終章 雫の行方

 サロンに差し込む光は、すでに夏の面差し。王都の四季ははっきりしているけれど、極端に暑くも寒くもならない過ごしやすいところだ。きっとこれから、カラリと晴れた日が続く、清々しい夏がやって来るのだろう。


「待たせてしまったね。申し訳ない」


 窓の外の青々と茂る木を見ていたら後ろから声をかけられて、ロズリーヌは振り返った。


 ブライトン公爵が微笑みを携えてこちらに近付いてくる。握手を求められたので手を差し出すと、ブライトン公爵は両手でロズリーヌの手を強く握り込んだ。そうしてソファに座るよう促し、ロズリーヌが腰かけると「紅茶は? 何が好きかね?」「お菓子は? とっておきを用意させるよ」などと丁寧にもてなしてくれた。


 紅茶とお菓子がテーブルに用意されると、ブライトン公爵は少し落ち着いた様子で言った。


「妻は友人のところへ出かけていてね。本当は妻に用事があったのではないかい?」


「そうであるとも、そうでないとも言えます。これをお渡ししたくて伺ったのですが、私がお会いしたかったのは公爵様なのですよ」


「私に?」


 ロズリーヌは頷き、マルティーニに持たせた荷物の中から小箱を取り出して、蓋を開けた。


 紅いベルベットを敷いたところに、底の見えない海を覗き込んだような深い青のサファイアのネックレスが寝そべっている。『深海の瞳』だ。


「これは! 貴方が持っていたのですね! 妻のために、ありがとうございます。彼女の代わりに私がお礼を述べます。本当にありがとうございます、ロズリーヌ殿」


 ロズリーヌはにこりと口の端を上げて微笑み、口を開く。


「本当は、夫人のことを抜きにして、私に礼を言いたいのではありませんか?」


 ブライトン公爵は一拍置いて、穏やかな笑みを絶やさずに首を傾げた。


「おっしゃる意味が――」


「分かっていますよ。どのようにして私がこれを入手したのか聞かない理由も、公爵が私に感謝する別の理由も」


「……」


「ノア……いえ、ヴェルでしょう?」


 ブライトン公爵の表情から笑みが消えた。ロズリーヌはそれが答えだと理解した。


「私の頭を整理するためにも、順を追って話させてください」


 ロズリーヌはサラ夫人ではなく、ブライトン公爵に会うためにやってきた理由を語り始めた。



――私は、ある人から協力を要請され、宝石ドロボウ事件を調査していました。すると、私の命を奪おうとする者が現れました。襲われたのが私だけなら、何とも思いませんでしたが、どうやら同じく宝石ドロボウ事件を調査していた聖女シャルルリエルも襲われたようだと知り、私は宝石ドロボウ事件を調査していたから襲われたのだと気づきました。


 では、どうして宝石ドロボウ事件を調査していたから、命を狙われるなんてことがあったのでしょうか?


「怪盗自身がそうしたのではないのか?」


――普通はそう考えますよね。しかし、そうではなかった。


 では、私たちの命を奪おうとしたのは誰なのか? 宝石ドロボウ以外に、宝石ドロボウ事件を調査されたくない人物というのは誰なのか?


 それは、宝石ドロボウを守りたい人物です。


「怪盗を守る? どうして」


――宝石ドロボウのことを大切に想っているからですよ。友人? 兄弟姉妹? あるいは……親。


「……」


――宝石ドロボウは少年でした。印象的な紅い瞳を持った子で、髪は癖毛のアンバー。細長いシルエットで、顎も細い。おそらく体つきや顔は母親に似たのでしょう。けれど音楽の才覚は父親に似た。


 彼の根城には調律されている立派なグランドピアノが置かれていて、二度目に訪ねたとき、彼は私にお母様との思い出の曲を披露してくれました。ある有名な作曲家のモテット。カントゥス・カエレスティス・ヴェルム。お母様はよくそれを歌ってくれたそうです。ヴェルという名はその想い出の曲からきているのでしょうね。



 ブライトン公爵の瞳から一筋の涙が伝った。今度は、ブライトン公爵が語り始める番だった。



――セレナは魅力的な女性でした。線が細く、身長は高く、髪はアンバー。顔の輪郭が細かったので、目ばかりが大きく見えて……輝いて見えて。見た目は儚そうなのに、とても逞しい女性だった。なのに私がいけなかったんです。私に度胸が足りなかった。地位を捨てて彼女と愛を育む生活を選択できなかった。


「平民のセレナさんとの結婚を、家族に反対されたのですね?」


――はい。彼女が子どもを産んで育てていたと知ったのは、五年前。セレナと出会ったルドルダ大聖堂で偶然出会ったヴェルに、彼女の面影を見たのです。


 あの子の話を聞いて、私はあの子が私とセレナの子であることを確信しました。しかしセレナはそのときにはもう他界していて、あの子は自分より小さな子たちの面倒を見ながら生活をしていました。


 自分さえ十分に食べられないのに。


 私はあの子にもう苦労をさせたくないと思い、屋敷へ来ないかと申し出ました。けれどあの子は拒否し、それからは面と向かって会ってくれなくなったのです。でも私はあの子のことが気がかりだった。


「それで、ノアに頼んだ」


――おっしゃる通り。裏社会の情報筋……ノアに依頼して、彼の生活を秘密裏に探らせていました。それで、あの子が貴族を襲って宝石を奪っていることを知ったのです。


 私はあの子を守りたいと思った。あの子が犯人だと知られ、強盗だ何だと言われて捕まれば、平民のあの子は処刑されてしまう。だからあの子に危害が及びそうなら、事前に排除しなければならないと思い至ったのです。


「貴方が宝石ドロボウを強盗と言わず、怪盗と言っていたのは彼が物を奪う以外に何もしていないことを強調するためですね?」


――そうです。貴女や聖女シャルルリエルの暗殺を依頼したのは私です。本当に、申し訳ありませんでした。それから、真実を知ってもあの子を法の前に突き出さなかったこと。あの子を信じ、教会へ赴くことを薦めてくれたことに、心より感謝申し上げます。



 深々と頭を下げるブライトン公爵。ロズリーヌは謝罪と感謝を受け入れ、ブライトン公爵の肩を叩いた。

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