第三章09 第三皇子ティモシー・ド・レピュセーズ(彼はこんなにも笑う人だっただろうか?)
焦りが頭を埋め尽くしそうになったとき。
「――我らが聖女! シャルルリエル様!」
信者たちの輪の中から、良く通る声が響き渡った。
咄嗟にシャルルリエルは話すのを止め、声に注目した。
「聖女シャルルリエル様。どうか、わたくしめに聖女様のご加護を……」
眉や口髭まで白くなった白髪の老人が手を組んで歩み寄って来る。装いは一般的な平民のものだが小綺麗で、老人にしては姿勢が良い。
「貴方……敬虔な信者様のようですね?」
女神の彫られたカメオのペンダントと、彼が小脇に挟んでいる聖書から判断したシャルルリエルが問いかける。老人は「毎日祈りを捧げています」と答えた。
シャルルリエルの興味が老人に移ったことを好機とみなし、ロズリーヌは音を立てないよう注意しながら後退して、そっと信者たちの輪の中に加わった。
今やもう、シャルルリエルも信者たちもロズリーヌには興味が無い。シャルルリエルが老人に何を言い、何をするかに注目している。
ロズリーヌは信者たちの間を縫うように移動していき、シャルルリエルと会話を交わしている老人の真後ろまで来ると、ぼそりと呟いた。
「ありがとう、ピエール」
そうして急いでその場を離れ、玄関廊まで小走りで移動した。
(大聖堂で走るのは厳禁。これは、あくまで足を速く動かしているだけで、走っていないッ!)
また心の中で言い訳をしながら、懐中時計を確認する時間さえ惜しんで必死に彼を探す。すると、北の壁に施してある女神と天使のモザイク壁画の前に、それらしき後ろ姿を見つけた。頭一つ抜ける身長に、城に近いほど透き通った彼のプラチナブロンドは、大衆の中でも一際目立って見える。
つま先を向け、人の流れを分断して急いで彼に近付いた。
ロズリーヌが声をかける前に彼がこちらを振り返る。待たせてしまったことを詫びようと口を開いたら、人差し指を当てられ塞がれた。
ティモシーは口元に笑みを浮かべているが、声をかけてこない。ただそっと、ここまで急いできた間に乱れたロズリーヌの髪を指先で優しく整えて、彼は壁画に視線を戻したのだった。
「……」
ロズリーヌは唇を閉じ、彼に倣って壁画に視線を向ける。
そうしてじっと壁画を観察していると。ふ、と爽やかさの中に甘さのある、嗅ぎ慣れた香水の香りが鼻腔をくすぐった。
「――この壁画の題名は『女神と天使』。単純だからこそ、考察が活きるというものです。貴方にはこの壁画がどのようなシーンに見えますか?」
耳元でティモシーの声がする。熱を感じるくらい、彼が近くにいる。
大聖堂では声を潜めて会話をするのが一般的。ティモシーは聞こえやすいように唇を寄せているだけだろうが、ロズリーヌの心臓は悲鳴を上げた。
(こ、これくらいの距離なら婚約者だったときでも経験しているのに。どうしてドキドキするんだ)
しかし考えれば考えるほど意識してしまい、鼓動が大きくなる。このままでは倒れてしまうかもしれなかった。
(彼の言葉だけに集中しよう。他のことは考えるなッ)
ロズリーヌは頭を振り、壁画を隅々まで観察することにした。
壁画の中心。胸を押さえている女神が立っている。白い布を纏い、頭に月桂樹の輪を乗せ、頬を桃色に染め、伏し目がち。口角が上がっているようにも見えるが、微笑んでいるようには見えない。そして女神の周りには、白い羽の生えた四人の子どもの天使たち。天使たちはまるで遊んでいる最中かのように楽しそうな表情をしていた。
「――女神さまが子どもの天使たちに救われているところ、でしょうか」
結論が出たので質問に答えると、ティモシーは意外そうな声を出した。
「天使を遣わす女神さまが、天使に救われている? どうしてそう思うのですか?」
ロズリーヌは壁画から視線を動かさずに、率直な考えを伝える。
「私たちを救ってくださる女神様は、何に救われるのでしょうか? 私はそれが、『無邪気な心』ではないかと思うのです。この壁画はそれを表しているのではないかと。天使の姿が子どもでしょう? 子どもは無邪気ですから」
「何故、『無邪気な心』に女神さまが救われると思うのですか?」
「私たちがそうだからです。子どもたちを見ていると、様々なことはそっちのけで、守ってあげたくなるときがありませんか? 守りたいという気持ちは心に余裕がないと芽生えません。そして、心の余裕があるということは、救われている証拠なのです」
「なるほど。素晴らしい考え方ですね。……本当に」
どこか含みのある言い方に聞こえたが、気のせいだったのだろうか。ティモシーは穏やかな表情で頷いている。ロズリーヌにはそれが自分とは違った考えを受け入れた動作に見えた。
では、ティモシーは壁画を見て何を思ったのだろうか。
「殿下にはどのように見えますか?」
気になったので問いかけると、ティモシーは「そうですね」と顎に手を当てた。
「私には女神さまが子どもの天使たちに悪戯されて困っているように見えます。子どもは大人を困らせるのが得意ですからね」
「殿下を困らせるような子がいるのですか?」
ティモシーは「まぁ」と言いつつ腕を出した。ロズリーヌは自然な動作で彼の腕に手を絡めて寄り添い、彼が踏み出すのと同時に足を踏み出した。
「難しいですよ。金をちらつかせれば転がって、言葉で騙せる大人と違って、子どもは金や言葉ではなかなか動かせませんから。それなのに一粒のチョコレートで言うことを聞いてくれることがある」
「策士でいらっしゃる殿下らしいと言うべきか、子どものためにチョコレートを持ち歩いていることを微笑ましく取るべきか、私は迷っています」
「ははは!」
何が面白かったのだろうか、ティモシーは声を出して笑った。皇族が声を出して笑うことは滅多にないが、ティモシーの笑い声はどこかで笑い方を学んだかのように上品だった。
「そう解釈されるとは。せっかくですから、印象操作をしておきましょう。子どもに優しい皇子、でどうでしょうか?」
悪戯っぽい顔をして、ティモシーは懐から出した物をロズリーヌの手をつついて掌の上に転がした。紙に包まれていても、ふわんと甘くまろやかな香りが届いてくる。
「チョコレート? 私をチョコレート一粒で買収なさるおつもり?」
「お気に召しませんでしたか? キャンディーもありますよ」
今度は反対の懐から両端を摘んだ包み紙のキャンディーが出てくるので、ロズリーヌは純粋に感心した。
「すごい。殿下のふくよかな胸筋には子どもの夢が詰まっていますね」
「ははは! あー、失礼。面白くて」
またもや声を上げて笑ったティモシーに、ロズリーヌは首を傾げる。
(彼はこんなにも笑う人だっただろうか?)
「何だか、意外です。……殿下にはどこか近寄りがたい厳格な雰囲気があるから、こんなものを持ち歩いているとは思いませんでした」
本当は彼が声を出して笑うことに対して思ったことが口を滑って出たのだけれど、そんなことを言われる筋合いはないかもしれないと思い、別の話を付け加えた。もちろん、チョコレートやキャンディーを持ち歩いていることも意外だと思ったのだが。
ティモシーの返答はというと。
「意外でしたか。それは良かった」
一体全体何が良かったのだろうと、ロズリーヌが再び首を傾げたところで、ティモシーは足を止めた。
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