第2話 昼下がりの祝福
取引先のオフィスは、郊外の産業団地の一角、小さな事務棟の3階にあった。外階段の手すりには塗装の剥がれが目立ち、金属のドアを開けると軋む音が響いた。
だが、こういう場所の方が、得てして気持ちを落ち着かせてくれるものだ。
パーテーションで間仕切りされた応接室で、相手方の所長と簡単な書類確認を行う。お茶を出してくれたのは、以前から何度か顔を合わせている事務の女性だった。明るい髪を後ろでざっくり結び、年の頃は二十代後半。白いブラウスに紺色のカーディガン、袖口を少しだけまくっている。その笑顔は、いつもより少し柔らかいように感じた。
「……課長さんって、きっと家でもちゃんとしてる人なんでしょうね」
ひととおりの打ち合わせを終えると、俺の帰り支度を眺めながら、彼女がぽつりと言った。
「うちの姉のダンナがほんとにガサツで。いつも洗濯物ぐちゃぐちゃにして怒られてるんですよね」
俺はちらと所長の方を一瞥し、曖昧な微笑と会釈を返す。こういった話題には深入りするべきではない。早々に退散しようと立ち上がると、続けて彼女が言った。
「……あ、そうだ! 甥っ子の写真、見てくださいよ」
差し出されたスマートフォンには、畳の上で寝転がる赤ん坊と、その隣で笑っている一人の女性が写っていた。おそらく、この人が彼女の姉なのだろう。無造作に結わえた黒髪、化粧っ気のない顔立ちが生活の忙しなさを物語っていた。控えめな笑顔の端に、微かな疲れと、言い知れない複雑な感情が見て取れる。
しかし、その表情の奥には、ほんのわずか、救いのような光が差していた。慈愛と矜持──それだけではない。孤独に押しつぶされそうになりながらも、それでも、心を許せる誰かが傍にいる。夫でも、子供でもない。もっと静かな、対等なぬくもりを分かち合える存在──そんな気配を、俺は画面越しに感じていた。
「ね、かわいいでしょ?」
「え、はあ、確かに……」
わずかに返事が遅れる。
「私も、両親から早く結婚しろって言われてるんですけどね~。こういう仕事だと、なかなか出会いってないじゃないですかぁ」
彼女はスマートフォンを自分の手元に戻し、こちらに寄るようにして小さく微笑んだ。 その上目遣いの眼差しから身をかわすようにして、俺は再び金属のドアを軋ませ、愛想笑いとともにオフィスを後にした。
春の日差しはやわらかだが、空気はまだ肌寒かった。 産業団地の一角を抜け、風に吹かれながら歩くうちに、胸の奥で何かが芽吹くのを感じた。
──今しがた見た母親の姿が脳裏をよぎる。今日、俺が探求すべきは、若さのきらめきではない。忙殺される日々を埋め合う、密やかな結びつき。まるで日陰で顔を寄せ合う、遅咲きの百合のような……。
俺は、足取りを変えずに歩を進める。その先にある、名もなき花の気配だけを感じながら。
川沿いの土手を越えた先に、住宅地が広がっていた。同じような外観の家屋が整然と並び、どの玄関先にも植木鉢や小さな自転車が置かれている。人の気配はあるが、通りは静かで、どこか遠い国の模型≪マケット≫のようにも見えた。
その中ほどに、小さな公園があった。遊具はさびつき、砂場はすっかり乾ききって、猫の足跡だけが点々と残っている。それでも、午後の陽射しに満たされたこの空間には、不思議な温もりがあった。
俺は、公園のベンチに腰をおろした。傍らには一本のヤマボウシが立っている。足元には、落ちて間もない鮮やかな紅葉が、乾いて舞っていた。風が吹き抜けるたび、ブランコがきい、と小さく鳴いた。
俺は空を仰ぎ、溜息をひとつついた。だが、その視界の端では、既に、この領域に足を踏み入れたその瞬間から、俺はある一点に照準を絞っていた。
公園の隅でおしゃべりに興じる二人の女性。年の頃は共に二十代半ばといったところか。
ひとりは、ラベンダー色のニットセーターに淡いベージュのロングスカート。音もなく吹く風がスカートの裾を揺らし、細く柔らかなふくらはぎを覗かせる。もうひとりは、鈍色のパーカーに細身のデニムパンツ。引き締まったシルエットが、やや骨ばった脚線を浮き彫りにしていた。
ロングスカートの彼女は、肩先までの髪をゆるくハーフアップにまとめている。毛先が風に揺れ、春の日差しをやわらかく反射していた。一方、デニムの女性は、短く結んだ黒髪が涼やかな表情を引き立たせていた。
ともすれば対照的に見える二人だが、その間には、両者を結びつける≪絆≫があった。一台のベビーカー。持ち手に手を添えているのはスカートの女性だ。デニムの女性はその向かいに立ち、時折り身をかがめてベビーカーの中を覗き込む。そして、顔を見合わせて微笑み合う。なんと静穏で安らかな百合の園だろう──。
その時である。意図せず、風に乗って流れてきた会話の断片が、俺の耳をくすぐった。
「……帰り……遅……」
俺は思わず、緩んでいた口元を引き締めた。
旦那の帰りが遅い──だとッ!
つまりこれは、夜のお誘い──互いの空白を、互いの温もりで埋め合う──成熟した者だけが知る、秘められた宴!
俺は、すわと腰を浮かせかけ、寸でのところで思いとどまった。今、ここで動くのはリスクが高すぎる。
俺は熱くなる胸を押さえ、耳をそばだてる。しかし、彼女たちの会話は落ち葉の擦れる音に紛れ込んでしまい、それ以上の言葉は聞き取れない。
こうして、如何せんと逡巡している間にも、彼女たちはその場を離れ、公園を後にしようとしていた。会話を続けながら、二人並んでこちらに歩いてくる。そうだ、公園から出るには、俺が座っているこのベンチの前を通らなくてはならない。
──勝った。
俺はおもむろに鞄から書類を取り出し、目を通すフリをした。偽装≪カモフラージュ≫である。
ふいに、ベビーカーの車輪が小石か何かに引っかかった。スカートの女性が、軽くよろめく。間髪を入れず、デニムの女性が──女性にしては少し無骨な手が──その肩を支えた。自然だった。自らの役割を熟知しているかのような動きであった。支え合うことが、もはや呼吸のように行える間柄なのだろう。それは、魂の深層で結びついた証。まるで、夫婦のような。
「……ママ友がさ……」
俺の前を横切った後、スカートの女性がそう呟いた。
ま・ま・とも。
それは、どこか含みのある響きだった。
なるほど。そうか。そういうことか。
その瞬間、俺はすべてに得心がいき、深く頷いた。
儘友≪ままとも≫──あるがままの友。
人の妻になっても変わらず一緒にいられる友達──いや、むしろ、結婚し、母になり、世界の重みに身を置いたとしても、今この瞬間だけは、彼女たちはかつての少女のままでいられるのだ。
夫には言えないことも、子どもには見せられない顔も、彼女にだけはすべてを包み隠さずさらけ出せるのだろう。
「一番好きなのは、あなただよ」
──そういうことなのだ。
胸が、ふるえる。いま確かに、百合の花が咲いた音が聞こえた──気がした。
俺は書類を鞄にしまい、歩み去る二人の姿を静かに見送った。その歩調は、住宅街の角に消えていく最後の一歩まで、ぴたりと揃っていた。言葉はいらない。並び立つふたつの背中が、すべてを物語っている。
この静かな絆は、世間から見れば、許すべからざる行いなのかもしれない。だが、確かに支え合っている。決して名を与えられない関係だとしても、俺だけは祝福を捧げよう。
すれ違う百合は、手折るなかれ。 ただ、胸に刻んでゆけ。
リリー・スポッティング。
それは、祈りにも似た行為だ。
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