯に潜らせてから羽をむしり取られた。
一連の作業は男性の役割で、女性陣は館西
側の舗道に簡易にこさえたチャコールを並べ時間を掛けて焼いた。ロビーにテーブルを運び・オルガンを置いて花などを飾るとロビーは手是間になり、屋外従事者を座らせると家内従事者は立席になった。聖歌隊の編成員も増え・オルガンを弾ける子も増えた中で、種族別の民族ダンスが続く。例年、踊り手は中年の女性だったが、今年は若い女子が大勢参加し、囃子の音も大きく・明るく響いた。農園内での教育・実習による交流が功を為していた訳だが、白人以上に明るく・自由に振る舞う従業員を来賓者の一部は危険視していた。
「三年の年月」
三年の年月が過ぎてジョージ似のリチャードはトムの膝に乗って乗馬を始めたが、朝の外気を気遣うベッティーは上着を着せるか・脱がせるべきかと悩ましい日が続いた。一方シャーロットは二人目を宿したが、頼りにな
る人が居ない屋敷では育児の忙しさと出産の不安の狭間に居た。シャーロット似のチャーリーは活発に階段を駆け下り・庭園を走り廻って片時も目が離せなかった訳だが、アダムスが帰宅するとチャーリーはアダムスにへばりついて喋り続け、アダムスが抱き上げるまで続いた。アダムスが語り出すと小さいかわいい口は静かになって、濃いブラウンの瞳が輝く。大概はアダムスが子供の時分に母親が繰り返し読んでくれた絵本の一部であったが、シャーロットには(今は亡き)お義母さんの顔が浮かんでいた。
…父親(ウィルソン)からの援助があったものの、アダムスは学校に入るまで母親と二人で黒人だけのアパートで暮らした。黒人にも白人にも為れないアダムスは寂しい幼少期を過ごしたが、十歳になったある日、父親はアダムスを認知すると、アダムスをロンドン郊外にある寄宿学校に入校させた。休校日には母親に会えたものの、高校生になると母親は体調を崩すようになって、大学入試を前に暗いアパートで息を引き取った。
後を追うように父親も亡くなると、アダムスは大学へ行く機会を失ってロンドン市内にある(ウィルソン家の)雑貨屋で一従業員として働いたが、継母が床に臥すとアダムスは弁護士に呼ばれて屋敷に入った。法的相続人はアダムスだけだった訳だが、雑貨店の経営に疎いアダムスは執事のローガンを法定代理人に立てた。年の瀬、継母が亡くなるとアダムスは一年遅れで大学の経営学科に入り・続いて法科を学んだ。…
…ジョージとシャーロットは黒人に囲まれて生まれ、マーガレットの振舞いを見て育った。マーガレットは肌の色や職種で人を決め付けることはせず、寧ろ、そういう輩を嫌って額に汗して一生懸命働く人を好んだ。“弱い者を助け、横暴な者を懲らしめる”性格だったが、強く詰るようなことはしないで、悟らせるように優しく話すのが絶妙だった。シャーロットはマーガレット程の寛容性は持ち合わせていなかったが天涯孤独になったアダムスに家族の温もりを与え、これからの人生をどう生きるべきかを考えるとヴァージニアの大地と農園の人々が思い出された。…
従業員の農園内での教育と実習が進むと、ジョージは実習の場を近隣農園や街中の商店や、更にはノーフォークの港やニューヨークの工場へと広げた。ブラウン家と付き合いのある商店街で女子は売り子や仕立ての仕事に、男子は鍛冶屋や建具屋などに入り、港や工場で荷役の仕事に就いた者も居たが当時求人が多かった炭鉱の仕事には行かせなかった。
いずれにしても無報酬で一ヶ月間のの奉仕活動は、行った者には斬新な経験を与えてモチベーションを高めた。ジョージとアイリスの願いは、彼等、彼女達が“適正に見合った仕事に就いて、其々が幸福な人生を全うすること”だった。ジョージは“農園に残りたい者は残っても良いし、農園を出た者も戻りたい時は何時でも戻って来るように”告げた。何故なら「農園で産まれた者は家族」がブラウン家の鉄則だったからだ。
「ジョージの惨劇」
小雨が降り出しそうな朝、乾し竿を並べてトウモロコシの収穫と天日干しの準備が行われていた。遠くの山の木々は色づき始め、綿花の果実が裂けだした朝だった。街の鍛冶屋に様子見に行ったばかりのアルフレッドが血相を変えて戻って来た。東側見張台の半鐘がなり続け、トムは門衛室から出てきて馬の轡を抑えた。ジョージが階段を駆け下りて来ると、アルフレッドは「ボブが白装束に囲まれている」と言い、ジョージがトムに”弁護士と保安官に連絡をするように“指示すると、アルフレッドは「保安官は現場に居ました」と言う。トムは弁護士に電話を掛ける為に書斎に行き、ジョージはアルフレッドと二人の門衛を連れて街に向かった。“白装束”と訊いて、アイリスは得体の知れない不安を抱きながらジョージを見送った。
林道を過ぎて川沿いに続く道を真っ直ぐ東
に向かって行くと、街の手前で大きな十字路に差し掛かる。真っ直ぐ行って街を抜ければリッチモンド方向で街はずれの教会まで昔ながらの街並みが続く、右側はシャーロット、
左はワシントン方向へ行く道で新しい家々が
点在していた。
鍛冶屋は十字路の門にあって、道路を挟んだ向い側には長距離駅馬車の発着所がある。厩舎を挟んだ酒場兼宿屋の前が人だかりになっていて、ジョージが近づくと保安官が気付いて人垣を分けた。スイングドアを押すと白装束の何人かが振り向き、鞭を降り落そうとしている肉屋の主人にジョージは「止めろ!」と発した。三角白頭巾で顔を隠しているが一人は建具屋で雑貨屋と靴屋も居た。ボブは上半身裸で二階のバルコニーに掛けられたロープで両手を吊るされ、鞭打たれた背中の皮膚は切れ、出血し、失禁・気絶していた。ジョージは保安官を見据えて事情を尋ねると「ボブの言葉遣いが生意気だった」と言うが、其れだけの事でリンチに遭うのは理不尽だった。
アルコールが入り集団化した徒党は罵詈雑
言を発して煽り、甚振ることに陶酔している肉屋は目の色を変えて鞭を降った。鞭が風を切って・皮膚を切ると気絶しているボブの身体は一瞬仰けに反った。ボブは北側農園で働いていて、幼い頃に父親を亡くして母一人子一人の侘しい生活を送って来たが、漸く嫁取りが噂されている昨今だった。母親の顔が瞼に浮ぶと、ジョージは法律を遵守しない保安官を睨み付けながら上着を脱いでボブの背中に被さった。それを見てアルフレッドがジョージを庇おうとすると、建具屋と雑貨屋はアルフレッドを羽交い絞めにして制した。
代々ブラウン家は街の建設に携わってきた、街外れの教会や学校も銀行の設立にも功績があった訳だが、移住者が増えて街が拡大すれば知らない者も増えてくる。今ボブを取り囲んでいる徒党は、ブラウン家が黒人を無報酬で店に入れている為、仕事に溢れたと愚痴る契約白人達だった。ジョージが踏ん張る為に脚を開くと、一発目が脇腹をえぐり血しぶきが飛んだ。本当に打つとは思わなかった保安官は止めに入り、雑貨屋と靴屋も続いたが廻りの徒党は「打て!打ち付けろ!」と更に煽る。徒党は「二発!」「三発!」と連呼して煽り、四発目が打ち付けられるとジョージは片脚を着いて堪えた。五発目、鞭は頸に巻き付いて鞭を曳いた瞬間、頸から鮮血が吹き出し、ジョージはその場に倒れた。
建具屋と雑貨屋は慌てて血を止めようとしたが頸動脈から噴き出す鮮血は止まらない。保安官は医者を呼びに行かせたが、仰向けのジョージの身体は大きく仰け反ると痙攣を繰り返した。肉屋屋は事の重大さに気付いて鞭を放そうとしたが手が震えて離れない、左手を添えて漸く放すと転がるように逃げて行った。雑貨屋と靴屋もアルフレッドを放して逃げ、廻りの白装束達もその場を離れて(隠れ家の)教会に向かった。
ジョージがボブの身代わりになる事を想定していなかったアルフレッドは慟哭しながらジョージを抱き抱えた。町医者は人だかりをかき分けて押し入ると、血だまりの中に居るジョージの顔を見て驚いた。この街を立上げて維持してきた“ブラウン家の当主がKKKに殺された”となれば、これからこの街で起こるであろう事が危惧されたからだ。ジョージの遺体とボブを医院に運んで行くとの事で、アルフレッドは付き添って外に出た。二人の守衛は変わり果てたジョージの姿に驚愕し、顔を見合わせながら馬に乗り東側見張台を駆け抜けた。本日二度目の半鐘がけたたましく鳴り響き、連呼するように西側・南側・北側見晴台の半鐘が鳴り渡たる。
アイリスはジョージが出掛けた後、妊娠していることに気付いた。それは数日前から少量の出血に見舞われていたこととリチャードの時と同じ症状が続いていたからで、マリアに告げるとベッティーはマタニティワンピースを取り出して来て“コルセットを外せ”と言う。リチャードの後からメイドが入って来て、“奥様、おめでとうございます!”と言いながら踵の低いシューズを差し出した。リチャードが「赤ちゃん!赤ちゃん!」とはしゃぎ回ると、アイリスはリチャードを抱きとめ、「此処に居るんだよ」とその手を取ってお腹に当てた。子牛や仔馬の分娩を見ている
リチャードは神妙な面持ちでお腹をなぞり、アイリスが「弟と妹、どっちが欲しい?」と
訊くとリチャードははにかんで「妹が欲しい」
と応えた。
けたたましく半鐘の音が東西南北から鳴り
渡り、作業を中断して全従業員がロビーに集
まって来た。伝令を受けたトムとトーマスが
ベッティーとマリアを伴ってアイリスに報告すると、アイリスはお腹に手を遣りながら虚空を見つめた。ジョージはボブを守る為に身を挺した訳だが、その尊い行いが“誰の為、何の為”なのかはアイリスには痛いほど伝わってきて涙は止めどなく溢れてきた。幼いリチャードとお腹の中の子を抱えて“自分は是からどう生きるべきのか“…渦巻く虚空の中
でジョージは「強く生きろ!幸せになれ!」
と、アイリスに叫んでいた。。
…KKKはマニュフェスト・デスティニーを掲げてプロテスタントのアングロ・サクソン人のみがアダムの子孫であり、唯一、神に選ばれた民であると主張する選民思想団体である。…
マーガレットもプロテスタントではあったが、人種差別的発言を繰り返す街の牧師とは決別して隣教区の牧師と親交を温めていた。白装束達が教会に逃げ込んだと聞いて、アイリスはトムに「教会を壊滅する」ことを指示した。マリアは信徒からの報復を危惧したが、ブラウン家の寄贈した教会で徒党を組んでいることがアイリスには許せなかったし、今後、農園の者に手を出さないようにするためにも威厳を見せる必要があったからだ。
トムは即座に賛同して、玄関前に集まった
男性陣に「弔い合戦」に行く事を伝えた。(
東西南北の見張台の両端には戦後ジョージが南軍から譲り受けた機関銃が据え付けられていたが)トムは武器庫からガトリング銃を出して二台のキャラバンに積み込んだ。白い布で覆ったランドーを先頭にアイリスとリチャードが乗ったカプリオレが続き、十台の荷馬車に分乗した男性陣を正装させてスペンサー銃を持たせた。
カプリオレとランドーが十字路の手前で止まると、一台目の馬車から喪服を着た十人の男性が掛け降りて街路の両側に並んでスペンサーを構えた。二台目・三台目と百人が教会
迄の街路を埋め尽くすと、荷馬車に代わって
キャラバンが教会の前まで進んで停まった。
街人が店の中に隠れて通りを覗く中を、カプリオレとランドーはゆっくり医院の前まで進んだ。トーマスは馬止に手綱を巻き付けるとカブリオレから降りるアイリスを両手で支え、出迎えた医者はマタニティワンピースのアイリスに気付いて慌てて階段を降りた。
アルフレッドは寝台に縋って慟哭していたが、アイリスの顔を見るなり取り返しのつかない罪悪感に頭を垂れた。ジョージの遺体は血のりが拭き取られて頸には包帯が巻かれていたが、血染めになったズボンは脱がされて白いシーツが掛けてあった。アイリスはリチャードを抱き上げるとその手を取ってジョージの頬をなぞらせ、胸の前で組まれた手に触れさせた。ボブを助けるためとは言えリチャードを残して“さぞかし悔しかったであろう…”堪えきれず泪がこぼれ落ちたが…アイリスは声を殺してお腹を抑えると、子供を宿したことをジョージに伝えた。
…当時、白装束は彼等が独断で決めた時刻
以外に外出する黒人を鞭で叩き、夜中には「
ナイトライダー」と称する団員が馬に乗って脅迫、暴行を加えた。更には、これに批判的な白人までもが敵として暴力を振るわれると言う。日頃「神の絶対愛」や「隣人愛」を唱えている彼等が、利害や信条・人種・立場の違いで、何故、こんなにも冷酷になれるのだろうか?一人一人は善人であっても、徒党になれば理性を失うのではないか?そうであるなら善人面をして徒党を組み、社会的地位で悪行を煽る者が悪魔の棟梁ではないか。…
電話を掛けたが弁護士は未だ顔を見せない、アイリスはランドーにジョージとボブを乗せ
るとカプリオレに乗って教会の前に進んだ。
アイリスが合図をするとトムは2台のキャラバンの幌を上げて機関銃の銃身を教会に向けさせた。(連射速度毎分二百発の)機関銃が火を噴くと、木造の尖塔は忽ち崩れ落ちて連射を受けた鐘は柵まで転がって行った。
銃声が止むとトムが操作するキャラバンを先頭にカプリオレとランドーが続き、荷馬車を挟んでもう一台のキャラバンが威嚇するように後尾についた。けたたましく空気を切り裂いた機関銃のように、ブラウン家の当主の逝去は一気に街人の平安を砕いた。制裁に加わった者は悪夢から覚めた“ユダ”のように項を垂れ、鞭を打った者は震える手を抑えながら逃げるように街を出た。
アイリスは車列が街を出る前に弁護士に出会い、保安官と牧師の解任を通達して教会の再建を申し出た。元来、街はリッチモンドと農園の間にあって、ブラウン家の拡張と伴に発展してきた。当初、各店は自給自足をしながらブラウン家が必要とする物を揃えていった訳だが、近隣に小規模農園が広がり住民が増えて来ると其々が専門の店を構えるようになったと言う。然しながら、未だ、教会を寄
贈し、保安官の給金を払っているのはブラウ
ン家だけだった。
トーマスが電話で伝えると、オリビアは悲痛な叫びで暫く声が出なかった。KKKによるリンチから従業員を守る為だった事を知ると再び慟哭が続き、電話口でディービスが”州保安官への調査依頼とシャーロットへの連絡を申し出て直ぐ館に向かう“と言う。ブラウン家当主逝去の報は瞬く間に州内に知れ渡り、早々と弔問者が訪れた。その多くの人達は“何故、当主が黒人従業員の為に犠牲になったのか“と懐疑的であったが、マーガレットやジェームズを知っている方々にはその行為が理解された。
代々、ブラウン家の当主は「先住民への報恩」を受け継いできたが、先住民に恩を返せない今、報恩は形を変えて従業員に注がれてきた。即ち、主従の関係でも農園の運営は出来るが、人生の一瞬一瞬を共に分かち合うものでなければ花を愛でる喜びも薄れる。大きな喜びの為には“主従関係は家族のように”がブラウン家の信条だった。
翌日、オリビアとディービスは馬車を飛ば
してやって来たが、見張台の両側に据え付けられた機関銃(普段は防雨布でカバーされている)に驚いて御者は馬車を停めた。窓を開けてオリビアが顔を出すと、守衛の一人が立ち上がって挨拶して見張台の上に居る守衛に“オリビア奥様の到着”を告げ、上の守衛は半鐘を鳴らしてオリビアの到着を伝搬した。半鐘の音は「緊急を知らせるもの」や「集会を知らせるもの」、「主人や客の到着を知らせるもの」などがあって、音のリズムや回数によって細かく使い分けられていた。それを玄関前に居る守衛が聞き取って執事やメイドに知らせる仕組みで、馬車が玄関に着く前にベッティーと執事が迎えに出ると後からメイド
達が駆け付けてきた。
棺は未だ準備されておらず、ジョージの遺体はベッドに寝かされていた。オリビアの顔を見つけてリチャードがまとわりつくと、オリビアはリチャードを抱き上げて頬ずりした。(オリビアは先月にもリチャードの誕生日祝いを口実に尋ねたばかりで、子供の無い二人にはリチャードの成長が生き甲斐だった。)リチャードをディービスに預けるとオリビアはアイリスの対面からジョージの頬を撫で大粒の涙を流した。ジェームズとマーガレットの逝去も早すぎたが、ジョージは未だ三十代前半だった。我が子のように可愛がり期待を寄せてきたジョージには運輸業は勿論のこと、昨今始めた観光業も譲渡する手筈だった。
大学を出たリリーは事務所の経理全般を担当して経営の業務も勉強中で、ジャックは倉庫の管理を担当していた。農園からも荷役や運搬作業の実習に来るようになった昨今、急な訃報にディービスとオリビアは失意の中で馬車を走らせて来たが、ふと見るとアイリスはマタニティワンピースを着ていた。オリビアは哀切の中に希望を灯したかのようにアイリスを抱き締めた。勿論、屋敷にはリリーとジャックが同居していたが、初老の二人には血の繋がりが恋しかった。
事件の処理は連邦保安官と弁護士を中心に行われてトムも証人として呼ばれたが、農園外に銃器を持ち出した事と機関銃を使用して教会を破壊した事が問題だった。然し、弁護士は加害者への制裁を求めない事と銃器を持
ち出した事・教会を破戒した事への謝罪を述
べて教会の再建を申し出た。(其れは保安官と牧師の解任が条件だった訳だが)彼等の給金がブラウン家から出ている中では問題は無かった。
翌々日、ヴァージニアの地方紙は事件の詳
細を伝え、アイリスが告別式でリチャードの手を曳いている写真が載った。又、新聞はアイリスが第二子を妊娠していることと、ブラウン家当主のジョージがディービス運輸の同族であったことを加えた。ジョージの逝去はアイリスをはじめ館で同居してきた者の胸に大きな風穴を開け、ブラウン家で働いてきた者達には其々が拭えない後悔に包まれていた。
ボブは幼い時に父親を亡くし母親も病弱な為に暗い少年期を過ごしてきたが、同じ種族の彼女が出来て笑顔を見せていた昨今だった。そんな事情を知っているジョージは、ボブが漸く掴んだ幸せを守ろうとしたのだろうか。農園の各家庭では祖父母又は両親から聞かされてきた館の旦那様と奥様の数々の善行やブラウン家で働いていることへの感謝が語られ
ていた。
ブラウン家では農園でも館でも手を抜く者
はなく、各自は自分の役割を楽しく一生懸命こなしていた訳だが、全ては旦那様と奥様の手の中だった。生まれた時から墓場まで代々の奥様は親身に寄り添ってくれたが、今般の出来事は農園で働く全ての者にブラウン家の魂魄を痛感させた。ボブの母親が「息子が大変な事を…」と玄関で泣き伏すと、アイリスは母親を抱き起して「ジョージの想いに応えて必ず幸せになって欲しい」と伝えた。
従者になってからアイリスはピアノやフランス語の他シャーロットの一挙手一動を見て学んできたが、年端も行かないシャーロットの威厳に満ちた態度と誰からも好かれる人柄は真似が出来なかった。矢張り其れは、ブラウン家に産まれなければ得られないものだった訳だが、ジョージの妻になって館や食堂・診療所の運営に携わるようになると、マーガレットの振舞いが身に沁みて分かるようになった。“農園の者は我が子”と想う以外に農園を守る術は無かったし、マーガレットとジョージが亡くなりシャーロットが去った今、館と農園を守るのはアイリスの双肩に掛かっていた。
アルフレッドは三日三晩泣き通していたが、アイリスは(年上の)アルフレッド書斎に呼んで”従者の務めを果たしなさい“と思いっきり頬を叩いた。驚いて見上げるアルフレッドに「貴方はジョージが選んだ従者なのよ!しっかりして」と言い放った。翌日、アイリスは家内従事者を集めて”アルフレッドが農園の管理を行う事“を告げると、アイリスは自ら東西南北の農園に出向いて各監督者にアルフレッドへの権限の委譲を告知した。
ディービスが“ジョージの訃報”を自社の通
信網でリパプールの支店に伝達すると、支店長は大株主であるジョージの逝去を自らシャーロットに伝えに行った。突然の一報にシャーロットは気を失い、執事のローガンはかかりつけ医と旦那様を呼びに行かせた。シャーロットは着付け薬で目を覚ましたが、身重の心身は悲嘆に崩れ落ちて嗚咽の声が続く。アダムスが駆け付け、もうすぐ四歳になるチャーリーは驚きと心配の涙目でシャーロットを見つめた。シャーロットはチャーリーを抱き寄せて「ママとヴァージニアに帰ろう!、アイリス小母さんが居る農園に帰えろう!」と、決意の涙を拭いた。
ジョージが農園の者を庇って亡くなった今、シャーロットにはブラウン家の一員としての
責務があった。其れをアイリス一人に押し付けることは出来なかったし、馬車や二階建てのバス、地下鉄が走り廻るロンドンの街で生きるよりもヴァージニアの大地で農園の人々と一緒に生きる方が自分達らしいと想う昨今だった。アダムスは逸るシャーロットをなだめながら、ローガンにヴァージニア行を指示した。客室で待っていた支店長はシャーロットからアイリスへ
の返信を受け取ると、アダムスが手配した馬車に乗ってローガンと一緒にリパプールに戻った。
ローガンがヴァージニアに着く頃、アルフ
レッドは事件から立ち直ってジョージの魂が乗り移ったかの如く農園の運営をしていた。
冬の到来を告げる冷たい風が吹き出した日
々、リチャードを乗馬に連れ出すトムと上着を着せようとするベッティーとの小競り合いが毎朝繰り返されていた。リチャードは四歳の誕生日を間近にして馬場内での乗馬を卒業し、トムが並足で先導する後ろをシルバーに跨っていた。林道を行き交う人々はリチャードの愛くるしい姿を見上げ、シルバーを驚かさないように見送る。
告別式でリチャードはジョージの棺に花束
を手向けたが、幼さゆえに父親の逝去を実感出来なかった。リチャードはアイリスの慟哭の涙に驚き。ベッティーとマリアが涙を流して抱き締める度に不安を感じた。館にはベッティーとマリアは勿論のことララとトム夫婦も同居していた訳だが、告別式後、暫く館に留まっていたオリビアがノーフォークに戻ると、アイリスは長い夜をジョージとの想い出と一緒に過ごした。
新任の保安官が挨拶に訪れて街のKKKが
解体したことを告げたが、トーマスはあの日以来、街で購入していた全ての物資をリッチモンドから調達していた。例年、この時期は肉屋から七面鳥を買い付け、仕立屋からは各作業衣用の布地を入手していた訳だが、KKKに加わった者・其れを容認した者・見て見
ぬふりをした者さえも、農園の人々には許せ
なかったからだ。
暫くすると街の名立たる商店は一軒一軒と
閉じて、店先には「売却」の札が貼られた。すっかり寂れた街には半農半商的な小規模商店だけが残って、報告を受けたアイリスは弁護士とトーマスに街の再建を指示した。トーマスは売却物件を全て買い終えると、街の各所に看板を立てて「貸店舗抽選会」と「街再建の説明会」を保安官事務所で開催した。参加者は賃貸料の安さに驚き、採算が取れてからの返済で良いとの優遇に頭を垂れた。但し、KKKに加担した場合は、契約を破棄することが条件だった。
再建に際して街人からの要望を訪ねると小麦粉の入手が困難なので“農園の粉を分けて欲しい”と言い、小作農や日雇い作業に従事している者の為に“紡績工場を建てて欲しい”と言う。小麦は例年、園内で余った分をリッチモンドに出していたので問題は無かったが、街の人の分まで製粉する為にはグリーン親子だけでは人手が足りなかったし、製粉機の稼働時間と万が一を考慮すると水車式製粉機をもう一台追加する必要があった。
…綿花栽培を始めた年、ジェームズは手動の紡績機一台をイギリスから手に入れ、建具
職人に組立てさせてマリアに綿糸を作らせた。
マリアは綿花から異物を除去すると機械に入れて、繊維をほぐし・引き伸ばして繊維束に撚りをかけながら巻き取って綿糸を作った。
何度か試行錯誤を繰り返しながら強く・細い糸が作れるようになるとマリアは手動式の編み機を駆使して其の綿糸でシャーロットの肌着を作った。肌触りが柔らかい肌着は吸水性や通気性にも優れ・耐熱性にも優れていて、
ズ達の下着も依頼した。…
…手動式の紡績機で綿糸を作り編み機で布を織るのは時間を要する作業だったが着替え用の肌着を作っている最中、オリビアが“イギリスから取り寄せた”と言う、綿の下着を抱えて館を訪れた。其れは(マリアが作った物より)織り目が細かく、丈夫で凹凸もなく透けるような感じもなかった。産業革命が起こったイギリスでは①混打綿 ②梳綿 ③練条 ④粗紡 ⑤精紡 ⑥捲糸の紡績の作業も“自動機械で大量に生産される”と言う。当時、ジェームズはイギリスの生産現場を見に行こうとしたが思いは叶わなかった。…
「街の再建」
ローガンがオリビアとディービスに付き添われて館に着くと、彼は悔やみを述べながら預かって来た手紙を差し出した。シャーロットの手紙には“二人目の妊娠で暫く弔いに行けなくなったが、子供達をヴァージニアで育てたい事。農園の管理・運営が大変だろうが、必ず帰るからそれまで頑張って欲しい”と言う。“必ず戻る”とのシャーロットの決断に、アイリスは堪えていた涙が溢れ出た。夕食後、アイリスはオリビアとディービスの他、トムとトーマス、アルフレッドとローガンを応接室に集めて、是までの「街再建の進捗状況」や「紡績工場の建設目的」について報告した。
近々、街の代表者を集めて教会建築の協議を行う手筈も整ったが、紡績工場の建設は皆目見当が付かなかった。先日も、マリアが手動式の紡績機を駆使して綿糸の作り方を見せてくれたが“人の手を借りずに動く機械をイメージすることは出来なかった”ことを話すと、ローガンは“旦那様は工場を見学した事がある”と言う。
アダムスの雑貨店は紡績工場で使用される木製のボビンや包装紙などを納入していて、旦那様は“紡績工場の全工程を見学した事”を話していたと言う。紡績工場の建築と各生産工程を構築する為には専門的な知識が必要だったし、各工程の機械操作を熟知して作業を指導出来る経験者が不可欠だった。アダムスの助勢が得られる事が分かると、アイリスの顔は輝いた。ローガンは話の内容をメモするとアイリスに確認しながらアダムスへの報告を書き直していた。
ディービスはジェームズ川でも運輸業を行っていたが、アイリスが紡績工場を設立すれば資材や製品の運搬が不可欠だった。ディービスは早速、紡績工場への出資を申し出て、オリビアは“シャーロットが戻って来るかもしれない”との朗報に心が弾んだ。
全ての話が済むと喪服のアイリスは皆にワ
インを勧め、久し振りにピアノの前に座った。夜の帳の中でソナタを曳き始めると出番のメイド達が入口を塞ぎ、アイリスの演奏を初めて聴いた者は滑らかな指使いに感嘆した。…シャーロットが戻って来てくれたらどんなに心強いか…アイリスの瞼には道半ばで倒れたジョージの無念が蘇り、気が付くと「ピアノソナタ十二番」を繰り返していた。マリアはアイリスの異常に気付くと顔を覗き込んで演奏を止めさせ、メイドを手招きして身重のアイリスを部屋に戻した。
ロンドンの冬はヴァージニアよりも暖かかったが、木漏れ日は弱く直ぐに雲に隠れた。産業革命後、イギリスでは生産能力に優れた蒸気力紡績工場への移行が進み、水車式紡績工場は影を潜めていた。アダムスは閉鎖間近な水車式紡績工場を見つけ出して稼働中の工場を従業員ごと年内の期限で買い上げると、ヴァージニアに赴任が可能な紡績技師と設備の管理者及び作業者を募った。シャーロットは今直ぐヴァージニアに戻りたかったが身重の身には紡績の作業を習うのが精一杯で、シャーロットは大きなお腹を抱えてロンドン郊外のテムズ川河畔を奔走し、傍らではチャーリーが危なげに走り廻っていた。
郊外には新しい工場が立ち並んでいたが街角にはホームレスや作業服を着た子供達が増えて、アダムスは“児童労働の最たるは炭鉱だよ”と言って顔をそむけた。産業革命は蒸気機関の導入や分業によって工業化を急速に進めたが、急激な経済の発展は経営者と労働者の貧富の差を拡大した。そして、「資本主義経済・大量消費の時代」が幕を開けて「金銭・物質的な豊かさを求める社会」が到来した訳だが“人の為に吾身を捧げれば良い報いが得られる”と教わって来たシャーロットには人の不条理の上に成り立つ繁栄や幸福感には抵抗があった。
ヴァージニアでは白人と有色人種を分離す
る人種分離法(ジム・クロウ法)が合法化されて、交通機関や水飲み場、トイレ、学校や
図書館などの公共機関、又は白人の経営するホテルの宿泊やレストランでの食事の提供を拒まれた。更に「ジム・クロウ法」の下では、黒人と白人の結婚を事実上違法とする州法が認められたほか、教育の機会が与えられなかったことから識字率の低い黒人の投票権を事実上制限し、住宅を制限することも合法とされた。又、KKKによる黒人へのリンチや殺人、黒人の営む商店や店舗、住居への放火と警察による不当逮捕や裁判官による冤罪判決などが多発したが、加害者である白人は何の罪を負うこともなく、それらは数百人の観衆の中で行われることもあった。
それらのニュースは尾ひれをつけてロンドンの巷にも流れてきたが、シャーロットは無慈悲な白人の傲慢さに身体が震えた。嘗ては、大恩ある現地人(インディアン)から土地を奪い、プランテーションの運営に当たっては未開の大地から獣を狩るように黒人を連れて来た。白人とは“何と傲慢な人種”なのだろうか、益して“博愛”を唱える教界が奴隷制を容認する矛盾をシャーロットはどうしても理解することが出来なかった。又、多くの戦死者を出した南北戦争にしても、其れが何の為だったのかと考えると、其れは黒人を虐げた“罰”だったのではないかと思われた。
新年早々、シャーロットは女の子を出産し、アダムスはヴァージニアの母のように育って欲しいと“マーガレット”と命名した。春が来ればシャーロット達は紡績機一式と一緒にヴァージニアに還るが、一緒に行くことになった紡績技師の提案で“水車式機織り機”も四台持っていくことになった。建築予定地は農園と街の中間にある川沿いに決まり、アルフレッドは農園と街から人を集めて川を堰き止めて、水車用の疏水路の工事をしていると言う。アダムスが送付した図面で近々工場の建設も始まる予定だったが、シャーロットに
は紡績工場の粉塵対策も気掛りだった。
一雨ごとに花の彩が増える日々、アダムスはシャーロットに急き立てられて紡績機や機織り機を梱包させた。晴れ間を縫って長蛇の荷馬車が港に向かい、ディービスが手配した船に荷物を積み込んだ。翌日、波止場には紡績技師を囲んで紡績工の三人と機織りの二人
の女子とその家族が集っていた。
身重のアイリスはマリアの心配を余所に毎朝、農園に出掛けて食堂や病棟の管理を行っていた。流石に乗馬は辞めて馬車を走らせていた訳だが、大概、隣には秘書見習いの女子が居て、希にリチャードがまとわりつく。リチャードの成長に反目するようにベッティーは日増しに年老いてロッキングチェアに掛けている時間が長くなったが、リチャードの“
お出掛け”を察知するとベッティーは瞬く間に立ち上がった。
(街のKKK党員は一掃され)トムは世襲制であった門衛の業務を輪番制にして館外の業務に就けたが、未だ、東西南北の見張台には機関銃を据え付けていた。シャーロットの帰郷が知れ渡ると人々の待望は日増しに高まっていったが、農園の者には”何故ジョージが身代わりになり、何故シャーロットが帰郷
するのか“が身に沁みていた。
「シャーロットの帰還」
シャーロットがノーフォークに着く前日、
トムとアルフレッド達は馬車と十台の荷馬車を連ねて出迎えに出た。然し、積み荷を積算すると荷馬車が足らないとのことで、ディービスは荷馬車を追加手配した。翌日、アルフレッドを先頭にトムの手綱でオリビアとシャーロットを載せたランドーが続き、ディービスと紡績技師、設備の管理者と紡績工達の馬車が続く。その後を荷馬車が列をなし、最後尾の荷馬車の両側には護衛が付いていた。
一行はリッチモンドで小休止すると川沿いの一本道を急いだ。暫くすると雑木林を拓いた開拓地に縦長に並んだ煉瓦積みの工場棟と木造の食堂と倉庫が現れた。それらの建屋を横目に一本道を駆けて行くと、草の根も見えないほどに掘り返えされた畝と整備された畔が見渡す限り続く。芽吹いたばかりの楡の葉と咲き誇るヴァージニアストックの仄かな香りを嗅いで、シャーロットは「農園だよ、農園に戻ったのよ」とチャーリーを抱き寄せた。
紡績工達は馬車の窓から見える広大な大地に驚き、馬車を降りて玄関に立つと更に唖然とした。小高い丘の上に建つ白亜の館と整備された庭園、玄関前の両袖に勢揃いしたメイド達の真ん中で喪服を着たお腹の大きいアイリスが出迎えた。紡績工達がメイドに促されてロビーに消えると、ベッティー達はアダムスとシャーロットを迎えた。シャーロットがリチャードを抱き抱えて“只今”と言うと、頷いたアイリスの眼から泪がこぼれ落ちた。
各部屋から紡績工達のくつろいだ笑い声が
響き、メイド達がトイレや食堂の場所、シャワーの使用方法などを説明していた。アイリスはシャーロットと秘書見習いに支えられながら階段を上がり、その脇をリチャードがチャーリーの手を曳いて駆け上がって行った。
応接室や書斎室がある踊り場南側をアダムス達にと思っていたが、シャーロットは「今、館の当主は貴方なのよ」と断られ、嘗てジョージが使っていた部屋にアダムス用の書斎机を運んだ。アダムスは雑貨店経営の権限を本社のマネージャーに委譲してきたが、年二回の経営会議に出席する必要が有ったし、月例で経営報告を受ける権利があった。又、売却も考えたが、ロンドンの邸宅には執事以下最低限の頭数を残していた。シャーロットに就いているメイド兼乳母はオリビアがノーフォークから送った侍女で、夕食を待たずにチャーリーが眠気に襲われるとメイドはチャーリーを抱き抱えて部屋に戻った。
白いテーブルクロスの片側には紡績技師と
紡績工達が座り、対面にはディービスとアダムス夫妻とトムとトーマス、アルフレッドが
顔を並べた。メイド長に支えられてアイリスが入って来るとディービス達は立ち上がって当主を迎え、給仕達は二手に分かれて椅子を引いた。アイリスが船旅の労をねぎらって杯を掲げ、ディービスが“乾杯”の音頭を取った。見るからに高級な器が並び、次から次へと出て来る料理はロンドンのレストランでも味わえない御馳走で、更に、デザートは(ディービスが持参した)季節外れのスイカだった。食後、応接室にはウイスキーやワイン、自家製の果実酒を乗せたワゴンが並び、メイド達が紡績工達の注文を聞いて回る。
ディービス達にもグラスが行き渡ると、シャーロットはアイリスを呼び寄せて久し振りに連弾をした。シャーロットの華麗で品のある旋律とアイリスの知的で優雅な伴奏が融和して部屋を包む。シャーロットはベートーヴェンの他、シューマンやブラームスの楽譜もロンドンから持って来たが、身重のアイリスは「エリーゼのために」を弾き終わるとシャーロットに後を頼んで部屋に戻った。
「紡績工場」
明日から紡績機と機織り機の組立工事が始
まる為、アイリスは設備責任者の下に建具職人のジョンソンと粉曳きのグリーンと十人の作業員を出した。紡績工達は二ヶ月後には帰国する予定だったため、紡績機や機織り機に不具合が生じた際は自分達で直さなければならなかったからで、幸い、農園は綿花の移植作業の時期で男手は余っていた。又、園内には紡績や機織りを希望する女子も多かったが、(例え貧しくとも白人が黒人と同じ職場で働くかが危惧されたために)今般は白人だけを雇用した。
マリアは手動式の紡績機と機織り機を駆使して、ブラウン家の方々の下着や産着を作ってきた。然し、片方の手で手回しホイルを回して紡錘を回転させ、他方の手で締め木を操作するので熟練を要した。又、機織り機で均等な編み目の布に仕上げる為には、足縄と腰をうまく引いたりゆるめたりしなければならない為に大変だった。其れが、水車式の機械では”全自動で綺麗で早く出来る“と言う、手動で紡績や機織りの作業を遣って来たマリアには信じ難かった。
水力紡績機は3対のローラーによって粗糸を引き延ばす機構と、フライヤーの回転によって撚りをかけてボビンとフライヤーの回転差を利用して巻き取る機構からできている。
粗糸の引き伸ばしは、粗糸を巻いたボビンとローラーとの間ではなく3対のローラー間で行うため均等に粗糸が引き伸ばされ、この部分で糸切れを起こすことは少ない。
又、紡績機には8個の紡錘が組み込まれていて、ホイルが回るとベルト式の伝達機構を介して8個の紡錘が同時に回転する。紡錘には精紡ボビンがセットされていて精紡糸が巻き取られる。フライヤーとボビンの間に働く強い張力が糸切れの原因になり細い糸の紡糸は困難であったが、水車を用いることによって、必要とされる人間の労働量が減り、スピンドル数が劇的に増加すると言う。
組立て・仮設置を終えるといよいよ水車と
の連結作業で、水車は胸掛けタイプのため流入水面と水車軸の高さを合わせる必要があった。又、水車の回転速度を一定に保つための調速機も付いてきたが、アルフレッドはグリーンのアドバイスを得て工場の上流に調整池を設けた。即ち、川の水を水車で汲み上げて調整池に注ぎ、引込水路を通して水車を回して川に戻す仕組みを構築した。従い、調整池堰ゲタを調整するだけで水車への流入量を一
定に保つことが容易になる仕組みだった。
設備の責任者は組み立てた紡績機のホイルを手で回し、各スピンドルの回転やキャリッジの動きを何度も確認して歯車を固定するとロープを介してラインシャトルと水車軸を連結した。“ガラガラ!”と軽快な音を立てて空のスピンドルが回転する、水車の回転にムラが無いことを確認すると連結を外した。
機織り機には鉄製の歯車やシャフトが使われていて、主軸シャフトのベルトを手で回すと上下する綜絖の間をシャトルが左右に行き来した。たて糸が断線した際の停止機構が無く、木管に巻かれたよこ糸も直ぐに無くなるため常時監視する必要があった。主軸シャフトに水車軸を連結すると、綜絖とシャトルと筬がぶっつかり合うように激しく動いた。責任者は主軸のプーリーを大きいサイズに替えて主軸の回転を遅くした。アルフレッドは責任者から予備品を預かると木製の歯車や木管の一部をジョンソンに渡し、鉄製のシャフトやプーリーは鍛冶屋に持って行った。予備品に余裕はあったが、万が一を考慮すると図面を取って置く必要があったからだ。
年の瀬(先月)、紡績工と職工の募集を依頼
すると、弁護士は街の中央に臨時の事務所を構えて事務員を常駐させた。新年早々、応募者があったとのことで報告を受けると小作農家や日雇い従業員の家族が多いとのことで、中には十代前半の子供も居たとのこと。採用の条件は“七時まで弁護士事務所に集合して十七時まで働ける者”だけだったが、“農繫期には仕事を休めないか、半日だけではだめか“などの質問が多かったとのこと。又、年収を訪ねると大半の者はブラウン家の農園従事者と同程度で、農園従事者には衣食住を提供していることを考慮するとその差は歴然だった。話には聞いていたが彼女達の困窮している姿や読み書きが出来ない事を知ると、アイリスはトーマスに契約白人の家族を優先して採用するように伝えた。
「出産」
チャーリーとリチャードが朝から走り廻っ
て館は再び活気に溢れたが、ベッティーは勿論のことマリアにも二人の小悪魔を追い駆ける体力は無かった。アイリスは専属のメイドを付けて面倒を見させて、秘書見習いのマリーに絵本の読み聞かせを始めさせた。シャーロットの同居はアイリスに心底から安心をもたらし、命がけのはずの出産も“気が付いたら終わっていた”状況だった。電話を掛けると翌日オリビアは護衛を伴って遣って来て、ゴッドマザーを買って出た。オリビアは口をつぼめて眠っている色白の女の子を、ベッティーから抱き取ると”エリザベス”と名付けて頬ずりした。
ディービスは三日遅れの週末に“エリザベスの洗礼式”に合わせて来館したが、キングストンでは西部に向かう白人や自由黒人と中国人の家族に出くわして異様を感じたと言う。
嘗て、第二・第三のゴールドラッシュを求めて人々は西部へ消え行ったが、先頃は“西部開拓法”の下に西を目指していた。ブラウン家以外に主だった資産家が居ない街では保安官事務所の運営もブラウン家に委ねられていた訳だが、保安官は治安の悪化を理由に保安官補佐の増員を願い出た。ブラウン家では農園からの収入で足りない分をディービスからの分配金で補ってきた。農園の従事者は其の事を知っていたし、ジョージの件もあって“
館にはこれ以上迷惑を掛けられない“が彼等
・彼女達の心情だった。
洗礼式が終わるとディービスとオリビアは運輸会社の今後について話しをしたいと言い、
マリアの他、ベッティーとララにも声を掛けた。海運業を営んできたディービスはオリビアと結婚する際に持参金代わりにジェームズから投資を受けて会社を盤石にした。昨今はジェームズ川の観光船も手掛けていたが、会社の経営と経理はリリーに任せ、船舶管理統括責任者のオリヴァーの他、保守管理責任者や運航管理責任者、船員の雇用・配乗管理責任者などを配置していた。然し、直系の親族を持たない二人にとっては先々が不安で、「
チャーリーかリチャード又を養子にしたい」と言う。
又、リリーとジャックが世帯を持っても邸
宅に同居させるので「安心して預けて欲しい」と言うのである。「ジャックは支障なく働いていますか」と不安気に問うララにディービスは“荷役作業は黒人の者が担っているので倉庫の管理を任せてきたが、ジャックの能力なら船舶の保守業務の方が適正なのかもしれない。造船所での研修か専門の学校に行かせるつもりです”と応えた。そして、“実質的にはリリーが経理・経営の責任者で”ディービスはサインをしているだけだと笑った。
リリーは各部門が作成した伝票や請求書を各帳簿へ記帳して決算に必要な書類を作成すると伴に経費の精算や給与・保険等・売掛金や買掛金を管理して月次決算や年次決算を準備して経営の意思決定を支えていた。又、法律や会計基準の変更に対応するためには常に学び続ける必要があったが、其の為かリリーは担当の若い弁護士と懇意にしているとのこと。リリーも年頃でディービスは密かに二人が結ばれることを願ってきたが、ジム・クロウ法の下で“彼が両親をどの様に説得するのか”が心配だった。
不安気にディービスを覗き込むララを横目に、シャーロットは「叔父さん、リリーを養女にして結婚させれば良いんでしょう。誰が会社を継ぐかは、子供達が大きくなってから決めれば」と言い出すと、アダムスが“シャーロット、僕、海運業を学んでみたいんだよ”と言い出した。
雑貨店の商売は色々な地域から様々な物資
kokoを調達して各支店に供給しなければならない訳だが、大量生産・大量消費の昨今、安価で大量輸送が可能な貨物船の迅速性が問題だった。取分け、船積みの待機日数が不規則なため船積みの時が来るまで商品をストックしなければならず、アダムスはニューヨークとボンベや上海などに小さな倉庫を有して(又は借用して)いたが、それらの倉庫の維持費も容易ではなかった。益して、保管が長期に及ぶ場合は商品の品質低下が危惧されるため、割高な輸送手段を用いることになる。
アダムスの話を聞き終えるとディービスは「客船であれ貨物船であれ、利用する人がもっと便利になるシステムが必要だね。アダムス君、遣ってみるかい!」と尋ねるとアダムスは目を輝かせたが、傍でシャーロットが「
紡績工場はどうするの!」と言い、間髪を入れずにオリビアは「シャーロット!貴方が遣れば良いでしょう」と言う。チャーリーもリチャードも幼い今、アダムスが来てくれるだけでもディービス達には心強い援軍だった。アイリスはお産を境に農園の運営をシャーロットに任せていたが、アダムスがノーフォークに行くことが決まるとベッドから離れた。
「紡績工場の開所」
開所式の朝、街の臨時事務所には四十数名の女性が募り、その中には十代前半の子供達も居た。街入口の十字路に幌馬車が止まると彼女達は不安気に乗り込み。工場に着くと彼女達は取り敢えず紡績工と職工に分けられたが、後日、適正に応じて入れ替えると言う。
子供達を含めると四百名以上になる農園の運営を見て育ったシャーロットにとって四十名の婦女子を扱う事は容易であったが、見る限り貧困状態にある白人の彼女等を“如何様に指導するか”が難題だった。現に、弁護士事務所の調査では彼女達の半数は読み書きが出来なかったと言うが、白人のプライドを持った彼女等が素直に“読み書き”を習うだろうか。シャーロットは工場傍に設けた食堂兼休憩所に教材を積んで、休憩時間に自由に学び・持ち出せるようにした。シャーロット達が新工場に着くと、時間を合わせたように街の代表者と保安官と牧師も参集して“開所式”が始まった。施主のアイリスと工場長のシャーロットが挨拶を終えると、司会のトーマスは施設責任者のアルフレッドを紹介した。
四十名の婦女子の後ろには建具職人のジョンソンと粉曳きのグリーンも並んでいて作業
の指示を待っていた。紡績工場の西側には①
綿繰りろくろと、②ドラム・カーディングと、③よりこの工程の為に丸太を削ったテーブルが四セット並んでいて、綿繰りろくろ工程の頭上とドラム・カーディング工程の頭上には
太い動力シャフトが設けられていた。各々の動力シャフトからは其々4本のベルトが下がっていて、動力シャフトは水車の軸にベルトで接続される。
綿繰りろくろ機は実綿から種を取り出す機械で、テーブルの縁に取り付けられている。紡績技師の指示で三人の紡績工は其々の綿繰りろくろ機の前に立つと、左手で実綿をロールに入れながら右手でハンドルプーリーを正転(又は逆転)させた。実綿の白い繊維部分がロールを通過してテーブル上に残り、茶色い種と粒状の塊がロール手前の箱に落ちた。
ドラム・カーディングは綿をほぐして綿のシートを作る機械で、全面が短い針で覆われたドラムをハンドルで回すと大小のドラムが互いに擦り合いながら回転する。手前の径の小さいドラムに原綿を入れると後ろの径の大きいドラムが綿を引き延ばしながら逆転して綿を絡めた。紡績工は金属のひっかけ棒などを使用してドラムから引き延ばされた綿を剥がしてふんわりで透けた綿のシートをテーブルに広げた。そして、先の尖ったピンセットでシートのごみを除去すると、シートを二つに折って再度ドラムに掛けて延ばす。
よりこ巻きの工程は引き延ばされたシートを何枚かに重ねて転がすように細い竹の棒に巻き付ける作業で、よりこの太さに応じてシートを追加して重ね巻きをする。
紡績技師の合図でグリーンが引込水路に水を流すと水車の軸が速度を上げて回り出し、連結用のギア・レバーを入れると綿繰りろくろ機の二つのローラーが内側に擦り合って回り出した。実綿を手でローラーに近づけると実綿は一瞬にローラーに飲み込まれて白い繊維の塊が出てくる。と同時に、ローラーの入口にはワタ毛に包まれた小さい種が残ったが、種はろくろ機の振動と次の実綿との接触で手前の箱の中に落ちた。各紡績工がギア・レバーを切ると、紡績技師はこの作業の注意点(
指を挟まれないように指を内側に丸めて実綿を持つこと)と、作業のポイント(ローラーの間隙調整方法)を実演した。
ドラム・カーディング機の大小の木製ドラムには針布が巻かれていて、ギア・レバーを入れると擦り合った手前の小さいドラムは時計回りに、大きいドラムは反時計回りに動き出した。紡績工は綿繰りろくろ機から出て来た白い原綿の塊をドラムの幅に合わせて均等に並べると、T字型の棒でガイド用の仕切り板に沿ってドラムの回転に合わせて押し込んだ。小さいドラムの1㎝手前にはストッパー
が付いていて、T字型の棒はそこで止まろ。
ドラムの周速は大きいドラムの方が速く、小さいドラムから原綿を剥ぎ取ってドラムに巻き付ける。その際、紡績工は糊付け刷毛で針布を撫でて巻きを整え、巻き取りの状態を診て原綿を追加した。巻き取りが終わると紡績工はギア・レバーを切って、手でドラムを回しながら引っかき棒を使ってシート状になった綿を外した。何度か引き延ばしを繰り返しながらゴミを除去していくと、ふわふわで透けていたシートは繊維を整えた真っ白な均一の厚みのシートになる。ドラム・カーディング機も動力シャフトの下に4台並んでいる。
よりこ巻きはカーディングされた綿のシートを細い竹に巻いて筒状の篠綿を作る工程で、紡績機の綿筒の形状に合わせて巻かなければならない。細長いカーディング.テーブルの半分はよりこ巻き工程で、テーブルの上は滑り止めが施されていた。
「紡績工程」
工場の東側は紡績工程で、太い動力シャフトの下には2台の紡績機が設置されている。水車軸は窓下から飛び出て天井近くに設けら
れた太い動力シャフトにベルトで繋がり、動力シャフトは2台の紡績機へ繋がっていた。
2台の紡績機の前(よりこ巻き工程との間)には低い棚が有って原綿が入った綿筒が並び、紡績機の後ろにはより糸を巻き取ったボビンを並べる棚がある。紡績工が二手に分かれると、監督官は紡績機の説明を始めた。紡績工はささらで原綿を筒の中に押しむと、筒の中から原綿を摘んで引き上げたが、綿の繊維は直ぐに切れた。
次に紡績工が原綿を摘んで指でよじりながら引き上げると、原綿は糸のようになって切れずに巻き取り部まで繋がった。ガイドローラーを通して糸を巻き取りボビンに巻き付け、伝動ギアを引き外して手動側に切り替える。手回し用のハンドルを回すと二十個の綿筒と糸巻きボビンは一斉に回り出し、原綿をセットした筒からは攀じられて繋がった繊維が糸となって次々とボビンに薪散られていった。
全部の綿筒に原綿を詰めて巻き取りボビンにセットすると、紡績工は手動ギアを戻して
ベルト式プーリーを動力シャフトに繋いだ。
「ガラガラ!ガラガラ!」と騒音が部屋中に響き、細いベルトで回転するコマの上に乗った綿筒が回転しながら小刻みに上下した。綿
筒はより糸が太くなると筒が持ち上がってコ
マから離れて(撚りを失って)糸を細くする。
こうして紡績機は糸の太さを一定に保つ訳だ
が、コマの荷重は重りの移動で可変出来て糸の太さを調整している。細くて強い糸を作るのが理想であったが、其れは経験を要するとのことだった。綿繰りろくろ4台とカーディング機4台と紡績機2台を熟練工は十五人で
稼働すると言うが、ブラウン家では工場の採算よりも街の住民との柔和が重要だった。
…ジョージの事件以降、街にはKKKの姿は消えたが南部では黒人差別が合法化されていて、黒人は白人に対して敬称を用い、帽子を取って話さなければならない一方、贅沢な暮らしをみせびらかしてもいけないし、黒人男性が白人女性と関係を持った場合、黒人男性はリンチや公開処刑を受けた。北部ではこのような黒人差別は行われなかったが、工業化が進む中で黒人人口比が高まるにつれて、差別的感情が強まり、劇場やホテルなどでは黒人が隔離されることが社会通念化していった。即ち、法律は白人を保護するものであり、黒人には法の下での平等な保護を受ける資格がないと考えられていた。従い、(著名な雑貨店の経営者であっても)白人の妻を持つ黒人は疎まれるため、トーマスはアダムスの護衛のために二人の白人を雇った。…
昼近く、マリアは工場に顔を出して、昼食
の準備が出来たことを告げながら紡績機を眺めていた。一人で同時に二十本の糸を取る機械に興味があると言うが、マリアの横顔には
“苦労して習得した技能や手間をかけた仕事が機械に取って代わる時代が来た”との寂しさが見受けられた。
紡績技師の説明が一段落するとシャーロットは彼女達を食堂へ行くように促しながら、綿埃による健康被害を説明してマリアが作ったガーゼを配った。朝食も取らないで来た者が大半なのだろう、彼女達は競うように食堂に入って行った。静かになった工場の片隅で、建具職人のジョンソンは出来上がったばかりの棚に預かった補修部品などを整理していて、(金属の部品など)図面の無い物は図面を作って管理すると言う。ジョンソンは粉ひき機や馬車の修理も担っていたので、シャーロッ
トは人員の補充を打診した。
農園で採れた綿を使い、綿布の卸先も決まっていたため採算の心配は無かったが、シャーロットは貧困に喘ぎ・病的な顔をした彼女達の行く末が心配だった。農園では幼少の頃から読み書きを教え、年端のいかない子供にも見合った仕事を与えて育ててきた。従い、得手不得手を知り尽くした農園の者を使えば工場の立上げ・運営も容易なのだが、街の住民との融和を考慮すると仕方がなかった。“
ジョージ様を見殺しにしたかもしれない白人達なのに…“と言う者もいたが、其れが、ブ
ラウン家に生まれた者の宿命だった。
縦長の食堂には十人掛けのテーブルが五脚あって、縦に四脚と横に一脚が並べてあった。
其々のテーブルには既にパンを入れた籠があり、各席にはジャガイモと野菜サラダの取り皿が配膳されていた。各人は入口で暖かい豆のビーフシチューが入った皿とコーンスープが入ったコップを手にして席に着いた。シャーロットも来賓者や紡績工達とビーフシチューとコーンスープを受け取って横のテーブルに着いた。イギリスからの紡績工達は二ヶ月後には本国に戻るため、食後、シャーロットは雇用した彼女達の中から“読み書きが出来る者”を選んで、各工程の責任者に任命しなければならなかった。見習いの二人の子供は食堂の片隅に置いた“読み書き”の教材に興味を示し、シャーロットは声を掛けた。
l
雨の日でも紡績のボビンの運搬が出来るよ
うに紡績工場の東側と機織り工場の西側には屋根付きの渡り廊下が設けてあり、食堂と紡績工場の中央入口も渡り廊下で繋がっている。午後は機織機の説明会で、私達は廊下を渡って機織り工場に入った。入口壁側の棚には巻き取りボビンを入れたトレーが並び、その前の左側には経糸用の糸車と右側には小さい緯
糸用の糸車が4セットずつ置かれていた。
「機織り工場」
経糸用の糸車は金属製の台座にハンドルが
付いたフライヤーとネジを切った片持ちのシャフトがあって、シャフトに巻き取り用ボビンの軸穴を通して手締め用の特殊ナットでボビンを固定する。台座と一体になった送り出し部の車軸に紡績のボビンをセットして、ハンドルを回して巻き取り用ボビンに巻き取る。
緯糸の糸車は金属のハンドルが付いた台座にシャトル用のもっか(小管)を組み込み、台座と一体になった送り出し部のボビンからもっかへ糸を巻き取る。ハンドルを一回回すと、もっかは二回転するため巻き取り作業は忙しかった。巻き取ったもっかはトレーに入れて機織り機傍の棚に運ばれ、経糸用のボビンは機織り機前の棚に並べられる。
手前に二台・奥に二台の機織り機が並び、
天井の二本の動力シャフトから其々の機械へ
ベルトが下がっていた。窓際の太いベルトは
壁を突き抜けた水車の軸に繋がり、其々の機織り機の前には経糸用の繰り出し架台がある。繰り出し架台には上段5列・下段5列のアングルがボルトとナットで組み立てられていて、
アングルの左右にはボビン軸穴を上から差し込む為のローラーが百本ずつ施されていた。
即ち、一台の繰り出し架台から二百本の経糸
が螺旋型のフックを通じて機織り機前部のローラーに掛けられる。この機織り機は経糸を四百本まで織ることが出来て、その際は繰り出し機を二台並べるが綜絖や筬に糸を通す作業が大変とのこと。
動力シャフトが回り出し、ベルトのレバーを引くと紡績機は「ガチャガチャ」と定期的な音を立て筬受けが前後して綜絖枠が上下した。手動の織機を扱ってきた者には信じられないようなスピードと動きで、ある者は床に膝を着けて黒い塊を下から眺めていた。暫くすると、急に機械が止まり、レバーが外れてベルトが空回りした。緯糸が無くなると自動停止装置が働いて駆動ベルトが外れるとのことだが、経糸は切れても自動停止しないので「常時監視する必要がある」と言う。又緯糸は三・四分しか持たないのでシャトルをしょっちゅう代えなければならないが、昨今、ロンドンではもっかの緯糸が無くなると自動でシャトルを交換する機織り機が出来たと言う。一通り説明を終えると紡績技師はシャーロットに初品を贈呈し、シャーロットは真っ白な布地を頬に当てた。赤子のような柔らかい肌触りの中から綿実油の仄かな匂いが漂った。
館に戻り、シャーロットは途中で中座したアイリスに白い布を渡しながら明日からの作業を相談した。紡績工達は二か月後には本国に戻るため、技術・技能の習得がどこまで進むかが心配だった。マリアがリチャードとチャーリーを連れて入って来ると“技術的には難しい処は無いよ”と言いきり、紡績の作業は均一の太さで出来るだけ細く・強い糸を紡ぐことだが、マリアの経験では綿筒に詰める“よりこ”の質と詰め方に注意する事と天秤の錘の調整ではないかと言う。又、機織りは経糸の切断を見逃さない事とシャトルの交換を素早く行う事ではないか、いずれにしても“経験を積めば済むこと”だと言う。
農園内にも紡績や機織りを希望する女性は多く、一昨年は、「紡績工募集」に農園からも五人の若い女性が弁護士事務所を介してニューヨークへ行ったが、白人も居る職場で”奴隷扱い“を受けたと言う。それを聞いてアイリスは農園に戻すことも考えたが、今は未だその時期ではなかった。
ブラウン家の住人は園内だけでも生きていけるが、若い人達には新しい世界と出会いが必要だった。又、読み書きが出来ることもあって、西部の炭鉱や農園などにも請われて行くのだが、男子の大半は「奴隷扱いをされた」と言って戻って来た。人の出入りが多くなれば農園の運営は難しくなるが、それでもブラウン家では“我が子の成長”を応援し、農園の方々も“家族の為に”とカバーし合ってきた。実際、農園を出る際・戻って来る際もアイリスは間に弁護士をいれて双方に問題が残らないようにしてきたし、何時戻って来ても良いように衣食住の確保をしてきた。
ブラウン家の紡績工場に募った白人女性達
は、朝食も満足に摂れないような貧困に喘いでいた。僅かばかりのパンの欠片をかすめて作業衣の中に入れる者、小さい肉片の入ったスープを飲みながら涙を浮かべる者、彼女達も子供の為・家族の為に必死なのだろう。“
黒人は白人から仕事を奪い、文字を学び・大学に入って更に白人に恐怖を与えている”と言うのが巷の日雇白人の言い分だった。ジョージの件があって以来、アイリスは農園から街に出していた実習生を戻したが、「何故、一生懸命に生きることが、何故、黒人であることが罪なのか」昨今、“黒人は神に呪われた人種”と公言する聖職者が現れたと聴いて、シャーロットは新任の牧師を食事に招いた。
「カナンは呪われよ」
食後、シャーロットは「何故、“愛”を説くキリスト教の信者が、先住民を殺し・黒人を奴隷にすることに痛みを感じないのか」と尋ねると、若い牧師は旧約聖書の「ノアの箱舟」の物語を語り出した。ノアにはセム・ヤぺテ・ハムの三人の息子が居て、…ノアはハムの子供カナンに“カナンは呪われよ!奴隷となり、兄たちに使えよ“と告げた。…そして、セムはユダヤ人とアラブ人の祖、ヤペテは白人の祖、ハムは黒人の祖と解釈されて、
”黒人を奴隷にすることが正当化された“と
言う。…どうして裸を見たら呪われるのか、それが黒人奴隷を正当化するのにどう結びつくのか、更に「黒人を奴隷にすることを神は許している」と言うが、余りに幼稚過ぎてシャーロットは唖然とした。
然し、牧師はシャルル・モンテスキューの「法の精神」を挙げて更に付け加えた。「黒人は、足の先から頭の先まで真黒である。そして彼等は、同情してやるのもほとんど不可能なほどぺしゃんこの鼻の持主である。極めて英明なる存在である神が、こんなにも真黒な肉体のうちに、魂を、それも善良なる魂を宿らせた、という考えに同調することはできない」、「…われわれが彼らを人間だと想定するようなことをすれば、人はだんだんわれわれ自身もキリスト教徒でないと思うようになってくる」と記述していると言う。アダムスの人間性、アイリスの知性と能力、トムやウィリアムの忠誠心を見て来たシャーロットは
sa唇を噛み締めながら牧師の話しを聞いた。
…ブラウン家の館はリッチモンドからジェ
ームズ川を遡った広大な中州の高台にある。嘗て、其処にはインディアンのロングハウスがあったが、地縁もゆかりもない土地で初代の当主は“インディアンの助け”を得て生き延びてきたと言う。黄金を目当てに入植した白人達がインディアンの部族を襲撃して殺戮と略奪を繰り返す中、マラリアに罹ったジェームズ達を助け、トウモロコシを分けて、煙草の作り方を教えてくれたのは彼等だった。
初代当主は煙草の初出荷で得た金銭でアルコールや煙草、布類・パンなどを幌馬車に詰めて高台にあるインディアン部落を訪ねると、彼等は“東のエリアで白人達の襲撃が頻発している為テキサス方面へ移動する”と言う。若き当主は三日三晩酒を酌み交わし、アトラ
ンタまでの道を涙ながら彼等を見送った。…
プランテーションの拡大とともに黒人の従業員の数も増えていったが、ブラウン家では彼等を拘束する足輪もなく“鞭打ち”も禁止していた。何故なら、農園を逃げ出したにしても黒人の彼等が安住出来る場所は何処にも無かったし、鞭に打たれずに三食を頂ける農園は天国だったからだ。若き当主は“恐怖よりも、楽しく働かせる”ことを選んだ。
ブラウン家の代々の当主は初代の志を繋いできた訳だが、マーガレットが嫁いだ翌年に“涙の道”が勃発した。ジェームズは烈火の如く怒り・嘆き悲しんだが、其処には“奴隷解放”を認めない南部人への怒りもあったのだろう。…インディアンは、「全てを分け合う」との理念で飢えた白人達に食料や水を与えて援助したが、…白人は恩あるインディアンから土地を奪い“恩を仇で返した”又、白人は“愛を唱えながら”肌の色の違いで人を差別していた。その様な白人にならないようにジェームズとマーガレットは私達を導いた。
イギリスはアメリカに先駆けて“奴隷解放”
を謳っていたが人種差別は似たようなもので、
夕食時、当主のアイリスがシャーロットの上座に座ると紡績工達は唖然と二人を見合った。
アイリスが館の主人であるとともに、街の地主であり、牧師と保安官の任命権者であることを知ってもアイリスが黒人の女性であることには変わりがなかった。トーマスはアイリスが農園を出る際は必ず護衛を付け、館の東西南北には機関銃を据え付けさせていた。工場の建設は農園と街・黒人と白人の緩衝を図る為でもあったが、毎日、外で働いている者には羨望の作業で、“虐げられてきたのに白人を助ける必要があるのか”と、声を挙げる者も居た。益して、ジョージを殺められた恨みは消えることは無かった訳だが“復讐は復讐を生む”我が子を守って亡くなったジョージの魂魄を抱いてアイリスは貧しい白人に手を伸べた。彼女達は“恩を仇で返す”かもしれない、然し、それがブラウン家だった。
マリアとララがマーガレットとエリザベスを抱いて、リチャードとチャーリーがその後に着いて入って来た。遊び疲れた二人は眠気に襲われながら“お休み”をすると、シャーロットはアイリスを誘ってバルコニーに出た。今夜は満月で、二人のメイドがワインとグラスを置いて行くとシャーロットは月に語り掛けた。「ねぇ!アイリス、世の中には“どこで生まれ、誰であろうと、皮膚の色がどのようでも、クリスチャンは神の前では平等である”と言う神父も居れば、ダーウィンの“種の起源”を歪曲して“創造主は支配するように生まれつく民族と,支配されるように生まれつく民族をつくった”と言う人達も居る。貴方は聖書の言葉をどう想う」…
ワインを注ぎながらアイリスは「シャーロット!私、是まで何度も聖書を読み返し、牧師にも訊ねてきたけれど“アナンは呪われよ”の箇所は納得できないし、記述の全体に合理性が感じられないの、でも“神の存在”は信じているのよ」…何故信じられるの…と問うシャーロットに、…あの日の朝、ジョージを見送って直ぐに、アイリスは“妊娠”に気付いてジョージの帰宅を待ちわびていた…「ジョージの急逝の報は“天地がひっくり返るような”絶望を感じたが、遺体に対面するとジョージの顔は既に“妊娠”を知っているかのように微笑んでいた」と言う。
そして、…犯行に加わった者は悪夢から覚めたように逃げ去り、傍観者達はこれから起こりうる事態に震えていた。鐘塔が崩れ落ち、銃弾が鐘を弾き飛ばす、…棺が農園の林道に掛かると人々は駆け寄ってジョージを悼んだ。ジョージが何故身代わりになったのかは街の白人達には予想も出来なかったが、館の当主にとって農園で生まれた彼等は“我が子”だった。我が子を守るのは親の務めであり、結局、其れは館を守り・アイリスを守る為だった。其れが分かった故、アイリスはお腹の子と伴に静かにジョージを見送った。…と言いって「神は聖書の中でなく私の胸の内に居るのよ」と言い切った。
「縫製工場の建設」
マリアが言った通り紡績も機織り作業も大変なようには見えなかったが、紡績工達が帰国すると生産量は一気に半減した。紡績の糸の太さやシャトルの交換などに手間取っていた訳だが、白人が働く職場に農園の者を入れることも出来なかった。利潤が得られなければ紡績工場の継続が危ぶまれる事を話すと、マリアは“縫製工場を造って下着を市販してはどうか”と言う。布地で卸すよりは利潤が得られる事は確実だったし、農園の女性陣からも“工場で作った布で下着を作りたい”との要望が出ていたからだ。
シャーロットが布地の月間生産枚数を告げると、マリアは枚数をこなす為には約三十人の裁縫師が必要だと言う。アイリスは「今は十人しか出せない」と応えたが、農園の仕事の拡張になる事は確かだった。
結局、伝道所傍の梨の木を切り倒して、縫製用ミシン二十台分と裁断スペース・食堂などを含んで縫製工場を建てることにした。又、縫製用のミシンはアメリカでも製造しているとのことで、シャーロットは縫製機の選定の為にアダムスにミシンの発注を依頼した。縫製作業の希望者は大勢居たが、マーガレットから農園の一人一人の情報を教わっているアイリスは年齢や身体的事由などを優先して人選した。
翌々週、アダムスは二人の護衛を伴って帰って来た。幌馬車には三種類のミシン機が乗っていて、ニューヨーク―からノーフォークまでは鉄道で運んだと言う。チャーリーとリチャードへのお土産は木馬で、マーガレットとエリザベスにはフランス製の人形だった。アダムスはディービスの下でノーフォークにおける船舶運輸の仕組みを築くと、次はニューヨークの街をイギリスから呼び寄せた執事のローガンと一緒に精力的に回っていた。
…是まで、アダムスの雑貨店では万の物を揃えて客の需要に応えていたが、それでは売値が高くなるばかりで利潤も薄かった。大量生産・大量消費の時代、売れそうな物を大量に安く仕入れて、大量に安く売らなければならなかった訳だが、その為には必要な時に必要な物を運ぶ手段が不可欠だった。…
間もなくロンドンに立つと言う多忙なアダムスに合わせるように、マリアは3台のミシンの選定を行った。マリアが使っている手回
しミシンに比べれば足踏み式はいずれも重宝
だったが、マリアは操作の簡単な機種を選び、
交換及び補修部品をリストアップした。紡績工達は帰国したが、久し振りのアダムスの帰宅で食卓は賑やいでアダムスの口からリリーの名前が飛び交った。
ディービスの事務所は、港に面した一面がガラス窓で、西側入口には待合所兼受付があって窓側の長いカウンターには各部署の立て札が立っている。担当部署の机の後ろには各責任者が港を向いて座っていて、東側のガラス張りの部屋は港側が応接室でその隣が社長室だった。社長室の入口には秘書兼タイピストの机があり、ソファーを置いた奥がディービスの長机、壁側のファイル棚を背にした長机がリリーの席だった。卒業前はタイプも手伝っていたが、卒業後は社長室の住人になってディービスをサポートした。
持ち前の才知に経済学部での教養を身に付けたリリーの仕事は完璧で、ディービスは“
各帳簿が読みやすくなった”と言い、事務所の各部門の責任者は“指導・指示が明確だ”と褒める。夕食時、アダムスがリリーに「雑貨店を遣ってみるかい」と言うと、ディービスは即座に「この子はうちの娘だからやれない」と言って、リリーの顔を覗いて目を細めた。ジャックはニューヨークで機関士の勉強をしているとのことで不在だったが、今、二人は法的にもディービスの養子になっていた。黒人の自立は容易ではなかったが、一昨年はブラウン家の農園から二人の女子をオハイオ州の大学に行かせた。ジョージア州にも黒人女性を受け入れる大学が出来て、昨年は秘書見習いのトリーシャをアトランタへ行かせた。
紡績工場が軌道に乗るとシャーロットは工場を新婚のアルフレッドに任せて、木枯らしの吹き始めた農園を駆け回った。幼子を抱えるシャーロットをトムとベッティーは止めたが、シャーロットは「外の方が性に合っている」と言って天気の良い日はチャーリーを抱いて駆けていた。人種差別が横行している時分、黒人だけで街に行かせることは出来なかった。アイリスは街での買い出しや護衛を兼ねて、(弁護士事務所を通して)地元から白人二人を募集するようトーマスに指示した。
綿花の収穫が始まると縫製工場の立上げと相まって厨房はてんてこ舞いの騒ぎで、ベッティーも朝から厨房に立っていた。普段は東西南北の農園から食事を取りに来て自分達で配膳の準備をするのだが、収穫の時期は館の給仕やメイド係が各食堂へ運び・配膳・片付け(皿洗い)をして戻ってくる。縫製工場の従事者や守衛・御者など館で働く者は大食堂だったが、この時期ばかりはアイリス達も大食堂で食した。
…綿花の収穫が終わり、初冬の木漏れ日が伝道所の屋根を照らしていた。リチャードが生まれる前、日曜日の朝は度々ジョージと農園を散策した。乗馬に慣れていないアイリスはジョージの前に横乗りする訳だが、庭園内を並足で歩む時は恥ずかしく・林道を早足で駆ける時は顔を背けてジョージの背中に回した腕に力が入った。…
伝道所の入口にかかると後ろの縫製工場のガラス窓に人影が見えて、アイリスは馬から降りて工場に入った。窓から差し込む薄明り
の中で、秘書見習いのトリーシャの母親(タ
ーナ)が一心不乱にペダルを踏んでいた。「
おはようございます、今日は休みでしょう!」と声を掛けると、ターナは手を止めて「家に居ても遣る事が無いから」と会釈した。マリアには“娘が大学に行かせて頂いているから恩返しがしたい”と言ったとのこと。
他のミシン台には縫い掛けの下着が置いてあったが、ターナはマリアに教わった厚手の作業ズボンを縫っていた。アイリスは「無理をしないで午前中で止めて下さいね、昼は食堂で一緒に食べましょう。時間まで来ないと迎えに来ますからね!」と声を掛けた。トリーシャは幼い時に父親を亡くし、母一人子一人の生活を続けていた。身体の弱い母親を支えて診療所に来た時、トリーシャは不安な顔を浮かべながらノートを開いていた。
アイリスはトリーシャを秘書見習いにして、読み書きを教えながら雑用をさせてきた。そして帰宅する際は、ベッティーが残った食材やパンなどを渡していた。大学の学費は半端ではなかったが、学費と寮費はブラウン家が工面して小遣いは本人持ちにした。白人でさえ大学に通うことが困難な時代、アイリスはブラウン家の財政収支が許す限り彼女達を支援してきたし、園内の子供等の学習支援を続
けてきた。其れは、マーガレットの遺志であり、マーガレットへの報恩だったからだ。
申し訳なさそうに会釈するターナに念を押して、アイリスは北側の菜園に手綱を取った。昨日、咳をした老夫婦が診療所を訪れ、奥さんは咳だけだったがご主人は熱もあった。以前、東西南北の病棟にはベッドを置いていて
二十四時間看病人を付けていたが、(街の医院の看護婦の大半が黒人女性になると)黒人の入院を認めるようになり、病棟は廃止して診療所も五時迄にした。従い、ララ達の交代勤務は無くなり、急患が出た際はトーマスが看護婦を伴って医院に連れて行くのだが、園内の年配者には敷居が高いようだった。
老夫婦の家は菜園の傍にあって、入口脇の
薪小屋には楡の香りが漂っていた。日曜日を含め老夫婦の昼食と夕食は館から届ける訳だが、朝食や湯沸かし・暖房などで薪は必要だった。ブラウン家では農閑期に開墾地や不要巨木の伐採を行って各家庭に配給する。男手のある家ではその丸太状の原木をノコギリで玉切りして斧で割って使用するが、男手の無い家は親戚や近所が助けていた。又,火種用の小枝や枯葉集めは子供の役目だった。
メイドの手間を減らすため館では石炭を使用するようになったが、揺らぐ炎が恋しい者は薪も使用していた。アイリスが馬を繋いで家の中に入ると、ベッドに入っていたのは奥さんの方で、旦那さんは鼻水を垂らしながらお湯を沸かしていた。アイリスは二人の症状を診て薬の有無を訊ねて室内の環境を確認すると、館に戻ってメイドに薬を持って行かせた。是までも身寄りの無い方の自活が困難になると、館に近い建屋に住まわせて世話をしてきた。然し、生まれ育った家を離れたくない方が殆どで、アイリスは書斎の机にメモをしたものの誰を説得に行かせるかを悩んだ。
突然マリアが入って来て「あんた、帰っていたのかい!エリザベスが泣いているよ」と言われて、泣き声の聞こえた部屋に入ると、シャーロットはネグリジェの胸紐を解いてエリザベスに授乳をしていた。シャーロットはアイリスよりも細身であったが、乳が豊富でエリザベスは満足気に乳輪から離れた。シャーロットに礼を述べてエリザベスを抱き上げると、アイリスはターナの件と老夫婦の件を相談した。即座に「ベッティーに頼めば良いでしょう」とマリアが横やりを入れる。ベッティーと奥さんは同じエリアの同年代で、子
供の頃は良く遊んだらしい。
日曜日の朝、チャーリーとリチャードが起きて来て、シャーロットとアイリスに代わる代わる挨拶をする。マリアが「おばぁーちゃんには」と言うと、二人は一緒に両側から抱きついた。エリザベスが生まれるとリチャードはチャーリーの部屋で一緒に寝起きするようになった。メイドははしゃぎ回る二人を寝かせるのに苦労したが、疲れ切った二人は一度寝付くと夜泣きもせずに朝まで熟睡した。
シャーロットにはハリーの生き様、ハリーの最後が拭えなかった。人は同じ両親から生まれ、同じ様に育っても真実の親の愛、真実の親の願いを受け取れなければ道を誤ってしまうのではないか。不安気にチャーリーとリチャードを見るシャーロットに、アイリスは「トムに任せれば大丈夫よ!」と吐き捨てた。男の子は男の子らしく“強く・優しく”育って欲しいが、アイリスには男の子の育て方は分からなかった。であれば、ジョージがトムに鍛えられたように、トムに預けるのに限る訳だが…トムの前にはベッティーが立ちはだ
かっていた。
アルフレッドが紡績・縫製工場を担当して
出来高制を加味すると生産量は一気に上がったが、それでもロンドンから来ていた紡績工達と比べると70%位だった。実綿を卸していたリッチモンドの卸商に下着を納入すると、ニューヨークでは飛ぶように売れているとのことで生産を煽られる日が続いた。紡績工場では綿繰り工程とカーディング工程での作業の遅れが顕著で、午前と午後で作業員を交代させてもみたが解消出来なかった。
シャーロットは綿繰り機とドラム・カーディング機を追加発注して新たに作業員を募集した訳だが、現在処理している実綿は農園で摘み取った量の約半分だった。実綿のみと下着では単位量当たりの価格が桁違いで、シャーロットは工場の増築などについて(昨年ロンドンから来ていた)紡績技師を呼んで今後
の運営方法などの指導を求めることにした。
「工場の増設」
翌々週、紡績技師は館に着くと早速、紡績と機織り工程を視察して各作業の不合理点を指摘した。そして縫製工場を見学した彼は夕食時にマリアを目の前にして縫製工程を褒めちぎった。個人の能力に応じた(段取り、パーツ縫製、組立て、まとめ)作業の分担や工程間の無駄を考慮したフロアーレイアウトが素晴らしいと言う。翌日、紡績技師はアルフレッドに工場の増築と機織り機の改造や、増産になった場合の人員の配置などについて教示するとロンドンに戻った。ロンドンでは機織り機のシャトルを自動で交換する装置が出来て機織り機の生産が画期的に改善したとの事、アルフレッドは何通りかのパターンを想定して提案書を作成した。
街の白人女性と結婚すると言うアルフレッドにアイリスは街での生活を薦めたが、アルフレッドは園内に住みたいと言ってトーマスの隣の一軒家を希望した。トーマスは混血の女性と厩舎傍の一軒家に住んでいて、隣の家が空いていた。アルフレッドには黒人を庇って亡くなったジョージの姿が焼き付いていて、ジョージに代わってアイリスと館と農園を守らなければならないとの責任感が刻まれていた。お嫁さんのアグネスがアルフレッドと挨拶に来て「主人と一緒に恩を返して行きたい」と言い、アイリスは読み書きが覚束ないアグネスを秘書見習いにした。買い出し兼護衛で雇用した二人の白人は毎朝街から来て夕方には帰宅したが、“白人専用”の無い園内での食事やトイレの共同使用も拒否せず、早出などの際は館に泊まって協力した。
感謝祭が終わり下着の代金が入金されると、アイリスはシャーロットに旅行を提案した。
利益相当分を分配しても余剰金が出るのと、
園内に閉塞感が漂っていることが見て取れたからだ。以前、従業員は買い出しなどでリッチモンドにも行かせていたが、人種差別が横行する昨今は街に行かせる者を限定していた。…外に出れば家畜のような差別を受けるのだが…分かっていても若い人達は一抹の外気を求めて園外に出たがった。
案の定、西部の炭鉱や東部の港湾に行った者の中には、奴隷扱いをされて日を経たずに戻って来る者も居た。女子も同様で都市部の工場に入った者の中には戻って来る者も居たが、読み書きの出来る女性は重宝で特に家政婦は需要が高かった。問題は、子供を孕んで戻って来る(又は一時帰郷する)女子で、街中では混血の子供も差別を受けるため、大概は園内で預かることになるのだが。…如何なる事情であれ出生した子供に父親の責任を放棄している社会は理不尽だった。
「ねぇ!シャーロット、同じ人間なのに差
別を受けなければならない事由を、どの様に子供に説明すれば良い?。益して“其れは神様が定めたことだ”なんて言えないわ、親ならば、どんな親であれ、子供を抱き締めて”貴方は望まれて生まれてきたのよ“と願うでしょう…だから私は、其れは神様の声ではないと思うの、“子共を想う母の願いこそが本当の神の声だと”と想うのよ」
…「カナンは呪われよ。兄弟達に対する最も卑しい奴隷となれ」との言葉の誤った解釈が,黒人に対して多大な苦しみを臨ませる原因となり、スペイン,ポルトガル,フランス,オランダ,英国による奴隷狩りが開始された。キリスト教の聖職者、神学者の中には“奴隷制度は神の意思に反している”と唱える者もいたが、現代においても奴隷制度擁護者達は“カインは弟アベルを殺した罪のために黒い
皮膚にされた“と唱えていた。…
「ごめんね!アイリス、本当にごめん。白人は傲慢で、エゴイストで偽善家だもの。何故、神様は白人に力を与えたんだろう。」
「シャーロット!神学者でさえ解釈を間違えるのなら、白人とか黒人じゃなく“神の言葉”をどの様に訊いたかじゃなくって。」
…キリスト教では、全身全霊をかけて神を愛すること(神への愛)と、自分を愛するように隣人を愛すること(隣人愛)の二つが、根本律法とされている。…
「シャーロット、“神の愛”が無差別・無償であるなら神が黒人を嫌い・蔑むことはありえないし、同じ信徒なら“隣人愛”に違背することもないはずよ。でも長い間、白人は差別を続け、教会も過ちを正してないわ」…
「アイリス、教会は“地動説”を認めるのに十五世紀以上を費やしたのよ“カナンやカインへの解釈の誤り”を認めるのにも何世紀以上も掛かるわよ」…
「でも其れが改められなければ、人種差別は続いて第二・第三のナットターナーが現れるんだわ」…
「それも仕方ないわよ、先達の入植者達は先住民から土地を奪って恩を仇で返したし、先の戦争では同士討ちをする人達だもの」…
「ジョージは無意味な殺し合いに疲弊し、帯同者を亡くして帰って来た時は戦争に導いた人達を恨んでいたわ」…
「シャーロット、何故、白人は博愛を唱えながら信徒同士が殺戮を繰り返して“神の言
葉”を守らないの」…
「アイリス…イギリスから移住して来た人達は信仰の自由と理想の国を築く為の“選民”意識が強く“貧困者や怠慢な者、無能な者は神の裁きで排除されなければならない”と考える人達が多かったんですって。その様なご時世でも、ブラウン家では足枷も使わないで農園を運営してきたのよ、」…
「そうよねぇ、園内の人達は皆ブラウン家に感謝しているよ、鞭を打たれたことが無いって!」…
…ブラウン家は、ヴァージニアのプランテーションでは唯一足枷を使用しなかった。従い、他の農園からは奇異な目で見られた訳だが、足枷を掛ければ労働効率が低下することが歴然で破傷風なども危惧された。益して、代々のブラウン家の当主には、彼等の人間性を奪う事は出来なかったからだ。当初は農園を逃げ出す者も居たが、何処にも生きる場所が無い事が分かると彼等は戻って来た。…
「マイケルの来訪」
週末、リリーが“今般の船旅の説明と彼氏を紹介する為”に来訪するとのことで、アイリスは朝から待ち焦がれていた。雪がちらつく夕暮れ時、銅鑼の音が鳴るやアイリスは階段を少女のように駆け下り、アイリスのコートを手にしたシャーロットとララが続いた。
ランドーのキャビンから薄手のマントに身を包んだリリーとフロックコートを纏った青年が出てきて、青年(マイケル)は緊張しながら二人に挨拶した。アイリスはリリーの手を取って階段を駆けるように上がり、シャーロットは驚いたように見上げる青年を案内した。ララには手紙で伝えている”と言ったが、(ヴァージニアでは未だ異人種間の結婚は認められていない為)ララは初めて会った青い目の青年に戸惑いの笑みを向けた。夕食にはベッティーとマリアの他トム夫婦も加わり、食後はリリーの要望でアイリスはピアノを弾き、珍しくアルコールを口にしたトムは腹を出して踊った。
翌朝、朝焼けが薄くなって青い空が高くな
ると、トムはマイケルを連れて園内の散策に出た。応接室には執事のトーマスと総監督官のブライアンが呼ばれ、アルフレッドが駆け付けるとアイリスとシャーロットも席に着いた。秘書見習いのアグネスはリリーが持参した「旅行企画書」を配布し、チャーリーとリチャードの声を遮るようにドアを閉めた。ツーピースドレスにカーディガンを羽織った事務員風のリリーが立ち上がって、風光明媚なニューポートや灯台とハーバー周辺のレストランでの食事など、一泊二日の(船旅)ツア
ーを説明した。
ニューポート迄は旅行会社の添乗員がジェームス川周辺のガイドをして、魚料理のレストランなどを案内するとのこと。農園で生まれて海を見ないで育った者、海の魚を食したことが無い者には感動の旅になることが期待された。船旅は東西南北の農園をメインにして四回に分けて行く予定で、縫製工場の工員と館の給仕や守衛達は四つのグループに分かれて東西南北のグループに合流する。東側農園はアイリスとアルフレッドが、西側はシャーロット、南側はトーマス、北側はブライアンが責任者で行く事を決めてアイリスは書斎に戻った。
(トーマスは日々の報告を終えると書斎にお茶を運ぶように指示するが)今日はメイドに代わってベッティーがお茶を運んで来た。「アイリス、今度の船旅は私達も行けるのかねぇ?」と尋ねるベッティーに「おばぁーちゃん、行けるわよ、歩ける人は皆行けるけど、
足腰の弱くなった人をどうするかを考えているところなの」
…船は最大百五十名まで収容可能で、外輪駆動タイプの蒸気ボートはリッチモンドを出ると、ジェームズ川を下ってニューポートのレストランに横付けする計画だった。…
従い、一人で寝起き出来る者なら(寝たきりでなければ)一緒に連れて行きたいとアイリスは考えていて、館の従業員はトーマスが農園はブライアンと各監督官が参加者を取りまとめていた。そして参加出来ない者(寝たきり状態の者、十歳以下の子供及び幼児とその保護者)は館の一階に収容する手筈だった。
アイリスが日課の巡回で診療所に顔を出すと、ララは心配そうな顔で患者の症状と不足している薬の補充を依頼を報告した。異人種間結婚の困難さを体験しているアイリスはララの心配も理解出来たが、例え親でも“惹きつけ合う二人”を引き離すことは不可能だった。館に戻るとリリーがマイケルと書斎に入って来た。マイケルが整備された灌漑水路と広い農園に感歎したことを述べると、すかさず、リリーは「紡績工場や縫製工場も有るのよ!」と
加えた。
マイケルは書斎棚の写真立て(ジョージとアイリスの結婚写真)に目を遣りながら、ノーフォークのディービスの書斎にも同じ写真が有って畏敬の念で見ていた事を話した。…其れは、リリーが黒人女性として大学を出た稀有な存在で、回転の速い頭脳の持ち主であったにも拘わらず、義姉のアイリスを何時も崇めていたからだった。…ブラウン家はノーフォークでも知れ渡っていて弁護士事務所の顧客の親戚筋であることは知らされていたが、当主が黒人の女性でリリーの義姉であることは知らなかった。
マイケルは法律事務所の職員としてディービスの事務所を訪れる中でリリーに惹かれ、リリーは農園での生い立ち(アイリスから授かった薫陶の日々)などを語りだした。物心が付いた時からアイリスは姉のように優しく手を取って、毎日欠かさずに教えてくれたとのこと。又、アイリスがシャーロットの従者としてフランス語の勉強を始めると、リリーもアイリスが綴ったノートでフランス語を学んだと言い、「私は簡単な日常会話だけだけれど、アイリスとシャーロットは読み書きも出来るのよ」と言う。そして父親がKKKに襲われて“娘と”名乗れないまま亡くなった切なさと、アイリスが本当の義姉だったと分かった時の嬉しさは今も消えないと言う。
その様な訳で、マイケルにはアイリスとシ
ャーロットの存在が大きく、未だ、リリーに
プロポーズしたことを言えないでいた。見兼ねたアイリスは秘書見習いのアグネスにお茶を依頼すると、書斎机から離れてソファーのマイケルと対峙した。
「リリー、小母さん達は元気にしてるの」「最近は二人で競馬に行ってるよ…チャーリーかリチャードが居れば良いんだろうけど」「ダメよ!リリー、貴方が“赤ちゃん”を作
れば良いんでしょう、ねぇ!マイケル」…「僕は、…」と、赤面するマイケルは漸くリリーとの馴れ初めを話し出した。
マイケルはニューヨークの町工員の次男で、両親に“大学に行きたい”と言うと、母親はレストランに働きに出た。マイケル自身も(
入学資金を貯める為に)三年間港で荷役の仕事をして、リリーから一年遅れで入学した。
同じ学部だった二人は木陰のベンチで出会い、休み時間や休みの日にも一緒に過ごすようになった。ニューヨークとは言え、黒人取締法で隔離されている中では街に出ることも出来ず、二人はもっぱら校内での逢瀬だったが、リリーがノーフォークに還る前に両親を大学に連れて行ってリリーに会わせた。
翌年、マイケルはディービスの紹介でノーフォークの弁護士事務所に入り、ヴァージニア州の弁護士試験をトライした。先々月、マイケルは合格の通知を受け取ってリリーにプロポーズした訳だが、一年間は研修生の身分とのことで、未だ経済的には困窮していた。従い、新婚旅行は勿論のこと結婚式も未だ決まっていなかったし、異人種間結婚が禁じられているヴァージニアでは街の教会で式を挙げることも、結婚証明書を得る事も出来なかった。又、この時世、異人種は同じホテルや
同じ貨車に同席することも出来なかった。
「リリー、此処で式を挙げれば良いでしょう!新婚旅行も私が旅費を出してあげるから、
アフリカに行っておいで!」と言う。…ジョージと結ばれて以来、アイリスはアフリカへの新婚旅行を夢見ていたが、南北戦争に阻まれて(祖先のルーツである)アフリカの地を踏む夢は叶わなかった。(代わりにリリーが行ってくれれば、自分が行ったのも同然とアイリスは思った)
前途洋々なマイケルではあったが仕事柄、次は連邦弁護士を目指したいと言い、リリーの献身はまだまだ続きそうだった。ノーフォークに戻る前夜、アイリスは夕食に二人の御者も交えて簡単なお別れ会を開いた。リリーから結婚式や新婚旅行の件を聞いたララは末席からアイリスに手を合わせた。
アダムスは大量生産・大量消費時代に適した効率的な物流と、購買システムの構築に奔走していた。主要港における複数運輸会社との連携業務の締結や購買代理店の選定と構築などで、それらが済むとアダムスはロンドンに戻った。イギリスでは疾うに奴隷制度は廃止されていたが人種差別の様相は同じで、アダムスの悲壮感は日増しに大きくなった。
幾ら成果を挙げても従業員からさえ蔑まれるのであれば、経営者とて携わり続けることは困難だった。アダムスは収益の10%/年の配当を受ける事で雑貨店の経営権を執事のロバートに譲渡すると、邸宅と市内の不動産の売却を新聞に載せた。
アダムスはニューヨーク経由で戻って来たが船内も鉄道も黒人専用貨車だったとのことで、人種差別への憤りと心身の疲れは否めなかった。アダムスの帰宅はシャーロットは勿論のことアイリス達からも安堵の声が聞かれたが、日が経つにつれてアダムス自身は無気力感が大きくなった。家族は生きる励みでもあるが働き盛りの男性にとって、“遣り甲斐のある仕事、やらなければならない事”が無いことは生き甲斐を失う事だった。
…黒人男性の職業は肉体労働を伴う炭鉱や
港湾・農村などでの日雇労働に限られ、女性は農園での日雇い労働の他、縫い物や編み物など教養の不要な作業に従事していた。従い、労働対価が低いため大半の黒人は子供を学校に行かせるような余裕は無かった訳で、貧困の連鎖が続いていた。…
ブラウン家の農園では7歳(又は6歳)になると、東西南北の食堂と館で読み書きの学習が始まる。当初はシャーロットやアイリスも教鞭を執っていたが、(出産などを機会に)今は各エリアの少女達が担当していて秘書見習いのアグネスもその一人だった。読み書きを覚えて更に学びたい者には辞書や本を貸与し、音楽を演奏したい者には楽器を貸与した。昨今は音楽系や医療系の学校に行く者も出て来たが、男子は園内に留まっていてもどかしさを感じた。
週末、アダムスの帰還を知ったディービス
とオリビアは不意に館に現れ、日中は子供達と戯れていたが、夜はアダムスを捕まえて会社の今後の運営などについて話し合った。
実際、倉庫の管理や荷積み業務及び通関業務などの事務処理はリリーが管理をしていて、
その他、各部門からの伝票や請求書を各種帳簿に記帳して入出金の管理を行い、日々の取引の仕訳・給与の支払いなどの決算書を作成するのもリリーだった。又、船舶の管理や運航及び保守管理と船長・航海士・機関士・甲板員の雇用・配乗・労務管理などはオリヴァーに委ねていた。従い、実質的に会社の経営を担っているのはリリーとオリヴァーであったが、(黒人女性が白人に直接命令・指示をすることは出来なかった為)リリーは秘書を通して指示を出していた。
ディービスはジェームズ川でタバコなどの運搬をしていたが、オリビアとの婚姻に伴いジェームズから融資を受けて外航海運業を始めた。独立戦争後の景気で事業は順調に拡大して昨今は旅行会社と提携して遊覧船も運営していた。然し、後を継ぐ子供が居ない虚しさは言いようが無く、益して、追い打ちをかけるようにジョージが逝去すると二人の意欲は失せていった。そんな折、アダムスはノーフォークでも運輸システムの構築を手掛け、“運輸業は利益率が低い上に過当競争が起きやすく、今後は倒産する会社も出てくるのではないか”と言う。そんな不安を抱えながらアダムスの様子を横目で見ていた事を話すと、ディービスはアダムスに「会社を引き継いでくれないか」と言い出した。
農園で生まれ・育ったオリビアには揺れ動く海と潮風は馴染めず、年を重ねる毎に館での老後を口にするようになった。従い、ディービスとオリビアの願望はチャーリーかリチャードが成長する迄はアダムスが会社をみてくれることだった。アダムスにとっても大量生産・大量消費時代における運輸業の経営は興味の湧く話だったが“幼少期は子供を農園で育てたい“と願っているシャーロットには言い出し難かった。
小春日和の日曜日、玄関にはベッティーの
元気な声と生返事を繰り返すトムの声があり、ディービスとオリビアの姿があった。数日振りの陽光にシャーロットとアイリスもマーガレットとエリザベスを連れて降りてきてオリビア達も散策に合流した。マーガレットが小鳥を見つけて走り出すと、エリザベスもオリビアの手を振り払って走ろうとしたが直ぐに転んだ。オリビアが抱き起そうと手を出すと、アイリスはオリビアの手を遮って、エリザベスが自分で立ち上がるのを待った。
マーガレットが振り向いて立ち上がろうとするエリザベスに手を伸べ、オリビアは手と膝に付いた土を払った。エリザベスを真ん中にして歩く三人の後からアイリス達も暖かい陽光を浴びながらゆっくり歩む。…馬場の入口にかかると(お腹が大きくなったアルフレッドの奥さんの)アグネスが柵の間から首を出した、二頭のポニーに声を掛けながらうなじを撫でていた。アグネスはアイリス達に気付くと挨拶をしてその場を離れようとしたが、アイリスは(園内でお産をしたいと言う)アグネスを切り株に座らせてお産の確認をした。
マーガレットがポニーの額に手を伸ばすとポニーは驚いたように後ずさりして、シャーロットは餌桶から人参を取り出してマーガレットの手に添えてポニーの前に差し出した。ポニーの舌や口が手に触れるとマーガレットは奇声を上げて喜び、エリザベスも真似をして手を出した。…オリビアの反対を押し切ってディービスは子供達の為にイギリスからポニーを取り寄せ。チャーリーとリチャードには成馬だったが、マーガレットとエリザベスには一歳のポニー馬だった。栗色に鬣と尾が白いのがマーガレットで純白のポニーはエリ
ザベスにだった。
散策から戻るとオリビアは“アダムスに船会社の運営をお願いした事”を告げて、将来は会社をチャーリーかリチャードに継がせたいと言う。シャーロットに依存は無かったが人種差別が横行している今日、”アダムスに危害が及ばないか“が心配だった。当のアダムスは仄かに燃える暖炉の前でディービスとグラスを合わせていた。
貨物船は木造から鉄製へ、鉄製から銅製になって、推進も外輪車からスクリュープロペラ方式に、エンジンもタービンからディーゼルになって航海日数が短くなった。その為、一定の航路を定期的に航海する定期貨物船が現れて荷主が自ら船を所有する必要は無くなったが(便数が少ない為)荷積みの遅れが度
々あった。ディービスは“片道輸送になることも多々あるので船は容易には増やせない”と言うが、片道輸送では船会社の利益が目減りするし、コストが荷主側に転嫁されることが明白だった。益して其処には、万が一を考慮した“保険”が付いて回ってコストを引き上げていた。
船会社は勿論のこと荷主側にも納得のいく料金にする為には往路と復路における船会社の運送計画(・製品や拠点ごとの在庫状況・各港の斬橋利用状況・利用可能な船舶の状況)を策定して関係者間で密に情報を連絡する必要があったが、国内の電話回線網は整備されたものの国際電話は未だ実用化されていなかった。従い、次回の船積みの予約や港湾倉庫の状態などを聞いて戻って来る訳だが、何分、
雲を掴むようなもので船会社間及び上屋倉庫
間の提携が必要だった。
「ノーフォークへ」
河川輸送は日を追うごとに鉄道輸送に取って代わり農園の向こうを黒い箱が行き来していたが、アイリス達は幌馬車を連ねてリッチモンドの船乗り場に着いた。貸し切りの外輪蒸気船の操舵室からオリヴァーが身を乗り出して手を振り、アイリス達は機関銃を構えて先導する護衛に守られて船に乗った。乗船口に列をなした人々をリッチモンドの保安官が誘導し、名簿を持った添乗員が階層と客室を伝える。久々に農園を出た者、初めて船に乗った者が大半で船が桟橋を離れても部屋に入る者は無く、初冬の外気が顔を包み・添乗員の声が流れて来る。
水車のような水受けが川面をけり、黒い煙が高い煙突から吐き続いている。階上には背中合わせに定員4名のスイートルームがあって一室はアイリスとベッティーが、片方はオリヴァーが使用していた。階下は一室2名の部屋でアルフレッド以下既婚者を主体に割り振り、一階の大部屋には未婚者を男女別に入れたとのこと。アダムスはディービス達と一緒にノーフォークに戻り、シャロットとマリアは館で子供達を診ていた。
リッチモンドの街を抜けると大小の農園と街が入れ代わり顔を出し、川は南北に蛇行しながら東に下った。船の両舷に付いた添乗員が各名所をガイドする度、皆は流れる景色に見入っていた。…川幅が広くなって潮風が顔をよぎると見上げるように軍艦が現れて、私達は大きく迂回して外洋に出た。船は横波を受けながら海岸を平行に進み、ビーチで旋回して海鮮レストランの船着き場に停まった。
軍港に面したガラス張りの窓を夕陽が染め
始め、アイリス達は添乗員の案内で席に着いた。白ワイシャツに蝶ネクタイを着けた黒人の給仕達が各テーブルに就くと、燕尾服を纏った白人がアイリスに来店の礼を述べて、アイリスは立ってイブニンググローブを付けた手を差し伸べた。
守衛の二人が入口付近の席に着いたのを確認してアイリスは乾杯のグラスを掲げた。ワゴンが運ばれて来て、給仕は大皿から海藻や貝類・小海老などを各人の皿に取分けながら各材料と調理方法・食べ方などを説明する。是まで、海鮮レストランでは黒人の客は皆無であったが、観光会社と提携をしている為に予約を断ることが出来なかったようだ。店の明かりに引き寄せられて個人の客も何組かが玄関をよぎり“ブラウン家のアイリス様が貸し切っている”ことが告げられると、アイリス見たさに中を覗いた。
給仕の合図でワゴンが入れ代わり、ロブスターやシーフードパスタなどが並ぶ度に歓声があがる。メインディッシュはガーリックタコピラフに焼き魚で、給仕は大きな焼き魚をワゴンの上で切り分けた。飲酒には制限を設けていたので場を乱す男子はいなかったが、飲み慣れていない女性の中には顔を染める者もいた。
初めての海の幸に舌包み、大満足の夜を船の中で過ごすと朝食も同じレストランだった。アイリスは来られなかった子供達や年配者の為に土産を購入させて船に戻ると、オリヴァーが操舵室から顔を出して「帰路は川を上るので所要時間が二・三時間程長くなります、リッチモンドに着くのは夕方近くになるでしょう」と言う。…ジェームズタウンを横目に船のバルコニーで簡単な昼食を摂り、船は更に黒煙を上げて川面を割いた。リッチモンドの街が見えて来ると船内はざわめき出して、船が接岸すると、船着き場には農園のランドーを先頭に幌馬車が列をなして、街の保安官事務所からも出迎えが来ていた。
…人種差別が横行する中、今般の旅行が成立したのはオリヴァーのお蔭で、アイリスはオリヴァーにお礼を述べてから船を降りた。彼自身もイギリス海軍の父とアメリカ黒人の母との混血ではあったが、日焼けした顔に野生的な髭は面識のない者には強面に見えて白人にも睨みが利いた。実際、戦前・戦後を通じて幾度となく一緒に大西洋やインド洋などを航海した船員仲間でも、船長の彼が混血であることを知る者は少なかった。そんな嘗ての仲間達が船長になっていくと、オリヴァーはノーフォーク界隈の顔になってディービスの会社を支えていた。…
リッチモンドを過ぎて溪谷に架かると夕陽は岩肌に隠れ、保安官はランタンを掲げて幌馬車はトーチを灯した。夕陽に染まった大地に月が昇り館の屋根が浮かぶと、見張台から半鐘の音が聞こえ出して玄関の大きなランタンに灯りが点った。
シャーロットとトーマスが出迎えて軽食の準備が出来ている事を告げると皆は一目散に食堂に駆け込んだが、アイリスは食事もそこそこに(参加者を見送る為に)玄関に立った。庭園からランタンの灯りが近づいて(幌馬車の御者達だった)アイリスに挨拶する。入れ代わるように食事を終えた人達が準備した行灯を手にして次々と家路に着き、最後にシャーロットが“全員帰宅した”ことを告げた。
書斎の暖炉前でシャーロットとグラスを交わしていると、“お休み”をさせるためにマリアがチャーリーとリチャードを連れて来た。マーガレットとエリザベスはララが寝かせたとのことで、ベッティーは既にベッドに入っていた。無事に旅行を終えた安堵感で背もたれに身体を預けると、瞼は急に重くなり瞬く間に寝入る、…カーテンを開ける音と差し込む朝日に目を開けると、向き合ったソファーにシャーロットが寝ていた。メイドが傍によって声を掛けると、シャーロットは驚いたように頭を上げてアイリスと見合った。
二人で遅い朝食を摂るとアイリスは書斎でトーマスの報告を受けて、指示を出してから診療所に向かった。シャーロットは下着の増産計画のため午前中は縫製工場で、午後は紡績工場と機織り工場に行く。下着は日増しに品質が安定してニューヨークでも評判だった
が、増産は容易ではなく未だ農園で収穫した量の半分が実綿のまま出荷されていた。
午後、シャーロットが軽い昼食を摂って出掛けると、アイリスも馬で食堂などの巡視に出た。ヴァージニアの降雨量は年間を通して安定し、澄んだ川面を光が反射して雪虫?が飛び交う。アイリスは馬に乗るとジョージの暖かい腕とウィリアムの優しい目が思い出された。寒さが感じられる昨今、アイリスにはジョージの温もりが恋しかった。玄関前で停まると門衛が小走りに駆け寄って馬の手綱を取り、合わせたようにシャーロットも戻って来て私達は一緒に階段を上がった。学習が一段落したチャーリーとリチャードはすり寄って来たが、算数の教師に呼び戻された。
…平日の昼と夜の食事は蓋付きの大鍋やト
レイなどを用いて館から各食堂に配給し、各食堂ではそれを食器に小分けして頂く訳だが、
足りなくなった調味料や食器類(又は料理の要望など)は掲示板に記入される。アイリスはそれらの内容を毎日記録して処理をすると共に、共同トイレなどの衛生管理を行うのがアイリスの重要な責務だった。食事の配給は従業員を同じ時間に現場に集合させる為の手段であり、栄養のバランスを管理する為でもあった。又、マーガレットは食堂と共に共同トイレを構築して“手洗いの励行”をさせた。各家のトイレを失くして定期的に殺虫剤を撒くと、原因不明の腹痛は減少したと言う。アイリスは農園の女主人としてそれらの責務をマーガレットから引き継ぎ、便器の汚れや汚水桝の蓋を開けてハエの発生などを確認して(一ヶ月交代の)担当者に指示を出した。…
書斎に戻るとアイリスはメモを出して“買い出しノート”や“指示書”に書き写す。途中、頃合いを見てシャーロットと「増産計画」などを相談しているとメイドが来て“夕食”を知らせた。二人はベッティーの部屋に居るマーガレットとエリザベスを抱き上げて一緒に食堂に向かった。後を追うようにベッティーが脚を庇いながら中に入ると、トムは隣の椅子を引いてベッティーを座らせた。
…エリザベスが食堂で食べるようになると、(お客が無い)身内だけの食卓では上座にチャーリーとリチャードが着いてアイリスとシャーロットは対峙して座った。シャーロットの側にはマーガレットとベッティーとトム夫妻が居てアイリスの側にはエリザベスとマリアとララが居る。…アダムスは月に一度の割で戻って来たが、オリビア達がノーフォークを離れたがっていることは周知のことで、その際、シャーロット達はノーフォークに行くのではないかと心配したが、当のシャーロットは「私は此処を離れない」と言ってアイリスを安堵させた。実際、アルフレッドは勿論のことトーマスも護衛の白人達もアイリスには従順だったが、それはシャーロットが(彼等の前では)必要以上にアイリスを立ててくれているからだった。
ララはマーガレットとエリザベスを抱いて部屋に戻り、マリアはチャーリーとリチャー
ドを連れて行くのが昨今のパターンだった。今度の週末にはシャーロットがノーフォーク
クの旅行に行き、来週・再来週はトーマスとブライアンが行く予定だった。
それが終わると新年早々にリリーが戻って来て「結婚式」を挙げるのだが、マイケルの両親も式に出るとのことでララは落ち着かなかった。マイケルの両親はアイルランドからの移民で父親は警官、母親はレストランで働いてマイケルを大学に行かせた。ララはリリーから人柄なりを聴いていたが、白人である
ことには変わりがなかった。シャーロットも、アイリスも経験上“夫婦の間では人種は関係がない”ことを話したが、ララの理解を得ることは難しかった。
「リリーの結婚式」
大方の薪が燃え上がると、メイドは金物の
バケツから石炭を取り出して暖炉にくべた。
パチパチパチと音を立てて炎が蠢いて身体の芯が温まって来る。肌の手入れを終えたシャーロットもロッキングチェアを移動してアイリスと肩を並べた。「下着の増産計画」は、紡績工場も機織り工場も手狭で設備の増設は無理だと言い、増産の為には工場を増築するか、“2交代勤務”で働いてもらうかだった。「白人が夜に働いてくれるの」と、信じられように顔を見合わすアイリスに、シャーロットは「食べることも儘ならない白人も多いのよ」と言い、彼女達から“私達も旅行に行き
たかった“との声を聞いたと言う。
又、主だった仕事が無い田舎街では、黒人に限らず白人の貧困層においても「家庭内暴力」は看過出来ない程に多いらしく、現に、紡績工場の婦人の中には顔に痣を作って来る女性も居ると言う。…自分が職に就けないことを棚に上げて、家族のために働く妻に手を挙げるとはどういうことなのだろう…農園に産まれ・育ったアイリスには理解し難いことだった。然し、キリスト教では“神は男性を創った後「男性を助ける者として」男性の骨から女性を創ったが、女性は神の命令に違背したために人間は楽園を追放された。…従い、『女性は男性に服従しなければならない』と信じている男性が多い“と付け加えた。
「何故、男子を産む女性が男性に劣るの」
アイリスが不条理な解釈に不満な顔を向けると、シャーロットは「カナンは呪われよと同じだよね、『天動説』より酷いわ」と合図打ちした。“博愛・平等”を唱える教会が何故差別をするのか。神の言葉は偽善”なのか、(例えそうであっても)アイリスには“マーガレットの言葉、マーガレットの行いがあった”マーガレットから受けた“愛”を一つ一つ返しながら、農園の一人一人を家族のように守っていくこと。其れが“アイリスの使命であり、アイリスの生き方”だった。
農園では、生まれた時から知り合った者同
士が隣近所に住んで居るため、園内のトラブルも少なくお互いが色々な仕事を習得して作業の分担に協力してくれた。其れは、農園主としては有難かったが、反面、温厚過ぎる男子が多く(大学に行きたいとか…)リーダー格が現れないことがもどかしかった。
旅行が終わるとシャーロットは「増産計画」
についてアルフレッド達と話し合ったが、従
業員の安全や健康被害・夜食や馬車の手配などを考えると夜勤はリスクが大きいと判断して、結局、紡績と機織り工場を増築することにした。工場の増築、設備などの発注や従業員の募集を行う中でシャーロットは“街に近い場所に建てて欲しい”とか、“知り合いの者を採用して欲しい”などの斡旋の他、出資の申し出や新規バイヤーなどの対応に追われ、
アイリスは結婚式の準備で年が明けた。
異人種間の結婚が認められていないご時世
だったが、マイケルの両親と同僚の女子事務員達が式に出席すると言う。アイリスは自ら教会に出向いて、牧師に挙式の執り行いと守秘を依頼した。又、昨今、写真は手軽になってハンディータイプも有るとのことだが、アイリスは弁護士を通して、ニューヨークからカメラマンを呼ぶことにした。
挙式の前々日、暮れかけた林道にリリー達
の馬車が現れるとアイリスは玄関に出てリリーを迎えた。リリーとマイケル、ジャックとマイケルの両親が馬車から出て来る度、玄関前の両袖に並んだ従業員から“おめでとう”の歓声と拍手が湧き、アイリスはシャンデリアが眩しく揺らぐロビーに案内した。
食べる物にも事欠くアイルランドから渡米
したマイケルの両親にとって、南部プランテーションの館は夢物語だった。二人は大理石の床、高い天井、大きな窓、白いレースのカーテンに感歎してメイドに案内されるまま食堂に入った。幅広の長い食卓には明るい花柄のクロスが掛けられ、トーマスは入口でマイケルの両親を迎えながらアダムスとシャーロット、ベッティーとマリア、トムとマイケルの順に紹介すると、最後にララを紹介して両親を席に導いた。
アイリスが主人席に座るとトーマスの合図
で給仕達はグラスに飲み物を注ぎ、アイリスの歓迎の言葉の後にシャーロットが一声を挙げた。…四百名を超える南部有数のプランテーションの当主が黒人の若い女性で、嫁になるリリーの姉に当たると言う。…両親には信じ難い現実だったが、アイリスからは新婚旅行の旅費を、シャーロットからは小遣いを頂いたとの事で両親はお礼を述べた。食後は場所を応接室に移して新しい身内の話題が続き、リクエストに応えてアイリスとシャーロットがピアノを弾いて歌った。アイリスが逞しく
成長したジャックを抱き締めると、ジャック
の眼から涙がこぼれ落ちた。
昼近く、ランドーとキャラバンが東側農園
を通り抜けて見張台で停まると、機関銃を下げた門衛はオリビアの顔を確認して見張台の同僚に伝達した。冬晴れの青い空に銅鑼の音が響き、道端の家々からぽつぽつと人々が顔を出した。オリビアを認めた者は“お帰りな
さい”と挨拶し、キャラバンの女子達には“
いらっしゃい”と声を掛けた。楡の木に囲まれた高台に目を移すと、其処にはディービスの邸宅とは比べにならないお城のように白い館が青い空に聳えていた。
葉を落とした楡の木陰には白く塗られた煙突や、白い柵で囲われた馬場が見え隠れし、石を積んだ堀と堰を横目に小さな橋を渡り丘に上がると、館を囲むように庭園が広がっていた。威厳と優美を兼ね備えた玄関前にはアイリスの他メイドや給仕達が並んでいて、呆然と見上げる彼女達をアイリスは階段を降りて出迎えた。
オリビアはランドーのキャビンからウェディングドレスやシューズ・ベール・ロンググローブの入った箱を運ばせながらリリーの居る部屋に直行した。(リリー達の新婚旅行は地中海を通ってカイロでピラミッドを観て、スエズ運河を渡ってケニアのモンバサに行って野生のライオンや象を観る計画だったが、イギリス迄はオリヴァーが送り、モンバサまではオリヴァーの嘗て部下が行く手筈だった)
アイリスがディービスに感謝を述べると、ディービスは“リリー達の新居を邸宅内に構えさせた”と言う。アイリスは改めて礼を述べて”小父さん達がいつ来ても良いように部屋を用意しておくこと“を伝えた。(それはシャーロットの了解も得なければならなかっ
たが、隣り合ったジェームズとマーガレット
の部屋も空いていた)
部屋のカーテンを開け放ってオリビアがドレスなどを翳すとリリーは胸を躍らせて眺めていたものの、ララに見せてあげたいと涙ぐみ、アイリスは診療所に居るララを呼びに行かせたが昼食の時間が迫っていた。食堂に入ると十人の女子事務員達が窓側を背にして座っていて、紡績工場から戻ったシャーロットをトーマスが紹介した。アイリスとシャーロットが並んで当主の席に着くと、事務員達か
ら感嘆のため息がこぼれた。(其処には一幅の絵があったからだ。)
普段は下の食堂で昼食を摂るララがナースキャップを被ったまま入って来た。ララはキャップを取って事務員達に挨拶をするとオリビアにお礼を述べてリリーの隣に掛けた。食後、トーマスは彼女達に農園の見学をさせるために自ら手綱を取った。館を取り巻くように東西南北にキンモクセイ・イヌシゲ・レッドロビンの茂った垣根が綺麗に剪定されていて、サザンカの垣根は白とピンクの花を付けていた。各垣根の下や周りにはパンジーやビオラ・プリムラ奥様・クリスマスローズなどのプランターが並んでいて、春にはヴァージニアストックが庭一面に咲き誇る。
既に、伝動所の入口には濃いピンクのサザンカのトンネルが作られ、小奇麗な身なりの子供達が落ち葉を集めていた。黒又は褐色の肌に健康そうな白い歯を輝かせて、子供達は笑みを浮かべて挨拶した。チャペルの祭壇側の白壁には高学年らしき子供達が“リリー先生結婚おめでとう”“お幸せに”などの花文字に、更に、花弁や葉を飾り付けていた。
彼女達が近付くと子供達は手を止めて歓迎の挨拶する、それは、ノーフォークの街角や街裏でみすぼらしく生きている子供達とは異なっていた。縫製工場から出ると東側見張台の方から半鐘の音が聞こえていて、入って来た時と異なる音に気が付いた女子が“音の違いに意味があるんですか”と訊ねた。トーマスは馬車を停めて、“鳴らすリズムと回数で誰が訪問したのかが分かる”ことを述べると、彼女達は信じ難い顔を並べた。
…通用口から二人の守衛が出てきて玄関の両袖に立つと、アイリスが玄関の下に降りて秘書のメアリーと並んだ。時間を合わせたように牧師と弁護士の馬車が連なって停まり、守衛が馬の手綱を取る。アイリスがメアリーに声を掛けるとメアリーは牧師と並び、アイリスは弁護士と連れ立ってロビーに入った。
“客は玄関で迎える事”がブラウン家の家訓であることを付け加えると、彼女達は納得したように頷きながら一際身体の大きい守衛の存在を訊ね。彼は“ブラウン家のトム”で、「シャーロットお嬢様の守護神だったが、今はブラウン家とアイリス様の守護神でもある」ことを述べた。…
紡績工場では(「増築計画」の調査をしていた)シャーロットが手を止めて各工程を案内してくれたが、旦那さんのアダムスを見慣れている彼女達でも著名なブラウン家の“お嬢様”を目の当たりにすれば恐縮するのは当たり前だった。見張台まで戻ると彼女達は陶酔から醒めたように、アイリスとシャーロットの関係を知りたがった。
トーマスは御者席から降りると、自分は新参者で良く分からないが、…アイリス様は幼少で読み書きを独学され、其れを知った先代のマーガレット奥様がアイリス様をシャーロットお嬢様の“従者”にされた事や当主のジョージ様が戦争で不在の際は十代のアイリス様がシャーロットお嬢様と農園を守って来られ事を話し…そして、“当主のジョージ様がKKKのリンチから(黒人の)従業員を助ける為に犠牲になられた事が忘れられない”と目を潤ませた。
…前途洋々な若き当主が、幼い子供と奥様を残して、何故、従業員の身代わりになられたのか…とトーマスは声を震わせた。…程なくして農園の従業員達のアイリス様に対する態度があからさまに変わった姿を目にして、トーマスは“ジョージ様が農園を守るの為、アイリス様を守る為に犠牲になられた”事が分かったと言う。
そして、“アイリス様はジョージ様の魂魄を毅然と受け止められて、従業員一人一人に慈悲と希望を与えておられる。”そんな“マリア様のようなアイリス様を支える事が自分の役目で、シャーロットお嬢様もアイリス様を
サポートする為にロンドンから戻って来られた、と初老のトーマスは涙を溜めた。
事業所の経営を任されているリリーは彼女達には上司以上の存在であったが理解力が速く・何でも上手に処理するリリーに感服すると、リリーは“私は何をしても義姉には敵わなかった”とはにかんだ。ノーフォークの港や街角で荷役作業などをする黒人しか知る術がない彼女達には、リリーの能力を知るにつれて其の存在が奇異だった。益して、“農園の者は幼少の時から読み書きの勉強をしていて、読み書きが出来ない者は居ない”と言う。黒人の識字率は十%以下だと思っていた彼女達には信じ難い話しで、“其れを確認する事と、当主のアイリス見たさ”が挙式出席の目的の一つでもあった。
然し、農園に着いて未だ半日も満たない彼女達が目にしたものは“誰にも命令をされずに生き生きと自分の役割を果たしている黒人達の姿で”それは、彼女達の想像を超えていた。矢張り執事のトーマスが言ったように、四百名を超える従業員は“アイリスを信じて働いていた”のだった。
弁護士は鞄からブラウン家の財産目録とアイリス個人の財産目録を取り出したが、アイリスはブラウン家の目録は戻させてリリーの結婚祝いを物色した。アイリスはシャーロットの従者になった際にマーガレットから頂いた不動産や、婚姻の際ジョージから譲渡された不動産と株券などを持っていた。又、ジョージの逝去に伴ってブラウン家の財産(農園や館、農園から騰がる利潤など)もアイリスの名義だった。…異人種間の結婚が禁止されているヴァージニアでは「結婚許可書」を提出することは出来なかったが、ジョージは弁護士を呼んで「宣誓書」を作らせた。…
懐かしい証書に目を遣りながらアイリスは
リッチモンドとノーフォークの倉庫と株券を選び・其れに持参金を加えた。夕食のテーブルは久し振りに賑やかになり、給仕やメイドの他、厨房にも農園から手伝いが入っていた。食後、手狭になった応接室ではララが来客の間を忙しく立ち廻り、嫁荷の目録を目にしたマイケルの両親は想定外の金額に再び驚きを顕わにした。(資産家でさえ、エジプトやキリマンジェロなどへの旅行は寝物語だったし、ジム・クロウ法の下で異人種の二人が新婚旅行に行くことなどは考えられなかった。)
メアリーの司会で挙式は進み、子供達はオ
ルガンを弾き聖歌を唄って喜びを表した。階段状の伝道所の定員は百名足らずで、写真を撮る為に集まった人々が伝道所の廻りに溢れていた。挙式を終えてリリー達が花のトンネルを抜けると、人垣は撮影会場まで続いて木漏れ日の中に彩とりどりの花びらが舞った。メアリーが東西南北と館の順番で写真を撮ることを告げると、リリーとマイケルを前列の中心にして年配者と子供達が続いた。
若者達が踏み台の上に並び終えると、カメラマンの“動かないで”の一声に長い静寂が続く。ストロボの閃光に一瞬ため息が漏れたが、“もう一枚”の声に再び静寂が続いた。…シャーロットはロンドンでアダムスと撮った写真を飾っていたし、アイリスも寝室に結婚式の写真とジョージの学生時代の肖像画を飾っていたが、農園の人々には生まれて初めての撮影で彼女達は是まで見たことが無いくらいに着飾ってポーズを取った。…
白い布を巻いて幌を畳んだランドーが停まるとリリーとマイケルは皆にお礼を述べて乗り込んだ。騎乗のトムは空砲を鳴らして並足で進み、アイリス達と子供達はリリーの後を追った。(挙式用の馬車に見立てたのは、嘗て、ウィリアムの同僚だった者達だった)館の玄関の前にはオリビア達の馬車が停まっていて、近づくと両袖に並んだメイド達が歓声を上げて花びらを散らした。
ランドーは見張台で停まると白い布を巻き取って幌を上げ、リリーはウェディングドレスを脱いでアイリスの胸に泣き崩れた。普段は理性的で感情を露わにしないリリーが同年代のアイリスに子供のように抱かれている姿は、まるで聖母マリアに抱かれた天使のように(同僚達には)見えた。
「リリーの新婚旅行」
ノーフォークまでの帰路、彼女達は偏見と
差別への後悔と懴悔の念に駆られた。彼女達は毎日リリーを見ていた訳だが、其れは、オリビアが農園から“特別な子”を連れて来たものと捉えていた。然し、農園で目にしたのは“生き生きと自由に働く黒人の姿“であり、子供達の教養の高さだった”何故に“と思案するまでもなく、目の前にアイリスとシャーロットが現れると彼女達の疑念は直ぐに晴れた。…洗練されたブラウン家のお嬢様でさえ、献身的にアイリスを支えようとしている姿は、農園で働く黒人は勿論のこと、白人達にもかけがいのない忠誠心を抱かせていた。
嘗ては従業員(奴隷)だったアイリスに何
故シャーロットが従っているのか”彼女達には全く見当がつかなかった。然し、昨日部屋に入って来たメイドに訊ねると“アイリス奥様は私達の為に働いているからだ”と言う。
…アイリスは毎年四百名の従業員と面談し
て分配金を提示し、毎日、診療所と東西南北の食堂やトイレを巡視して衛生環境などを管理していた。又、アイリスは全従業員の顔と名前を把握していて、ララや担当者が不在の際は年寄のしもの世話もしていると言う。農園の人々にとってアイリスは当主ではあったが、全員の母親であり娘でもあった。
降り続ける雪の中を、アダムスはリリー達の船出を見届けてから館に戻って来た。冷え切った外套を脱いでマーガレットを抱き上げ、エリザベスに頬刷りするとエリザベスは泣き出し、アダムスに気付いたチャーリーとリチャードはアダムスの胸に飛び込んだ。ジョージの顔を覚えていないリチャードにはアダムスが父親代わりで、アダムスには唯一無二の親友が残して逝った遺児だった。
ボーディング・スクール時代、孤立無援だった混血児のアダムスに声を掛けてくれたのはジョージだけだった。母親はアフリカ系黒人で家政婦として働いている際にアダムスを授かったが、邸宅から追い出されてスラム街で出産したと言う。アダムスは多くの黒人が暮らす街で荒んだ日々を過ごしていた訳だが、子供を授からなかった父親は大金を出してアダムスをボーディング・スクールに入れた。良家の白人のお坊ちゃん達が集まっている寄宿生活は、何の教育も受けずに育った混血のアダムスには苦痛だった。その中で、一学年上のジョージが声を掛け・励ましてくれた。
ボーディング・スクールを卒業出来たのもジョージのお蔭だったが、ジョージは夏休みにアメリカ旅行に誘って妹のシャーロットを紹介してくれた。以来、アダムスにはシャーロットとの文通が希望となって独立戦争を乗り越えた。
…ある日、アイリスが「何故、アダムスを
選んだの」と訊くと、「ジョージが連れて来た人だから…」とシャーロットは頬を染めた。
ジョージは戦場に向か焦燥感から未だ幼かったアイリスを抱いたが、後にジョージはそのことを何度も悔いた。然し、今となれば其れは“かけがえがない”思い出でアイリスの身体を熱くした。…
紡績工場は東側農園奥の雑木林を切り拓いて建てられたが、雑木林は工場増築の為に更に東西に切り拓かれて整地作業が続いていた。恵まれた労働条件と給料、日替わりの食事に申し分のない衛生環境などが尾ひれを付けて作業を希望する者は余多だった。
生産量を倍にするためアルフレッドに必要人数を尋ねると(機織り機のシャトルが自動交換されるようになった事と作業に余裕が出ているため)要望人数は前回の半分で良いと言い、アイリスは学校に行けない貧困層の為に子供の枠を増やした。読み書きを教えて昼食を与えるだけでも容易ではなかった訳だが、それでも選ばれなかった家族からは不満の声が挙っていると言う。
縫製工場も編み機と人員を若干増やしたが、(農繁期には手伝いが来なくなるため)人手が足りなくなることが予想された。ブラウン家では菜園の種蒔などが始まる前の三ヶ月間が契約更新の時期で、更新希望者は申し出て
・更新を希望しない者は自動継続になる。凍えそうな地面からアネモネの芽吹きが始まると春は目の前だった。若者は閉鎖的な農園から出て遊園地や映画館のある都会へ行きたがったが、黒人の彼等が就ける仕事は限られていて男子は炭鉱や道路工事など・女子は(学校を出て看護婦になった者もいたが)洗濯・掃除・料理人などの職業に就いた。然し、何処へ行っても差別がつきまとって、戻って来る若者も少なくなかった。
従業員の契約更新手続きと相まって、アイ
リスは大学(又は専門学校)へ推薦する者を選択して面談を行う。例年と異なるのは初めて芸術学校からも募集の案内があったことで、アイリスは早速トーマスを調査に行かせた。
マーガレットは“一人一人を自立させることがブラウン家の責任だ”と言った。そんなマーガレットの姿を見て育ったジョージとシャーロットはアイリスの良き手本だった。シャーロットの従者になってからは、シャーロットが求めた通り(又は求められた以上)に学んで来た。又、農園の為なら犠牲を厭わなかったジョージの生き様は、今も農園とアイリスを見守っていた。
…ジョージが身代わりになったあの日以来、北側の従業員でさえもブラウン家の魂魄を肌で感じて“二度とブラウン家の者を失ってはならない”との想いで協力していた。実際、大半の者は二つ・三つの職種を習得していて作業の分担も楽になったが、男性のリーダー格が頭角しないことがアイリスを落胆させた。…いくらブラウン家の広い農園ではあっても、行き場のない隔離された環境では“希望を失せる”のではないかとアルフレッドが呟いた。
休日ではあったが、(各部門の陣容が出揃うと)アイリスは総監督官のエドワードとアルフレッドとトーマスにシャーロットとアダムスを加えて、来年度の人員の配置や綿花などの生産量について協議を行った。普段はノーメイクに近いアイリスも今日は薄紅を引いていてそんなアイリスをシャーロットは横目で見ていた。早春のおぼろ月に火照った身体を冷ますと、アイリスは窓を閉めて暖炉の前のソファーチェアに掛けた。シャーロットはワインボトルとグラスを翳し、メイドはおつまみのトレイを持って入って来た。
メイドが戻るとシャーロットは「アイリス、貴方は再婚しないの」と切り出し、アイリスがシャーロットを見据えると「貴方は、未だ若いんだから…」と畳みかける。確かに、二十代半ばの均整の取れた細身の身体に明るい褐色の肌は魅力的だったし、大抵の者はマリア様のように微笑む小柄な顔に惹かれた。然し、聡明な眼差しに短い縮れかかった黒髪は活発な少女のように見えるが、マーガレットが乗り移ったような物腰は矢張り館の女主人だった。
農園が上手く機能しているのは“ジョージ
が身命を投じて農園を守ろうとした為”であり、アイリスの中にジョージが居る限り農園の人々の中にも其の残像が写っていた。(然し、アイリスが再婚したら…)「シャーロット、私が再婚したら貴方が当主になるのよ、其れで良いの?」…誰もアイリスの代わりにはなれない事は分かってたが、シャーロットには農園の為に犠牲になっているアイリスを憐れに想った。…アイリスとて、寒い朝晩はジョージの温もりが思い出されて、両腕で胸を抱き締め、少女のように頬を染めた。然し、手の中・腕の中のジョージの温もり・ジョージの想いでは薄れて、そんな時、アイリスはエリザベスを抱き締めた。…
男性陣が整地や水路補修作業を行っている傍らで、女性陣は菜園の(トウモロコシや豆類などの)種まき作業が始まっていた。監督官は水路を駆け回って馬上から指示を出し、資材(石や土砂)が不足すると川原のグループに伝達に走る。小麦の穂が顔を出すと綿花の移植作業と春小麦の種まき作業が間近だった。ヴァージニアストックが咲き始め、アネモネなどの春の花々も咲き誇って庭園は様々な彩が競い合う。昨今のアイリス達の話題はリリー達の新婚旅行で、…リパプールに着いたか、地中海を通過している頃かな、ピラミッド・キリマンジャロに行ったかな…などとララは勿論のことマリアもベッティーも頸を
長くしてリリーの帰国を待ちわびた。
先月、園内で結婚した二人が“新婚旅行はニューヨークに行きたい”と館に訪れ、トーマスは二人を書斎に連れて来た。(人種差別が横行する最中、二人が安心して泊まれるホテルやレストランなどの情報が必要だった。)アイリスはオリビアを通じて旅行会社に問い合わせた訳だが、…無事に旅行から戻った二人は、林立する高層ビィルや自力で走る車と人の多さに驚き、“蔑むように見下す白人の眼に恐怖を感じた”と言う。又、黒人街の衛生環境の酷さと、見るからに困窮している彼等の風貌が異様だったと言う。…農園に居れば安心で快適なことは分かっていても、“恐いもの見たさ”は若い人の特権だった。
欧米諸国は、人道的観点から?(嘗ては奴
隷だった)黒人をカリブ地域やアフリカに送って新しい国を創らせたが、其れは邪魔者を追い出す“口減らし”のように思えた。何故なら、それらの国々は経済的に自立する基盤が与えられていなかった為に、今も貧困が続いていたからだ。
一方、アメリカ国内で解放された黒人の大半は、土地を持たない小作農として貧しい生活を強いられた。又、黒人取締法の下でKKKなどの人種主義者によって黒人へのリンチが公然と行われていた訳だが、警察は見て見ぬふりをするか時にはリンチに加勢した。従い、リンチが犯罪として摘発されることは少なく、例え裁判になっても陪審員は全て白人だった為に有罪にされることも無かった。
正義の欠片も無い家畜以下の扱いを聞く度、従業員の大半は萎縮し、アイリスは憐れみと憤りで涙が込み上がった。然し、何故、何世紀・何千年もこの様な蛮行や愚行が繰り返されているのか、神は多くの罪を許してきたが、其れを止めさせる事が神の為すべきことではなかったか。何故、神は改めさせようとしないのか。殺害された無数の黒人の哀しみや無念さを想うと悔し涙が滲み、アイリスは神を怨んだ。
ヴァージニアストックが咲き誇る中、護衛が付いたランドーが林道を駆け抜けて庭園に顔を出した。日に焼けたマイケルとすっかり新婦になり切ったリリーが馬車から降りてきて、一息を付く間も無く次から次と木箱を運ばせた。リリーがトムを名指して木箱を開けさせるとマイケルは(箱を覗き込もうとする)チャーリーとリチャードを抱き留め、リリーは梱包紙を解いてお土産を一つ一つ並べた。
エジプトで購入したパピルスの絵は館の応
接室と書斎に、香水はシャーロットとアイリスに、お茶となつめやしは館の皆へ。ケニアで購入したビーズのアクセサリーはベッティーとマリアとトムとアルフレッドの奥さん達で、コーヒーはトムへ、大きなサイとシマウマとゾウとキリンの木彫りは東西南北の食堂に置く予定だった。最後に幅広の木箱を開けさせて紙と布で覆われた梱包を解くと、口を開いたヒョウのカーペットが出て来てチャーリーとリチャードは驚いて声を挙げた。飾る場所を訊くとトムは応接室の壁が良いと言う。主だった土産の分配を終えると暗がりに小さめな木彫りなどが散乱していた。
夕食にマリアは“シマ”を加えた、リリー
は白いご飯やパンよりも(トウモロコシの粉を熱湯で練った)シマが大好物だった。大皿の上に被せたボウルを取ると黄色い塊から湯気が立ち上がり、珍しそうに見るマイケルの前でリリーはシマを摘んだ。首を長くして待っていた者達は矢継ぎ早に声を掛け、飲み込む間もないリリーにマイケルが助けを入れる。
船のバルコニーからコバルトブルーの地中海や傾斜地に建ち並ぶ白い家々を眺めながら食事をしたこと。ラクダの背に乗ってピラミッドを観て砂地を裸足で踏んだこと。ケニアの国立公園では雪を被った勇壮なキリマンジャロを背景に、ゾウやキリンなどを観たことなど、止まない会話にスープは疾うに冷めて給仕は二回・三回と入れ直した。
長い初夏の夜、マイケルは暖炉に脚を投げ出し、重くなった瞼をこじ開けながら三人の話しに耳を傾けていた。マイケルはヴァージニア州の弁護士資格を有しているが、仕事柄ニューヨーク州の資格も必要な為、新婚旅行中も連邦法を学んでいたと言う。そんなマイケルの事情を余所に、オリビアは(シャーロット達がノーフォークに来ないことが分かると)リリー達に白羽の矢を立てて、(ジェームズとマーガレットが使用していた部屋にベッドやカーテンの布地の他、相当数の衣類等を運び入れ)引っ越しに本腰を入れていた。…オリビアの願いは“子供達が幼いうちに一緒に暮らして”成長を見守る事だった。…
「リリーどうするの、小母さんは貴方達に会社を任せるつもりよ」…
「経理は任されても良いけど、白人への指示や営業活動は出来ないわよ」…
「其れはマイケルかオリヴァーにお願いすれば良いんじゃない、ねぇ!マイケル」…
生返事で応えるマイケルを見かね、リリーは
「アダムスは何時まで居てくれるの」と訊ね、
「今、手掛けている運輸システムの構築が完成するまではノーフォークに居るそうよ」…
「ず❘っと居てくれれば良いのに」…
「だめよ!アダムスが戻ったら、お願いしたい事が沢山有るんだもの」…
…実際、実綿と綿布の単価は桁違いで採算の予想を上回っていたし、製品として出荷した下着は売り切れが続出して追加生産の依頼に追いつかない状況だった。収益も投資額をリカバーする勢いだったが、一段落するとバイヤーからサイズやデザインなどの注文が為されて、シャーロットはその都度対応に苦慮してきた。専門の者を雇うことも考えたが、バイヤーはブラウン家のお嬢様のお墨付きがあった方が良いと言う。…
「アイリス、下着も何時かは頭打ちになる
だろうし、男性の仕事も必要だわ」…
「小麦粉の製粉も足りていないのよ」…
農園で製粉した小麦粉は(街の住民だけに売ることを条件に)販売価格を決めて、毎月、街の穀物店に提供していたのだが…
(横流しの為なのか)買い溜めする人が増えて、半月程で売り切れていた。
“紡績工場の従業員からも直接に要求されて、
街人同士の諍いの噂が聞こえて来る”とアイリスは弁護士に当座の対応を依頼した。
本来、小麦の作付けは農園で食べる分量だけで、粉を挽いて残った分を麻袋に入れて穀物店に届けていた。農園では小麦の他、トウモロコシや豆などもあって製粉機の能力は現状が限度だった。増産する為には水車小屋の増築と小麦畑の拡張が必要になるが、未だ担当者の選定も今後の販売価格や方法なども決めていなかった。
ジャガイモの収穫が終わると綿花の追肥・
間引きを行って小麦の収穫が始まる。連作が出来ない小麦は輪番で東西南北のエリアに分担して作らせてきたが、作付面積を増やす為には(館を中心に東西南北に約三㎞を有する農園を)更に開拓して拡張しなければならなかった。アイリスは関係者を集めてアルフレッドを開拓工事の責任者にすると、紡績工場をシャーロットに縫製工場は秘書のメアリーに任せ、新たに秘書見習いの女の子と執事見習いの男の子を選任した。
早朝、弁護士事務所の前には白人の男性達が列をなし、保安官が立ち会う中で事務員が名簿を作成していた。作業の対価は日当で支払われるとのことで、列には小作農の白人の他、定職を持たない白人達も並んでいた。手続きを終えた者は作業服に着替えて幌馬車に乗り込み、馬車の後を保安官が随行した。アルフレッドは綿花畑の入口で待っていて、作業員を木の伐採をする者、根や石を興す者、
それらを集めて運ぶ者などに分けた。
ディービスとオリビアが開墾の掛け声が飛び交う中を馬車を連ねて到着すると、オリビアは庭園に咲き誇るヴァージニアストックを摘んで其の芳香に浸かった。アイリスが日傘を差して「お帰りなさい」と言うと、オリビアは涙ぐんで頷いた。その晩、オリビア達の歓迎会の話題はリリーの懐妊だったが、ララは“お産の手伝いには行くがノーフォークでは暮らせない”と言う。残忍な差別が横行する世間で黒人が安心して暮らせるのはブラウン家の農園だけだったし、誰しも生まれ過ごしてきた処が一番だったからだ。
ディービスとオリビアが加わり、朝晩の食事は小食堂が使われるようになったが、(開拓作業員への配膳などが加わって)給仕やメイドが忙しくなる昼はアイリス達も大食堂で食した。日中、マーガレットとエリザベスはベッティーに預けられていたが、体力が衰えてきたベッティーには目の離せない二人の相手が大変になっていて、アイリスは専属のメイドを付けて子供達をオリビアに預けた。水車小屋の建設が始まると、アイリスは手持ち無沙汰なディービスを連れ出してカブリオレ
を走らせた。水車小屋を目の前にしてディー
ビスは“開拓作業を観たい”と言う。
…ディービスは、単身アイルランドから出て来てリッチモンド近郊のプランテーションで年季奉公人として働いていた。当初は黒人と一緒に馬を使って木の根を興していたが、煙草の運搬を任されるようになって船に乗るようになったとのこと。年季が明けるとディービスは中古の帆船を購入して運搬業を始め、何時しか帆船は蒸気船になった。
そんな折、ディービスは煙草の運搬を依頼されてジェームス川を上って行くと、ブラウ
ン家の河川敷で船が座礁した。知らせを受けたジェームズは馬車のハーネスを外してロープで船を曳いた。ディービスがジェームズに
お礼を述べると、ジェームズの背後からオリビアが現れて「船に乗りたい」と言う、其れがオリビアとディービスの出会いだった。
其の日、ジェームズの招きで農園に入ると、畑の其処かしこからジェームズとオリビアに黒人達が明るく声を掛け、手を翳して応える二人に驚きながらディービスは白亜の館を見上げた。是までディービスが目にして来たのは黒人の悲壮な顔と足枷だったが、ブラウン家の農園では足枷も無く・皆明るい笑みを浮かべていた。ディービスは“自分は食べ物に事欠き・学校にも行けない環境の中でアメリカに渡って来たこと、黒人のように鞭を打たれたこともある”と告知するのをオリビアは泪を溜めながら聴いていた。…
開拓作業を観ていたディービスは“一日中手伝っても良い”と言い、アイリスはアルフレッドに事情を話して、午前中だけ手伝わせることにした。開拓の作業は日の出に始まり日の入りで終わる、従い、彼等の昼食は農園の人達が食べる前になる。食堂のテーブルには既にトレイとスープカップの他、フォークとスプーンが並べられ臨時の給仕係がスープポットや蓋付き大トレイを温めていた。
トウモロコシの乾燥をする傍らで女性陣は綿花の追肥と摘花が始め、男性陣は河川敷で干草集めと道路補修作業を行っていた。書斎には総監督官が記入した東西南北の作業予定と人員配置表が掲示されていて、それを見れば忙しい作業処が一目瞭然だった。多忙なこの時期、シャーロットは紡績工場を抜けて摘花作業の手伝いに出た。
太陽が真上から照り付ける中、アダムスは
シャーロットを見止めると、キャビンから身体を乗り出して手を振った。“お嬢様!”と呼ぶ声が波のように伝わって来て、シャーロットが顔を上げて応えるとアダムスは館に向かって駆け抜けた。
蝉の音は盛りを過ぎたが蒸し暑さは続いていて、館に戻るとシャーロットの背中を汗が流れ落ちた。シャーロットはシャワー室に駆け込んで下着と作業衣を着替えてから階段を上って行くと、チャーリーとリチャードが談話室から飛び出て来て競うように(アダムスの)書斎に入って行った。アダムスが二人を抱き上げて遊びの話しを始め、…シャーロットはそれを即座に否定してアダムスを窘める。昨今まで、チャーリーとリチャードの日課は読み書きだけだったが、算数と理科の講義も始まっていた。
久し振りの帰宅に二人はアダムスにまとわ
りつき、昼食を終えても離れない二人をアイリスとシャーロットはなだめて会議室に行かせた。…屈託のない二人の笑顔を見ていると、男の子には父親が必要なのだと考えさせられた。…ディービスが農園の食堂で昼食を済ませて戻って来ると、アダムスは早速、会社の現状を報告した。…事業所はリリーとマイケルがオリヴァーを支えながら上手く回っていることや、アメリカとイギリスの間に電話回線が出来てリパプール支所との連絡が容易になったことなど…アダムスは是までノーフォークとニューヨークの船会社や倉庫会社を廻って業務提携を進めてきた。其れは空船や倉
庫の無駄を無くす為でもあったが、大量生産
・大量消費時代の雑貨店経営者としても仕入れた物を安価なコストでスムーズに運搬する事が大切だったからだ。
アダムスはロンドンを離れる前、業務全般の運営を執事のローガンに委ねてきたが、未だ代表権は有していて半年に一度はロンドンに行かなければならなかった。ニューヨークでは電気機器の生産が盛んになって、従来の綿花や砂糖の輸出は下火になった。一方、イギリスからは自動車や発電機・綿織物などが入って来ていた。双方で売れそうな物をどのタイミングでどれだけ仕入れるかが雑貨店の宿命だったが、街燈が輝き、蒸気機関車が電化され、新しい電器機器や機械が次々と出て来る様は異様だった。激動するニューヨークでも黒人は益々隅に追い遣られていて、著名な雑貨店のオーナーでも泊まれるホテルや入れるレストランは限られていたし、(白人の)従業員を随行させることも難儀だった。
シャーロットが農園を離れないと決めた以上、アダムスも農園を拠点にしなければならなかったが、シャーロットが居て子供等が居る農園は唯一アダムスが安心して暮らせる場所だった。益して、此処にはジョージの魂魄
が散らばっていて、アダムスはジョージの優
しさに包まれて生きることが出来た。
蒸し暑さが残る休日の早朝、「子供達を川に連れて行きたい」とアダムスが言うと、シャーロットは「後で連れて行くから先に行ってて」と言い、アダムスはロビーに居たトムと馬場に向かった。白い厩舎の奥にはガレージが有って、トムは係員に荷馬車とアダムスの馬を準備させた。嘗て(ジョージの馬)キングが入っていた馬房の壁には釣り竿が掛けてあり、ジョージは梁の上にシャッドを置いていた。アダムスは梁の上に手を伸ばして埃を被ったシャッドを見つけると、釣り竿を背負って馬に乗った。
ブラウン家が舟遊びに使っている場所は西側農園奥の川が大きく蛇行した処で、広い川原には底の浅い渡し船を置いている。アダムスは其の手前に馬を停めて、少し川幅が狭くなった(ジョージから教わったポイントの一つの)流れにシャッドを投げ入れた。小魚が跳ねている上流に向かってシャッドを走らせて竿を挙げ、又、シャッドを投げ入れる。アダムスは無心に川面を見つめながらジョージとの思い出を浮かべていた。
…父親は南アフリカから母を連れて来てメイドにしたが、アダムスを身ごもると母はロンドンの黒人街に追い遣られた。毎月、父親は執事(ローガン)を介して仕送りを持って来させたが、日当りが悪く、異臭の入る部屋は母の健康を害していった。学校に通う事が出来ないアダムスは独学で読み書きを学び、十歳の誕生日に父親が訪ねてきて“寄宿学校に入れ”と言う。白人のお坊ちゃん達しかいない寄宿生活で貧民街に住んで居るアダムスの素性は知れ渡り、蔑み・揶揄されるアダムスをジョージが庇ってくれた。父親にも疎まれて育ったアダムスには、生まれて初めて白人から受けた優しさだった。肉体的・知能的に優れているジョージに反抗する者はなく、アダムスは安穏に寄宿学校を過ごした。
夏休み、ジョージに誘われて館に着くと初対面のマーガレットは両手を広げて迎え、シャーロットは従順に手を添えた。心地良い温もりに包まれながらロンドンに戻ると、父親は病床に伏していて(大学への)進路を話す事も出来なかった。間もなく父親が逝去して弁護士が「遺言書」を開示した。ロンドンの屋敷や全ての店の権利は義母の承諾を得てアダムスに譲渡される内容だったが、屋敷に居座る義母からは何の音さたも無い。
翌年、アダムスは執事の助言を得て一年遅れで大学に進んだが、母親のベルはロンドンの貧民街で急死してアダムスは一人で見送った。天涯孤独になったアダムスはジョージに会いたい、シャーロットに会いたいと願っても戦争の最中ではどうしようもなくアダムスは届かぬ想いを認めた。大学を卒業すると義母は屋敷を出てアダムスは漸く屋敷に入った。執事は兼ねてからの言付て通り、役員会を開いてアダムスを筆頭役員に据えた。…
「シャカ!シャカ!」と馬車の音が近づい
てきて竿を挙げると、トムが驚いたような声を出して竿先を指差した。銀色に輝くアメカジがポチャンと音を立てて岸辺に落ちてトムのため息が続き、幌をたくし上げた荷台から幾つかの目が注いだ。
キャラバンには館の全住人が乗っていて、アダムスはディービスと日よけの天幕を張ってシートを敷いた。トムは小舟を仰向けに戻して川岸で水漏れの確認をすると、チャーリーとリチャードを乗せて対岸を行き来した。オリビアが砂遊びに飽きたマーガレットとエリザベスを連れて来て、トムは二人を命綱で縛って船に乗せた。子供達のはしゃぐ声よりもベッティーの太い声がマリアとララに降り注ぎ、慌ただしい二人をシャーロットとアイリスが手伝う、蝉は鳴りを潜めて木陰ではハーネスを外した馬が休んでいる。
牛肉の焼ける音、トウモロコシの粉を練っ
て薄く延ばして焼くのはトムの奥さんの発案で、タマネギとランプも鉄板で焼かれていた。傍らでポタージュとコーンのスープが入ったポットを温め、リンゴとイチゴの果実酒が並ぶ。ディービスはグラスを片手に松の幹にもたれて、目の離せない子供達を眺めていた。敷布の真ん中にパンを積んだバケットを置くと、ベッティーは孫達を呼び寄せた。シャーロットは勿論、嘗て子守りをされていたベッティーにはオリビアも歯が立たない、オリビアはドレスの裾をたくし上げながら二人を連れて来る。(普段、母親に甘えることが出来ない)マーガレットとエリザベスは其々シャーロットとアイリスにへばり付き、チャーリーとリチャードは皆が揃っている嬉しさに皆の間をはしゃぎ回った。
一段落すると、アイリスはエリザベスの手を取ってヴァージニアストックが群集する松の根元に連れて行った。アイリスは小さい花びらが徐々に色を変えて行く可憐さと微かな芳香が好きで花束の匂いを嗅いでエリザベスに渡すと、エリザベスは馬の鼻先に突き出した。栗毛に白い額の若駒はそれを一口で飲み込み、アイリスは驚いて縮んだエリザベスの両手を頬に当てた。
シカよけの柵の向こう側には背の低い雑木林が延々と続き、ワシやタカも居ると言うが、アイリスは未だ見た事がなかった。又、館の二階の窓やバルコニーからは東西南北の地平線に広がる畑と雑木林だけで山らしい山も見たことがなかった。リリーは“日差しが照り付ける大地に白い雪を被った山が雲を突き抜けて聳えていた”と言ったが、…この子達が自由に学び、自由に働き、自由に旅行する日は訪れるのだろうか。振り向くと、シャーロットがマーガレットを抱いて立っていた。
農園では酒はストレスの軽減やコミュニケ
ーションの促進に役立つ為に飲酒を認めていたが、飲み過ぎは健康被害やアルコール依存症の原因になるばかりか、酩酊すれば人に迷惑を掛けるため“週末の夜更け”迄と刻限を決めていた。アルコールの製法は部族によって多少異なり、ベッティーはモロコシをイーストで発酵させた“チブク”ビールを造る。キャッサバやトウモロコシで蒸留酒を造る部族もあって、大概、飲酒は食堂を使用した。
以前は軽快感のあるリズムではあったが食堂の窓からは暗い黒人霊歌が流れていた。昨今は、踊るような明るい2ビートのリズムが
アドリブ化されて即興の演奏やメロディを奏でていた。大概、酒の席では太鼓のリズムに合わせて民族独特の踊りが始まるが、ベッティーは“トムは踊りが上手い”と言う。そもそもトムの踊りは“チブクダンス(酔っぱらっいダンス)“であったが、アルコールを飲めないトムは飲まないでも躍れた。
上着を脱ぎ捨て裸足になると、正にトムの
コミカルなチブクダンスが始まった。ベッティーが手拍子ではやし立てると、チャーリーとリチャードもトムの真似をして裸足になった。トムのダンスを初めて見たアダムスは腹を抱えて笑い出し、アイリスは安穏を噛み締めるようにシャーロットと見合った。
アイリス @2068591
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