匿名都市 - アンノウン・シティ - 特命対テロ部隊・第零分隊シリーズ
長谷部慶三
第1話 サウンド・ケージ
夜の都市は、人工光に包まれながら、底知れぬ静けさに沈んでいた。
時刻は午前二時。
人々は眠り、街は浅く呼吸している。車の流れも途絶え、コンビニの自動ドアが開閉する音すら遠い。
東京湾岸に新設されたスマートタワー群、その一角に、【オーヴァス・レジデンス】と呼ばれる高層住宅がそびえている。
最新鋭のIoT技術により、住民の生活は徹底的に最適化されていた。
室温、湿度、窓の開閉、食料の自動補充、果ては睡眠の質に応じた照明管理まで——全てがネットワークに繋がれ、AIによって制御されている。
この都市型マンションこそが、未来の“標準住宅モデル”として、政府主導で建設されたものだった。
だが、その静寂は、突然に、異様な歪みを帯びる。
最初に異変が起きたのは、37階のファミリー世帯区画だった。
寝室にいた男——会社員の水野剛史(みずの・たけし)は、なぜか夜中に目を覚ました。
体が熱い。頭がしびれるように重い。寝返りを打とうとしたが、なぜか動きたくない。それどころか、彼は無意識のうちに、ベッドから立ち上がった。
薄暗い室内。外では誰かが、ドアを叩いている音がする。妻も娘も、隣のベッドで眠っているはずなのに、水野の視線は、それらを意識することなく、窓の方へと向かった。
そして——無表情のまま、窓を開け放つ。
冷たい夜風が吹き込む。
同じような行動が、建物の各階で起き始めていた。
ドアを開け、廊下に立つ者。
ベランダに出る者。
エレベーターを呼び出す者。
彼らは一様に、夢遊病者のような無表情で、どこかに向かおうとしていた。
そしてその耳には、他の誰にも聞こえない——
わずかな音波が、静かに、確かに侵入していた。
低く、震えるような音。
理性に届かない領域で、脳の原始的な衝動を刺激する特殊な周波数。
オーヴァス・レジデンスは、見えない「音の支配」に陥っていた。
住民異常行動:ケース1(単身者・若い男)
34階、シングルルーム区画。
佐野悠斗(さの・ゆうと)は、ソファに座ったまま眠り込んでいた。
ゲーム機のコントローラーを握りしめた手は力を失い、モニターにはポーズ画面が浮かんでいる。エアコンは静かに稼働し、部屋の湿度は最適に保たれていた。
だが、目覚めた佐野の瞳は、どこか空虚だった。
彼は何かに呼ばれるように立ち上がり、玄関へ向かう。
Tシャツにジャージ姿のまま、無言でドアを開け、廊下に出る。
隣の部屋のドアも、さらにその隣も、次々に開く。
男も女も、老人も若者も、皆、同じだ。
彼らは互いに顔を合わせることもなく、言葉を交わすこともない。ただ、機械じみた歩調で、同じ方向へと進み始めた。
住民異常行動:ケース2(老夫婦)
28階、二人暮らしの区画。
田中啓介(たなか・けいすけ)と妻の文子(ふみこ)は、ベッドルームでそれぞれ横になっていた。
啓介は長年の習慣で、夜中に一度目を覚ます。水を飲もうと、キッチンへ向かう——はずだった。
だがその足は、勝手に玄関へ向かった。
同じく目を覚ました文子も、寝間着姿のまま、ふらふらと後を追う。
玄関ドアが自動で解除される。
外の廊下には、他にも高齢の住民たちが集まりつつあった。皆、無言だった。
ただ、目の焦点は虚ろで、脳内で何か別の指令を受け取っているかのようだった。
住民異常行動:ケース3(ファミリー世帯・親子)
42階、ファミリー向け区画。
小学四年生の水野紗月(みずの・さつき)は、ふとした気配で目を覚ました。薄暗い寝室。ベッドの隣には、両親の姿がない。
不安に駆られた紗月は、ベッドから降り、リビングへ向かう。
そこには、普段と違う様子の父と母——水野剛史と、妻の理沙(りさ)がいた。
父は無表情に窓を開け放ち、母は廊下に出る支度をしている。
声をかけても反応がない。
まるで操り人形のようだった。
やがて紗月自身も、頭の中に妙な響きを感じる。
耳鳴りのような、それでいてどこか懐かしくもある音。
体が、自分の意志に反して、勝手に動き出す。
小さな手が、窓の外へと伸びかけたそのとき——
「——さつき!」
遠く、非常ベルが鳴り響いた。
外界とのわずかなノイズが、ギリギリで紗月を引き戻した。
マンション全体が、まるで巨大な催眠装置の中に沈んでいるようだった。
(続く)
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