三、千代姫の章(下)

 


 年が明けて、わずかに寒さが和らいだ日だった。お使いへ出された女童が文を携えて、帰ってきた。

 千代姫はいつものように漢詩集を引っ張り出す。しかし、いくら探しても盗用元が見つからない。千代姫は口元をおおった。

 はじめて彼の本心からの歌をもらったのだと思う。

 彼もまた薄墨の歌。想うままに書きつけた文の暖かさを感じながら、千代姫は彼が訪れるのを待ちわびる。

 もし彼が自分を尋ねたら、問うてみよう。何故、漢詩の引用をやめたのかと。

 愛用していた漢詩集にはいつしか埃が薄くかぶっていた。



 月の明るい晩だった。風が庭先の木々を揺らしているのが、さわさわと聞こえてくる。千代姫はそっと御簾の狭間から、庭を眺めていた。月の冴えた光に咲き始めた白梅がくっきりと照らされている。―息をのんだ。

 今宵はいけない。

 衣をゆるめれば、月光に身体の痣が晒される。それだけは、それだけは……。

 近くで牛車の停まる音がした。

 千代姫は立ち上がり、戸棚を開ける。確か奥にしまい込んでいたはず。

なめらかな白磁の壺、中身は白粉(おしろい)だった。


 しばらくして、御簾が揺れた。

「姫君」

 つややかな若者の声だった。千代姫は顔を上げて、小さく頷く。何か話したかったけど、緊張で上手く声が出なかった。月光に照らされる彼の細い面を見つめ、彼の言葉を待つ。彼はふいに目を逸らして、夜空に目をやった。

「月の美しい晩がいいと思った」

 青年が気恥ずかしそうに微笑む。千代姫はこの先を問わなかった。

月が西へ傾き、遠くで烏の鳴く声がする。御簾が揺れて、青年が出てゆくのに気が付いた。みだれ髪そのままに千代姫は身体を起こし、彼の背を目で追う。早朝の薄靄の中、彼は消えていった。

千代姫は再び横になって、眼を閉じた。

 何ともいえぬ脱力感が身体中を満たしている。天井に向かって漢詩をそらんじながら、屋敷の者が起こしに来るのを待った。

 彼の後朝(きぬぎぬ)の文は早くに来た。

やや薄墨で、昨夜の感謝が書きつけられている。

「良かったですね、姫様」

 女童が文をのぞき込み、満面の笑みを見せる。千代姫はきっちりと手紙を折りたたむと、ゆるむ頬を叩いた。

「まだ知れないわ」

 彼が三夜続けて訪れなければ、この婚姻は破談になる。期待しすぎは馬鹿をみるだけ、と思っていても、心の底から高揚は止められなかった。

「白粉を塗りなおしましょうか、姫様」

「いいや、まだ日が高いもの……」

 突如、千代姫の脳裏に鮮明な寒椿の花弁がひらめいた。

 じゃぐらを殺せ。

 この身を巣くう恐ろしい痣。化け物の怨念のような何か。

「痣をみたら、誰もが私を忌むかしらね」

 千代姫は呟くように言った。

 今は白粉で隠せても、いずれは……。



青年は今宵も千代姫を訪ねた。やや月に雲がかかっているが、明るい夜だった。

「このような空を歌ったものがありましたね」

 千代姫は天を仰ぐと、青年の方を見た。彼は低い声で詩を詠み、少し驚いたような目を千代姫に向けた。

「本当に君は詩に造詣が深いのだな」

 千代姫は口元を隠して、優美に笑った。

「ええ、女のくせに学問で身を立てようと気狂いを起こしたことがございますから。―貴殿もそうなのでは?」

「ああ、自分は結婚する気などなかった」

 青年が隣に腰を下ろし、千代姫の細い肩を抱き寄せる。ふわっと未だ慣れぬ香の匂いがした。嫌な匂いではなかった。

 彼が千代姫の鎖骨の辺りに口づける。千代姫は優しく彼の頭に手を回した。―ああ、彼の聡明な瞳に忌々しい痣が映ったら、失望に歪むだろうか。

 じゃぐら、お前は誰だ。

 お前を殺せばこの痣は消えてくれるだろうか。



 明朝、彼は出ていった。外は雨が降っており、庭の椿が大粒の雫に耐え忍んでいる。

 通りはひどいぬかるみだろう。雨に寒かったのか、彼も朝方、咳をしていた。千代姫は火鉢へにじり寄って、手をかざした。ぱちぱちと炭が爆ぜる。

やや遅れて後朝の文が届く。言葉を交わせて嬉しいと書きつけられていた。文は墨の香りと彼の香が混ざったような匂いがした。

 あと一夜。



 その晩、彼は来なかった。

 しのつく空を見上げ、「馬鹿みたい」と千代姫は呟く。婚姻はあっけなく破談となった。

 しばらくして彼が身体を壊したことを知った。毒の類いか、何の障りなのかは聞いてはいない。

 千代姫は面白くもない日常を続けている。父がまた婚約者探しに奔走しているようだが、なかなか見つからないでいるという。好都合だと思った千代姫は再び学問書を開く。

 ただ嫌なもので、漢書を見ると思い出されてしまうのが、彼。

 緩やかな風が御簾を揺らしている。庭先の紅椿はすべて首より落ちてしまった。千代姫は念入りに墨を刷ると筆を執る。

 御加減(おかげん)如何(いかが)ですか。 

 そう書き、しばらく眺めまわす。やがてため息をついて、火鉢にくべた。文はあっという間に灰となった。

 彼が病というのは嘘で、自分はただ捨てられただけなのかもしれないという思いは消えてくれなかった。鬱屈が溜まるたび、ああ恋をしていたのだと実感する。

 いっそのこと、尼寺へゆこうか。

 仏門に下り、俗世の不浄と縁を切りすれば、背中の痣も消えてくれるのではなかろうか。千代姫は強く筆を握りしめ、父へ宛てて出家の意志をしたためる。

濃く荒い筆致の文を受け取った父は、ひどく怒っていた。千代姫の部屋に入るなり、詩集や学問書を取り上げられ、どこかへ売りに出されてしまった。

「後生にしてください、どうか」

 そう頼んでも、父は聞かなかった。

 千代姫は虚しさの中、棚奥の白粉の壺を出し、思い切り庭の椿に向かって投げつける。壺は幹にあたって、砕け散った。

 地面に広がった白粉を眺めながら、胸の底から笑みが沸き上がってくる。

―自分はずっとこうしたかったのだ。

 痣など知らぬ、醜い痣など知らぬ。

 身を震わせて笑っていると、女童が駆け寄ってきた。

「姫様!」

 千代姫はちらりと女童を見やると、微笑みかけた。

「悪いわ、庭先に白粉を放ってしまったの。片付けてくださる?」

「いったいどうしたというのです」

 女童が割れた壺を拾い上げ、いぶかしげに千代姫に目をやる。

「たいしたことはないのよ」

 千代姫は白粉のかぶった椿の幹に近寄った。樹液に白粉がこびつき、嫌な匂いを放っている。足元では蟻の群れが動かなくなっていた。

 千代姫は目を見開いた。

 白粉を手ですくって、袂へ入れる。女童は片付けに気を取られていて、こちらを見ていない。そのままふらりと裏庭の池へ向かう。

 池には父が大切に育てている鯉が二匹、優雅に泳いでいた。千代姫は袂の白粉を池に水に溶かした。

 翌朝、まるまると太った鯉が白い腹を見せて浮いていたという。

「お前は毒だったのね」

 千代姫は思わず呟いた。

 この白粉は毒だったのか――と思うと、震えが止まらなかった。かの人が身体を悪くしたのは自分を抱いたからだ。

 千代姫は知る由もなかったが、舶来の白粉には鉛が混ざっていることがあった。それに彼は当てられてしまったのだろう。

「じゃぐら」

 姫は呟くように言った。

「お前の痣のせいだ」

 袂に残ったわずかな白粉を懐紙に包み、都の名高い薬師に送るよう下人に命じた。もしこの毒が何か分かるなら、解毒剤があるならば、彼に送るようにと薄墨で書き添えて。


 千代姫はその晩、都を発った。

 山野の尼寺にて自分の過ちを悔い改め、学業に励んだ。やがて彼が亡くなったことを聞くと、「どのような面を下げて」と思うたが、彼の御冥福を祈った。祈り続けた。

 やがて花の毒針を己の指先に刺して、彼女は事切れる。





 前世で受けた傷が痣となって今世に現る子。千代姫が死す時にできた毒針の傷は指先に、黒子のようになった。依然として背中の大きな痣は世の母親に拒まれ続ける。生まれては捨てられ捨てられ捨てられて、小さな屍がそこかしこに転がった。

 しかし十二回目の産声を発した時、名前をもらった。山里の穏やかな集落の娘。おっちょこちょいだが優しい母に抱かれ、幸福に育つ。背中の痣は相変わらず醜いが、笑顔の眩しい娘だった。


 名は、凛という。 

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