第三見

 いつも通りの道を歩いて、いつも通りの改札口から駅に入った。

 いつもと同じ駅の待機列に並び、到着した電車に乗り込む。この車両に乗ると、乗換が一番楽だからだ。ただ、今日は窓の外を見なかった。電車に乗車するのと同時にスマートフォンを取り出し、意味もなくSNSを徘徊する。トレンドワードをクリックしたり、目についた画像を見たり、知りもしないアカウントのやり取りを覗き見る。理由は簡単で、朝に見た男を、男の足元でうずくまる影を見たくなかったからだ。

 営業先の宮下が話したこと、それが何か関係があるとは思わない。第一、浜名が見たのは今朝の話で、宮下がいう経理の子が見たのは先週の話だ。それに、浜名が見たのは別に人の死体とかではなく変な男とうずくまる影だったわけで、やばいのを見たかもなぐらいの感想でいいはずなのに、何故か浜名は焦っていた。理由はわからない。

 視界はスマートフォンの四角い画面しか見えないのに、頭の裏側ではしきりに今朝の風景がループしていた。


「見たのにね」


 瞬間、浜名の耳元で声がささやく。

 背中のあたりが、ぞくりとして、腰から腹へ、腹から胸へ、胸から肩へと寒気が走る。

 声は男とも女とも分からない声色で、というより本当に聞こえたのかどうかもその瞬間から疑うような感覚だった。


(そういや昔)


 浜名はフと思い出す。

 小学五年生の頃、塾の帰りに動物の死骸のようなものを見た。

 その時は、母親の運転する車に乗っていて、ぼんやり外を眺めていただけだった。

 道路の脇に、ゴミにしては異様に長い、黒い物体が視界をかすめた。かすめた瞬間、それは何かの動物だと思った。その体の下には、黒い水たまりが出来ていて、ああ、血だ。血が出ているんだと思った。それと同時に、その動物がピクリと動いているような気がした。その動物のようなものにはきらりと光る目玉が二つついている。 


 まだ生きている。


 母親に車を止めてくれとは言えない。

 車は進んでいく。その間にも、あれは本当に動物だったのか、車に轢かれて既に死んでいたのだろうか、いや、でも動いたようにも見えた。今、助けにいけば命は助かるのだろうか。でも、もうあんな状態じゃあ助かるわけないだろう。

 そう自分に言い聞かせて、目を瞑る。

 あの頃から自分は、何から逃げて、何から目を背けているのだろう。

 


 最寄駅に着いた。

 改札を出るとあの男がいた。


「やあ、どうも。ちょっと時間をもらってもいいかい?」


 男は浜名を見ながら、驚くほどの無表情で出迎えた。

 浜名はただ、こくりと頷いて男について行く。駅前の喫茶店に着いた。男は「面倒なんで、ここでいい?」とだけいうと浜名が「はい」とも「いいえ」とも答えぬ前に扉を開けた。喫茶店はどこにでもあるチェーン店で、平日の夕方というのもあってか、人はまばらだ。店員がすぐに空いている席に案内したので、待つことなく座席に座る。


「とりあえず、なんか飲みます? 俺はアイスコーヒーで」

「ああ……えっと、じゃあ……僕もアイスコーヒーで……」

 男は、メニューを見ることな飲み物を選び、浜名もそれにつられてアイスコーヒーを選ぶ。席を案内した店員は、「かしこまりました。シロップはおつけしますか?」と確認したが男が「いらないです」と答えたので浜名もまた「あ、僕もそれで大丈夫です」とだけ伝える。店員が席を離れると、男は変わらずの無表情で、首をかきながら「どっから話そうかなあ……」と唸る。

 

「まあ……急に声かけて、なんも理由を聞かずに着いてきてるって時点で、ほぼ確なんだけど……今朝、見ちゃいましたよねえ」

「えっと……」

「電車の方から」

「……」

「アンタも見なきゃよかったのにな」


 男は、それだけいうとふと目を細め口元だけ歪ませた。それがこの男の笑顔だということに、浜名は一瞬気がつかなかった。今朝、電車から見えた笑顔とは違う、不器用な笑い方だった。

 注文していたアイスコーヒーが二つ運ばれてくると、男はストローで氷をつつきながら話し始めた。


 アンタさあ……道端で死んでる生き物とか、まあ動物でも人間でもいいんだけどさ。そういう痕跡を見たとき、同情しないほうがいいとかいう話は聞いたことある? 同情すると憑いてきちまうってやつ。まあ、聞いたことあっても無くてもいいんだけど。あれって結局、見ちゃった時点でもうあっちは『助けてくれるかも』なんて救いを求めちゃうやつもいるわけだよ。それを無視するほうが無理な話っていうか。まあ、そうとうできた霊体じゃないと『この人は自分と関わりたくないんだな』なんて理解してくれねーだろ。だいたい死んでもそこに居座ってるやつなんて、可哀想とか同情してほしくて残ってるやつらばっかりなんだから。だからそれはもう見ちゃったらダメなんだよ。アンタは、見ちゃったからさ。

 で、俺は何をしてるのかってだけいうと、まあ、そういう面倒なヤツを分からせてやるのを生業にしてるって感じ。ああいうやつは丁寧に扱うより、俺みたいなチャラついたやつに笑われるのが一番嫌になるらしくてさ。こっちの充実度を見せつけてやる感じ。まあ、それで勝手に避けてくれるみたいな。


「あの」


 浜名は、男がつらつらと話す言葉を切る。


「あの、すみません。今朝からなんかいろいろあって、急に話しかけられて、喫茶店でこんな話……貴方が誰なのかとか、その、僕はどうなるのか、とか、えっと……」

「俺のことは変な奴だったなって認識だけでオッケー。この喫茶店を出たらもう忘れていい。んで、まあ、たぶん、それでアンタは明日からいつも通りの日常に戻れると思う」

「あの、今朝のあれは事件とか事故とかですか」

「……事件でも事故でも、どっちでもいい。好きな方を選んどけ」

「というか、その貴方はそもそも信頼していい人なんでしょうか」

「それも好きに解釈してくれ。ただ言えるのは、この喫茶店を出たら今朝見たことも、俺のことも、変なことあったなぐらいにして生きていけってくらいだ」

「足元の影は、なんだったんですか」


 男は、浜名の言葉を聞くと、眉間にシワを寄せた。

 そんな相手の表情がわかっても、浜名は口を閉じることができなかった。自分の口からは驚くほど、するすると言葉があふれだし、制御ができない、勝手に動き出した機械のように止まらなかった。


「貴方もこちらを見ていましたけど、あの影も、こっちを見ていました。一瞬のことで、よく分かりませんでしたけど、確かに僕の方を見ていたんです。それから、営業先の人からも、この線路沿いで人が亡くなったという話を聞きました。どうしてこのタイミングなのか、どうして僕が見てしまったのか、僕はどうすれば良かったのか、ずっとわからないんです」


 浜名の目は、黒く、鈍く光り、真っ直ぐと男の顔をとらえた。男は、その目を覗き込むと、深くため息をつく。

 

「アンタさあ……それを言っちまったらもう駄目だって」


 男はそれだけいうと、アイスコーヒーをずぞぞっと吸い込むように飲みきり、机の上に千円札を乱暴に置くと席を立った。


「俺は今からこの店を出る。お前は後から出てもらおうかな。さっきも言ったけど、今ならまだ、見なかったことにして、明日からはいつもと同じ日常を迎えることができる」


 その目じゃもう無理そうだけどな。

 

 男は、そうつぶやくと、そのまま店を気だるげに出て行った。

 今の自分はどんな顔をしているのだろう。

 想像もつかないまま、ぼんやり男の背中を見送る。ふと、喫茶店の外から視線を感じる。浜名の知らない人が、こちらを見ている。その目は、黒く、鈍い光を放ちながら、ゆらゆらと揺れている。男なのか、女なのか、大人なのか子どもなのか、いや、人なのか、何なのか、もはや理解することはできなかった。

 ただ、その瞳は逸れることなく浜名を見つめている。

 自分がこの後、喫茶店を出た後にどうするのか。どうしたいのか、今はまだ分からないまま、とりあえず目の前のアイスコーヒーをストローでくるりと回した。

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見ず際の世界 小辞ゆき @shojiyuki

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