最終章 そのニ 陽の当たる場所へ
頁の余白に、にじんだインクがひとすじの線を引いていた。読み終えた瞬間、胸の奥に張り詰めていた何かが、ふと緩んだ。
高田薫は、両の手で古びた手記をそっと閉じた。
表紙には、何の題も記されていない。ただ、指先でなぞればわずかに皮の質感が温もりを残していた。
大学の図書館の片隅、歴史資料室。窓の外では春の陽が傾きかけ、図書室の窓枠に長い影を落としていた。
彼の机の上には、事件当時の新聞、軍法会議の記録、関係者の証言書などが並んでいた。だが、それらのどこにも「榊原啓一」の名はなかった。
沈黙の中で、彼は机上の一枚のコピーを取り上げる。昭和八年に編纂された、五・一五事件の「公式報告書」。そのページをめくるたび、関与した将校や海軍関係者の名前が列挙されていく。
だが、啓一の名は見当たらなかった。いや、見落とされたのではない。最初から「なかったこと」にされたのだ。
その理由を、高田はもう知っている。
手記の最後に記されていたあの一文—「我が名、記録に残らず。罪に問われず、義にも連ならず。」
まるで彼自身が、未来の読者へ語りかけるようだった。自分という存在が「なぜ、残されなかったのか」を、誰かに伝えようとするかのように。
それは、記憶の外側に追いやられた者の、静かな抵抗だった。
高田は椅子から立ち上がり、窓の方へと歩いた。春の風がカーテンを揺らし、埃の匂いと古紙の香りが混ざる。遠くで学生たちの笑い声が聞こえる中で、啓一の言葉だけが、心の中で反響していた。
「結局、俺はいない方が都合がいいのか」
それは時代の深淵に沈んだ声。誰も耳を傾けなかった問いかけ。だが、彼の手記はここにあり、彼の軌跡は、確かに誰かの心に触れている。
高田は一つ、深く息を吸った。そして机に戻り、ノートパソコンを開く。白い画面にカーソルが点滅していた。
彼はその最初の行に、こう打ち込んだ。
「この物語は、記録されなかった一人の青年将校の記憶である。」
「彼は撃たなかった。けれど、彼は確かにそこにいた。」
それは、過去から現在への、小さな橋だった。
誰にも知られなかった名前に、物語という光を当てるために——。
証言なき夜 長谷部慶三 @bookleader
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