第六章「沈黙の森、思考の渦」
収穫祭の余韻を残しながら、翔陽と優菜は北西へと進路を取った。いくつかの丘を越え、道なき道を抜けると、徐々に景色が変わり始める。緑の鮮やかだった土地は次第に灰色がかった静けさを帯び、風の音さえも遠ざかっていくようだった。
森の入口には看板すらなく、土の匂いもどこか鈍く湿っていた。葉擦れの音はなく、鳥の声も聞こえない。生き物の気配がないわけではないが、それらは奥深くに沈み込み、まるで存在そのものを拒んでいるかのようだった。
「ここ……ちょっと嫌な感じ」
優菜が足を止めて周囲を見渡す。どこか現実味を欠いた空気に、彼女の皮膚感覚が警鐘を鳴らしていた。
「“アディアフォリア”の森。記録には“感情を溶かす沈黙の地”とあった。ここにある集落は、何もかもに無関心になっていく傾向があるという。まるで、自分の存在さえ薄れていくかのように」
翔陽の声は低く、慎重だった。
森をさらに奥へと進むと、古びた木製の門が見えてきた。朽ちかけた木板の上には、かすれた文字で「エンドスコーペーシス」と記されている。そこが、無気力の集落だった。
中に足を踏み入れた瞬間、ふたりは驚いた。
村は存在していた。道は整い、家々も手入れが行き届いている。だが、そこには“生きた動き”が決定的に欠けていた。誰も急がない。誰も声を荒げない。すれ違う人々は淡々と首を動かすだけで、会話すら必要としていないようだった。
「すみません、どなたか……この町の様子について教えていただけませんか?」
翔陽が話しかけても、反応は遅く、間の抜けた返答ばかりだった。
「どうでもいい……別に……変わったことなんて、何もないから」
「動かなくても生きていけるし、これで十分……」
感情の起伏はおろか、欲望や興味すら感じられない。彼らの目は、どこか“内部に引きこもっている”ようだった。
「……私みたいな感じだね」
唐突に、優菜が呟いた。翔陽は振り返った。
「え?」
「いや、なんかさ……私も、あんたと出会う前はこんな感じだったのかもって。面倒くさいこと避けて、なるべく感情動かさないようにしてた。似てる気がしてさ、ちょっと……怖い」
彼女の声音には、いつもの斜に構えた態度とは違う“素直さ”があった。
翔陽はふと、村の中心に建つ小さな石碑に目を留めた。周囲の景観と不釣り合いなほど黒ずみ、角が鋭く残っているその石碑から、微かだが確かに異質な気配が漂っていた。
「……この石碑から、何かの“波動”を感じる。おそらくこの村の状態と関係がある。これが何らかの呪的な装置なら……」
「壊せば、元に戻るかもってこと?」
「危険はあるかもしれない。けど——放っておけば、このままこの村は自我を失っていく」
翔陽が呟いたそのとき、優菜がすっと前に出た。
「じゃあ、私がやる。私……ここに取り込まれたくないから」
彼女は無言で石碑に手を伸ばし、そこに刻まれた紋様に触れた。すると、まるで村全体が彼女の決意に呼応するように、空気が震え、石碑の表面が割れ始める。
「っ……ちょっと、冷たい……!」
地面が鳴動し、石碑が崩れ落ちると同時に、あたりに張り詰めていた沈黙の結界が音を立てて砕け散った。風が吹き抜け、木々がざわめき、遠くから犬の鳴き声が聞こえてきた。
村人たちはまるで長い夢から醒めたように目を見開き、しばらく互いを見合ったあと、次第に言葉を交わし始める。
「……あれ、なんで俺、何もしてなかったんだ……?」
「どうして……息してるだけで満足してたんだろう……」
その中心に立つ優菜は、泥で汚れた手を見つめながら小さく笑った。
「ほんと……私らしくないよね。こんなの」
翔陽は、崩れた石碑の下から浮かび上がってくるカードを見つめた。そこには、閉ざされた感情と、それに気づいて再出発しようとする人物が描かれていた。
「……カップの4。無関心、内省、そしてそこからの再起」
翔陽がカードを手に取ると、森にようやく本物の風が吹いた。
「少しずつ、進んでるね。私たちの旅も」
優菜のその言葉は、乾いた風のように軽く、けれどどこか凛としていた。
第六章 終
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