第二章:届かない声のつくりかた

人は、どこまで追い込まれれば、“悪いこと”をしても仕方がないと思うのだろう。


正しく育った人間は、たぶん、そんな問いをそもそも考えない。

“悪いこと”は、“悪いこと”。

してはいけない。

それだけだ。


でも、沙月は今、違った。


「“悪いこと”とは、いったい誰にとっての“悪”なのか」

それを、初めて本気で考えていた。


⸻


ノートの1ページ目には、太い字で書かれていた。


なぜ私は壊さなければならないのか。


それは単なる疑問ではなかった。

自分の行為を正当化するための、理性との対話だった。


人は、何かを壊すとき、言い訳が必要になる。

自分自身が納得できる理由。

他人に理解してもらえるかどうかは問題じゃない。

自分が、自分を許せるかどうか。

それがすべてだった。


⸻


沙月はまず、「壊すべきもの」を考えた。


コンビニか。

バス停か。

駅の改札か。

それとも、もっと“象徴的なもの”か。


社会が「無意識に信じているもの」を壊さなければ、

ただの“迷惑”で終わってしまう。


そして、彼女は思った。


「広告」だ。


⸻


かつて、自分が作っていたもの。

人々の購買意欲を刺激し、感情を揺さぶり、

“欲望に形を与える”仕事。


その看板。

そのビルの巨大スクリーン。

その美しく洗練されたポスター。


それは、貧困者の視界には入らないものだった。


なぜなら、それは“金を持っている人たち”のためにある。

見る価値があるのは、「買うことができる人間」だけ。


だから、彼女は決めた。


「広告を汚そう」


⸻


汚すことで、問いを発生させる。

問いが起きれば、報道される。

報道されれば、声が届く可能性が生まれる。


広告にスプレーを吹きつける。

ポスターを貼り替える。

スクリーンを覆い隠す。


それは器物損壊かもしれない。

けれど、“社会が視線を奪う仕組み”を、一瞬でも止めること。

それは、沈黙させられた人間が選べる、唯一の発言だった。


⸻


リオは、その計画を聞いて、黙っていた。

何も言わなかった。

ただ、しばらくしてからこう言った。


「それって、意味あるの?」


沙月はうなずいた。

でも、同時に自分の中に、うなずききれない部分も感じていた。


意味があるかどうかなんて、やってみなければわからない。


でも、“意味がないから何もしない”では、死ぬだけだった。


⸻


翌日。

沙月は、100円ショップでスプレー缶とマジック、紙と糊を買った。

それは、“武器”だった。

でも、刃物でも爆弾でもない。

“視界を壊す道具”だった。


スプレーで書く言葉も、考えに考えた。

長くても誰も読まない。

だから、短くて、残酷な言葉にした。


「あなたの正しさで、誰かが死ぬ」


その一言でいい。

それだけで、人は立ち止まるかもしれない。


もしくは、怒り出すかもしれない。

でもそれは、“見てもらえた”ということだった。


⸻


その夜。

沙月とリオは、駅前に向かった。

あの、ビルの下の巨大な広告。

“未来に投資しよう”と書かれた、銀行のキャンペーンポスター。


それは、

「未来を持っている人間のための言葉」だった。


彼女たちは、そのポスターに手を伸ばした。

その手は震えていた。

でも、恐れていたのは罪ではない。

無視されることだった。


⸻


駅前は、いつもと変わらなかった。

人が行き交い、広告が輝き、店が音を出していた。

そこに沙月とリオの姿が“まぎれこむ”のに、誰も気づかなかった。


広告塔のすぐ下に立つと、その巨大なポスターが視界いっぱいに広がった。


「未来に投資しよう」

笑顔の子どもたちと、堂々とした老後を迎えた夫婦。

その写真は完璧だった。


「ねえ、これって、リオたちみたいな子は入ってないよね」

「うん。……写る余地もない」


沙月はポケットからスプレー缶を取り出した。

深夜2時。

人通りはまばらだった。

防犯カメラの死角まで、前日に下見していた。


ゆっくりと、ポスターの中央に手を伸ばす。


「あなたの正しさで、誰かが死ぬ」


震える手で書いた文字は、少しだけ傾いていた。

でも、その不完全さが逆に「本物」のように見えた。


誰かに見てほしい。

でも、誰かに捕まってはいけない。


矛盾する感情の中で、沙月は次の言葉を考えた。


「正しい世界は、誰かを間違いにする」


もう一つ、貼り紙を重ねるようにして、広告の一部を隠す。


リオが手をつなぐ。

その手は、熱かった。

こんな夜中でも、生きているという実感があった。


⸻


5分もかからずに終わった。


二人は静かにその場を離れた。

背後に、視界が歪んだ広告塔だけを残して。


⸻


翌朝。

ネットは、いつも通り無関係な話題でにぎわっていた。


アイドルの熱愛。

物価の上昇。

海外で起きた地震。

政治家の失言。


あの広告に何が書かれたかを、リオのスマホは教えてくれなかった。

なぜなら、それを見ていない人たちが、情報を選び発信しているからだ。


ニュースアプリにはこう書かれていた。


「都内駅前で落書き 器物損壊容疑で捜査中」


警視庁は、何者かが深夜に駅前の広告塔にスプレーをかけ、社会的メッセージを装った犯行に及んだとみて調査を進めている。

近隣住民からは、「最近この手の“ポリコレ風落書き”が増えていて不快」との声も。


沙月は、笑いそうになった。

いや、実際には少し笑った。

ひどく乾いた、音のない笑いだった。


“ポリコレ風落書き”──それが、彼女の叫びに与えられた肩書きだった。


⸻


正しさは、言葉を支配する。

「何が正しいか」は、「何を許さないか」と同義だった。


そしてこの国は、「落書きで訴える人間」を、

「語るに値しない人間」として処理することに慣れきっていた。


⸻


その夜、沙月は再びノートを開いた。

書く言葉は、少しだけ変わっていた。


「言葉は奪われる。でも、形は残る。」


だから、もっと“形”にするしかない。

もっと大きく、もっと嫌われる方法で。


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