黒い人影について
子柄 文字(しがら ふみあざ)
黒い人影について
怖い話をしたいと思う。怖い話をすると宣言して怖い話をするなんて、ムードもへったくれもないのは重々承知しているけど、怖い話をする。今から話す話は、自分が実際に体験した話だ。だからあまりにも現実離れした突拍子もない話ではないし、これといった恐怖に包まれた話でもない。ただ、私が実際に体験したという一点だけで、この話を怖い話として私は語る。
自分が高校生だった冬。冬なのだから当然寒い日のことだ。夜中睡眠を取る時は、私は毛布にくるまり、掛け布団に押しつぶされるようにして、ぬくぬくと暖をとって寝る。これが気持ちいいといえば気持ちいいが、暑苦しいといえば暑苦しい。だから時おり毛布から手足を出しては熱を逃がし、寒くなれば亀のように手足を引っ込める。これを繰り返す内に、気づけば眠りの底に沈み、朝日によって目を覚ます。
これがいつもの冬のルーティーンであった。私の身に、幽体離脱なるものが起こるまでは。幽体離脱について、説明するまでもないだろう。寝ている間に、私の肉体から自分の意識が抜け出して現実内をフワフワと彷徨う状態の事だ。しかし、私の幽体離脱は世間から言われる幽体離脱とは一味違う。いや、世間的な幽体離脱自体についても、私は詳しくはないから、今から語る幽体離脱も、ひょっとしたら世間的な幽体離脱そのものなのかもしれない。
毛布で暖をとる間、ぬくぬくしていると、次第に強烈な睡魔がこみ上げてくる。この睡魔に身を任せると、全身から力が抜けていく。やがて眠りについたかと思うと、気づけば、私は自分が眠るベッドのすぐ横で立ち尽くしている。そして、ベッドのすぐ横で、毛布に包まれた私を、垂直に硬直したまま、私が眺めているのだ。状況を把握するのに時間はさほどかからなかった。ああ、幽体離脱か。その程度の感想。
しかし、幽体離脱と呼ぶにはいささか出来が悪い。まず第一に私は直立不動のまま、動くことが出来ない。宙を舞うことも、体の傍から離れる事も出来ない。ただ、寝ている私を、傍で見守るだけ。
第二に、部屋が異様なまでに暗い。私の部屋には窓越しに月明かりの光が差し込んできて、たとえ深夜だとしても、完全な暗闇など起こり得ない。しかし、どうにも部屋が暗い。本来なら見えるはずのベッドや机、本棚の色合いとやらが絵の具で塗りつぶされたかの如く真っ黒で、かろうじて輪郭が認識できるほど。
窓の方へ目をやれど、月明かりはおろか、窓一面が黒い。まるで、私の部屋全体が、真っ黒に塗りつぶされたかのように、部屋の全体が暗い。この一連の出来事を、私はただの幽体離脱と片付けようとしていた。
気づけば、私の部屋の中心で、黒い煙のようなものがゆらゆらと揺れめいていて、次第にそれは揺れながらも、だんだんと、だんだんと、一つの黒い人型のような形へと収束していった。今にして思えば、どうして黒い部屋の中で黒い人影を認識できていたのだろう。理由は分からないが、まぁそういうものなんだろうと、私はてきとうに納得している。
その黒い人影は、直立不動の私と同じくベッドで眠る私のすぐ傍で、私と同じように、ベッドで眠る私をじっと見つめていた。まるで病人を介護するナースのような、はたまた死を看取りにきた死神のような、そんな雰囲気を、私は感じた。
やがてその黒い人影は、私に寄り添うように、眠る私に両手で優しく触れ、ゆっさゆっさと、身体をしきりにゆすり始めた。するとどうだろう、その揺さぶられる感覚が、直立不動の私にも響いてくる。ベッドで眠る私に連動して、立ったままの私も揺さぶられる。立ったまま、身体が動くこともない一方で、身体が揺さぶられる感覚だけが通じる。そんな肉体と感覚の矛盾に、私は為す術もなくただ受け入れていた。
やがて、黒い人影は私を揺さぶるのを止めた。両手を放し、まただらんとぶら下げてベッドの私をじっと見続ける。かと思えば、人影は急に私を殴り始めた。殴られる痛みが、ベッドの私を通じて確かに襲う。人影は手を休めることなく、私の胸や腹を何度も何度も殴りつけてくる。
その度に、ベッドで眠る私は、黒い人影の暴力から逃れるようにもぞもぞと毛布の中で、苦し紛れにうごめいている。だがそんな抵抗も虚しく、人影は空振りすることなく、私の身体を痛めつける。そんな様子を、私はただ眺めることしかできない。
人影がひとしきり殴り終えた後、再び両手をだらんとぶら下げて私をじっと見つめ始めた。その隣で、私も立ったままベッドの私をまじまじと見つめる。もちろん、殴られた痛みをしっかりと感じたまま。
すると、人影は左手をゆっくりと、大きく振りかぶっては、私の頬を思い切り叩きつけた。その頬の衝撃を感じると共に、私はベッドから飛び起き、咄嗟に叩かれた頬を優しくさする。幽体離脱の世界から舞い戻って、肌寒い現実の世界へと無理やり引き戻される。
そんな奇妙なルーティーンが、一か月程は続いただろうか。睡魔に襲われ、人影に殴られ、終いには頬を叩かれて目が覚める。そんな人影に殴られる様を、幽体離脱した私は、どうすることもなく、ただ眺めるだけ。眠る直前に襲われた睡魔に抗おうと試みたこともある。だがどれも失敗に終わり、幽体離脱してしまう。
だが雪解けし、春になるにつれ、奇妙な幽体離脱は次第に起こらなくなった。毎日のように起きていたこともあったが、二日おき、三日おきと、次第に頻度もまばらになっていって、暖かくなり、掛け布団も毛布も要らない季節へと変わったとき、奇妙な幽体離脱ともすっかりおさらばしていた。
再び幽体離脱をしたのは四月に差し掛かった頃だろうか。冬に使った毛布よりも薄い毛布に包まれ、私は寒さに苦戦することなく、すやすやと熟睡していた。夜中、強烈な睡魔に襲われることもない。気持ちのいい朝を迎えた。
窓からは太陽の光が差し込み、部屋全体を色鮮やかに照らす。窓から差し込む黄金色の光と、ベッドですやすやと眠る私を、私は、ベッドのすぐ傍で立ったまま眺めていた。ん? 眺めている? どういうことだ? 私は、目覚めのいい朝を迎えたのではないのか? いや、違う……私は、また幽体離脱をしている……。
状況の把握はさほど難しくはなかった。たんに、私はまだ目が覚めていないというだけの話だ。冬の時と同じく、身体を動かすことはできない。ただ、ベッドで眠る私を眺めるだけ。
気づけば、ベッドの私のすぐ傍、またあの黒い人影が立ち尽くしている。いや……黒い人影では無かった。それは……人影といったぼやけた存在ではない、もはや人そのものだ。黒いズボンに黒のジャケット、黒い革手袋に、黒いフード。とにかく黒い服装で全身を身にまとった黒の人物が、私の傍で立ち尽くしていた。
顔は分からなかった。顔も全部真っ黒に塗られていて、真っ黒なのっぺらぼうと言った所だ。だけど、ただはっきり、真っ黒に塗られた歯をむき出しにしては、ギシギシを執拗に強い歯ぎしりをしていたのは、鮮明なまでに覚えている。
強い歯ぎしりと共に、肩を激しく唸らせているそいつは、ベッドの私にあらん限りの憎悪を向けている。そんな怒りに満ちた人影をまじまじと眺めていると、人影が左手で何かを握りしめている。あれは、一体何だろう?
考えるやいなや、そいつは左手を大きく振りかぶって何かをベッドの私に思いきり突き刺した。脇腹に尋常じゃない激痛が走った途端に、何かがナイフであることを理解する。ナイフが突き刺されると共に、ベッドで眠る私の脇腹から血がどんよりと滲みだし、毛布が鮮血で鮮やかに汚されていく。
毛布の血の汚れが広がると同時に、私は血が流れ出る感覚を味わっていった。脇腹からくる痛みと、全身から湧き上がる熱を感じる内に、私は死が面前に迫っていると強く感じていた。
ベッドの私は必死になってもがいている。死に抗っているのか、それとも状況を理解できていないのか。だが、血液が毛布を順調に染め上げるにつれ、ベッドの私のもがきもだんだんと弱々しくなっていった。
それと同時に立ったままの私も、全身から湧き上がった熱が、急速に冷えていくのを感じていた。血が流れる感覚も薄い。意識が朦朧としてきた時、私は立つ気力も抜け、膝から崩れ落ち、床へと倒れ伏した。私の意識はそこで途切れた。
目が覚めた。尋常じゃない程のあぶら汗が全身から噴き出していて、枕も毛布も汗でびっしょりと濡れていた。左手で、刺された方の脇腹をそっと撫でる。左手には、ただ大量のあぶら汗がべったりとついただけだった。それ以降、幽体離脱の夢を私は見ていない。
黒い人影について 子柄 文字(しがら ふみあざ) @sigarahumi628
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