記憶の島影
れおりお
記憶の島影
霧がかった船着き場で私は目を覚ました。
頭がズキズキする。体は冷たい木の板の上にあり、耳には波の音が断続的に届いている。私はゆっくりと上体を起こした。周囲には誰もいない。ただ灰色の海と、不明瞭な形の島影が霧の向こうに見える。
自分の名前は水野誠。それだけは確かだった。だが、なぜここにいるのか、何をしていたのか--そういった記憶が霧の中のようにぼんやりとしている。
私はポケットを探った。小さなカードが出てきた。「和光島定期記憶調整済:05/01/2025」と印字されている。裏面には「健康管理センター高橋医師」のスタンプ。おぼろげながら、私はこの島に住んでいることを思い出した。しかし「記憶調整」とは何だろう?
「おい、水野!また船着き場で寝てたのか?」
振り返ると、老漁師の田代さんが網を手に立っていた。彼の風貌は見覚えがある。
「田代さん...」
「何をぼーっとしてる。今日は調整日だったろう。みんな少し混乱するが、お前はいつも船着き場でごろごろしやがって」
調整日。その言葉に違和感はない。そう、島では定期的に「記憶調整」が行われるのだ。それは...何のためだったか。
「すまない、少し頭がはっきりしなくて」
「当たり前だ。調整の直後はみんなそうさ。さあ、帰って休め。明日は漁に出るぞ」
私は立ち上がり、ポケットのカードを見つめた。日付は今日のものだ。確かに私は記憶調整を受けたのだろう。だが、その過程自体が思い出せない。
船着き場から砂利道を歩いて集落へ向かった。「和光島」--人口わずか200人ほどの小さな離島。周囲は常に霧に覆われ、本土との行き来は月に一度の定期船のみ。私はここで漁師として暮らしている。そこまでは覚えている。
家は集落の外れにあった。質素な平屋だが、住み慣れた場所という安心感はある。玄関を開け、靴を脱ぎ、居間へ。壁には誰かと映った写真が一枚。女性だろうか...顔がはっきり思い出せない。
その夜、私は奇妙な夢を見た。白衣の人々が行き交う広い部屋。壁一面のモニター。そして横たわる無数の人々。彼らの頭には何かの装置が接続されている。その光景は恐ろしくも、どこか既視感があった。
翌朝、私は健康管理センターに向かった。記憶調整後のフォローアップは義務だという認識が、どこからともなく浮かんできた。
センターは島の中央にある近代的な建物で、白い壁と青いガラス窓が周囲の古い漁村の家々と不釣り合いだった。
「水野さん、よく来てくれました」
受付で待っていたのは高橋医師だった。40代前半、知的な雰囲気の男性で、島で唯一の医師だ。
「昨日の調整はうまくいきましたか?少し混乱があるかもしれませんが、それは通常の反応です」
「はい...でも調整とは何のためのものなんですか?少し思い出せなくて」
高橋医師は微笑んだ。「毎回同じ質問ですね。安心してください、これも通常の反応です。簡単に説明しましょう」
彼の説明によれば、和光島は特殊な環境にあり、海からの未知の物質が時折島民の脳に影響を与えるという。その結果、混乱や妄想、時には暴力的行動が起きる可能性があるため、月に一度の記憶調整で悪影響を取り除いているとのことだった。
「つまり...記憶を消しているんですか?」
「消すのではなく、整理しているんです。有害な思考パターンを取り除き、健全な状態に戻しているだけです。さあ、これを飲んでください」
彼が差し出した青い錠剤を飲み込むと、不思議と心が落ち着いた。確かにこれは定期的な処置だ。島に住む以上、当然のことなのだ。
帰り道、私は安堵感と共に集落を眺めた。平和な島だ。漁に出る男たち、野菜を育てる女性たち、走り回る子供たち。しかし...どこか違和感がある。子供たちの笑い声が聞こえるのに、表情がどことなく空虚に見える。大人たちも同じだ。皆が同じリズムで動き、同じように微笑んでいる。まるで...設定されたかのように。
その日の午後、私は田代さんと共に漁に出た。いつものように網を投げ、魚を獲る。単調だが心地よい作業だ。しかし、沖に出るにつれて、島を取り巻く霧が不自然に均一なことに気づいた。
「田代さん、この霧は昔からですか?」
「ああ、和光島の霧は特別だよ。島を守ってくれるんだ」
「守る?何から?」
田代さんは一瞬動きを止め、私を見つめた。その目に一瞬、何かが閃いた気がした。
「外界から、だよ」
それ以上は語らなかった。
漁から戻る途中、潮流の変化か風向きのせいか、私たちの小舟は島の北側へと流されていった。北側は立入禁止区域とされている。理由は急な崖があり危険だからと聞いていた。
「まずいな、北に流されている」田代さんが舵を切ろうとした時、遠くに何かが見えた。霧の切れ間から見えたのは、大きな建築物の影だった。
「あれは...?」
「見るな!」田代さんの声は強く、普段の温厚な調子ではなかった。「北には何もない。見えるものは幻だ。記憶調整の直後はそういうことがある」
しかし、その建物は幻には見えなかった。コンクリートの壁、研究施設のような外観。そして...人影が動いていた。
船を岸に近づけることはできなかったが、その風景は鮮明に記憶に焼き付いた。夜の夢に出てきたものと似ていた。
その夜、私は再び同じ夢を見た。白衣の人々、モニター、そして横たわる人々。だが今回は、その横たわる一人の顔がはっきりと見えた。それは...私自身だった。
数日が過ぎ、私は日常に戻っていた。漁に出て、魚を売り、時々村の集会に参加する。表面上は平穏だったが、心の奥底では北側の施設のことが離れなかった。そして夜ごとに見る同じ夢。自分が横たわり、頭に装置をつけられている光景。
ある日、漁の最中に私は決心した。一人で北側を調査してみよう。田代さんが昼寝をしている間に、小舟を北へと向けた。
岸に近づくにつれ、霧が濃くなるのではなく、むしろ晴れていくのが不思議だった。やがて小さな入り江に到着。そこから岩場を登ると、先日見た施設の全容が見えてきた。
古びた研究施設のようだ。「和光研究所」と書かれた看板が傾いていた。建物は使われていないように見えたが、一部の窓からは光が漏れていた。
恐る恐る近づき、割れた窓から内部を覗くと、埃と朽ちた機械が見えた。かつては最先端の設備だったのだろう。
「そこの人、何をしているの?」
声に驚いて振り返ると、若い女性が立っていた。20代半ば、知的な目をした美しい女性だ。どこかで見た顔だと思ったが、思い出せない。
「すみません、ただ...」
「好奇心?」彼女は小さく笑った。「私と同じね。私は柏木琴音。あなたは?」
「水野誠です。島で漁師をしています」
彼女は私をじっと見つめた。「水野誠...あなたもようやく目覚めたのね」
その言葉に戸惑いを感じた。「どういう意味ですか?」
「ここではなく、別の場所で話しましょう。この施設にはまだ監視カメラが作動しています」
琴音に導かれ、私たちは施設から離れた海岸の洞窟へと移動した。彼女の動きは機敏で、この地形に慣れているようだった。
洞窟の中、彼女は懐中電灯を灯し、静かに語り始めた。
「水野さん、あなたは自分が誰だか本当に覚えていますか?」
「もちろん、私は水野誠で、この島の漁師です」
「それは今のあなたです。でも本当のあなたは違う」
彼女の言葉に、私の心は波のように揺れ動いた。
「和光島は実験施設なんです。私たちは全員、記憶を操作された被験者。『完全調和社会』という実験の一部なんです」
信じられない話だった。しかし、心のどこかで、それが真実だと感じていた。
「証拠は?」私は震える声で尋ねた。
「あなたの家の床下を調べてみてください。自分で隠したものがあるはず。それと...あなたの壁にある写真の女性、誰か分かりますか?」
「...思い出せません」
「それは私です、水野さん。私たちは同僚だったんです。この実験が始まる前は」
その夜、私は恐る恐る自宅の床板を剥がした。彼女の言葉通り、そこには防水の小さな容器があった。中には手書きのノートと古いIDカード。
IDカードには私の顔写真と名前。そして肩書き。「和光プロジェクト主任研究員」。
震える手でノートを開いた。それは日記だった。最後のページにはこう書かれていた。
「彼らは私を止めようとしている。この実験の非人道性を外部に告発しようとしたために。明日、私も被験者にされる予定だ。だが記憶を完全に奪われる前に、この記録を残す。いつか目覚めた時のために。北側の施設に真実がある。そして琴音を探せ。彼女なら助けてくれるはずだ。」
私は床に崩れ落ちた。頭の中で断片的な記憶が蘇りつつあった。白衣を着た自分。実験データを分析する自分。そして琴音と議論する自分。それは夢ではなく、本当の記憶だったのだ。
次の日、琴音と再会した私は、見つけたものを見せた。
「思い出しました...断片的にですが。私はこの実験の研究者だった。そして告発しようとして...」
「そう。あなたは良心の呵責を感じて実験を止めようとした。でも高橋に阻止されたの」
「高橋?健康管理センターの医師ですか?」
「彼が全ての黒幕。このプロジェクトの責任者よ」
琴音の説明によれば、和光プロジェクトは政府の秘密事業で、「社会調和のための記憶管理」を研究していた。反社会的思想や過度な個人主義を排除することで、完璧に調和した社会を作り出すことが目的だった。
「島民全員が被験者なの?」
「ほとんどは。一部は研究スタッフで記憶操作を受けていない。高橋やその側近たちね」
「田代さんも...?」
「彼は『監視者』の一人。半分は被験者で半分は観察者。自分でも気づいていないけど」
全てが繋がり始めた。毎月の記憶調整、不自然な霧、島を出る船がほとんどないこと。そして住民たちの妙に空虚な表情。
「私たちには何ができるでしょう?」
琴音は真剣な表情で答えた。「健康管理センターが実験の中心施設。そこには全員の元の記憶データがある。それを取り戻して、全島民の記憶を一時的に復元できれば、彼らも真実に気づく。そして外部との通信装置もあるはず」
「潜入するんですか?」
「そう。でも危険が伴う。あなたは本当に協力する?一度知った真実は、忘れることはできないわ」
私は深く考えた。平和な漁師として生きるか、危険を冒して真実を暴くか。しかし、既に知ってしまった以上、偽りの平和に戻ることはできない。
「協力します」
2.
私たちは計画を練った。健康管理センターへの潜入は、次の記憶調整の日に実行することにした。その日は全島民が施設を訪れるため、混乱に紛れて奥へと進むことができる。
準備期間中、私の記憶はますます鮮明になっていった。特に高橋との対立の場面。彼が冷酷に笑い、「君は理想を見失った。この実験は人類の未来のために必要なんだ」と言った記憶。そして注射を打たれ、意識が遠のいていく感覚。
一方で、日常に戻ると違和感が増していった。集落の人々との会話が表面的で、誰もが同じような考えを持ち、疑問を持たない。さらに気づいたのは、住民たちが特定の言葉-「自由」「抵抗」「外部」など-を口にすると、軽い頭痛を感じることだった。条件反射のように組み込まれた何かがあるのだろう。
記憶調整の日がやってきた。例によって青い制服の職員たちが各家庭を回り、住民を健康管理センターへと誘導していく。私も流れに従い、センターへと向かった。
受付で名前を告げると、「303号室へどうぞ」と指示された。これも毎回のことだ。だが今回は違う。私は人混みに紛れ、琴音との約束通り非常階段へと向かった。
彼女はそこで待っていた。白衣を着て、髪を束ねている。研究スタッフに擬態しているようだった。
「これを着て」彼女は別の白衣を差し出した。「地下3階へ行くわ。記憶データベースはそこにある」
私たちは研究者のふりをして廊下を歩いた。誰も疑問を持たないようだった。エレベーターで地下へ降り、長い廊下を進む。途中、窓のある部屋が並んでいることに気づいた。中をのぞくと、横たわる住民たちが見えた。頭に装置をつけられ、モニターに脳波らしきものが表示されている。私の夢で見た光景そのものだった。
「記憶調整の実際の様子よ」琴音が囁いた。「彼らの記憶は選択的に消去され、新しい記憶が植え付けられる。一種の脳内編集ね」
地下3階の奥まで来ると、「立入禁止 -高橋主任研究員専用区域-」という表示のあるドアがあった。琴音は小さなデバイスを取り出し、電子ロックに近づけた。
「私が作ったハッキングツール。高橋は私の技術力を過小評価していたわ」
ドアが開き、私たちは中に入った。広い部屋の中央には巨大なサーバーが並び、壁一面がモニターで覆われていた。各モニターには住民の顔と、カラフルな脳の画像が表示されている。
「ここが記憶データベース」琴音が説明した。「島民全員の元の記憶がここに保存されている。そして...これが通信装置」
彼女が指し示したのは、部屋の隅にある衛星通信機器だった。
「計画通り進めましょう。あなたは通信装置で外部に信号を送る。私はデータベースからすべての元の記憶を一斉に復元するプログラムを起動する」
私が通信機器に向かった時、背後でドアが開く音がした。振り返ると、高橋医師が数人の警備員を連れて立っていた。
「やはり君たちだったか」高橋の声は冷静だったが、目には怒りが宿っていた。「水野、君はまた目覚めたようだね。何度記憶を調整しても、君の反抗精神は消えないらしい」
「高橋...なぜこんなことを?」
「なぜ?人類の未来のためだ。この実験がうまくいけば、すべての社会不安、対立、混乱は解消される。完全な調和社会が実現するんだ」
「それは社会じゃない。人形の集まりだ!」
高橋は微笑んだ。「君はいつもそう言う。過去4回、君は同じように目覚め、同じように反抗した。そして私たちは君を捕まえ、より深く記憶を操作した。今回も同じだ」
警備員が私に近づいてきた。琴音は端末を操作し続けていた。
「そして君、柏木。君も裏切ったか」
「あなたこそ人類を裏切ったのよ」琴音は振り向かずに答えた。
高橋は冷笑した。「彼女のことは信じない方がいい、水野。彼女は我々の味方だからね」
私は混乱して琴音を見た。彼女の表情が変わった。
「実は彼の言う通りよ、水野さん」彼女の声はさっきとは違っていた。「私はあなたの『反抗パターン』を研究するためのおとりだった。4回目のリセット後、あなたがどのように真実に到達するか、どんなルートで抵抗を試みるか-それを調査するのが私の役目だったの」
その言葉に私は凍りついた。全てが嘘だったのか。私が信じていた唯一の同志が。
「さあ、終わりにしよう」高橋が手を振ると、警備員たちが私に詰め寄った。
しかし、彼らが私に触れる直前、琴音が叫んだ。「今よ、水野さん!これを!」
彼女が投げた小さなデバイスを咄嗟にキャッチした。指示通り、近くの端末に差し込む。すると瞬時に部屋中のモニターが点滅し始めた。
「何をした!?」高橋が叫ぶ。
琴音の表情が再び変わった。今度は決意に満ちていた。「二重スパイよ、高橋。あなたには知らせないまま、本当の解放プログラムを作っておいたの。今、島中の全住民の本来の記憶が一時的に復元される」
施設全体にアラームが鳴り響き、モニターには次々と住民たちの脳波が乱れる様子が映し出された。そして、高橋のスマートウォッチから次々と通知が入る。
「島中で暴動が...不可能だ!」
「人々は真実を受け入れられるのよ」琴音が言った。「彼らは自分が誰なのか、どうしてここにいるのか、ようやく理解する」
警備員たちも混乱し始めた。彼らもまた半分は被験者だったのだ。頭を抱え、苦しむ者もいた。記憶の衝突が起きているのだろう。
その隙に、私は琴音の手を取り、通信装置へと走った。
「外部に信号を送るわ」彼女が素早く機器を操作する。「プロジェクトの証拠、島の位置、全てを送信する」
「止めろ!」高橋が叫び、制御パネルへと急いだ。「緊急プロトコル発動!全住民記憶強制リセット!」
赤いボタンが押された瞬間、施設全体が震え、まばゆい光が部屋中を満たした。私の頭に激痛が走る。断片的な記憶が走馬灯のように流れ、そして...消えていく。
「琴音...」私は彼女に手を伸ばした。彼女も同じように苦しんでいた。
「忘れないで」彼女が最後に囁いた。「これで5回目...次は北の岬へ...」
視界が白く染まり、意識が遠のいていった。
霧がかった船着き場で私は目を覚ました。
頭がズキズキする。体は冷たい木の板の上にあり、耳には波の音が断続的に届いている。私はゆっくりと上体を起こした。周囲には誰もいない。ただ灰色の海と、不明瞭な形の島影が霧の向こうに見える。
自分の名前は水野誠。それだけは確かだった。だが、なぜここにいるのか、何をしていたのか-そういった記憶が霧の中のようにぼんやりとしている。
私はポケットを探った。小さなカードが出てきた。「和光島定期記憶調整済:06/01/2025」と印字されている。裏面には「健康管理センター高橋医師」のスタンプ。
そしてもう一つ、小さな紙切れが出てきた。かすれた文字で書かれている。
「これで5回目。忘れないで。次は北の岬へ。-琴音」
この名前にどこか既視感を覚えた。北の岬?それがどこだか分からないが、行かなければならない気がした。
遠くから人の声が聞こえてきた。老漁師だろうか。彼に会う前に、私はもう一度紙切れを見つめた。そして確かな決意と共に、それをポケットに戻した。
何かが始まろうとしている。また一から。だが、今度は違うかもしれない。
記憶の島影 れおりお @reorio006853
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