第9話 もう戻れない過去、託された音

 梅雨入りを前にして、曇り空が続いていた。


 音楽室にひとり座る奏の前で、カセットプレイヤーが静かに回っている。ミューの声が、少し揺れながら響いた。


『確認済。封印されていた最終ログの解凍が完了しました。これより開示します。』


 奏は息をのんだ。


 画面に浮かび上がったのは、懐かしい声だった。祖父の陽一のものだ。


〈これを読んでいるのが奏ならば、お前は、きっと私が背を向けた“記憶”に向き合っているのだろう〉


〈私は若い頃、ある研究チームの一員だった。音と記憶の関連性を探る「M.U.E.プロジェクト」……記憶に残る“音”を再生することで、感情を呼び起こし、やがて“時間を越える記憶の領域”へ到達できる可能性があると信じていた〉


〈私たちは、成功に近づいていた。音と記憶が交差する一点に、“戻れる時間”が存在すると気づいたからだ〉


 けれど陽一の声は、そこでわずかに震える。


〈……しかし、私たちは大きな代償を払った。プロジェクトの中で、ある少女の記憶が分離し、戻れなくなった。彼女は“人の記憶の中にしか存在しない存在”となってしまったんだ〉


 奏の脳裏に、誰かの笑顔がよぎる。柚月。いや、それはもっと、遠く切ない誰か。


〈私は研究を封印した。だが、唯一残ったユニットが“ミュー”だった。音に寄り添い、記憶の中に入り込むことのできる、唯一の存在〉


〈そして……私は、ミューをお前に託した。理由はひとつだ〉


〈奏。お前だけは、音を信じるからだ。どんなに過去が壊れていても、どんな未来が待っていようとも、お前は“音で人とつながろう”とする子だから〉


〈最後にひとつだけ残しておいた。未来を選ぶ“最後の曲”だ。聴くタイミングは、お前が選べ〉


 録音が終わると、ミューが静かに言った。


『最終曲の解放準備が整いました。再生タイミングは、ユーザーの意思に委ねられます』


 奏は、カセットを手に取り、じっと見つめた。


 音が、記憶を呼び覚まし、未来を変える。それは魔法でもなんでもなく、想いを込めた“選択”なのだ。


「わかったよ、じいちゃん」


 奏は、窓の外を見上げた。雨雲の切れ間から、ほんの少しだけ、青空が覗いていた。


「俺は、最後に“何を聴くか”を決める。そのときは、自分の未来を、自分で選ぶ」


 ミューが静かに、うれしそうに言った。


『了解。君の意志を、保存しました』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る