初恋
千里温男
第1話
悲しかった出来事はいつまでも悲しく
楽しかった思い出は今は嘆きをいや増させる
指輪に刻まれたイニシャルは薄らぐこともなく
成就されない恋は永遠にさまよう
1
榊了(さかきさとる)は小学二年生になった。
母が新しいセーターを買ってくれた。
了は着ようとしたけれど、丸首なので、後ろ前がよくわからない。
「なにしてるの、はやく着なさい」
「どっちが前?」
と、まごついた。
「いやなら、やめなさい」
母はセーターをひったくった。
顔が怒りにゆがんで鼻息もあらくなっている。
了は、母がなぜそんなに怒るのかわからず、呆然となった。
「だから、もらい子はいやなのよ」
「もらい子…」
了は不思議そうにつぶやいた。
母は怒りにまかせて喋った。
了は男ばかり4人兄弟の末っ子に生まれた。
両親は、もう男の子はいらないという気持ちから、了と名付けた。
母親の兄つまり今の父は子がいなかったので、了を養子にもらえないかと頼んだ。
両親はそれほど躊躇することもなく承知した。
そういうことを一気に喋った。
その日から、了は養母と丸首セーターに関心をもたなくなった。
了は学校がおわってもまっすぐ家に帰らなくなった。
わざと遠回りしたり隣町の公園に行ったりして、日暮れにやっと帰るようになった。
お手伝いさんが面倒くさそうに夕食を出してくれた。
養父は帰りが遅かったし、養母は何も言わなかった。
学校帰りに人気(ひとけ)の無い狭い道を行くと、三人が小さな女の子の前に立ちふさがっている。
了は女の子が同じ二年生の茜だとわかった。
昼休みに校庭の隅で、ひとりでぼんやりしている姿を何度か見かけたことがある。
身体が弱くて、よく学校を休むという噂も聞いている。
茜の前に立ちふさがっているのは上級生のいじめグループだ。
了は彼なの前に突き進んで行った。
たちまちケンかになった。
了は体は小さくてもケンかは強い。
三人を相手に、ひっかいたり蹴ったり大暴れ。
彼らは逃げて行った。
了は茜を家まで送って行ってやった。
茜の家は一階が工場で二階が住居になっていた。
「お母さん」
茜が工場の入り口から呼ぶと、油が迷彩模様にしみ込んでいるツナギを着た背の高い女性が出て来た。
その人が茜のお母さんのみどりだった。
みどりはちょっと茜の肩を抱いてから了に、
「いらっしゃい」
と言って、美しくにっこりした。
了はみどりを見上げてポーとなった。
みどりは了と茜を二階の住居に連れて行って、ジュースとクッキーを出してくれた。
そして、
「ゆっくりしていってね」
と、また了ににっこりしてから、忙しく下の工場へ行ってしまった。
茜の父は東松達郎といい、零細な板金工場を営んでいる。
地方出身の二人を従業員に雇っていたが、一人がやめてしまった。
みどりはやめた従業員の代わりに働かなければならなくなった。
茜を小学校へ車で送り迎えしていたのだが、それができなくなってしまった。
身体の弱い茜を、心配しながら、ひとりで登下校させなければならなくなっていた。
そこへ元気な了が現れたのだ。
みどりは了を歓迎し、了は優しいみどりに惹かれた。
了は茜と一緒に登下校するようになった。
下校の時に、茜を新しい道の探検に誘うこともあった。
茜が疲れると、了は気長に彼女が回復するのを待った。
それがよかったのかどうか、茜は次第に元気になっていった。
茜は自分を護り一緒に遊んでくれる了が好きになり慕うようになった。
東松夫妻も茜の遊び相手になってくれる了を大事にした。
了が東松家に泊まることになった夜、茜が
「了ちゃんのお嫁さんになる」
と言い出した。
「うん、いいよ」
了は応えた。
みどりは
「じゃあ、指輪を交換しなくちゃ」
と笑った。
酔って上機嫌の達郎は二つの缶ビールのプルタブを指輪のように加工して、それぞれに了と茜のイニシャルを刻んだ。
了と茜はその指輪を交換した。
茜はみどりにますます、
「了ちゃんのお嫁さんになる」
とだだをこねるようになった。
みどりは、根負けして、了と茜を写真館に連れて行った。
ふたりに子供用の借り衣装のモーニングとウエディングドレスを着せて写真を撮ってもらった。
「ほら、了ちゃんのお嫁さんになった写真よ」
みどりに出来上がった写真を手渡されて、茜はこのうえなく幸せそうだった。
2
冬休みになったので、了はさっそく茜の家に遊びに行った。
「茜はインフルエンザよ。うつるといけないから、一週間くらい来ないほうがいいわ」
みどりに言われて、了は四 五日、茜の家に行っていない。
虫の知らせだろうか、了はふと茜のことが気になった。
茜の家の近くまで行くと、パトカーが何台もとまっていて、少し離れた所では近所の人たちが一塊になって東松家を眺めている。
顔見知りの駄菓子屋のおばあさんが
「行かないほうがいいよ」
と引き留めた。
おばあさんは自分の店の中に了を連れて行って、東松家で人殺しがあったと教えてくれた。
犯人は達郎で、みどりと茜を連れて逃げてしまったという。
だから、今あそこへ行くと、警察に連れて行かれて、あれこれ訊かれるに違いないと言った。
了は心を残しながら家に帰った。
どこかに隠れていたらしい黒い猫が足元にかけ寄って来た。
東松家で飼っていたミーだった。
抱き上げると、頸に茜の小銭入れを付けている。
小銭入れには折りたたんだ手紙が二通はいっていた。
一通はみどりからのもので、
「了ちゃん、私たちは遠くへ行かなければならなくなりました。とても残念なことですが、了ちゃんをお婿さんに迎えることはできなくなりました。了ちゃんがおとなになって好きなひとができたら、そのひとを茜の代わりにお嫁さんにしてあげてください。了ちゃん、何時までも元気でいてください。さようなら。みどり」
と書いてあった。
茜の手紙には、
「了ちゃん、わたし、了ちゃんにやさしくしてもらってしあわせでした。でも、わたし了ちゃんのおよめさんになれなくなりました。わたしのことはわすれてください。了ちゃんなら、きっと、もっといいひとをおよめさんにできるとおもいます。了ちゃん、いつまでもやさしい人でいてください。さようなら。茜」
と書かれてあった。みどりに教えられて書いたかもしれなかった。
了はせっかく茜に遭えたのに、茜のお母さんに遭えたのにと思った。
なんとなく、ほんとうの親子とはこういうものだと感じていた。
そして、茜のほんとうのお母さんのみどりに憧れていた。
みどりは音楽の先生をしていたことがあって、安価な物だったけれど、キーボードを持っていた。
仕事の合間に、そのキーボードの弾き方や楽譜の読み方を教えてくれた。
みどりは教え方が上手だった。
そして、了はみどりが好きだった。
だから、上達も早かった。
達郎も、了を工場の中を案内したり、ゆがんだ金属板を平らにする見事な手際を見せてくれたりした。
了は、達郎が了を茜の婿に迎えたい、そして板金工場を継がせたいと考えていたような気がする。
了は、東松家では、いつでも歓迎され居心地がよかった。
いつしか、東松家の家族の一員になることを夢見ていた。
だから、茜たちを捜して、どこまでも一緒に行きたいと思った。
了は、まず、何があったのか知ろうとした。
あの駄菓子屋のおばあさんにいろいろ教えてもらいに行った。
おばあさんは新聞や週刊誌を見せてくれた。
東松達郎は板金工場の資金繰りに窮して評判の良くない金融業者から多額の借金をしていて、この年末に返済を強く迫られていた。
取り立てに来た金融業者は、達郎が資金集めにかけ回っている留守にもかかわらず、家の中に入り込んでいた。
そこへ達郎が帰って来て、家具を引っ繰り返す乱闘となった。
金融業者は手ごわかったらしい。
達郎は手に余って金融業者の頭を鈍器で殴って殺した。
そうなっては仕方がない、達郎は慌ただしく妻子を連れて逃亡した。
それが警察の見方らしかった。
達郎は指名手配された。
テレビでも新聞でも、達郎の顔写真が公開された。
いかにも凶悪そうな顔写真だった。
了は
『違う、達郎おじさんはこんな顔じゃない』
と叫びたかった。
警察は了が東松家に親しく出入りしていたことを知ったらしく、私服の刑事がやって来た。
けれど、了は、茜が好きだったから遊びに行っていた、とだけ答えた。
それ以上、訊かれることはなかった。
了はひとりでこっそり茜たちを捜すことにした。
捜すといっても、かくれんぼで隠れている友だちを捜す程度のことしかできなかった。
茜を連れて行ったことのあるところ…大きな土管がたくさん置いてある空き地、人の寄り付かない廃屋、河川敷の橋の下…などを見に行った。
けれど、そんな所に茜たちがいるはずがなかった。
3
あの事件から二年たった。
了はまだ茜たちを捜すのを諦めていない。
今、夕暮れの道を女性のあとからついて歩いている。
前を行く女性の後ろっ姿がどこかみどりに似ているような気がする。
でも、こんな所にいるはずがないと思う。
そう思いながら、でも、もしかしたらという気もするのだ。
遂に、思い切って女性を追い越して、そして振り向いた。
みどりではなかった。
すうっと、体の力が抜けていくようだった。
女性は、じっと見つめる了の様子に、クスッと笑った。
「わたしの顔に何かついている?」
「おなかすいた」
了は自分でも思いがけないことを口走った。
「まあ」
女性は、一瞬、絶句してから、
「一緒にいらっしゃい」
と了の手を引いて近くの店に入った。
二人分のパンと牛乳を買って、また了の手を引いて近くの公園に連れて行った。
ふたりは、ベンチに並んで腰かけて、パンを食べながら牛乳を飲んだ。
食べ終わると、女性が訊いた。
「あなた、ご飯食べさせてもらっていないの?」
「ううん」
「じゃあ、なぜ、お腹がすいているの?」
「大事にしてもらっていないから」
「……」
女性が優しく肩を引き寄せたので、了はすり寄った。
「何をしているんだ」
突然の声に見上げると、制服の警察官が立っていた。
女性は驚くほどの素早さでベンチから飛び上がって逃げ出した。
警察官は慌てて女性を追おうとする。
了は女性がなぜ逃げるのかわからなかったけれど、ほとんど反射的に警察官の脚にしがみついた。
女性を取り逃がした警察官は、腹を立てて、了の襟首をつかんで近くの派出所へ引き連れて行った。
派出所にいた私服の警察官が
「なんだ、子どもをそんなふうに引っ張ってきて」
と若い警察官を咎めた。
若い警察官は、不審な女に尋問しようとしたら邪魔をされたのです、と説明した。
了は、この人が女の人に触ろうとしたのです、と反論した。
「俺に任せておけ
私服の警察官は若い警察官にそう言って、了を外へ連れ出した。
彼はしばらく黙って歩いてから、
「榊先生は元気か?」
と訊いた。
了の養父は医師で医院を開いている。
それで、町内では名を知られている。
了は、警察官にも『先生』と呼ばれるのだと、養父を尊敬する気になった。
これからは『父』と呼ぼうと思った。
「君の家に黒い猫がいるな」
「うん」
「東松の家で飼っていた猫だな?」
「うん」
「東松から何か連絡があったのか?」
「みどりさんと茜さんの『遠くへ行きます。元気でいてください。さようなら』という手紙が猫の頸についていました」
「いつだ?」
「事件のあった日です」
「きょう一緒にいたのは東松みどりか?」
「違います」
「じゃあ、なぜ一緒にいたんだ」
「後ろから見たらみどりさんに似ていたので、顔を見たのです。そうしたら優しくしてくれたので…」
「手紙はまだ持っているか?」
「うん」
「見せてくれるか?」
「返してもらえますか?」
「ああ、見たら、すぐ返してやる」
了は家に帰ると、二通の手紙を見せた。
私服の警察官は読み終わると、
「大事にとっておけ」
と言って返してくれた。
「あの、東松のおじさん、まだ見つからないんですか?」
「ああ、女連れ子ども連れだから、すぐ見つかると思っていたんだがな」
「つかまったら、死刑になるんですか?」
「そんなことはないだろう。情状酌量もあるだろうからな」
「情状酌量?」
「どうやら金融業者にも強引なところがあったらしいからな。そういう場合は、いくらか考えてもらえるのだ」
「……」
あんまりあちこち捜し回らないほうがいいぞ。警察は今でも君を見張っているかもしれないんだぞ」
そう言い残して、私服の警察官は立ち去った。
了は茜たちを捜すのおやめた。
警察を恐れたからではない。
自分の目と記憶に失望したからだった。
後ろ姿とはいえ、あれほど好きだったみどりとほかの女性の区別ができなかったことがショックだった。
これから先、何人と見間違えるかわかったものではないと思ったのだ。
了は初めて父におねだりした。
東松家にまだキーボードが残っているなら、それが欲しいと言ったのだ。
父がどのような手続きをとったのかわからない。
けれど、了はあの懐かしいキーボードを手にいれた。
みどりに教わったことを思い出しながら、キーボードを弾くのが習慣になった。
4
了は今は高校三年生になっている。
キーボードやピアノやギターが弾けて、歌もそこそこうまい。
だから、学校ではちょっともてる。
学校帰りの途中で女の子たちと喫茶店に立ち寄ることは珍しくない。
きょうも、喫茶店で四人の女のこと雑談している。
ふと斜め前方の奥に目をやると、見覚えのある顔があった。
彼は了に向かってグラスを乾杯のように掲げた。
了は女の子たちに断って、彼の前に席を移した。
「君は見かけによらずもてるんだなあ」
「援助交際用にひとり紹介しましょうか?」
「警察官に向かって、とんでもないことを言うやつだ」
「売春斡旋罪で逮捕ですか?」
「君なら、犯人隠匿罪で逮捕したいね」
「まだ、東松達郎さんを追っているのですか?」
「いや、俺は初めのころ、ちょっとかり出されただけだよ。今じゃ、たぶん、誰も本気で捜査していないだろう」
「じゃあ、迷宮入りですか?」
「いやなことを言うやつだな。しかし、君と茜の結婚式の写真があることはわかっているんだぞ。あれは東松達郎もみどりも承知して撮ったのだろう? それだけ、君はあの夫婦に気に入られていたに違いない。君はほんとうに東松の居所を知らないのかね」
「達郎おじさんのことはわかりません。でも、茜さんの居所なら見当がつきます」
刑事はグラスを持ち上げようとしていた手をとめて、
「どこにいる?」
と訊いた。
「あの、ぼくは刑事さんと二度お遭いしただけで、まだお名前も知らないのですが…」
刑事は了に名刺を渡した。
『警部補 高山京一郎』とあった。
「名探偵みたいなお名前ですね」
「ああ、名前だけはな。それより、茜はどこにいるんだ」
「今頃は愛知県の東海市のどこかのお寺で保護されているのではないでしょうか」
「どういうことだ」
「警部補さんは、四月に愛知県の東海市で、死後十年くらいの六 七歳の女の子の白骨死体が発見されたのを知っているでしょう。それが茜さんです」
「なぜわかる?」
「新聞に書いてあったでしょう、『左手の薬指に缶ビールのプルタブで作った指輪をはめていた』と。しかも『S.Sとイニシャルが入っていた』と。あれはぼくと交換した指輪です。ぼくは茜さんの指輪を今も持っています」
了はポケットから指輪を出して警部補に見せた。
警部補は『A.T』というイニシャルを確かめてから、
「いつも持っているのか?」
と訊いた。
「ええ、お守り代わりに肌身離さず」
「すると、あの女の子たちはどういうことになるのかな? ただの遊びかね」
「ぼくが遊ばれているのです。あのこたち、脚の長い男子と仲良くできるなら、すぐそっちへ行ってしまいますよ」
「それにしても、あの白骨が茜だとすると、東松に連れて行かれてすぐ死んでしまったことになりそうだな」
「あの事件、少し変だと思うのですが…」
「どこが変なんだ?」
「みどりさんが身体の弱い茜さんを連れて逃げたことです。達郎さんが金融業者を殺したのなら、みどりさんは自首をすすめて、刑期が終わるのを待てばよかったと思うのですが」
「それは第三者の感想だな。たぶん、一家心中を考えていたのだろう。女ひとり病弱の子どもをかかえて生きていくのは大変だし、それに、多額の借金もあったのだし」
「達郎おじさんの借金でしょう?」
「みどりは達郎の連帯保証人になっていたのだよ」
「連帯保証人?」
「連帯保証人は本人と同じ責任があるんだよ」
「みどりさんは、なぜ、連帯保証人になったのでしょう?」
「美人の保証人がついていたほうが借金しやすかったのだよ。そもそも、金融業者は初めからみどりが目当てだったかもしれない」
「みどりさんを連帯保証人にするなんて、達郎おじさんらしくもない…」
「よほど金に困っていたんだろう。それに夫婦は生活費については互いに連帯責任があるんだ。それはそうと、なぜ、わざわざ指輪を見せたりしたんだね?」
「警部補さんのお力を借りて、遺骨を引き取れないかなと思ったのです」
「問題が二つある。一つは君が未成年ということだ。もう一つは、茜に親戚がいて、その人が引き取りたいと言った場合だ。それに、マスコミに騒がれる恐れもある。お父さんの榊医院の評判にもかかわるかもしれない。榊先生とよく相談する必要があるぞ」
「そうですね…」
父がどんな方法をとったかわからない。
高山警部補が協力してくれたかどうかもわからない。
けれど、かつてみどりが愛用し、今は了のものとなっているキーボードの電池ボックスには、二つの指輪と茜の小指の骨がひっそりと収まっている。
(おわり)
初恋 千里温男 @itsme
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