第2話:変わらない想いと、迫る断絶
綾音が眠り始めてから、一ヶ月が過ぎた。
病院の廊下は、いつも同じ匂いだった。
消毒液と、どこか冷たい空気。
病室の窓から見える空は、12月に入ってどんどん灰色に近づいていく。綾音のベッドサイドのモニターは、変わらずピッ、ピッ、と音を刻む。俺は毎日、綾音の手を握って話しかけた。学校の話、友達の話、綾音が好きだった映画の話。でも、綾音は答えない。
ただ、静かにそこにいる。
その日、病院の待合室に呼ばれた。
綾音の両親、白鷺健一さんと
「駿くん、話があるんだ」
健一さんの声は静かだった。でも、その静けさに、どこか鋭い刃のようなものが隠れてる気がした。俺は背筋を伸ばして、うなずいた。
「もう、綾音と別れてくれないか」
その言葉が、頭の中でガーンと響いた。
一瞬、意味がわからなかった。別れる? 綾音と? なんで? 俺は、ただ黙って健一さんの顔を見た。健一さんは目を逸らさず、続けた。
「駿くんも辛いだろ。毎日ここに来て、綾音を見て、話しかけて……。君が悪いわけじゃない。だけど、これ以上、彼女に関わってたら、駿くんの人生が終わってしまう」
「綾音は、目を覚まさないかもしれないのよ」
美佐子さんが、泣きながら言った。
声が震えて、言葉が途切れ途切れだった。俺は、唇を噛んだ。胸の奥が、ズキンと痛んだ。目を覚まさないかもしれない。医者にも言われた言葉だ。でも、それを綾音の両親から聞くのは、まるで現実を突きつけられるみたいだった。
「俺は……綾音を、諦めたくないんです」
声が震えた。
情けなかった。健一さんは、ため息をついた。
「君の気持ちはわかる。でも、駿くん。君はまだ若い。未来がある。綾音は……もう、戻らないかもしれないんだ」
その言葉が、俺の心に突き刺さった。戻らないかもしれない。綾音が、あの笑顔をもう見せてくれないかもしれない。頭ではわかってた。でも、心が、受け入れたくなかった。
「考え直してくれ。君のためだ」
健一さんはそう言って、立ち上がった。美佐子さんは、ただハンカチで目を押さえてた。俺は何度も頭を下げた。
「すみません」「すみません」と、繰り返した。
でも、頭の中はぐちゃぐちゃだった。別れる? 綾音と? そんなの、考えられなかった。
それでも、俺は病院に通い続けた。
両親の言葉が、頭の片隅で響くたび、胸が締め付けられた。でも、綾音の病室に入ると、全部忘れた。綾音がそこにいる。それだけで、俺には十分だった。
冬が過ぎ、桜が咲いた。
学校は新学期が始まり、俺は高三になった。クラスの空気は、受験モードに変わっていく。
友達は「駿、最近病院ばっかじゃん」「受験勉強大丈夫かよ?」って心配してくる。
でも、俺は笑って誤魔化した。「大丈夫だって。なんとかなるよ」って。本当は、受験のことなんて頭になかった。綾音のことしか、考えられなかった。
桜が散って、夏が来た。
半年が経った。綾音の病室は、いつもと同じだった。白いカーテン、モニターの音、ガーベラの花瓶。でも、綾音の顔は、少しだけ変わった。頬がこけて、髪が少し伸びてた。看護師さんが丁寧に手入れしてくれてるけど、やっぱり綾音は少しやせてしまった。俺は、綾音の手を握りながら、そっと髪を撫でた。
「綾音、夏だよ。去年の夏、覚えてる?」
去年の夏、俺と綾音は花火大会に行った。
浴衣姿の綾音が、めっちゃ可愛かった。花火が上がるたび、綾音の目がキラキラ光ってた。
「駿、ほら! すっごい綺麗!」って、子供みたいにはしゃいでた。あの笑顔が、頭に焼き付いてる。
「また、行こうな。花火、見よう」
言葉にすればするほど、胸が苦しくなる。
でも、言わなきゃ、綾音に届かない気がした。俺は、ポケットから写真を取り出した。一年前、綾音と一緒に撮った最後の写真。渋谷のハチ公前で、綾音が無防備な笑顔を浮かべてる。俺は、ちょっと照れた顔で綾音の肩に手を置いてる。
あの日、綾音が「駿、もっと笑ってよ!」って言って、俺をくすぐってきたっけ。
「綾音……また、この笑顔が見たいよ」
思わず声に出してた。目が熱くなって、視界がぼやけた。俺は、綾音の手を握ったまま、そっと言った。
「起きてくれよ。俺は、ずっとここにいるから」
病院の日々は、単調だった。朝、学校に行く。授業を受けて、放課後、病院へ。
綾音に話しかけて、音楽を流して、花を替えて、帰る。家に帰ると、母さんが心配そうな顔で「駿、ちゃんと寝てる?」って聞いてくる。
俺は「うん、大丈夫」って答えるけど、実際はほとんど眠れてなかった。夜、目をつぶると、綾音の事故の瞬間がフラッシュバックする。プリウスの音、綾音の身体が宙を舞う光景、血に染まったコート。あの瞬間が、頭から離れない。
学校の担任にも、呼び出された。
「霧島、最近、授業中ぼーっとしてるな。受験の準備はどうなんだ?」って。俺は、適当に「頑張ります」って答えた。
でも、担任の目が、なんか悲しそうだった。
「霧島、辛いのはわかる。でも、いつまでも過去に縛られてちゃダメだ」って。
過去?
綾音は過去なんかじゃない。綾音は、今も俺のそばにいるのに。
友達の翔太も、なんか遠慮がちに言ってきた。
「駿、さ……そろそろ、前に進まねえ? 綾音のこと、俺も大好きだったけど、さ……」
翔太の言葉は、そこで途切れた。
俺は、笑って「わかってるよ」って言った。でも、心の中では、叫んでた。前に進む? 綾音を置いて? そんなの、できるわけねえだろ。
夏の終わり、綾音の両親ともう一度話した。今回は、美佐子さんだけだった。病院の喫茶店で、アイスコーヒーを前に、彼女は静かに言った。
「駿くん、ありがとう。綾音のために、こんなに尽くしてくれて。でも……お願い。もう、解放されて」
美佐子さんの目は、涙で濡れてた。
俺は、言葉に詰まった。解放? 俺が? 綾音から? そんなこと、考えたこともなかった。
「綾音は、駿くんのこと、大好きだった。いつも話してたよ。『駿、めっちゃ優しいんだから!』って、笑いながら。だから、駿くんがこんな風に苦しんでるの、綾音も望まないと思うの」
美佐子さんの言葉が、胸に刺さった。
綾音が、俺のことを話してた。笑いながら。そんな綾音の姿を想像したら、涙が溢れそうになった。でも、俺は首を振った。
「俺は、綾音を諦めません。絶対に」
美佐子さんは、悲しそうに微笑んだ。
「そう……。駿くんらしいね」
秋が来た。
綾音の病室は、変わらず静かだった。モニターの音、ガーベラの花、スピッツの音楽。でも、俺の心は、どんどん重くなっていった。綾音の両親の言葉、担任の言葉、友達の言葉。みんな、俺に「前に進め」って言う。でも、前に進むって、綾音を置いていくことだろ? そんなの、俺にはできない。
ある日、病室で、俺は綾音の手を握りながら、ぼんやり窓の外を見てた。外は、紅葉が始まってた。綾音が好きだった季節。
去年の秋、綾音と一緒に公園で紅葉を見ながら、二人で将来の話をしたっけ。
「駿、大学どこ行く?」
「綾音は?」
「ふふ、駿が行くとこなら、どこでもいいよ!」
って、綾音が笑った。あの笑顔が、頭に焼き付いてる。
「綾音……俺、大学、どうしようかな」
呟いたら、急に涙が溢れた。
綾音がいない未来なんて、考えられなかった。俺の未来には、いつも綾音がいた。綾音の笑顔が、綾音の声が、綾音の手の温もりが。でも、今、綾音はここにいるのに、俺の手には何も返ってこない。
俺は、綾音の手に顔を埋めた。
冷たい手。
でも、綾音の手だ。俺は、そっと囁いた。
「綾音、俺、待ってるから。ずっと、待ってるから」
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