二、千代姫の章(上)
春のつむじ風が草花を揺らす頃、齢十六の娘が背中に醜い痣のある赤子を産んだ。
「背中に傷があろうとかまいませぬ。都の姫君、人前で脱ぐなど在り得ませぬから」
八重に重ねられた重苦しい着物をまとい、白粉で顔を真っ白にした女官は、金切り声を上げた。年は四十を超えているだろう。
「ごもっともですが……しかし」
若い下女が女官を見上げ、声を震わせる。
「やっと生まれた女子を無下にするのですか。心配ならば、おしろいをたくさん持ってらっしゃい!」
女官は長く垂れた髪を振り乱し、若い女を睨みつける。下女が青ざめ、すごすごと引き下がるのを見送って、女官はくるりと踵を返した。
この日、生まれた赤子は千代姫と名付けられた。
成長するにつれて、ふっくらと熟れた頬は桃のように薄く色づき、細くて艶やかな髪に櫛を通せば、さらさらと水が流れるように梳くことができた。若草色の衣の下に醜い痣があることなど、誰が信じようか。かわいらしい笑みをたたえた口元、白い柔肌、澄みきった黒く、いじらしい瞳。玉のような姫君であった。
やがて、姫はむつかしい文字も読めるようになった。
鏡をあてて、腿の痣を見る。ミミズが這ったような痣。なにか文字に見えた。
「千代姫さま!」
名を呼ばれて、千代姫はハッと我に返る。はだけていた内衣を元に戻し、御髪を整えた。おつきの女童が桜の枝葉を持って、部屋に慌ただしく入ってくる。
千代姫は頭をもたげた。彼女の前で女童のが両手を広げる。
「外は桜が満開ですよ。枝葉をちと折ってまいりました。見事でございましょう」
「枝を折られて桜が可哀そうよ」
千代姫は鏡を文机に置くと、音を立てずに女童の横に身を寄せる。ふわっと桜の軽やかな心地の良い香りが部屋を漂う。千代姫の衣の上にちらちらと花びらが落ちた。
「きれいね」
女童が破顔する。千代姫は指先で花びらをつまんだ。花びらがはらりと落ちて、姫の桃色の袖もとへ落ちてゆく。
「ところで、千代姫さま」
女童は懐から文を出すと、千代姫に差し出した。
「姫さま宛のお手紙でございます。なんと阿比乃中納言様ですよ」
「どなた?」
「貴公子として有名な方であらせられます。御年は二十七程かと」
千代姫は文を開き、唇を尖らせる。
「十五近く上の方から恋文を頂くなんて可笑しいとは思わない?」
「ですが、お断りするのも」
女童が言いよどみ、床に散る桜の花びらに目をやった。千代姫は胸底に冷え冷えとした恐怖が広がるのを感じた。父上はこの婚姻を受けるはずだと思った。ひとたび契れば、自分の身はどうなるだろう、という不安が頭をもたげた。
齢十三。
早いもので、何かが大きく変わるという予感がした。
ため息を一つつくと、女童の耳元に口を寄せる。
「ねえ、貴女が返歌を考えて?」
「ええっ!」
千代姫は部屋のすだれを自分で開けると、春の花が風に揺れる様子を眺めはじめた。蜜蜂が花弁の周りをぐるぐると飛んでいる。
しばらく庭を眺めていると、女童がするするとにじり寄ってきた。
「姫さま、良い歌が出来ましたよ」
「流石だわ」
「ではでは、お詠みいたします……」
女童は一つ咳払いして、聞いている方が恥ずかしくなるような和歌を詠んだ。
「恋ひ甚も、なんてこれっぽちも思ってない」
「恐れながら申し上げますけども、ご自分でお考えください」
そうねぇと千代姫は庭に目をやって、ゆるりと微笑んだ。
「私はずうっと黙っているわ。そちらの方が御上品でしょう?」
女童は何も返せず、唇の端を引きつらせた。やがて千代姫がつまらなさそうに戸棚を開き、書を漁り始める。
この姫君は齢十三にして、人生の暇を書ばかり読んで過ごすのを好まれた。女童は「すっかり変わってしまわれた」と小さく呟き、返歌を自分の袂に仕舞いこんだ。
千代姫は鏡で自分の背を見るまで、口数の少ない従順な姫君だった。しかし、呪いにしか見えぬ背中の痣に唖然として、しばらく引きこもっておられたかと思えば、しばらくして外へ出るようになった。以前よりも豪快に笑い、書をよく読むようになった。
きっと自棄になっておられるのだ、と思う。
女童は息をつくと、短歌をひねり出そうと再び考え込んだ。
二月して、阿比乃中納言の訃報が耳に入った。
落馬したときの傷が祟って、帰らぬ人になったという。死に際に千代姫に宛てて、「そなたは良き和歌を詠む……」と呟いたそうな。それを聞いた女童は舞い上がって、さらに歌詠みの腕に磨きをかけていった。
千代姫は庭先に座って、物思いに耽ることが多くなった。
「じゃぐら。ああ、じゃぐら。お前を殺さねばならないのね」
彼女は天井を上げ、ぽつりと呟く。
腿の蛇が這ったような痣は―じゃぐらを殺せ―と読めた。
(なんて醜い身体だろう)
誰とも手枕してなるものか。この身体を晒してなるものか。しかして、結婚のしていない娘がこの世でどうして生きられよう。
学を極め、高貴な姫君の教育係として身を立ててみようか。
千代姫はすぐ首を振った。
一月もすれば、父が上手く相手を見繕ってくる。そうしたらまた、女童に和歌を頼めばいい。
千代姫は書物に目を落とした。
梅雨のころ、何通もの文が届いた。十四になった千代姫は雨音を聞きながら、一つ一つ恋文を吟味する。女童は怖い女官に呼ばれ、席を外していた。
届く和歌は、どれも似たような、つまらぬものばかり。
その中にたった一つだけ、気にかかる和歌があった。官位はそんなに高くないものの、文字の流れるような優美さ。
月光に 頭を垂れて 君思ふ 疑うらくは 地上の霜
どこかで見覚えのある文句だった。千代姫は首を傾げて、従者を呼ぶ。
「書庫から漢詩集のすべて、持ってきてくださる?」
従者の女は眉をひそめたが、何も言わなかった。千代姫は容姿こそ美しいけれど、腹の読めぬ奇妙な姫君だと皆から思われていた。
続々と部屋に詩集が集まる。千代姫は両手をこすり合わせ、書の入った優美な桐箱に手をかけた。
退屈な日常に紛れ込んだ奇妙な引っかかり。千代姫は半ば、わくわくしながら詩集をめくり続ける。
女童が戻ってきて、目を丸くした。
「なんで詩集なんぞ読み漁ってるんです?」
「見てよ、この恋文! 読み覚えがあってね、引用元を探しているのよ」
「なんとまあ」
女童は目を細め、「優美な恋文かと思えば……」と肩を落とす。
三日ほど漢詩集を読み込んだところで、やっと引用元に辿り着いた。千代姫は勝ち誇った顔で微笑む。
(きっとこの人も結婚なんか面倒だと思っているのだわ)
だから、漢詩集から引用した。引用と言うよりに盗んだのだ。普通の女子は漢詩など読めやしないから。
「はいはい、見つかったのなら返歌を考えましょうね」
女童が呆れたように言い、さてどうしようと首をひねった。
「今回は私が考えるわ」
「へ?」
「今回は私が考えるから、貴女はいいのよ」
千代姫はきっぱりと言った。
女童が残念そうに唇をゆがませたが、すごすごと引き下がった。千代姫は垂れてきた髪を耳にかけ、漢詩集に目を落とす。彼と同じように漢詩を盗用して恋文を読もうと思った。
ふと御簾の外に目を細めた。月光が庭の桔梗を照らし、静かさは一層極まっていた。
「牀前、月光を看る。疑うらくは是、地上の……」
千代姫は漢詩をそらんじながら、ふっと微笑んだ。
奇妙な恋文のやり取りが続いた。お互い漢詩文から盗用していることを指摘しないまま、半年の月日が流れた。のろのろとした恋文のやり取りばかりで、しびれを切らした父がまた新しい結婚相手を見繕ってくるという。
父は今度こそ本気だ、と意気込んでいる。
千代姫はため息をつき、書を閉じた。
御簾の外は、雪で仄明るい。時折、寒椿の紅い花弁がちらりと見えた。一瞬、頭の奥がずきりと傷む。千代姫は眉間を押さえて、深く息を吸った。痛みはすぐに治まり、ほっと胸を撫で下ろす。椿から目を逸らし、奥の白梅に目をやる。枝の一つが降り続く雪のせいか、折れてしまっていた。
千代姫は外の景色を眺め、やがて御簾を降ろした。硯を出して、墨をすり始める。
「降りしきる雪の重きに耐えかねて、きしむ白梅いずれ折るとも」
千代姫は独り言をつぶやいて、あっ!と口を塞ぐ。
驚くほど自然に歌が降ってきた。
墨を擦りながら、息が上がってくる。
まだ薄墨だが、待っていられない。千代姫は筆を執ると、紙にさっと書きつける。涙がぽたりと落ちた。
あの梅の木は未来の自分だ。婚姻という煩わしい雪に枝を折られた上に、寒空の下にさらされている私だ。姫であろうとも、身体の痣を知られれば、雪原に放り出されても致し方ない我が身に。
千代姫は目頭を押さえながら、丁寧に文を結ぶ。
ただ涙は拭えても、芽生えてしまった恋心は拭えなかった。
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