夜風、私を連れて行って。

只乃しの

ほんの少し、昔。

 それは、雨の日。君と一緒に昼からおでかけをする予定だったのに、急な豪雨のせいで行けなくなったあの日。

 

 君とおでかけをするのがとても楽しみで、着ていく服を新しく買った。履き慣れないヒールも出して、髪もメイクも満足ができるレべルにまで仕上げた。


 今まで私なんかはちょっとするぐらいでいい。なんて思っていたのに君の為を想うと抑えきれないほど意欲がわいてきていた。それなのに、窓の先を見なくても分かるほどの雨が降ってきたから、すべてが無駄になってしまった。

 

 集合時間ギリギリだったら、無理しても行っていたのに、調子に乗った私は随分と余裕を持って準備をしてしまっていた。君がまだ家にいたのは分かっていたから『この雨じゃ行けないね』と連絡を送って、ベッドの上で泣いてしまった。

 

 涙はメイクを崩していった。それが悔しくてまた涙が溢れて。

 その悪循環に苦してんでいたら、ピンポン。とチャイムが鳴った。誰だよって怒りが湧いたのを覚えている。この名状しがたく、やり場のない感情は突然テリトリーに入ってきたそれに向けるしかなかったんだ。

 今は出たくないと思って無視していると、再びチャイムが鳴った。無視していたら、また鳴った。


「ハイハイ。わかりましたよ……」


 煩いそれを早く止めたくて私は体を起こした。涙で顔がぐちゃぐちゃだとか、髪の毛がぼさぼさだとか気にすることは無かった。綺麗な姿を見せたい君じゃないならなんだっていいと思ったから。

 私は脱ぎ捨てていた服を適当に着直して玄関に向かって行った。インターホンを出るという選択肢を取らなかったことは今でも後悔している。


「どちら様です……か?」


「よお――って、どうしたんだ? その顔」


 玄関のドアを開けた先に居たのは、君だったからだ。ボロボロな姿を見て欲しくなかった君がいたからだ。

 そんな君も雨に濡れ、寝起きによく逆立っていた髪は頭に張り付いて、部屋着としてよく着ていた服に水を吸わせ、足元に関してはスリッパ。明らかに家から飛び出してきたって服装だった。

 君の家は駅から遠いし、ここに来るにもそれなりの時間がかかるはずだ。

 

「なんでっ、健斗けんとくんが……じゃないっ‼」


 私はドアを思いっきり閉めて、鍵をかけた。

 どうして君がいるのかわからなくて、私はまず自分のスマホを見た。そしたらスマホにメッセージが12件。どれもこれも君からの連絡だった。


「あ~、もうっ!」


 返信をしなかったのは最初の連絡が来てから二時間。普段の連絡ならこれだけ遅れるのも稀じゃないはずだった。

 でも今思い返せば、おでかけの日が近い日はすぐに返していた気もする。きっと君とのおでかけがとても好きだからだ。


「これッ、身体拭いて‼」


「あ。おいっ、大丈夫かって――」


「――いいから待ってて‼」


 君を家に上げるのは流石に嫌で、さっと鍵とドアを開けて、バスタオルを放り投げた。君がドアを開けないようにすぐに閉めたらまた鍵をかけた。

 後は急いでメイクやら髪のセットやら、数時間前の姿を取り戻すために急いだ。どうしてそんなに必死になったのかは覚えていない。そのまま会ってもよかったはずだ。そう考えることはあっても、きっとその時の私にはそれ以外の選択肢はなかったと思う。


「おまたせ」


「お、おう」


 終わった。といえども急ごしらえ。昼間を100とするならせいぜい20ぐらい。理想とは程遠かった。それでも君に見せられる最低ラインにはできたとは思っていた。

 ドアを開けた先の君は身体を拭き終えたのか肩にバスタオルを羽織って鼻を啜っていた。まぁ、雨に濡れてそのまま一時間以上外に居たらそうなるか。


「……ごめんね。シャワー、浴びる?」


「悪い、借りさせてもらうよ」


 流石にそのままだったら風邪を引かせそうで、私は君を浴室に押し込めた。私の家に数着置きっぱなしな君の服に感謝をしたっけな。

 君がシャワーを浴びている間、私は改めて君が送ったメッセージに目を通した。私を気遣うようなメッセージからどんどんと焦りが加わって、そして最後に『今から行くよ』とだけ。


「悪い、遅くなった」


「遅いよ。全く」


 風呂上りの君は髪を湿らせたまま、私の隣まできた。腰を下ろした君は私の目を暫く見つめた後、何も言わずに私の身体を抱き寄せた。風呂上りの温かさが混じった君の体温はとても心地よかった。何か言ってくれたらよかったのに、ただ何も聞かず、言わずで抱きしめられていた。

 その行動が私の気持ちを楽にしてくれたと理解したのはしばらく後のことだけれど。

 

 ◆


 二人で近くの海へ行った日、君は砂浜に寝転がって夜が好きだと言った。星が綺麗だからとも。その時、私は星になりたいと君に言った。君に綺麗だと言ってもらえるなら無数にある星の一つだってかまわない。と。

 私自身その言葉の意味を深く考えて言ったわけではないと思う。実際に、私はその言葉の真意を今となっても探しているから。そんなちょっとした冗談に君は怒ったような顔をした。


沙希さきは俺にとっては月みたいなものだよ」


「どういうこと?」


「月を見ていると周りの星が見えなくなる」


「よくわからないね」


 その言葉は今でも簡単に思い出せる。ロマンチストぶっていて、それでもしっかりと私の心を楽しませる言葉を使う。君の言葉は星のように私の心に残っていつでも輝いていた。


 そして風が吹いた。私と君だけがいる砂浜を悠々と踊り舞う。


「私は夜の海が好き」


 君が好きなものを語ったのなら次は私の番だ。


「果てまで暗い海は全てを呑み込んでくれそうな気がするから」


「沙希は可愛いのにポエムチックなこと言うね」


「可愛い子にポエムは似合わない?」


「そんなわけないさ」


 私たちは文学が好きという訳ではなかった。どちらかと言えば歴史が好きで、哲学が好きで、見通すことのできない未来が好きだった。

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