5 恋唄

 ライブ当日は初めて彼女を見掛けた日のようにぽつぽつと霧雨の滴る日だった。

 ここだけの話だが、もしかしたら彼女自身よりも僕の方が緊張していたんじゃないかと思えるほどだったのだけれど、端的に言って最高の時間になった。

 彼女が紡ぎ出す全身全霊の歌声は、聴いている人の魂すらも揺るがせるのではないかと感じるくらい心がこもっていたし、何よりも当時のままだった。


 閉演のアナウンスを聞き終えて僕が席を立とうとしたところで、スーツを来たスタッフと思しき男性に呼び止められた。何か目をつけられるようなことでもしただろうか、と一瞬不安になったが、案内されるがまま幾つかのドアを潜り抜けると、彼女の名前が書かれた控室の前に辿り着いた。この男性はマネージャーだったのだ。

「彼女がお待ちです。手短にお願いいたします」

 彼はそう言いながら、手元のカードキーでドアを開けてくれた。


「久しぶり。元気してた?」

「ああ……驚いた。本当に歌手になれたんだな、おめでとう」

 あの頃のようにこちらを振り返った彼女は、朗らかに笑っていた。

「うん、ありがと。あんまり変わってないね」

「お互い様だと思うけどな。君の歌声も、あの日のままだったよ」

 僕がそう口にすると、彼女の表情が曇る。

「ん……あなたが来てくれるかどうかは賭けだったけど、間に合ってよかった。まだ誰にも言ってないんだけど、あたしね。……このライブが最後のライブなの」

 彼女が何を言っているのか、僕には分からなかった。

「……喉の病気なんだ。来月手術することになってる」

「そんな……治るんだよな? また歌えるようになるんだよな?」


 いつか見た日のように、彼女の目尻に涙がにじむ。

「そんなの、あたしにも分かんないよ。だから最後のライブなんだ」

 咄嗟に言葉が出ない。けれど、あの日言えなかったことを言わなくてはならなかった。

「あなたが聴きたいって言ってくれた私の声は、もう……」

「俺は、俺は……君の声が好きだし、君の歌う曲が好きだった。それはあの頃から変わらない。だけど、ひとつだけ変わったことがある。たとえこれから先、君の声が聞けなくなったとしても、俺は……君のことが好きだ。ずっと傍にいたい」

 彼女は口元を押さえ、声にならない声で泣いている。

 そして、どこからか「ペトリコール」の匂いがした。

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ペトリコール 氷雨 @icerain828

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