第2話 “間”とは何か

 山は静かだった。

 風の音も、鳥の声もない。

 ただ、木々が存在し、空が在る。


 九頭竜剛は、重い足を運んでいた。

 記憶を頼りに、あの日の場所を目指す。

 あの小男――伝承者と出会い、敗れた場所。

 敗北は恐ろしいものではなかった。

 むしろ、その中に“答え”の気配を感じた。


 誰かに教えを乞うつもりはなかった。

 だが、自分では触れられなかった何かが、あそこにあった。

 それが“間”という名で呼ばれた以上、もう一度確かめねばならなかった。


 祠の前に、小男はいた。

 変わらず、痩せ細った身体に薄い道着をまとい、木刀を地面に立てていた。

 何をしているでもなく、ただ、そこに“在る”。


 剛が立ち止まったその瞬間、小男はゆっくりと目を開けた。

 「来たか」

 それだけだった。


 剛は言葉を選びかけて、すぐにやめた。

 問いも、願いも、頭の中で霧散した。

 ただ、歩み寄る。


 数歩先で止まると、小男はそっと構えた。

 前に出るでもなく、威圧するでもなく。

 構えなのに、構えていない。

 そんな“無”の所作。


 「突いてこい」


 その言葉に、剛は一歩だけ踏み出す。

 しかし、次の一歩が出なかった。


 目の前に空間があった。

 ただの空間。誰もいない。

 だがその一歩先に、“何か”があった。


 風でもなく、気配でもない。

 ただ、そこに“死”があった。


 動けば、打たれる。

 打たれるのではない。“終わる”のだ。


 自分の動作が、すでに読まれている気がした。

 いや、始める前に終わっていたのかもしれない。


 「それが、“間”だ」


 小男が静かに言った。

 「おまえが一歩を踏み出せないのは、そこに“何か”があると身体が感じてるからだ」


 剛は口を開こうとしたが、言葉が出なかった。

 ただ汗が、背中を流れていた。


 「“間合い”は距離の話だ。“間”は生死の話だ」


 その言葉が、深く刺さった。

 木刀ならば木刀の間、素手ならば拳の間、組手の間。

 それらは、“どこから技が届くか”の世界だった。


 だがこの男が言う“間”は、

 届くかどうかの話ではない。

 届いたときに、自分が残っているかどうかの話だ。


 「生き延びる者だけが、“間”を通過できる。

  それ以外は、ただ立っていても、すでに終わっている」


 その言葉を聞いた瞬間、剛はわずかに踏み込んだ。

 ほんの半歩。

 その瞬間、小男の肩がわずかに動いた。


 剛の足は、止まった。


 「……踏み込めない」

 呟いた声に、男は応えない。


 ただ、そこに立っている。

 それだけで、世界が封じられていた。


 「“間”は動きじゃない。“存在”だ」


 小男は拳を下ろした。

 その瞬間、圧が消えた。


 剛の肩から力が抜け、膝が少しだけ震えた。

 何も起きていない。

 打たれていない。倒れてもいない。


 だが、確かにそこに“死に近い空白”があった。

 それが、“間”の正体だった。


 剛はただ一言、呟いた。

 「……教えてほしい」


 小男は、首を横に振った。

 「教えるものじゃない。

  感じるか、感じないか。それだけだ」


 その言葉は、拒絶ではなかった。

 剛は、再び頭を下げ、黙って祠のそばに座った。


 教えられないなら、見て、感じて、奪うしかない。


 “間”とは何か――

 問いがようやく、始まったばかりだった。

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