第二見
帰りもあの駐車場の前を通り過ぎるのか、と思うと明るいうちに帰宅したくなった。
あの駐車場で、男を見てから感じている嫌な気持ちを分析してみる。
まず、こちらを見て笑っていた気がすることに、そもそも不快な気持ちが湧いている。しかも、友人でも、知人でもない知らない人間に。
いや、そもそも人間だったのだろうか。浜名はこれまで、幽霊だの妖怪だの、そういう類のものには全く興味をよせてこなかった。ただ、あの視界が一瞬しか留まらない電車の車窓から、あそこまで露骨に人を認識できるだろうか。
それと同時に、その男の足元にいた倒れ込む人が気になった。もしかすると、あの男はヤバい人間で、あの駐車場である人を殴り蹴りつけ、あんな状況になっていたのではないだろうか。
足元に倒れ込む人の印象はあまり残っていなかったが、仮にあれが事故現場だとしたら、浜名はそういう意味で、よくない物を見てしまったのではないだろうか。
そう思うと、通報すべきか、しかし、そこまでする必要があるのかどうかと判断がまごついた。結局、会社に着いてからもぼんやりしながらの労働となったので、事務処理は思ったように進まなかった。
予定していた業務は30分オーバー(これでも朝の出来事を考えれば早く仕上げたぐらいだ)。
早めに営業訪問を終え、今日は外が暗くなる前に帰宅しよう。それに、たまたま変な奴を見かけただけで、何か自分が事件や事故に巻き込まれたわけじゃない。誰かが怪我をしているとしたら、嫌な気持ちは残るけれど、自分には関係がない。関係のないことには首を突っ込まないことだ。それが大人の処世術だ。明日には日常が戻ってくるはずだと言い聞かせる。
浜名は、ホワイトボードに営業先を書き込むと退社時間に「直帰」となぐり書きした。誰にいうでもなく「いってきます」と早口で挨拶をすませると、職場から逃げるように飛びだした。
ひとたび社会の歯車になると、浜名の恐怖はあっという間に消え去った。
一人、また一人とお世話になっている営業先をまわり、雑談を交えながら納品した商品の具合や他社の動向をそれとなく伺う。そういういつもの仕事をこなしているうちに、朝の出来事は過去のことになり、昼食をとる頃にはすっかり頭から抜け落ちた。
そういや、今日は思い切って直帰にしたから定時に終わって、さっさと帰ろう。ついでに、いつもより良い値段のお酒でも買って帰れば最高だ。そう思えば、なんだか元気が出てきて、不思議と笑顔が多くなる。
「浜名さん、今日は何かいいことでもあったんですか?」
「いいことですか?」
「いつもより笑顔がまぶしいからさあ……もしかして、彼女でもできた?」
ありきたりな会話だな、と思いながらも表情には出さない。この営業先の担当者――宮下は、いつも雑談が長くなるので早く仕事を片付けたい日は訪問を避けるが、今日みたいに手を抜きたい日は非常に助かる。こういう仕事に関係のない話題もふってくる。遠慮がないのは面倒だが、時間をつぶすにはちょうどいい。
「いやあ……彼女はなかなか……」
「忙しくて作る時間がありませんってやつか。商売繁盛だねえ」
「いえいえそんな。宮下さんのおかげで僕もここまでこれましたので」
「まーまーそれはいいんだけどさ、この前もらった概算見積もりなんだけど、あそこからもうちょっと金額って調整できる? うちも今年は予算があんまりなくてさ」
「そうですね……宮下さんにはいつもお世話になっていますので、僕としても気持ち、もう少しだけ安くはできると思うんですけれども」
「やっぱりどこも厳しいわな」
「そうですね……」
宮下は、ふうとため息をつくと浜名が先日渡した見積書の数字をじっと見つめる。浜名もそれに寄り添うように、数字をじっと見つめる。宮下は、いつも何かと値下げ交渉をしてくるので最初からいくらか金額を乗せている。なので、今回もお決まりのように気持ち分だけ金額を下げて最終見積もりを出す予定だ。「じゃあ……」一度持ち帰ってから、また見積書を送らせていただきますね、と返事をしようとしたところ「そういえば」と宮下が口を開いた。
「浜名さんのご自宅って北の坂を上った方でしたっけ」
「そうです。あの線路沿いの」
「この前、そっちの線路沿いで事件があったらしいよ」
「え」
「しかも、死人が出てる事件」
そうなんですか、という声は驚くほど細く、消えていってしまった。そんな浜名の声に被せ、そうそうと言いながら、宮下は顔をぐっと近づけて囁き続ける。
「先週ぐらいからさ、うちの経理の子が休んでて。その線路沿いから自転車で通勤してるんだけど、見ちゃったらしくてさ、ご遺体。今日もお休み。まあ、そりゃ仕方ないよな、人が死んでるところなんて見ちゃったらさ。自殺なのか事故なのか、まだ、分かってないみたいだけど……浜名さんも、営業でここらへん歩くこと多いだろうから、変なの見たり、関わったりしないよう気を付けなよ」
じゃ、また新しい見積書、お願いするね、というと宮下は、浜名に軽い会釈をして自分の席に戻って行った。浜名は宮下の後ろ姿に「また、よろしくお願いいたします」と声だけ掛けると、ふらふらとした足取りで営業先を後にした。
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