終章 恐ろしい人
この日の午後、ロズアトリスはロズリーヌとして地下都市のある部屋にいた。地下都市の通貨を稼ぐため、拠点となる場所を買ったのである。そこにはマルティーニとヴェル、それから何人もの子どもたちの姿があった。
「貴方たちは毎日ここへ通い、勉強をしてもらう」
ロズリーヌが子どもたちにそう言えば、子どもたちは不思議そうな顔をした。
「どうして べんきょうをするの?」
「大きくなったらお金をたくさん稼げるようになるためだ。あと、自分と大切な人たちを守るため。それから、みんなでずっと仲良く暮らすため。ここへ来たら、朝昼晩とご飯をあげるからね」
食事ができるということを聞いた途端、子どもたちは元気に返事をした。
「それじゃぁまずは、文字を覚えるところから。まずは、真似して書いてみて」
ロズリーヌは黒鉛を取り、剥き出しになっている大きな石の壁に文字を書いた。子どもたちは一人一人に配られた蝋を塗った木の板をスライタスで引っ掻き、ロズリーヌが書いた文字を書き写す。全員がちゃんと書けているかは、マルティーニとヴェルに手伝ってもらって確認する。
「ヴェル」
ヴェルに近付いたとき、ロズリーヌはそっと彼を呼んだ。ヴェルは耳だけを傾ける。
「……いずれ、この場所は貴方に任せる。私のやり方を見て、学んで、貴方なりに子どもたちに勉強を教える術を身に付けるのだ。学を身に付けた彼らが非行に走らず、立派に育つことが貴方の贖罪となる」
ヴェルはハッとした顔をした。そうしてじっとロズリーヌの顔を見つめてから、力強く頷いて言うのだった。
「分かったよ……ロズアトリス様」
「!!」
ロズアトリスの名を呼ばれるとは思っていなかったロズリーヌは目を見開いた。ヴェルはロズリーヌの耳に唇を寄せ、「大聖堂で俺を抱きしめてくれたときに顔が見えたんだ」と言った。
(しまった! まさか顔を見られるとは!)
言葉を失ってわなわなと震えていると、ヴェルは「安心して」と続けた。
「聖女様がそんな恰好で好き勝手やっていると知られたらまずいもんな。ちゃんと秘密は守るよ。その代わり、俺も大聖女様の試練? とやらに協力させてよ」
「しかし、貴方は子どもで……」
「子どもにもできることはあるよ。俺、けっこう役に立てると思うんだよね。ほら、俺には【横取り】の【魔力】があるだろ?」
にこり、とヴェルはあどけなく笑った。
なんとヴェルには彼自身が【横取り】と名付けた、右手で触れたものを左手に移すという特別な力があったのである。身体に身に付けたアクセサリーを一瞬で被害者に怪我をさせることなく奪ってみせたのは、この【横取り】があったからだったのだ。
(確かに、彼の【横取り】は場合によっては重宝する。それに彼は賢い)
ロズリーヌはしばらく考えた後、「良いだろう」と許可を出した。
「やりぃ! 俺、絶対あんたに大聖女様になってもらいたい! 正しいことをしているふりをしているあんな女なんかより、絶対あんたの方が良い!」
ヴェルはそう言ってくれたが、ロズリーヌは苦笑を返した。まだロズリーヌは自分が大聖女の座に相応しいと思っていないからだ。
今回の試練については、シャルルリエルに賛同できなかった。だから自分の理想のために手を尽くしたわけだが、結果としてこれで良かったのかは分からない。ただ、目の前で屈託なく笑うヴェルの命が助かって良かったと思うのだった。
コンコンコン
考えに耽っていると扉をノックする音がした。
「俺だ。ノア」
ロズリーヌがまさかと思いながら扉を開けると、本当に黒髪のノアが立っていて、ロズリーヌは目を大きくして驚いた。
「孤児院ができたと聞いて。あぁ、いいじゃないか。子どもたちが生き生きとしているね」
目を細めて子どもたちを見つめるノアを、ロズリーヌはこれ幸いと追い立てるように外へ出し、声を殺して問いかけた。
「『深海の雫』を私に託したのは、ヴェルと公爵の関係に気づかせるためか?」
そうでなければわざわざノアが『深海の雫』を託すはずがないと、ロズリーヌは推測していた。
ノアはふと口の端に笑みを浮かべる。
「貴方が気づかなくても良かったんだけれどね。貴方が気づいてくれたおかげで俺も分かったことがあったから、貴方の頭脳には感謝しているよ」
「分かったこと?」
ロズリーヌが首を傾げると、ノアはロズリーヌの耳元に唇を寄せた。
「貴方がロズアトリス様の命を受けて、宝石ドロボウ事件を調査していたこと」
「なっ! それはブライトン公爵にしか示唆していないこと……公爵と貴方は何でも報告し合う仲なのか!?」
思わず驚いた声を出すと、ノアは得意げな顔をした。
「俺が彼の弱点を握っているから、何でも言うことを聞いてくれるよ」
ロズリーヌは開いた口が塞がらなかった。この人物に弱みを握られるということが何を意味するのか、この一言で分かってしまった。
言葉を失っているロズリーヌに、ノアは事も無げに続ける。
「ロズアトリス様に会うことがあったら、ブライトン公爵は貴方の味方だと伝えてくれ。彼は聖職者からも人気の高い貴族だから、大聖女選定の投票にも影響があるはずだ」
「まさか、そこまで見越していたのか!?」
「まぁ、公爵がヴェルの話を持ち掛けてきたときに」
さらりと述べてはいるが、公爵がヴェルの話を持ち掛けてきたときはまだ大聖女選定の話は出ていなかったはずだ。
(何という人なんだ、この人は)
ロズリーヌは呆気にとられていた。狐などという例えでは足らない。これはもう、ほとんど超次元的だ。
「貴方が敵わないときって、あるのか?」
あまりにも彼が強者すぎるので純粋な疑問を口にすると、ティモシーは「あるよ」と答えた。
「私には絶対に敵わない人がいる」
遠くを見つめる彼の横顔は妙に爽やかで清々しい。ロズリーヌは彼にこんな顔をさせるのは一体全体誰なのだろうかと、そっと興味を駆られるのだった。
ロズリーヌが彼の横顔を眺めていると、ノアは「あぁそうだ」とたったいま思い出したかのように口を開いた。
「私がこんなところで『闇の代表取締役ノア』をやっていることは、ロズアトリス様には言わないでくれ。もしバラしたら、貴方の命はないと思え」
それまでの清々しい表情を一変させ、口だけで笑顔をつくるティモシーに、ロズリーヌは内心震えながら頷いた。
(わ、私がロズアトリス本人だと知られたら……まずい!!)
大聖女選定の投票が行われる三年と約半年後まで、ティモシー、それからノアには何かと世話になる気がしてならないのに。ロズリーヌ――ロズアトリスは味方に最も気の抜けない人物を抱えているという事実に眩暈がしそうになるのだった。
聖女の仮面は世直し悪女? あまがみ @ug0204
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