拾漆話  濱口儀兵衛と紀伊国屋文左衛門

濱口儀兵衛宅


 醤油蔵が幾つもあるお屋敷に到着した。ここがヤマサの屋号を持つ濱口儀兵衛の屋敷だ。

元々紀州の出身である濱口家はここ銚子にて醬油作りを始める。江戸から近く水運で運べるこの銚子はお誂え向きな地だったようで同族のヒゲタ醤油もここで創業している。


 たしか正保(1644-1648)の頃に紀州から来たんだと記憶している。来たのが初代儀兵衛でそこから四十年余り経ってるから目の前に居る人物は二代目か三代目なんだろうな、こちらから聞くのは失礼に当たりそうで聞けないけど。


「幕命謹んでお受けいたします、小石川の方へ職人を派遣いたしましょう」


「それは、有難いが即決ですな。よろしいのか?」


 いや少しは考えるかするんじゃないかと思ってたから拍子抜けだよ。


「お上の命とあればそれを受けるのは誉ある事この儀兵衛喜んで相務めさせていただきます」


 ああ、なるほどこの時代は幕府の力がまだ強い時代、上から下まで幕府を恐れ崇めているわけだ。幕末の弱いイメージで考えてた。


「正式な遣いとして次に訪れますがあくまでも形式上の事、細かいことはここで話しておきましょう」


 職人たちに来てもらって何をしてもらうのか話しておくか。





 濱口儀兵衛は驚いていた。表面上は商人として喜怒哀楽を表に出すことを禁じた先代の教えを守っていたがまだ若い榊原という旗本の言うことに度肝を抜かれていたのであった。


(箆似士倫(ペニシリン)という薬、今まで為す術もなかった病を治すことができるなど聞いたことがない、そのような仙人の薬のようなものが出来るというのか。)


 正に夢物語のような話であるが儀兵衛は源三の口ぶりから真実だと考えていた。


(あの方はそれがさも既にある物であると確信しているようであった。出来るか出来ないかではなく既にこの世にある物だから出来るだろうと考えられていた。つまりこれは商機、正に天から降ってきた話。この話を受けないという判断はありえない。)


 儀兵衛は考えていた以上の力を入れてこの事業に取り組もうと固く誓った。


 源三が思っていた以上にやる気になっていたのであった。


 こうしてヤマサが計画に加わることでペニシリン製作は加速していくことになるのであった。





 いや~濱口儀兵衛即決とは思わなかったわ、それも腕利きの職人たちを回してくれるらしい。これで目途はたったな。


 後は青カビを大量に入手せねば。ミカンに良くできてるからミカンの皮がたくさんあればいいんだが。


みかんといえば紀州だよなあ。そして紀州と言えばあの人が有名だな。一つ頼んでみるかね。



 紀文こと紀伊国屋文左衛門はこのとんでもない依頼を受けて困惑していた。{カビの生えたミカンが入荷したらこちらに届けるように}という文面に馬鹿にしてるのかと最初は思ったが送り主は公儀(ばくふ)の小石川医薬所という新しく出来た役所でありこれは何かあると考えた。


「旦那様、このふざけた願い叩き返しましょう」と番頭が言ってきたが。


「待ちなさい!これは…お受けします。直ちに荷物の中のカビの生えたミカンを集めなさい!」


「は、はい只今取り掛かります!」


 走っていく番頭を見ながら文左衛門は素早く考えを巡らせる。


{金儲けの匂いがぷんぷんする。それも途轍もない大きな。この話逃すことはあり得ない!}


 彼は数年前紀州からみかんを江戸に送って巨大な利益を得てから塩鮭や材木販売で稼いでいた。


{なにかが起き始めている。何かはわからないが途方もない金が動く事であることは間違いない。これに噛まない等商人である価値などない}


 彼は早速小石川で何が起こっているのか調べることとした。




小石川薬草園


薬草園の中に蔵が作られている。醤油蔵を参考にして作られているが実際に作られるのは別物である。


「問題は研究用の道具の作成か」 


ガラスを使った実験道具はガラス職人を長崎から呼び寄せることになったがその精度は御察しだ。


 まだソーダ灰も無いからなあ。あの本「 実用工藝指南書」に載ってるんだが前提として生産設備を作る機材から始めないといけない。これが又先が長い話になりそうだ。


「量産は無理でも少量なら作れるか。腕のいい細工師でもいればいいが」


 人材探しは柳沢殿や日野屋の伝手で手先の器用な人を探してもらっている。前原巧山やからくり儀右衛門みたいな人がいればいいんだが。


「源三様!」


 珍しく日野屋藤兵衛が慌ててやってきた。なにか問題でも起きたのか?


「どうした?問題でも起きたのか?」


「いえ、問題と言えば問題なのですが、みかんのカビの件で当たった紀伊国屋からこの仕事を手伝いたいと」


 な・なんだってー!


「なんで急にそんな話になるんだ?カビの生えたみかんを頼んだだけだろ?お前他になにかしゃべったか?」


「そんなことはしてませんよ。ほんとにかびのみかんを分けてくれと頼んだだけです」


「はぁ、なんでそうなるのかな?じゃあ話だけでも聞いてみるとするか」


 でもなんでそんなこと急に言ってきたのかね?中身も知らないのに、なにか感じるものでもあったのかな?



小石川薬草園


「紀伊国屋文左衛門、よく来てくれた。幕府御用を手伝いたいとの事まことに神妙である」


にこにこ


「はっこの文左衛門誠心誠意相務めさせていただきます」


にこにこ


 なんか初めて会った紀伊国屋文左衛門だがすげえ笑顔である。揉み手こそしてないが。


「何をするのかはまだ聞いておらんと思うがそこまで務めると言い切るのは何故かな?」


にこにこ


「はっ、あくまでも私めの勘でございますが榊原様が何やらどえらいことをなさると思いましてこの身非才でありますがいくらかお役に立てればと思いまして」


 なかなか鋭いな、にこにこしてるだけではないか。


「では、今は他言無用で頼むが…」


 俺は文左衛門に今から行うことと頼むことになる諸々を話すのであった。



 文左衛門が辞して後日野屋藤兵衛と二人だけで話をする。


「藤兵衛はどう思う?そちらとしては紀伊国屋に利権を譲ることになるのだが」


「この御用は成功すれば大変な評判になること間違い無しです。世間で高名な紀伊国屋さんが噛んでいるとなればそちらに耳目が集まりますから我らとしてはやりやすくなりますな」


「なるほど紀伊国屋(やつ)を弾除けにするか、{そちもなかなか悪よのう}」


「いえいえ{源三様程ではございません}」


 後世ではお馴染みのセリフを言い俺たちはどちらからもなく笑うのであった。


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