第6話
ひび割れたタイルの上を、エリシアのヒールが静かに叩く音が響く。
廃ホテル「ルミナリア」の
瓦礫の山が、かつての豪華さを失ったこの場所の現在を物語っていた。
天井から
かつて豪華だったであろう装飾は、
天井からは剥き出しの鉄骨が蜘蛛の巣を
「…………」
エリシアは足を止め、目の前の
そこはかつての豪華な吹き抜けホールであり、恐らくかつてはシャンデリアが輝く下の元で人々の笑顔が絶えなかった場所だったのだろう。
しかし今や、シャンデリアの基部だけが天井に残り、床の模様も草と苔に覆われて消えかけている。
「ここが、かつて『ルミナリア』と呼ばれた場所よ」
静かに話し始めたエリシアの声には、深い
彼女の指が壁に残るわずかな装飾をなぞり、その目が遠い過去を思い起こしている。その背中からは、この場所をただの
エリシアはゆっくり足を進み直しながら、
彼女は振り返ることなく、静かに歴史を話し始める。
「エクリプスタウンが成長を始めた頃に、このホテルは建てられたわ。ここではどんな種族も立場も関係なく、皆等しく尊重される……それが『ルミナリア』の理念であり、目指した姿だったの」
語る声は静かだが、芯の強い熱が宿っていた。
「どんな種族も平等に、ですか?」
「ええ。エルフにドワーフ、マーメイドにアラクネ、ラミアにゴーレム等々……観光客も労働者も、身分も関係なくね。“種族に貴賎なし”という考え方は、このホテルの根幹だったわ」
「……素晴らしい理念ですね」
清嗣は素直に称賛した。
しかし理念の偉大さを理解するほど、それがどれほど困難だったかも想像せざるを得ない。
(理念は美しい。みんなで手を取り合って種族という垣根を超えて、他種族同士が笑い合って交流できる理想的な環境だ。だが、この規模を実際に運用するとなれば……)
思索に沈んだ清嗣の背で、リーシャが息を吐き、肩を回す。
「やっぱ何回聞いてもすげえな、エリシアのその想い。アタシも隣人同士で手ぇ取り合えりゃ一番いいと思う。……だが、現実はそんな綺麗な話じゃねえだろ?」
「……ええ。順風満帆なんて言葉と縁がなかったわ」
エリシアは苦く微笑む。
その様子に清嗣は得心する。
「やっぱり……人間同士でさえ小競り合いが絶えません。となれば、種族が違えば——」
「問題が山ほど出る」
リーシャは指を折りながら現実を述べる。
「まず、住む環境が違う。アタシら獣人族なら“柔らかい寝床”が欲しいが、岩肌が落ち着くゴーレム族や、湿気がないと肌が荒れるマーメイド族もいる。空気の温度、湿度や匂い……人にとっては些細なことでも、種族によっちゃ生死に関わる」
「……確かに」
清嗣は目を見開く。リーシャの指摘した通り、住む環境が違えば当然その地域に生きた人たち特有の好みや習性というのがある。
それは何も人間に止まらず、異種族にとっても例外じゃない。
「部屋の造りひとつだって違う。獣人族は爪を引っ掛ける素材を好むし、植物素材の家具を嫌う個体もいる。逆に、エルフやドライアドなどは生まれた環境に近しい森を彷彿とさせる場所を好む奴らもいる」
「力加減が種族によって違いすぎるのも考え物だわ。オーガやリザードンなど膂力に優れた種族が普通に扉を閉めるだけで、ドアノブが簡単に破損するケースも多かったの」
「……容易に想像できますね」
「部屋の内装を種族ごとに少しずつ変える必要があったわ。獣人族は匂いに敏感だから洗剤を変え、アラクネは天井の高さが必須。マーメイド族には水槽付きの浴室を、ラミア族には長い胴を伸ばせる寝台を……」
何事も匙加減というが、これらを実現させるには当然その微細な匙加減が大事になってくる。
エリシアが小さく息をつき、続けた。
「でも、どれだけ調整しても衝突は起きたわ。例えば、巨体のオーガ族と小柄なフェアリー族がすれ違うだけで威圧的に見える。獣人族の低い唸り声は“敵意”に聞こえる種族もいたし……相手に悪意がなくても、種族ごとの“常識”がぶつかるの」
リーシャが苦笑した。
「そりゃそうだ。アタシらは“異種族”って一括りにされるが、実際には生き物として全く違う。それが一つ屋根の下で入れ代わり立ち代わり暮らすんだ。毎日どこかで何かしら起きてても不思議じゃねえ」
「当時働いていたスタッフたちには、本当に頭が下がるわ。掃除担当が“部屋に入れない高さ”になったアラクネ族の巣室や、温度管理が崩れると倒れてしまう水棲種族の部屋……種族が違えば、“何をもって快適とするか”も違うから」
エリシアの言葉は、単なる説明ではなく“実際に苦労した者の証言”だった。
「でも、それでも私は諦めなかった。
種族の差異で生まれる問題より、“混ざり合うことで得られる価値”の方が大きかったから」
静かに語るその声音には、揺るがぬ意志が宿っていた。
「黄金期は、エクリプスタウンにとって希望の象徴と言われるほどの知名度を誇っていたの。このホテルで開かれる
エリシアはそこまで熱に浮かされるように一気に話し終えると、
そこには静と動が入り混じり、その
「…………」
瓦礫に埋もれた光景の中で、かつてここに溢れていたであろう
「
エリシアは少し足を止め、壁に優しく触れる。壊してしまわないように、傷ついてほしくないという思いが込められているようで……。
(……手が、震えてる?)
「衝突はあってけれど、それでも最初は順調だった。どんな種族でも歓迎し、多くのスタッフたちと共に働き成長していくことに喜びを感じていたの。それがルミナリアの共通理念であり、働く従業員と泊まりに来るお客様たちと共通する想いだった……けれど、現実は無常だったわ」
その声には、深い悔しみと怒りと自己に対する不甲斐なさが込められていた。
彼女は目を伏せ、言葉を続ける。
「ある時、長期滞在を希望した一団がいてね。振る舞いも紳士的で、礼儀も正しくて……“ここを気に入った”なんて言われたものだから、私たちは心から喜んだわ」
「…………エリシア」
だが、とエリシアは静かに首を振る。
「後に判明したのが、彼らは犯罪組織だった。このホテルを利用して
『なっ……』
清嗣、リーシャが思わず絶句する。
人間と異種族との共存を掲げた、街を象徴するクリーンな宿泊施設を売りにしていたはず。
そんな場所を一時的とはいえ悪用されていたこと、そして何より一部の従業員が関与していたこと……それがどれほどホテルにとっての打撃になったのかは語るまでもない。
「信頼していた仲間が、密かに取り込まれていた……それが発覚し公になってから、世間のホテルを見る目は変わったわ。お陰で経営は大混乱、他のお客様たちの信頼も崩れ、従業員たちも次々と離反していったわ」
「……そりゃ、離れるわな」
短く言ってから、リーシャは視線を大広間に滑らせる。
朽ちた壁や割れたタイルを見ながら、噛みしめるように言葉を続けた。
「“理念”ってのは、建物を綺麗に見せる飾りじゃない。あんたらがずっと大事に育ててきた“信頼の土台”そのものだ。その土台にヒビが入ったら……客も従業員も一瞬で足を引っ込める」
彼女は腕を組み、感情ではなく“事実”を淡々と積み上げる。
「『ルミナリア』が掲げてたのは、種族も文化も越えて尊重し合うって、でっけえ理想だろ。いい理念と理想だ。アタシが好きだぜ。けどな——」
リーシャの瞳が鋭く細まる。
「そんな理念を信じて働いてた連中からすりゃ、裏で不正が行われてたって事実は“世界の終わり”みたいなもんだよ。“ここなら安心して働ける”、“ここなら誰とでも笑い合える”——そう思って来ていたのに、実際はコソコソ腐敗が進んでた。信じてた分だけ、裏切られた時のショックはデケえ」
エリシアが静かに目を伏せる。
リーシャは続ける。慰めるでも責めるでもなく、ただ現実を指し示す声で。
「まして、ここは宿泊客からしてみりゃ“聖域”みてぇな場所だったんだろ? ただ泊まるだけじゃなくて、“種族を越えて誰とでも気軽に繋がれる場所”として皆が大事にしてた。その中心で腐敗が起きたとなりゃ……誰だって距離を置くってもんだ。理想を守れなかったんじゃなく、“理想に傷がついた”って言った方が正しいか」
その言い方には、エリシアの理念を否定する気配は一切なかった。
むしろ——それを理解した上で、あくまで“外から見た現実”を言葉にしていた。
「理想がデカけりゃ、その分だけ不正の影もデカく見える。信じて集まってきた奴らほど、裏切りには耐えられねえんだ」
「……リーシャの言う通りよ。多くは理想に共鳴してこの場所に加わった仲間だった。でも……信じていた価値が踏みにじられたと知って"裏切られた"と感じた子は多かったわ。
エリシアは淡々と語りながら、壁に残るかすかな装飾を指でなぞる。
言葉の端に微かに震えが混ざるが、それを押し殺すように息を吸って続ける。
「私だって愚かだった。嬉しかったのよ、あの団体が"気に入った"と言ってくれたことが。私たちの努力が認められたと思い込んだ。でも実際は、ただ利用されていただけだった。この場所を"意味のある象徴"として見ていたのは、私たちだけだったのかもしれないわ」
少しだけ視線を落とし、エリシアは続ける。
「だから……去っていった人たちを責める気にはなれなかった。ただ、空になった廊下を歩くたびに、自分の愚かさを噛みしめるだけだったわ」
そして、ふと笑みを浮かべた。
皮肉とも、どこか達観とも取れる、静かな微笑み。
「でもね、それでも私は、ここを見捨てられなかったの。誰も見ていなくても、誰にも信じられなくなっても……この場所が抱えていた"想い"だけは、確かにそこにあったから」
彼の目には、エリシアが語るその過去が痛々しいほど鮮明に浮かんでくる。
「総てに抗おう必死に努力し、融資をしてくれていた投資先に営業と説明を繰り返し続けた……だけど信頼回復には至らず、結果として
「…………」
エリシアの声は低く、しかし揺るぎない決意を感じさせた。彼女の目が、今もこの廃墟を愛し続ける理由を語っているようだった。
彼女は一歩前に進み、埃をかぶった窓枠をそっと指でなぞった。その指先には、小さな埃の粒が残る。
「今、ここに残っているのは私と、私とこのホテルのためにと残った数人のスタッフだけ。とても楽観できる状況でもないし廃館になったこの状況でいつ立て壊しが起きてもおかしくないわ」
「…………」
「それでも、ルミナリアを諦めるつもりはない。この場所はただの建物じゃないの――ここには、夢が詰まってる」
「…………夢、か」
エリシアのその言葉に、
愛深き彼女の想念を前に、
「どうして……そこまでして?」
「理想を諦めた瞬間、それはただの空想になってしまうからよ」
そう口にしたエリシアは、しばし空を仰ぐように、朽ちた天井の向こうを見つめた。
そこにはもう星も光もない。ただ、彼女だけが見える過去の空が広がっていたのかもしれない。
「理想っていうのはね……現実の中でこそ輝くものなのよ。辛いことも、恥も、絶望も飲み込んだ先で、それでもなお『こうありたい』って思い続けるからこそ意味を持つの」
彼女の声には熱がこもっていたが、不思議と静かだった。それは燃える火ではなく、灰の中に潜む炭のように――確かに、息づいている。
「私もね、何度も諦めそうになった。誰もいなくなったホールを一人で歩いて、もう誰も戻ってこないってわかってて……それでも、シーツを畳んで、食器を並べて、埃を払って……。意味なんてなかったわ。でも、そうやって形を保ち続けることでしか、この場所の“意志”を繋げなかったの」
彼女の指先は、無意識に壊れかけた窓の縁を撫でている……まるで、まだ誰かを迎える準備でもしているかのように。
「空想って、現実から逃げるためのものだと思う。でも理想は違う。現実を変えるために、捨てずに持ち続けなきゃいけないものなの。苦しくても、孤独でも、それを抱きしめる覚悟がなければ……それはただの夢物語。誰の心にも届かない」
その言葉が、
彼もまた、理想を語っては傷ついてきた。正しさを守ろうとして笑われ、無力さに打ちのめされ、それでも心のどこかにまだ「希望」という名の火種を残していた。
だからこそ――彼は今、ここで彼女の言葉に揺さぶられている。
「……エリシアさん」
声が震えそうになるのを、
「あなたの理想は、まだ空想になっていない……俺にとって、それは確かな現実だ」
ふっと、エリシアの目が揺れ……静かに、ほんの少しだけ笑う。
決して優しい笑みではない。けれどそこには、確かに“通じた”という温もりが宿っていた。
話を静かに聞いていたリーシャが、肩をすくめながら口を開いた。
「アタシがエリシアと出会った時も、ここはすでにこんな状態だったんだよ。廃墟として放置されて、誰も見向きもしない……けど、エリシアと他の連中だけは諦めてなかった」
その言葉に、エリシアは微かに微笑む。
「ルミナリアはただの建物なんかじゃない……理想が詰まった大切な場所。だから、たとえ廃墟になっても、私はそれを諦めることはできない」
リーシャはそんなエリシアの言葉に頷きながら、
「アタシが一番最初にエクリプスタウンに来た時、この場所をたまたま見つけてな。それでエリシアと会って、復興の話を聞いたんだ」
「復興?」
「ああ、エリシアはこのホテルをもう一度再建するって意気込んでる。んで、それが冗談でもなんでもなく、マジだと言う。だから、アタシも行く当てなんざなかったし、気が向いた時に手伝いに来てるって感じだ」
エリシアが
「それで……あなたはエクリプスタウンに何を求めてきたの?」
その問いに、
「……秩序を、求めてきました」
エリシアはその言葉を聞き、少し驚いたように眉を動かした。
「秩序……それがどうして?」
「秩序がなければ、共存も共栄も成り立たないからです」
「人間社会では、不正や争いが絶えなかった。正しいことをしても、誰もそれを守ってくれない……そんな場所で生きることに疲れました。当然と思われるし、実際社会とはそういうもので一個人の意思でどうにかなるもんじゃないことは百も承知です」
だが、それでも……。
「でも、エクリプスタウンの噂をたまたま耳にし、ここには違う可能性があると思ったんだ。ここでなら、誰かが誰かを尊重する秩序が存在するかもしれないって」
その言葉を聞いたエリシアの瞳が少しだけ優しさを増す。そして、
「共存共栄のためには、秩序が必要……確かに、その通りかもしれないわね」
その中で、エリシアが語った黄金期の姿と現在の荒廃の対比が、彼の胸に深く突き刺さった。
「……俺も、共存という理想に共感します」
エリシアがその言葉に目を向ける。
「人間社会では、秩序がどれだけ大切かを痛感しました。ルミナリアが持っていた理想は、それを支えるための秩序と信頼の上に成り立っていたんじゃないかと思います」
彼は一瞬言葉を切り、荒れ果てたホールを再び見渡した。
「でも……エリシアさんがこの場所に込めている愛情は、その理想以上に尊いものだと感じます」
その言葉に、エリシアの瞳がわずかに揺れ瞠目する。
今の言葉に感銘を受けたのか、はたまた何某らの意思を感じ取ったのか……彼女は短く息をつき、
「あなたにそこまで言われると、少しだけ報われた気がするわ」
その瞳の奥にある優しさと、エリシアの表情の柔らかさはどこまで澄み切っており……綺麗だったと
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