君を忘れた朝に
浅野じゅんぺい
君を忘れた朝に
駅前のカフェ。
グラス越しに揺れる春の光を、ぼんやり眺めていた。
溶けかけたアイスラテを、ストローでかき混ぜる音だけが、小さく耳に残る。
「……冷たいな」
独り言が、音楽の切れ目にぽつりと落ちた。
外では、芽吹きかけた街路樹が、頼りなく風に押されている。
あの日から、何も変わらない顔をして、世界はすこしずつ形を変えた。
置いていかれるたび、私は小さく、音もなくひび割れていった。
陽翔がいなくなった朝。
空は、嘘みたいに晴れ渡っていた。
そのことだけが、今も私を苦しめる。
**
大学二年の春だった。
陽翔は、雲みたいにふわりと、私の前に降ってきた。
「ねえ、君。スマホ落としたよ」
「……えっ? あ、ありがとう」
くしゃっと笑ったその顔に、胸が痛むほど惹かれた。
白いシャツの袖が、風にふくらんで、あの青空によく似合っていた。
陽翔は、私の日常にするりと入り込んだ。
アイスを分け合った帰り道も、電車で肩を預けた昼下がりも、
すべてが、遠い昔話のように滲んでいく。
だけど、「好き」は、ときに鋭利だった。
私は、ふいに尋ねてしまった。
「陽翔ってさ、私がいなくても平気なんじゃない?」
陽翔は、まばたきを一度だけして、かすかに首を傾げた。
「うーん。平気じゃないよ。茜じゃないと、たぶん無理」
信じたかった。
けれど、信じきれない自分が、心のどこかにいた。
不安と嫉妬で、私は自分を、自分で閉じ込めていった。
最後に私が言った言葉は──
「もう、いいよ」
本当は、そんなふうに思ってなんて、いなかったのに。
**
冬は、容赦なく静かだった。
陽翔が、自分で終わりを選んだと知らされた日。
スマホを落としたときよりも、
そこに流れた無音が、私を打ちのめした。
あのとき、陽翔がどんな顔をしていたのか。
私は、何ひとつ知らないままだ。
知ろうとしなかった自分を、今もどこかで責め続けている。
**
私は社会人になった。
名刺を差し出し、愛想笑いを覚え、
少しずつ、世の中に馴染んでいった。
けれど、変われないものもあった。
陽翔に似た人を見かけるたび、呼吸が止まりそうになる。
「陽翔……」と呟いて、飲み込む。
鏡に映る自分は、ずっと誰かに取り残されたままだった。
**
今日も、私はこのカフェに来た。
陽翔と、ありふれた話をしていたあの頃の、ままの席。
許してほしいわけじゃない。
ただ、陽翔のいた季節に、そっと触れたかった。
取り戻せない時間に、そっと指先を重ねたかった。
「……忘れないよ」
呟いた瞬間、ドアベルが、鈴の音みたいに鳴った。
顔を上げると、そこに──彼がいた。
あの日のままの姿で。
「……茜」
幻だと、すぐにわかった。
それでも、あまりにもリアルで。
「会いたかった」
私がそう言うと、陽翔はふわりと笑った。
「……ただいま」
春の風が、枝先をくすぐっていた。
あの日、彼が最後に残した季節。
ふいに陽翔が、笑いながら言った。
「ちゃんと、生きてる?」
私は、何も言えなかった。
ただ、そっと、ポケットの中で拳を握った。
もう戻れないとしても。
もう届かないとしても。
その微笑みの一瞬が、私の中に固まっていたものを、静かに溶かしていった。
たぶん、これが、
喪失の先で、私が初めて踏み出した、小さな一歩だった。
まだ怖い。
後悔も、きっとこの先ずっと、消えない。
それでも。
私は、自分を、少しだけ抱きしめてみようと思った。
静かな春の光の中で、
誰にも見えない場所で。
君を忘れた朝に 浅野じゅんぺい @junpeynovel
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