終わりのセカイで君と。
@kyonharuhi
第1話
埃っぽい畳の部屋に、東から差し込む白んだ光が、古びた木製の机の上を照らしている。少年は、その光を背に、鎮座するブラウン管モニターの前に座っていた。深夜、人気のない掲示板の片隅に、ひっそりと書き込まれた短いメッセージ。「ねぇ、誰かいる?」少年は、何気なくその文字に返信した。そこから始まった、顔も名前も知らない少女とのやり取り。彼女は、ハンドルネームすら持たなかった。ただ、「夜」という二文字だけが、彼女の存在を示す印だった。
ある日、少女は言った。「私ね、ずっと一人ぼっちなんだ」少年の胸に、小さな痛みが走った。数日後、少女からのメッセージは途絶えた。少年は何度もキーボードを叩き、呼びかけの言葉を送ったが、画面に新しい文字が現れることはなかった。
少年は、指が赴くままにキーボードを叩いた。「いますよ」。そこから始まった、顔も名前も知らない少女とのやり取り。彼女は、ハンドルネームすら持たなかった。ただ、「夜」という二文字だけが、彼女の存在を示す印だった。交わされる言葉は、断片的で、どこか現実離れしていた。好きな音楽、何気ない日常の風景、そして時折、深い井戸の底から響いてくるような、孤独の叫び。
ある夜、少女は打ち明けた。「私、自分がどこにいるのか、時々わからなくなるんだ」少年の胸に、鉛のような重さがのしかかった。二人のやり取りは、まるで夜の海に浮かぶ小さな灯台のようだった。だが、ある日を境に、「夜」からのメッセージは途絶えた。少年は毎日、その掲示板を開き、新しい書き込みがないか確認した。過去のログを何度も読み返した。しかし、そこに彼女の言葉はもう二度と現れなかった。
深夜、時代に取り残されたようなその掲示板で、「タイムトラベラー」と名乗る人物と出会った。荒唐無稽なタイムリープの話。しかし、その言葉の端々に感じられる、未来の断片のような情報が、少年の心を捉えて離さなかった。特に、孤独を滲ませるその声の主、「夜」というハンドルネームすら持たない少女の存在は、次第に彼の心の中で大きな影を落としていった。
だが、突然、「夜」からのメッセージは途絶えてしまった。少年は、毎日欠かさず掲示板を訪れ、過去のログを隅々まで読み返した。彼女が書き残した言葉の断片、好きな音楽、何気ない日常の風景。それらを繋ぎ合わせることで、彼女の存在を懸命に探そうとした。インターネットの海に散逸した、彼女の痕跡を求めて。古い検索エンジンを使い、消えかけたウェブサイトのキャッシュを漁った。彼女が過去に書き込んだかもしれない、わずかな手がかりを探して。数週間後、少年は、偶然にもある古い個人サイトの片隅に、「夜」が使っていたものと思われる、別のハンドルネームを発見した。そのサイトは、数年前に閉鎖されたアニメーションに関する簡素なものだったが、わずかに残された掲示板のログの中に、彼女の言葉を見つけたのだ。そこには、彼女が特定のオンラインゲームに熱中していたこと、そして、ある秘密のサーバーについて言及していたことが記されていた。直感的に、それが彼女に繋がる最後の糸だと感じた少年は、そのサーバーに関する情報を必死に探し始めた。幾つかの閉鎖されたファンサイト、解析不可能な技術用語が並ぶフォーラム。それらを丹念に辿っていくうちに、彼は、一般のインターネット空間とは隔絶された、奇妙なアドレスに辿り着いた。それは、日本の政府機関、それも秘匿された研究機関のサーバーだった。
固唾を呑み、少年はコンソール画面に緑色の文字が羅列していく様子を食い入るように見つめていた。脆弱なセキュリティホールを強引に突破し、辿り着いた秘密裏のサーバー。そこは、想像を絶する情報が渦巻く、まさに禁断の領域だった。表示されたログファイルには、日付と時間、そして意味不明なコードが延々と記録されていた。時折、「空間の歪み」「特異点」「被験体の精神不安定」といったキーワードが目に飛び込んでくる。その中で、ひときわ目を引く記述があった。「被験体00X、コードネーム『ヨル』。過去への意識干渉実験において、特異な共振反応を確認。対象は、2010年代のインターネットユーザー、ID:[少年の当時のネットID]。接触を試みている可能性あり。即時、遮断プロトコルを実行せよ」少年は、背筋が凍り付くのを感じた。「夜」は、やはりただのネットユーザーではなかった。そして、あの夜のやり取りは、偶然ではなかったのだ。何らかの実験の一部として、彼女は過去の自分に接触を試みていた。
ダウンロードが完了し、少年は拡張子.txtのファイルを開いた。ファイルの中身は、簡素なテキストデータが羅列していた。実験体の識別コード、実験日時、そして手書きのような走り書きのメモ。「被験体00X(ヨル)、特異能力発現を確認。異次元ゲートとの共振周波数、微弱ながら安定せず。精神状態に大きく左右される模様。継続的な鎮静剤投与が必要」「過去への意識投射実験、フェイズIII。対象:2010年代インターネットユーザー [少年の当時のネットID]。接触試行ログを確認。感情的な揺れが大きいため、実験中断。再開は未定」手書きのメモには、「もう、疲れた」という短い言葉が何度も繰り返されていた。最終報告というタイトルのテキストには、実験の結論らしきものが記されていた。「被験体00Xの能力は、不安定要素が多く、実戦投入にはリスクが高い。しかし、異次元接触体に対抗する唯一の手段であることは間違いない。今後の研究において、精神安定化と能力制御が最重要課題となる」そして、最後に一行だけ、まるで個人的なメッセージのように、少女の名前が記されていた。「ユキ」。
焼け付くような夕焼けが、埃っぽい畳の部屋の窓ガラスを、まるで炎のように赤く染め上げていた。茜色、オレンジ、紫、そして深い群青色が、西の空をキャンバスのように彩り、その色彩は次第に濃さを増していく。まるで、世界の終わりを告げる壮大な絵画のようだ。遠くの林からは、物悲しいひぐらしの鳴き声が聞こえてくる。夏の終わりを告げるような、切なく、どこか焦燥感を煽る音色。少年は、古びたパソコンの画面に映る、過去の自分がやり取りしていたメッセージのログを、ぼんやりと見つめていた。相手は「夜」と名乗る、掴みどころのない少女。不安定な言葉の端々に、深い孤独が滲んでいた。彼女が、異次元からの侵略に対抗するための秘密兵器として、何らかの組織に囚われているらしいことを、少年は薄々感じ取っていた。
遠くで、何かが軋むような音が聞こえた。それは、老朽化した家屋の奥深くから響いてくる、不気味な音。まるで、この静かな終焉を迎えつつある世界そのものが、悲鳴を上げているかのようだった。少年は、机の隅に置かれた小さな瓶に手を伸ばした。それは、彼自身が過去の不安定な日々を乗り越えるために必要だった、精神安定剤の残骸。今はもうほとんど空になっている。
ふと、画面の片隅に、数日前に「夜」が最後に書き込んだメッセージが目に入った。「ねぇ、誰かいる?」その問いかけは、今も少年の心に深く突き刺さっていた。彼女は、一体どんな思いで、この言葉を打ち込んだのだろうか。燃えるような夕焼けの色は、まるで彼女の叫びのように、少年の目に焼き付いて離れない。
ひぐらしの鳴き声が、部屋の中にまで聞こえてくる。それは、過ぎ去りし日々の、儚い記憶を呼び覚ますようだ。少年は、空になった薬瓶を握りしめ、夕焼けに染まる窓の外を見つめた。
彼女はもういない。おそらく、この世界のどこかで、静かに終わりを迎えているのだろう。少年には、彼女を救う術はない。ただ、あの短い時間の、言葉のやり取りだけが、彼の心に残された、かすかな光だった。セカイの終末のように、少年は一人、燃えるような夕焼けの中で、過ぎ去った少女の存在を悼んでいた。古びたパソコンだけが、二人の孤独な魂の、ささやかな繋がりを記憶している。
終わりのセカイで君と。 @kyonharuhi
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