天汐島

 ふと気が付くと、僕はゴムボートの上で、大海原のただなかだった。


「しまった!」


 寝てしまっていた。その間に、沖に流されたらしい。僕は持参していたオペラグラスを装着し、遠くをうかがう。一つの方向に、陸の影が見えた。方位磁針も持っている。方角を確認すると、その陸地は僕から見て北西の方角にある。


 ……おかしい。根獅子の浜の北西に、島がまったくないわけではないがゴムボートで流されたくらいで到達するような距離ではないはずだ。あんなところに島、あったか? これでも平戸島の生まれであるから、土地感覚はそれなりにあるはずだが……しかし、考えている場合ではない。とにかく、どこでもいいから上陸しなければ。いくら夏でも、命が持たない。僕は意を決し、ゴムボートを蹴って海に飛び込んで、泳ぎ始めた。幸い、泳ぎには自信がある。これでも島の子である。ボートは捨てていくしかなかった。このボートには自走能力がないので、どうしようもない。


「……ぷはっ!」


 九死に一生、砂浜に上陸した。しかし踏んだときの砂の感触からしても、根獅子の浜に戻ってきたわけではないようだ。ここは、何だ?


「やむを得ない。探検、してみるか」


 海パン一丁で砂浜で夜営なぞしたくはない。この島に人がいるならそれでよし、最悪でもせめて雨宿りのできる洞窟くらいのものを見つけておきたい。というわけで、僕はとりあえず砂浜に沿って歩き始めた。そうしたら……それを見つけた。


 崩れかけた石垣のようなもの。浜ではなく、浜に面した丘の上にあった。黒んでいて、それは石垣ではない、古くて朽ち果てた、しかし間違いなく、『塩竃』であった。石を組んで火を起こし、海水を煮詰めるための設備だ。小学校のときに遠足で行った、博物館の中にこれを再現したものが置いてあったのを見たことがある。まず間違いはないだろう。


 そして、周囲を見渡せば焼け焦げたような土の色。そして、今にもばらばらになりそうだが、明らかに人工物とわかる木製の棚。おそらくこれは、塩棚だ。煮詰めた塩をさらに乾かすための。


 ここまでに頭の中に入ってきた情報が符合し、一つの仮説を導き出す。根獅子の浜の沖、北西の方角。製塩業の痕跡。そして、それはおそらく数百年は昔のもの。多分、江戸時代だ。雰囲気と保存状態からしてそれ以上は遡らないと推測できる。


 ということは。


 まさか。


「ここは……ここが……不問騙によって滅ぼされたという、天汐島……?」


 だが、次の瞬間に僕はその考えを振り払う。


「ここが怪異の島でも何でもいい。その問題の追及は後だ。人跡があるということは、近くに人家も存在していたはず……!」


 江戸時代の廃墟に屋根が残っているかどうかは微妙なところだが、それでも砂浜で野宿するよりはましというものだ。僕は歩みを進める。


「あっ」


 そうしたら、それがあった。最初は、時代劇の撮影に使う映画のセットでも置いてあるのかと思った。それくらい不自然なほどに、その建物はきれいで状態が良かった。江戸時代の様式と思われる茅葺の苫屋だが、ぱっと見た限り屋根に破れもないし、雨宿りくらいなら何の問題もなくできそうだ。僕はその苫屋に近づいていった。……すると。


 ぱち ぱちぱちぱち


「これは……薪のはぜる音?」


 よく見ると、苫屋のひと隅から煙が立ち上っている。間違いない。人間がいるのだ。こんなことができる人間以外の生き物はいない。


「あの。ごめんください。申し訳ありませんが、勝手に上がらせていただきます。海で沖に流されまして、難儀しております」


 人間がいるのなら礼節を尽くさなければ嘘だ。こちらも人間なのだから。そして、どうやらサバイバルはもう終わりということで良さそうだ。……と、いうその時。


 彼女が、そこに居た。若い娘だ。着物を着ている。それも、浴衣とか晴れ着とか言った現代にもありがちな着物ではない。博物館で見かけるような、昔の農民の素朴な装い。


「……」


 沈黙している。だが、こちらには気づいているようで、はっきりとこっちを見ている。


「あ、こんにちわ! 僕は怪しいものではありません、えーと」


 すると、娘はこう言った。


「そう。ついに、おとなわれたのですね。わたくしの定めが」

「はい?」


 娘の物言いは、服装とはちぐはぐに上品で、そして意味不明だった。


「……いえ。何でもございませんわ。この島に流れ着かれたのですか。それは難儀をなさったことでしょう。いま、体を拭くものと、着るものを用意して参ります。それから、お食事の支度も」

「ありがとうございます。遠慮してもいられそうにない状況でして。本当に助かりました。こんなところに人の里があったのですね」

「……ここは、里ではございませんわ」

「と言いますと?」


 僕はいぶかしんだ。こんな娘さんが暮らしているのなら、集落のある有人島だろう。人里でないという理屈があるか?


「この島には、わたくし一人しか居りません」

「え……」


 娘はそう言うと、僕に背を向けて母屋の方へ向かう。そして背を向けたまま、名乗った。


「名は、みおと申します。よしなに」

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