サンセベリアの夜明け

朝、葉に触れると、忘れていた夢の続きを思い出す。

まるで悪い夢を吸い込んで、良い夢を吐き出してくれるような。


気を抜くと涙が溢れそうで、強くなりたい強くなりたいとつぶやきながら駅前を歩いていた。

ふと立ち止まると最近できたばかりの花屋の軒先に力強い佇まいの観葉植物が在った。

そちらはサンセベリアと言って空気をきれいにしてくれるんですよ、と花屋の店員さんは微笑みながら教えてくれた。


物ではなく人として紹介するような店員さんのその一言に「買います」といい、レジへと向かった。

財布を出す時に荒れ果てた自分の部屋を思い浮かべたが、早く気持ちを切り替えなきゃと自分に言い聞かせて支払いを済ませた。


歩くたびにビニールのガサガサ言う音を聞きながら家路についた。

(空気、空気かぁ…。早く家の淀んだ空気をきれいにして欲しい)


植物は二酸化炭素を吸って、酸素を出してくれる。

人間は酸素を吸って、二酸化炭素を吐く。

こんなにも互いを必要とする存在はあっただろうか。


私にも、そんな風にお互いを必要とする存在だと思っていた相手がいた。

そう、いたのだけれどそれは私だけのようだった。


呼吸のように自然で、あたりまえで、でもひとつでも欠けたら成り立たない存在。

酸素がなければ人は生きられない。私も、彼がいなければ苦しくて生きていけないと思っていた。

永遠に続くと思えたそのやりとりが、いつの間にか一方通行になっていたのだと気づくまでは。


失恋をして1週間。まだまだ傷は癒えていない。

気を抜くと嗚咽と涙が出てきそうになる。


帰宅すると、重い足取りでベランダを目指す。

窓際のスペースを少しだけ開けてサンセベリアを置いた。

荒れ果てた部屋に佇む姿は清廉としており、そこだけ違って見えた。


(早くきれいな空気にしてね。そしてこの淀んだ部屋もきれいになりますように。何もかもうまくいきますように。)

家にやってきたばかりの観葉植物に勝手にあれこれと願いを込めすぎた。

そんな自分にフフッと笑ってしまい少しだけ気持ちが楽になった。


ベッドに潜り込むと久々に途中で目が覚めることなく気持ちよく目覚めることができた。

目を何か夢を見た。柔らかく、温かい夢。


けれども目が覚めると忘れてしまった。

(久しぶりの夢だったのに。すぐに忘れてしまうなんて、もったいないなあ)

目をこすりながら窓際にサンセベリアの様子を見に行った。


昨日と変わらず、そこだけホコリの払われた床の上で凛としていた。

「空気、きれいにしていただけたでしょうか」

と敬語で話しかけながら葉に触れると頭の中で映像が流れた。


小さな頃によく遊んだ大きな公園、芝生、その真中にある大きな木。

空は青くピカピカで、ピンク色のバトミントンのラケットを手にしている。

友達と笑い合って、どこまでも走り続けた。

懐かしい記憶、懐かしい夢。幸せな記憶、幸せな夢。

(もしかして…これは昨日見た夢…?いつもは思い出せないのに)


今日は午後からバイトだから少し時間がある。

食べていた菓子パンの袋を捨てるためにゴミ袋を引っ張り出した。

そのまま床に落ちているコンビニ袋を入れた。

(よーし、一丁片付けでもしますか。汚い部屋だと空気も綺麗にならないし)


ゴミをまとめ、洗濯を2回まわし、食器を洗い、掃除機をかけた。

ベランダにはためく洗濯物を見ているとお腹が空いた。

(しばらく自炊していないからスーパーへ行こう)


パスタを茹でながら少し片付いた部屋を眺めた。

(あの本は延滞しているから図書館に返して、段ボールも明日捨てる日だったからまとめて、と…)

忙しくしていると悩んでいる時間がないからか、前向きな気持になれた。

失恋しても、毎日は進んでいく。私の人生は続いてく。

洗いたてのカーテンのそばで居心地よさそうにしているサンセベリアを見ると、そんな気持ちになれた。


図書館に本を返しついでに観葉植物の図鑑を調べた。

サンセベリアは、鋭く真っ直ぐに伸びる葉が特徴の観葉植物。

別名「トラノオ(虎の尾)」とも呼ばれ、模様の入った葉姿がそう名付けられた。

空気を清浄する働きがあるとされ、ホルムアルデヒドなどの有害物質を吸着する力を持つという。

乾燥にも強く、ストイックで、静かに凛としている。


それから毎日、夢を見て思い出せない日にサンセベリアにふれるとなぜだか思い出せた。

昔飼っていた白い子犬と遊ぶ夢、大きなパフェを食べる夢、空をふわふわと飛ぶ夢。

起きたときには曖昧だった記憶も、サンセベリアの鉢の前に座り葉に優しく触れると思い出す。

(花屋さんは空気を綺麗にしてくれると言ってたけれど、夢を思い出す効果もあったのかぁ…)


そんな訳はないのに。サンセベリアが家に来た日から私は泣かなくなった。

よく一緒に出かけた近所のスーパーや待ち合わせをしていた駅前の改札口などを通ると思い出さないわけではないけれど。

心にぽっかりと空いた大きな穴が、時間をかけて少しずつ小さくなっていった。


私の吐いた二酸化炭素を吸って酸素をくれるサンセベリア。

夢を見て、夢を思い出させてくれる不思議な植物。

図書館で調べたけれど、そんな効果はもちろんなくて。

美しく強く天に向かって伸びるフォルムは自然と心を強くしたのかもしれない。


毎日掃除をしているうちに部屋は昔のように整った。

楽しい夢を見て、綺麗な空間で過ごしていると何を悩んでいるんだろうと思い立った。


(そうだ、引っ越しをしよう。もっと日当たりのいい部屋に行こう)

スマホで物件を探し、翌日には不動産屋に電話をかけ内見の申込みをした。

運よく、日当たりのいい角部屋の物件が見つかった。

白く明るい部屋は祝福を受けているように思えた。

こんな物件はなかなか出てこないんですよ、と不動産屋さんは快活な様子で教えてくれた。


申込書に記入して帰宅するとまっさきにサンセベリアに話しかけた。

「一緒にお引越ししましょうね」

その日の夢は、暖かな新居で、窓辺には大きくなったサンセベリアが置かれていた。


(あなたも夢を見るのね)

夢の中で、「今日の夢は忘れずに目覚めよう」と誓った。


(終)

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