六  桜に芽吹く百合の花

 桜明さくらあき女御にょうごは粥を平らげてねむりについた。

 渡殿わたりどのを歩いていた蓉子ようしが向かった先には、狩襖かりぎぬを身にまとった青年がいる。


あさ眼薬めぐすりは点眼しましたか」


「ああ。自分じゃ差し方がわからなかったから、禁毒卿きんどくきょうに差して頂戴いただいた。……今宵こよいは君がやってくれないか」


「なるほど、もちろんです」


(父上のやり方は下手だったのか)


 公的な典医より私的な姫君の方が良いとは如何いかがなものか。


 雅明まさあきまなこをみて、蓉子ようしは眉間にしわを寄せる。

 まだ薄っすらとひかりを残す左眼と違い、右眼は生気を感じない。

 生気を感じない、というよりかは、あまりに濁りすぎていて、とうていえるようにはおもえない、という方が適当か。


すでに、やられているのか)


 それでも、患者の希望のぞみがあるかぎりは、苦痛を和らげるための薬を投与し続ける。


「痛くはないですか」


「平気、あまり動かなかったから粉も舞っていない。ただ、眼の奥のが妙で妙でしかたない」


(網膜に違和感を感じるだけか)


 失明させたくはない。

 れど、これは彼の意志ではない。


 医がきくのは、患者の口から紡錘つむがれたことばだ。

 誰よりもきずついている彼らのことばを軽んずることは、心を殺すという罪だから。


「これからも《眼薬》で良いですか」


「そうだね、そうする」


 ワレモノを手にとるように、そっと叮嚀ていねいすくわなければならない。



     ◇



 同じころだろうか。

 桜明さくらあき女御にょうごねむ房室へやは、馥郁ふくいくたる桜のかおりで満たされていた。くらがりのなか、ひとりの影が、そばれる。

 病を訴えた女房にょうぼう──名は、麻葉あさはという。


「……桜子おうし様、貴女あなたは私とともに死ぬと誓約ちかいました。病臥びょうがしていることをかくして、女房どもを遠去とおざけ、もしおのれが死にそうなら、ともに腹をるなりくびを吊るなりして死ぬと。花が咲き始めたころの私のおもいを、貴女は微笑わらって、もちろんと返してくれた。ともに死にましょう。あくる日のあさ、死にましょう。中宮は決まりましたが、貴女も天子からちょうたまわるかもしれない。それだけは、ゆるせません。一帝二后ともなれば……」


 つよ怨恨うらみが、麻葉あさは唐衣からぎぬの周りでけぶる。そして、人形の如く睡る女御の花唇に、そっと接吻くちづけた。手にはたしかに、鋭く光る刃が握られている。


「そもそも、貴女の父上が女御になれという命に、私は逆らいたかった。故里こきょうくにで、死ぬまでともに二人で生きようと云ったのに!! どうして、天子のめかけになんか……」


 麻葉あさはは生まれたころから、桜明さくらあき女御にょうごの侍女であった。

 《桜子おうし》という真名をぶことをゆるされたのも麻葉あさはだけ。二人は幼い比からおもいを通わせた、わば恋仲であった。


 美麗うるわしい姫君は財産であった。

 後宮へと向かわさせれば、后妃にはなれるであろう。運が良ければ、天子の寵妃になれるかもしれない。そうしたら、家の名がられる。

 だから姫君は行け、と。宝物たからだから行け、と。


 昔から、枝垂しだれ桜の化身だとうたわれた姫君は、家のものとなって、生き地獄という名の後宮へ送られた。

 そのときも、片時も離れず傍にいたのが、麻葉あさはであった。

 桜子おうしのことを《枝垂れ桜の化身》とも《安原家の宝物》ともみなかった唯一のひとが、ほかでもない麻葉あさはだったのだ。


 物陰にかくれ、人目を忍んで、桜のような接吻くちづけをして。

 それなのになぜ、愛しきひとが、偉いだけで好きになどなれない男に抱かれなければならないのか。

 耐えかねて、結局、病臥をい訳に心中を決意しただけのこと。

 死ねば、つがいが天子からちょうたまわることはないから。


「そうすれば──」


「どうして、死ななければならないのですか」


 はっと、麻葉あさはが振り向いた先には、おしろいも塗らぬ姫君がいた。

 《毒鬼姫どくきひめ》だ。


「っ──!! 脚音あしおとも気配もしなかった。ほんとうに妖姫あやかしなんじゃないですか!?」


「そう。ちかごろは自分でも、本当に人間なのだろうか、本当は幽鬼れいのたぐいなのではないか、ともおもい始めている」


 口がうまい、と麻葉あさはは心でわらった。先刻、《毒膳》にこれいじょうないほどの敬意を表していたばかりとはおもえない。心変わりが過ぎる、と蓉子ようしあきれた。


「それで、どうして貴女たちは、死ななければならないのですか」


「《毒喰どくくい鬼》にはわからないでしょう。ひとの情など、妖姫あやかしやら幽鬼れいやらの貴様あなたに理解るものですか」


「もう私は妖姫あやかしにも幽鬼れいにもなってしまったのですね」


 淡々としすぎている蓉子ようしの返辞に云い返すのも飽き、麻葉あさはなみだしながら、ただ、わめいた。さけんだ。それは、ひとつだけの愛が、ぜるさまであった。

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