第9話 ――こんにちは、世界
エルフォフの朝は本当に静かだった。
高濃度の魔力が空気に溶け込み、光る花が聖樹の周囲を舞い、精霊たちの囁きが風に乗って森をすべっていく。精霊、エルフ、そしてこの地の動物たちが共に生きる――調和そのものの世界。
しかし、その静寂は突如として破られた。
──アカデミーより緊急通達。
魂のない死体が発見された。
傷一つない遺体。だがその「本質」は、痕跡もなく消されていた。
魂が外部から、強制的かつ意図的に引き抜かれた形跡――商人たち十数名が犠牲となっていた。
その報を受け、学院長は即座に命を下した。
四つの魔導通話具が魔力を媒介し、直接リィアナの脳裏に言葉を届ける。
『直ちにエルフォフ王より魂への攻撃に対抗する知識の提供を願い出よ。
そして許可が下りたなら、王族より“魂の防御”訓練を受けること。
敵は身体を壊さず、魂そのものを狙ってくる。』
通信が終わると、リィアナは緊張を帯びた目で頷いた。
「……やはり、“あれら”か。」
「“あれら”?」と、ノーランが訊き返す。
リィアナは空を見上げ、口を開いた。
「魔法だけじゃない。魂を“喰らう”……禁術を用いる者がいる。」
それは大戦の時代にわずかに記録されていた古代の禁術。ほとんど知られていないが、いま再び、恐怖と共に現れた。
◆◇◆
「――では、これより“魂の防御”訓練を始める。」
王城の庭園、魔法陣の中心に立つのは、エルフォフ王・レヴィン。
石のような表情で告げる。
「し、失礼いたします陛下……陛下自ら教えてくださるのですか?」
「“特異な力”を持つ者に対しては、私自らが指導に当たる。」
その視線は、冷たく、まっすぐ、ただ一人の少年へと向けられていた。
(……なんだ、俺を露骨に嫌ってる……?)
レヴィン王は不信の目を隠さず、ボソリと呟いた。
「娘に色目を使うなよ、小僧。」
(……え?娘って誰?)
意味がわからず首を傾げるトゥーロ。
その意味を察したのは、美しいエルフの王女・セレスティアだった。
「パパ、やめてよ。またトゥーロをからかって……」
「ふん……お前は人間に甘すぎる。」
「でも今日は市場で助けてくれたじゃない?」
「……そ、それは……うむ……」
トゥーロは顔を真っ赤に染めた。
「い、いや……ただ偶然いただけで……」
後ろではノーランとカインがひそひそ話をしている。
「マジで王女フラグ立ってね?」
その隣でリナは無言で矢を研ぎ、メイラは口元を手で隠してくすくす笑っていた。
◆◇◆
魂の防御――それは肉体ではなく、魂そのものを守る術。
通常、魔力は身体全体を巡るが、それを“魂の核”――太陽神経叢に集中させ、
そこから均等に拡散させることで、魂は厚みを持ち、外部からの干渉に耐えうるようになる。
この世界において魔法とは、物理的・精神的・情報的な三つの“粒子”で構成されている。
しかし大半の魔術師は、そのうちの1%しか扱えていない。
身体に宿る魔力だけを使い、魂の領域に至る者は稀。
だが三つの粒子すべてを自在に扱い、連携させることができれば――
本来の“魔法”の可能性は限りなく広がる。
「力を抜いて。魔力を太陽神経叢に集めて……」
「……これ、光ってるような……」トゥーロは目を閉じ、呟く。
胸の奥で何かが震えた。
その瞬間――
『ようやく……気づいたな。ここが“核”。我らの繋がりの源。』
「お前……名前は?」
『名は不要。ただ一つ――“門”がすぐに開く。』
全身が内側から燃えるような熱に包まれ、額から汗が滴る。
「門……って、どういうことだ?」
◆◇◆
『その門を制御できたとき、我はより強く現れる。』
空間も時間も意味をなさぬ、因果すら存在しない“観測の次元”。
そこには“神”と呼ばれる存在たちがいた。
「……また、境界が揺れた。」
彼らに善も悪もない。
慈悲もなければ、感情もない。
ただ、観測し、実験し、世界を操る存在。
「宇宙と宇宙が衝突したら……どうなる?」
「進化……あるいは崩壊。我らにとっては、どちらでもよい。」
その一体が、虚空に指を走らせる。
無限の迷宮――何のために作られたのか、それを知る者はいない。
神々の空間と創られし世界を隔てる“空白”。
それは、神が概念を流し込む隙間でもある。
その頃、シャエルは塔の頂で空を見上げていた。
「……見ているのね。」
彼女の足元には、雇われた傭兵たちの死体。
そして震えるエルフの少女たち。
涙を流し、命乞いをする彼女らに、シャエルは過去の自分を重ねた。
だが主――魔王の言葉を思い出し、彼女は低く呟いた。
「殺しはしない……。今日から、お前たちは私の“侍女”よ。」
その言葉に、少女たちは更なる恐怖で震えた。
悪夢のような日々の始まりを感じながら――
◆◇◆
訓練後の午後。
トゥーロは偶然、庭園でセレスティアと鉢合わせた。
「今日の訓練、大変だったわね。」
「ああ……でも助かったよ。アドバイス、すごく効いた。」
「ふふ、そう言ってくれて嬉しい。」
柔らかな笑顔の後、静寂が流れる。
――が、束の間。
「おい、お前!王女と何してる!?」
王宮の護衛兵が現れた。
「え、ちょ、違う!そういうのじゃなくて!!」
「捕らえよ!」
「王女に手を出すなど死罪だぞ!」
「えぇぇぇぇ!?!?」
トゥーロの叫びとともに、庭園中に笑いが響いた。
「行動の始まり」
エルフォフの朝は、まるで世界そのものが瞑想に入ったかのように、静まり返っていた。
高純度の魔力が森全体に行き渡り、空気は澄みきっている。木々の葉は、まるで魔力のさざ波に反応するように、そっと揺れていた。
ここでの訓練は、単なる肉体の鍛錬ではなかった。
それは魂の奥底を揺り動かし、内なる何かを目覚めさせる行為だった。
「この森……息をしてるみたい……」
リィナがぽつりと呟き、両手を広げた。
彼女の指先に、金色の魔力粒子が集まってくる。まるで歓迎するかのように、空中を踊るように舞っていた。
「魔力が、自然と身体に流れ込んでくる……これが、精霊の森の力か……」
トゥロは目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込んだ。
そのたびに、魔力が優しく体内を循環し、意識が澄みわたっていく。
静寂と成長――この場所には、その両方があった。
彼らを見守っていたのは、エルフの王レヴィン。その姿は王というよりも、導き手のように穏やかだった。
「焦らずに……魔力とは、力ではない。調和なのだ」
その頃――
エルフォフの国境近くで、ひそかに異変が起きていた。
“国家テロ”と呼ばれる存在が、密かに小規模な襲撃部隊を送り込んできたのだ。
彼らの標的は、森に点在する小さな村々。
焼き払い、破壊し、恐怖を植えつけ、跡形もなく消える――それが彼らのやり方だった。
この報告はすぐに学院へと届いた。
学院のディレクターは、王の許可を得て、自ら現地に出向く決断を下す。
同行するのはわずか三人。
銀ランクの魔術師が一人、金ランクの第五位が二人――いずれも精鋭である。
「銀一、金二……これで足りますか?」
「十分だ」
ディレクターは静かに答える。
「もし敵が予想以上だったら?」
「その時は……私一人で終わらせる」
その言葉に、誰も異を唱えなかった。
数時間後――
空には焦げた煙が立ちこめ、空気には焼けた木と血の匂いが混ざっていた。
村は壊滅。森の一部も焼き払われ、生存者は一人もいない。
煙の向こうから現れたのは、黒衣の魔術師たち。
“国家テロ”に属する部隊である。
その中心には、顔に深い傷跡を持つ男がいた。
「ようやく来たか。だがもう遅い」
男は手を掲げ、天空に巨大な火球を生み出す。
「貴様らが……破壊し、隠れ、逃げ回る連中か。ならば、ここで終わらせる」
ディレクターが一歩前に出る。
その背後に、三人の部下たちが立っていた。
「焼き払えッ!」
傷の男が叫び、火球が唸りを上げて落下する。
地面が熱を帯び、周囲の空気が震える。
だが、ディレクターは一歩も動かない。
彼はただ、片手を上げただけだった。
次の瞬間――
すべての炎が、すべての破壊のエネルギーが、まるで初めから存在しなかったかのように、完全に消滅した。
「周囲十キロを探索しろ。まだ他にも村があるはずだ」
ディレクターは静かに部下たちに命じる。
「ここは私が片付ける」
「一人で……十人を、ですか?」
「命令だ」
短く、だが重い言葉。
部下たちは一礼し、姿を消した。
「ハッ! 一人で俺たちを止める気か、ジジイ!」
「すぐに始末して、残りも追うか!」
敵たちは笑っていた。だが――
「愚か者め……貴様らには、“差”というものが見えていないようだな」
その瞬間、空気が変わった。
重圧。
それは世界を歪めるほどの、魔力圧だった。
膝が崩れ、呼吸が詰まる。
魔力は制御不能になり、視界が霞む。
魔力圧――それは高位魔術師が放つ、極度に濃縮された魔力が物理・精神・霊魂に直接干渉する現象である。
魔力は「物質的要素」「情報的要素」「精神的要素」の三層で構成されており、
圧力が強まれば強まるほど、その三層すべてが破壊されていく。
「な、なんだこれは……!」
「く、苦しい……!」
次の瞬間――
ディレクターの姿が、音もなく消えた。
移動速度、秒速三十万キロ。
十人の魔術師が一斉に反応し、光速戦闘に突入する。
だが――速さだけでは足りなかった。
彼らには経験がない。技も、構築も甘い。
その隙を突かれ、三人が一瞬で倒された。
一撃で、魂ごと――。
残る七人は、決死の覚悟で魔力を一点に集め、巨大な爆発魔法を構築しようとする。
「勝てなくてもいい……せめて、道連れに!」
だが――
「戦闘中に長時間の詠唱を許す相手など、この世にはおらん。愚か者が」
ディレクターの魔力圧がさらに高まる。
空間がねじれ、彼らの身体が弾け飛ぶように消えた。
肉体も、魂も、情報さえも。
宇宙から存在が消された。
「……終わりだ」
ディレクターは一言だけ呟き、背を向けた。
部下たちの元へと、静かに歩いていく。
その頃――
「トゥロ」
レヴィンが静かに声をかけた。
「お前の中には、まだ目覚めていない力がある。だが今なら……触れることができるかもしれない」
「……僕の中に?」
レヴィンが手をかざすと、トゥロの胸に淡い光の紋章が浮かび上がった。
「これ……なんですか?」
「それはお前の始まりであり、鍵でもある。だが――まだ何かが足りない」
「何が……?」
そのとき、森がざわめいた。
森の奥――誰か、いや、“何か”がこちらを見ていた。
それは精霊でも、魔でも、獣でもなかった。
もっと異質で、もっと深淵な存在。
エルフォフの森は、もう以前のような静けさを保ってはいられなかった。
物語は、次の扉を開けようとしていた――。
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