悠守録

守屋家守

2025年4月28日

 今日はもうすぐで5月になろうとしているのにも関わらず、風が冷たくて寒い。

 既に封印いていたヒートテックを引っ張り出してきているわけだが、おかげで暖かくて非常に過ごしやすい。


 さて、何故俺はこんなにも考えすぎてしまうのだろうか。

 自分との対話をすればするほど、悩みとはいかないにしても漠然としたモヤモヤに支配される。

 しかし悪い事ばかりでは無い。

 日頃から自分との対話をする事によって新たな気付きであったり発見、解決策が出てくる事もある。


 そもそも俺はいつ頃からこんなにも内向的になったのだろうか。

 幼い時はもっと外交的で、自分との対話なんてしてこなかったと記憶している。


 少しずつ内向的な自分が出てきたのも中学へと入学し、好きな女の子ができてからだろうか。

 あの時はその女の子と『付き合いたい』という気持ち以上に、『他の人にイジられないか』だとか、『好きな女の子に嫌われたらどうしよう』といった自分の面子の事しか考えていないようなマインドに陥っていたと思う。


 今だから思うが、人は自分が思っている以上に自分の事なんて考えていないし、人の評価を気にしているという事は自分自身も他人を評価している最低な人間であると俺は考える。


 ありきたりな事を言っているのは百も承知だが、このマインドを理解してからはかなり楽になった。


 だからといってこのマインドを人に薦めるつもりは無い。

 他人からの評価を気にしながら生きている人にもその人なりの正義があり、その正義に則って他人からの評価を気にしているのである。

 過去の自分がそうだったからこそ、そちらの言い分もよく分かる。

 だからこそ俺は自分の正義を大切にしつつ、他人の正義も大切にしなければならないと俺は考える。


 話は変わるが、俺には大切にしている言葉がいくつかある。

 その中でも俺が座右の銘として特に大切にし、人生の指針としているのが以下の言葉である。


『施して報を願わず、受けて恩を忘れず』


 言わずと知れた大隈重信公の御言葉である。

 よく幼い時から、『人から受けた恩は絶対に忘れるな』と言われて育ってきた。

 

 確かに人から『受けた恩は絶対に忘れてはならない』というのは、俺も強く同意する。

 しかし二十数年と歳を重ねて感じるのは、『自分の施した事について見返りを求めてはならない』という考えの方が、よっぽど大切なのではないかという事である。


 もし見返りありきで人への施しをすれば、見返りが返ってこなかった際に『何故俺があんなにもしてやったのに』と憎しみの感情が芽生えてくるだろう。


 だが人間として生き、欲求というものを持っている以上これが中々難しい。


 いくら見返りを求めず、人に手を差し伸べたとしても、『ありがとう』という礼の言葉が無かっただけで『なんだあいつは』と思ってしまう。


 しかし勘違いしてほしくないのは、礼の言葉を述べなくても良いという事ではない。


 そのような行いは『受けた恩を忘れるな』という言葉に反する。


 俺が言いたいのは『人に何かを施す時には一切の欲を捨て、目の前の施しに集中しよう』という事である。


 俺もまだ二十代という若年であり、これらが100%できているかと問われれば首を縦に振る事はできない。


 しかしだからこそ俺自身も今以上にこの言葉を大切にし、実行していかなければならないし、多くの人たちがこの言葉を意識するだけでもっと柔らかい世の中になるのではないかと、俺は考える。


 まだまだ俺の大切にしている言葉は沢山あり、それについて書きたいがそれは今後少しずつ書いていく事にする。


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