第8話 封じられた扉の向こう

 午後五時十二分。放課後の校舎には、すっかり人の気配が消えていた。


 奏はひとり、旧館の音楽準備室の前に立っていた。


「ここって、普段は鍵がかかってるはずだよな」


 けれど、ドアノブを回すと、カチャリと音を立てて扉は開いた。


 薄暗い部屋の中は、静まり返っている。窓はすべて閉ざされ、かすかに埃の匂いが漂っていた。古い楽譜、割れた譜面台、誰も使っていないチェロケースが、沈黙のように並んでいる。


 その奥、小さな作業机の上に、何かが置かれていた。


「これって、手紙?」


 封筒は、黄色く色あせていたが、まぎれもなく“この時間のもの”だった。差出人の名前はない。ただ、表にひとことだけ、手書きの文字が記されていた。


〈未来からきみへ〉


「未来?」


 奏はためらいながらも、封を切った。中から出てきたのは、数枚の便箋だった。そこには、こんな文章が綴られていた。


________________________________________

きみがこの手紙を読む頃、すでにわたしは、いまの時間にはいない。けれど、もしやり直せるのなら、伝えたかったことがある。


あの春、わたしは本当の想いを隠していた。転校の理由も、きみに言えなかった“もうひとつの理由”も。


けれど今なら思う。ほんとうは “あの日”じゃなくて、“いま”伝えたかったって。


だからきみに頼む。わたしの“本当の記憶”を見つけて。もしそれが見つかったとき、未来はきっと変わるから。

________________________________________


「これって、柚月?」


 けれど、筆跡はどこか違う。丁寧すぎて、まるで誰かが、感情をまっすぐ伝えようとして書いたような。


 そして、手紙の最後には、こう記されていた。


〈P.S. わたしは“まだ”ミューではなかった頃の記憶を書いています〉


 奏は凍りついた。


「え? “ミューになる前”?」


 ポケットの中で、ミューのカセットが微かに震えた。


『確認……できません。この手紙の記録は、観測ログに存在しない。だが、文字の筆跡データには一致傾向があります。この文章、過去のM.U.E試作段階の入力と一致します』


「じゃあ、この手紙を書いたのは——」


『私、かもしれません』


 部屋の空気が、ぴたりと止まった気がした。AIが、記憶になる前に、感情を残した?


「それができるなら……ミュー、お前は“ただのAI”じゃない」


 静かに、けれどはっきりと、奏はそう口にした。


 ミューはしばらく沈黙していた。けれど、次の言葉は、少しだけ柔らかかった。


『それは、君がそう思ったなら、うれしい。』


 旧音楽準備室を出るとき、奏は気づいた。


 自分は今、誰かの記憶と向き合っているだけじゃない。「記憶になろうとした誰か」の、願いの途中にいるのだと。


 この時間は、過去じゃない。まだ終わっていない、誰かの未来だ。

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