20250601
二〇二五〇六〇一
典明の住んでいるアパートには専用のゴミ捨て場など当然ないので、周辺エリアの住人が一堂に会する、重たいネットを持ち上げてその中に突っ込むタイプの場所に捨てに行く。
まともな暮らしこそ送れていないがゴミ捨てだけは自分と社会との最後のよすがだと思っている典明は、今日も死ぬ気で早起きをしてゴミをまとめ、古いサンダルを履き外に出た。
季節は初夏。吹き抜ける風が想像以上に爽やかで、眉間の皺が少しゆるんだ気がした。
「ん?」
所定の場所には小さな先客がいた。薄紫色のランドセルに右手には家庭ゴミ、左手には黄色くて丸みのある持ち手の傘。小学校低学年であろうその少女を見て、今日は雨が降るらしいことを知った。
少女はカラス避けの網を前にしどろもどろしている。両手が塞がっているのにどうやってこの重たそうな網を持ち上げたらいいんだろう……推察するにそんなところだろうか。
典明は誰に言うでもないようなオーラを纏わせながら「おはようございまーす」と努めて軽く挨拶をし、成人男性の腕力で網を持ち上げ、自分のゴミを放り込んだ。
「ほら、一緒に入れちゃいな」
「あ、えと」
少女は突然の出来事に困惑しつつ、右手のゴミ袋を丁寧に山の窪みへと積んだ。
「おうちの手伝い? えらいね」タスクを成し遂げ少し心に余裕の出た典明が尋ねる。
「うん、おかあさんにうららからおねがいしたんだ。うららできるよって」
自ら家の手伝いを申し出たらしい『うらら』と名乗る少女は、典明同様無事にタスクを達成して得意気に、そしてどこかほっとしたような顔をしている。少しだけ小さい頃の芽生を思い出した。あいつがこの歳の頃にはもう別の暮らしをしていたが。
典明はじゃあ、気をつけていってらっしゃい、と別れを告げて去ろうとした。その瞬間「ねぇ」と後ろから呼び止められて、再度少女へと振り返る。
「きょう、あめがふるらしいよ」
「……そうなんだ。ありがとうね教えてくれて」
「……」うららちゃんはじっとこちらを見て押し黙っている。
なんだ? いくら相手が小さい子でも、こっちは全然気まずい気持ちになれるんだけど。
「どしたの? 学校遅刻しちゃうよ」
「またごみすてに来たら、おじちゃんいる?」
*
「ま・み・む・め・もしかして、ふみちゃんにホの字 !?」
部活もバイトもなく早帰りだった芽生お手製のパスタ(家じゅうの材料を思いつくままに入れた気まぐれ風らしい)をつつく食卓で、シェフが麺を口一杯に詰め込みながら言う。
「どこにホの要素があったん」気まぐれ風ソースは意外とまとまっていて、典明は我が姪の器用さに少しだけ恐れ入った。……色よい返事を返すまで『食べに来い』と粘着して来さえしなければ、もっと純粋に高評価だけを差し出せるのだが。
「ごめん、それっぽいこと言ってみただけ」
「こら。ちゃんと脳みそ使って話せっていつも言ってるだろ」
「あ〜でもちょっと違うけど、私も小さいころ近所のお兄さんにほんのり恋心抱いてたことあったなぁ」あおいが口を開く。「憧れと恋心がごっちゃな時期ってあるよね」
それに反応したのはもちろん和明だ。
「うそ!? 俺が初恋じゃなかったの!?」
「んなわけないでしょ、カズくんとは会社で知り合ってんのに」
陸は何を言うでもなく麺を口に放り込んでは空を見ている。材料に何が入っているかを探っているようだ。再現レシピでも作る気だろうか。
今朝の女の子が果たしてどんな感情であの発言をしていたのかは定かでないが、いずれにせよ、また同じ状況になったら同じように網を持ち上げてあげようとは思った。
独身おっさんの一人暮らしはファミリー世帯ほどのスパンでゴミが溜まるわけではないし、そもそも今日の早起き成功は血の滲むような努力により僅かに抽出されたひとかけらの奇跡に過ぎないので、次会うのはしばらく先になりそうだが。
で、次のゴミの日はもちろん行かなかった。
典明の部屋は収集所にほど近いので、定刻になるとゴミ回収車の音が遠くから聞こえてくる。窓から見ればギリギリその様子を眺めることもできた。誰がいつ来てるか、やろうと思えば把握できるのだ。勿論おっさんがそんなことしてたらヤバいのでやらなかった。
その次の日にもそこまで溜まらなかったので行かなかった。更にその次の日は、出そうと思えば出せる量にはなっていたが気圧に大負けしてとても起きられなかった。
そんなこんなで、少女と会ったあの日からいとも簡単に二週間が経過した。
「んええ!? まだ会ってないの!?」
当然の如く家に上がってきた姪と甥をはいはいと迎え入れる。こういうとき、タイミングよく質問してきて答えに驚くのはいつだってこいつだ。
芽生の手には手作りと思われるコーヒーゼリー、陸はカップのバニラアイスを持参してきた。コーヒーゼリーって一緒に何飲めばいいかいつもわからないな。緑茶でも淹れるか?
「だってしゃーないじゃん、お前みたいにいっつもなんか食ってるようなやつがいるファミリーに比べてゴミとかあんま出ないもんさ」
「は!? なに!? 陸とかかーちゃんだって食べてるし!」
「僕いっつもボトルのガム食べてるから、ねーちゃんほどは出ないかと」
「なっ…なによー! もうお菓子作っても陸には食べさせてあげないかんね!」
「いや、それは食べる」陸はすでに、持参したらしいプラカップ三つにコーヒーゼリーとアイスクリームを分配している。寸分の狂いもなく均等だ。我が甥ながら恐れ入る。
明日は月曜から雨が降るらしく、今日は朝からその準備を始めるかの如く肌寒かった。典明は今あんなちべたいもん食ったら凍えちゃうよなあと思いながら、電気ケトルに水を入れてスイッチを押した。続いて、それぞれ専用のマグカップを用意する。最近陸のが増えた。
茶漉しのついたサーバーに茶筒から緑茶を振り入れる。どちらも芽生が花立家のお古を持ってきたものだ。最初はいらねーとか思ってたけど意外と使ってるんだよな。
「ねえ」
音も立てずに芽生が背後に立っていた。
「びっくりした、何」
「わかんないけどさあ、次はゴミ出したほうがいいんじゃないの」
芽生は典明の想像以上に、その少女のことが気になっているようだ。
「だって私だったらそういう約束結構覚えてるもん。めっちゃ口約束でもさ」
「言うても俺、別に来るよとかそうだねとか言ってないよ。体調崩したりで下手にそういう約束できないもん」サーバーに熱湯を注ぐと、茶漉しから漏れた細かい茶葉が踊った。
「でも……小さい子だったんでしょ。そこまでわかんないかもよ」
「そうかもしれんけど、逆にすぐ忘れてるかもよ。ほらマグカップ持って」
湯気の立ち上るサーバーを手に、芽生をテーブルへと誘導する。陸が行儀よく正座に握り拳を乗せて待っている。予報にない雷鳴が遠くから聞こえた気がした。
*
次の日の朝、典明が目を覚ますと外はやはり雨が降っていた。
スマホを見ると午前七時半を示している。典明の住む地域は八時というバカ早いとちくるった時間に回収車が来るので、ゴミを出すならその時間までに済ませないといけない。
(溜まってるっちゃ溜まってるけど、雨だしなあ)
一瞬、少女の姿が頭をよぎった。
一度しか見ていないから朧げだが、小さくて非力な印象だけははっきりと思い出せる。
「……はぁ」
典明は重い体を布団から引き剥がし、家中のゴミを集めて玄関を後にした。
雨は想像以上に本降りで、地面から跳ね返る水がみるみるうちにサンダルを侵食していく。ビーズを床にぶちまけたような音が傘から鳴っていた。
内心、祈っている。今日はいませんようにと。
自分の罪悪感と向き合わないで済みますように、と。
しかし、そこにはいた。ひとりの女性と……その人が差す傘に入っている少女。平日だというのにランドセルを背負っておらず、何やら二人で小さい口論になっているようだ。
「うーちゃん、もう五分経ったよ。五分経ったら帰るお約束だったよね?」
「……」
「もうすぐお引越しの車が来ちゃうから、戻らないとお兄さんたち困っちゃうんだよ」
「でも……」
このまえのおじちゃんきたら、こんどはうららがたすけてあげるんだもん。
話を聞くと、うららちゃんファミリーは今日で遠くに引っ越してしまうらしい。
お父さんが転勤の多い仕事で、小さい頃から転校はあまりさせたくはないけど単身赴任も……とか、こんな半端な時期に……とか、色々事情を鑑みたうえでの苦渋の決断だったようだ。生まれてから大学卒業まで地元に住んだ典明には少し衝撃的だった。
でもそういえば、芽生と陸も全然違う場所から引っ越してきたんだよな。
「それで、うららが手伝ってくれたおじちゃんにお礼するんだって、燃えるゴミの日に毎回張り切っちゃって」
「そう……でしたか。すみません、こんなに遅くなってしまって」
「いえ! 私からもご挨拶できればと思ってたので、最後にお会いできてよかったです」
うららちゃんのお母さんはそう言って笑った。いい人だなと心底思った。
「おじちゃん! ほら、てつだってあげる! あみあみ!」
うららちゃんが小さい手で少しだけ空けてくれた隙間に、典明は自分のゴミをそっと置いた。うららちゃんはお母さんの差す傘から大きくはみ出て少し濡れてしまったが、それでも嬉しそうだ。お母さんも困った顔をしつつも、やはり嬉しそうに笑っていた。
典明はその様子を見ながら、濡れた網で手を汚させてしまったことばかり案じていた。
おじめい小ネタ ナキエイドー @nakieidoh
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