ミラージュボーイは彗星を連れて
矢神うた
第1章 カレイドスコープ・リフレイン
カレイドスコープ・リフレインⅠ
少しだけ袖の長いワイシャツ。慣れない通学路や、名前となかなか一致しないクラスメイトの顔ぶれ。
机の上の教科書を睨みつけているうちに、一日が終わっていた。
一年目の春の記憶なんて、ほとんどない。
周りを見渡せる余裕もなく、目の前のことだけで手いっぱいだった。
滑り込むように天文部に入ったは良いが、ほぼ活動なんてしていない幽霊部員が二人しかいない部活だということを知ってから、部室に寄るのは自習で使う以外赴く理由がなかった。
そもそも星なんて見る余裕もないまま、気付けば袖は短くなり、塾の中でほぼ毎日を過ごした長期休暇もとうに終わっていた。
蝉の声もほぼ消えた、まだ夏の残り香が空気の奥に漂っている静かな午後。
放課後を伝えるチャイムが鳴り響き、生徒たちは我先にと教室を飛び出して行く様子を確認できるくらいには、ようやっと、僕の眼鏡越しに見る視界が広がった。
学校の教科書と塾の教材を詰め込んだせいか、鞄がやたらと重い。
「いっそ、指定鞄もリュックにしてくれたらな……」
小さく愚痴をこぼしては、伸び悩む身長と華奢な体を呪った。
夏の長期休暇が終われば、文化祭の前に定期試験が待っている。
いつも利用している図書室はすっかり人で埋まっているだろう。
試験勉強のために、誰もいない無人の部室をまた使うか、否か……と考えながら教室を出て、廊下に波打つように光るリノリウムばかりを見ていた視線をはしゃぐ声につられて上げる。
ふと視線を向けた先、開きかけた隣のクラスのドア。
男女問わず集まる人だかりの向こう、机の上に座る誰かの後ろ姿が見えた。
高い背。陽に焼けた肌。
やわらかになびくカーテンを背景に、光を跳ね返すような、明るい笑い声が教室に響かせながらはしゃぐ彼と、ドア越しにふと視線が交じり合った気がした。
その瞬間、息が止まりそうだった。
胸の奥が、つま先まで痺れるように、きゅっと縮む。
たける?
名前が、喉を突き破りそうな勢いで込み上げたが、声にはならなかった。
そんなことはない、人違いだ。……なんでこんなところで会うんだ。
高鳴る心臓を隠すように、そそくさとその場を離れようと小走りになって、顔を伏せた。
部室に向かおうとした、そのとき。
ぐいっと、腕を掴まれる。
「ひろちゃん?!」
幼いころ、手をつないで歩いていたあの日より、すっかり声変わりして低くなった声が廊下に響く。
ゆっくり、本当にゆっくりと、僕が振り返ると、
「やっぱり、ひろちゃんじゃん! 元気!?」
「あ、えっと……うん、元気だよ」
「中学別だったから、また会えると思わなかったよ! 隣のクラスだったのに気付かなかったのウケるな~」
無邪気に笑って、ぐいっと距離を詰めてくるその様子は、昔よりもずっと自然体で、明るくて。
でも、僕は何も言えなかった。
喉の奥が震えて、言葉がうまく出てこない。
武はそんな俺に気づく様子もなく、屈託のない笑顔を向けてくるのがやるせなくて。
「ご、ごめん、今急いでて」
「え」
「じゃあ」
驚いたように一瞬だけ武が緩ませたその手から、逃げるように離れた。
ざわめきだけが響く廊下を、足早に学校を出て、帰路へと急いだ。
嬉しかった。
ただ、それだけのはずなのに。
「ひろちゃん」なんて。
何年ぶりかもわからないくらい、遠くに置き去りにしてきた名前だったのに。
僕のなかでは、それはもう、忘れようとした、思い出だった。
なのに、武にとっては、たぶん、何ひとつ変わっていなかった。
僕だけだ、変わったのは。
変わったつもりでいたのは、僕だけだった。
武に名前を呼ばれた瞬間、
全身の神経が跳ねるような感覚に襲われた。
時間が巻き戻るどころか、過去が現在を呑み込むような――そんな錯覚に近かった。
あの呼び方はもう、誰にも呼ばれたくないと思っていた。
なのに、武の声だけは変わらず、すんなり心の奥に届いてしまった。
ずるいくらいに、真っ直ぐで、何も変わっていない声で。
またあんなふうに笑いかけられたら、心が揺れてしまう自分が、いちばん厄介だった。
忘れたふりをしていたのに。
もう、あの日のままじゃいられないってことを、嫌でも思い知らされる。
あれは、たしか……。
楽しみにしていた彗星も、花火も、夕立で流れてしまった七歳の夏祭りだった。
空は明るいのに突然の土砂降りに見舞われ、まだ少し蒸し暑い夕方の神社の境内で、僕と武は肩を並べて雨宿りしていた。
「本で読んだ狐の嫁入りってこんな感じかな」
そう言いかけたときだった。
武が屋台のくじ引きで当てた万華鏡をぐいっと僕に差し出した。
「彗星の代わり」
手渡されたのが突然で、うまくお礼が言えずに「ありが、とう……」と少しどもりながら驚いて受け取った後に、武はまだ何か言いたげに、こちらを見つめた武が不意に真剣な表情をした。
「ひろちゃん、だいすきだよ」
子どもなりの一途さで、それが僕には、まるで本気のプロポーズのように思えた。
言い終えるとすぐ照れくさそうにそっぽを向いた武の顔。
その一瞬が、心の奥に焼きつき、まるで花火が、自分の胸の奥で鳴っているような、不思議な感覚を今でもはっきり覚えている。
忘れられるわけがなかった。
ずっと、ずっと昔のことなのに。
「どうせ、あんな幼いときの言葉、忘れているんだろうな……」
そう思いたいのに。
息を切らせながら駅のホームにたどり着く。
喉の渇きを覚えて水筒を取ろうと鞄を探ったとき、指先が、こつんと硬いものに触れた。
――あの日の万華鏡だ。
鞄の奥に、ずっとしまい込んだままの。
まるで、「あのときの気持ちを思い出せ」とでも言うように。
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