track, flowering, flowering

椎見瑞菜

001

 この工学部百三十二号館の七十三階の廊下は、うっすらと花の匂いが漂っている。その香りの元は、私が向かっている慧島先生の部屋だ。海外でのポスドク経験の長い慧島先生の部屋だけ、在室時に扉が開きっぱなしになっている。私は歩きながら自分のスマホを操作して、研究室内の連絡用チャットツールにアクセスして、自分のステータスを更新する。“小野はなことば:研究室在室中”。他に在室中状態になっているのは慧島先生だけだ。

 それから、開いたままのドアを何回か叩いて、返事も待たずに私は中へと入っていく。返事など返ってくるはずがない。机や椅子、ホワイトボードなど元々置かれていたものが乱雑に端っこへと寄せられて、無理矢理空けられた部屋の真ん中の空間にぽつんと置かれた花瓶の周りをぐるぐると、慧島先生はいつも通りの様子から変わらず、小声で呟きながら歩き回っていた。

「しゅっぽしゅっぽしゅっぽっぽ~。今日も元気にはたらくくるま~。安定雇用で研究続ける、テニュアトラック!」

 テニュアトラックのトラックは自動車のトラックではないし、トラックはしゅっぽしゅっぽと音を立てては走らない。私は溜息をつく。

 慧島先生が正気を失ってから、だいたい三週間ほどが経つだろうか。若手気鋭の研究者として高分子材料研究室の中で将来を期待されていたはずの彼は、この大学でのテニュア職を得るための面接を繰り返していく中で、徐々に狂気に呑まれていったという。私が修士の学生としてこの研究室に配属になったのは、先生がほぼ今の状態になってからだ。

「先週の授業の課題、採点したのはここに置いておきますので」

 部屋の端の机の上に、私は持ってきた紙の束を置く。どこにも向けられていないはずの慧島先生の視線が、一瞬だけそれへと向けられた気がした。その横には、昨日にはなかった実験結果のメモが残されていて、私はそれを手に取って眺める。一日に二時間ほどだけ自分を取り戻すという先生は、その時間を研究と後進の指導に尽くしている。

「しゅっぽしゅっぽしゅっぽっぽ~。今日も元気にはたらくくるま~。安定雇用で研究続ける、テニュアトラック!」

「テニュアトラック!」

 なんだかたまらなくなった私は、先生に合わせて叫んでしまう。


「あら、もう来てくれてたんだ」

 私の叫び声を聞きつけてぱたぱたと部屋に入ってきたのは勘解由小路さんだ。今日も新しい花を提げている。ピンクのゼラニウム、だ。

 勘解由小路さんは同じ高分子材料研究室で、実験補佐の技術職として雇われている。慧島先生との恋仲は研究室中の誰もが知っていて、婚約中だったとか、先生がテニュア職に就けたらプロポーズするのだとか囁かれていたみたいだ。祭壇みたいに置かれた花壇の花を活け替えながら、勘解由小路さんは一方的に先生に話しかける。実験の進捗の話、昨日の夕食の話、花屋さんの品揃えの話。つらい時期だろうな、と思う。様子が変わらない先生のことを、この人はこの後、どうやって受け入れていくのだろう。

「廻くん、あ、慧島先生ね、」

 意思疎通もままならない二人をじっと見ていた私に、勘解由小路さんが突然話しかけてくる。廻くんと呼んでいるのだな。

「面接のときに、あなたの研究は人類の未来にどう役立ちますか? っていう質問を何回も受けてね、」

 私の返事も待たずに彼女は続ける。

「それで、未来のことを想像して想像して考えて考えて、それで、未来に関する嫌なことが分かってしまったのですって。どれだけ想像して想像して考えて考えてそれが払拭できなくて、その絶望で、廻くんはこうなってしまったのね」

「はあ」

 頭のいい人の考えることは分からないな、というのが正直な感想だった。

「だから、廻くんの想像できる未来を、ずっとよく塗り替える必要があるの。廻くんが一番精度よく想像したはずの、高分子材料の世界でね」

 横で変わらず呟き続ける先生の声を打ち消すように、勘解由小路さんは少し大きな声を出した。やはり大変な時期なのだろう。

「はなことばちゃんには、それをお願いしようと思って。ねえ。この工学部百三十二号館の遍く頭脳と一緒に研究をして、廻くんが想像もできなかった未来を作って欲しいんだ」

「いやいや、どうですかね。えー、私ですか? どうでしょうねえ……」

「温室効果ガスをびっくりするくらい吸着するフィルタの材料、どんなに気の立った野生のクマでも一撃で逃げ帰るクマよけスプレーの材料、ねえ、他にどんなのがあるかなあ」

 勘解由小路さんは、思っていたより大変なことになっているようだった。

「色褪せずにドライフラワーが作れる表面保護材料、とかですかねえ?」

「それいいね! その材料だったら、八十九階の八雲先生のところかな! 行ってみよ!」

 迂闊に答えてしまった私の手をとって、勘解由小路さんは強引に私を廊下に連れ出した。さて、と私は思う。さて。

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