第15話 終わらないメロディ

 六月の朝。少しだけ湿った空気のなかで、僕はギターケースを背負い、ゆっくりと歩いていた。校門の向こう、にぎやかな声が聞こえるたびに、胸の奥が少しずつ高鳴っていく。


「いよいよだな」


 今日はいよいよ、文化部発表会の最終日。そのフィナーレを飾る特別ステージで、僕と柚月はライブを行うことになっていた。


 思えば、あの春。もう二度と戻れないと思っていた時間を、僕はたしかに生き直した。そして出会い直した。柚月と。過去の自分と。そして、ミューと。


 ステージに向かうまでの準備室は、少しざわついていた。リハーサルを終えた僕たちは、舞台袖に腰を下ろして、静かに出番を待っていた。


「緊張してる?」

 と、柚月が聞く。


「うん。少しだけ。でも、それよりも楽しみの方が大きいかな」

 僕は正直に言った。


 柚月はふわっと笑って、少し首を傾けた。


「奏、変わったよね。前より、ずっとまっすぐになった」

「ありがとう。柚月も変わったよ。前よりもっと、強くて、綺麗な声になった」

「ふふ、嬉しい。じゃあ、ミューにも届くように、ちゃんと歌わなきゃね」


 その名前を聞いたとたん、胸の奥がきゅっと締めつけられる。でも、もう泣いたりはしなかった。ミューはもういない。でも、彼女の言葉は、ちゃんと僕のなかに残っている。


「未来を選べ」


 あの言葉を、僕は今でも大切にしている。過去を何度もやり直そうとした僕に、ミューは最後に「今を生きること」の意味を教えてくれた。記録の再生でも、願望の投影でもない、“本物の選択”を。


 ステージのライトが僕たちを照らした。


 ざわめきが静かに消えていく。照明の下、客席が見えた。クラスメイト、先生たち、家族。そして、この瞬間、誰も知らない未来へとつながる。


 僕はギターのコードをゆっくりと押さえた。柚月はマイクを両手で包み込むように持ち、目を閉じて深く息を吸い込んだ。


 最初の一音。ギターが鳴り、柚月の歌声が重なる。


 その瞬間、僕たちはもう振り返っていなかった。迷いも、後悔も、すべて音に変えて、ただ前へ進んでいく。音楽が、光になって広がっていく。


 この曲は、思い出の再生じゃない。今ここでしか鳴らない、“未来”のメロディだ。


 過去の傷も、後悔も、出会いも、別れも。全部ひとつに溶けて、メロディになっていく。それはまるで、新しい物語のはじまりを告げる“鐘の音”のようだった。


 僕たちのステージは、やがてクライマックスへと向かっていく。柚月の声が空間を満たし、僕のギターがその想いを包み込む。客席の向こうに、ミューの声が聞こえたような気がした。


「奏、選んだ未来を、信じて進め」

 僕は頷く。もう、どんな過去にも、振り回されない。選んだこの道の先で、生きていくと決めたから。


 曲の最後のコードを鳴らす。その音が空に溶けていくとき、僕たちは、まるで同じ夢を見ていたような気がした。


 これは、終わりじゃない。これは、未来へつながる“始まり”なんだ。

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