リリー・スポッティング
なば蔵
第1話 巡礼者
五反田商事 営業二課。
定時を告げる、古びたチャイムが鳴った。
張りつめていた空気が微かにほどけ、小さなざわめきが職場に広がってゆく。所狭しと積み上げられた書類の山。 コピー用紙とインクの匂い。かすれたエアコンの送風音。 壁には色褪せた社内報、隅には透明のビニール傘が絡まっている。賑やかに澱んだ、雑多な空気。それがこの課の日常だった。
だが、その中にあって、俺のデスクだけは異質に見えるかもしれない。コンパクトな黒のレザートレイに必要最小限の書類だけを重ね、 ペンスタンドには一本、細身のシルバーのボールペンが立つ。 左奥には、使い込まれた黒革の手帳が、ぴたりと置かれている。 ケーブルも、配線も、無造作なものは一切ない。
誰に強制されたわけでもない。周囲がどうあれ、それが俺の流儀なのだ。
俺は手帳をカバンに収め、キャメルのコートを静かに手に取った。手入れの行き届いた生地が、淡い蛍光灯の光を静かに反射した。
「課長、今日、飲み行きましょうよ!」
「たまには付き合ってくださいよ~!」
部下たちの軽い声。これは、儀式のようなものだ。本気の誘いでないことは、お互いによく知っている。
俺は微笑し、短く、柔らかく答えた。
「悪い。用事がある。」
深く追及する者はいない。課長は真面目だから── そう思わせることが、俺にとって、何よりの防壁だった。
高輪嶺一郎、四十二歳。 表向きは、堅実なサラリーマン。 だが、俺には、誰にも明かせない顔があった。
冷気漂う夜の街。
人の流れに押されながら、俺は歩く。
行き交う群衆の顔は、どれも見知らぬ他人ばかりだ。
無数の視線がすれ違う冷たい雑踏の中で、俺はひとり探している。
どこかでひっそりと身を寄せ合う、二輪の百合の花を──。
リリー・スポッティング。
孤高なる巡礼者。それが、俺だ。
今宵のテーマは、清楚。
慎ましく、清らかで、互いが互いを思いやる──そんな穢れを知らない白百合を、今、俺は求めている。
探す。
探す。
立ち止まる。
また、探す。
ファーストフードの看板の下。かまびすしく絡み合う制服の一団。
──違う。
あれは、賑やかすぎる。
駅前の喫煙所。静かに煙をくゆらせる、ヴィヴィッドな装いの二人の女性。
──違う。
あれは、艶やかすぎる。
華美に飾られたショーウィンドウの中。寄り添うように並び立つ二体のマネキン……。
──いや、違う。
あれは、人ではない。
違う、違う。
俺が求めているのは、ただの静けさじゃない。
儚くも美しい無言の優しさ、そして温かさだ。
歩く。
また歩く。
足元をかすめる乾いた風が、街の片隅に吹き抜けていく。
そして、見つけた。
路地裏のコンビニ前。制服姿の女学生が二人、並んで立っていた。
一人は、絹のような黒髪を夜風にたなびかせていた。黒縁のスクエアの眼鏡が、控えめに街の明かりを弾く。丈の長いスクールコートの裾から覗くギンガムチェックのスカートと、足元を引き締める紺のハイソックスの間には、透き通るような白い脚が陰の中に浮かび上がっていた。
その楚々とした佇まいには、どこか近寄りがたい知性が漂っている。あの子は、おそらく図書委員だろう、と俺は推察する。そうに違いない。直感ではない、俺の探究者としての経験則がそう告げるのだ。
夕間暮れ、オレンジ色に染まる放課後の図書室で、文芸書を読み耽っている姿がありありと目に浮かぶ。最終下校時刻のチャイムが鳴り響く。慌てて帰り支度を整え、校門を出る。と、そこに、もう一人の少女が待っている。
二人は別々の学校に通っているのだろう。バッグに縫いつけられた校章からもそれは明らかだ。
もう一人の少女は、ふわりと柔らかな波を描く栗色の髪。カーキ色のブレザーをラフに羽織り、その下にはグレーのパーカーが見える。無造作なようで、お洒落に気を使っているのがわかる。短めのスカートからすらりと伸びた脚は、厚手のマフラーに顔を埋めるその仕草と相まって、無防備なあどけなさを映し出していた。
肩と肩の距離、わずか数センチ。干渉せず、だが確かに寄り添っている。
完璧≪パーフェクト≫だ。
俺は自販機の陰に身を潜めた。対象には近づき過ぎず、気づかれず、あくまで距離を保つ。それが巡礼者たる者の、鉄の掟である。
小夜の逢引きといったところか。彼女たちは幼馴染で、小さいころから仲がよかったのだろう。だが、何らかの事情で道を分かたれたのだ。こうして逢えるのは、下校から帰路につく間のこの一刻だけ。静かに肩を並べるこの時空だけが、日頃、離れ離れで暮らす彼女たちの寄る辺なのだ……。
俺の脳裏で、妄想のタワーがうず高く積み上がっていく音が聞こえる。いいぞ。その調子だ。今こそ至福の時間だ。
汗ばんできた首筋を拭い、ネクタイを緩める。
──その時だった。ほんの微かにだが、彼女たちの囁き合う声が耳に入り、俺は間合いを見誤ったことを悟った。しまった。近づき過ぎたのだ。聞こえたのは断片的な単語だけだが、その陶製の鈴を転がしたような軽やかな声音は、ここまで順調に築き上げてきた妄想に歯止めをかけるのに充分なファクトだった。
「……カップ……しか……」
どちらの声とも判じ得なかったが、どちらにしろ、俺が最初に描いたイメージとは少しばかり隔たりがあった。これは、再構築≪リビルド≫が必要な案件だ。
それにしても、カップ、とは……?
思考を巡らせ、ふと思い当たる。まさか! バストサイズのことか? 互いの成長を、静かに確認し合う……清楚なる秘密の共有。
思わず身を乗り出しそうになる。だが、その先は侵すべからざる花園だ。
「いかん、いかん……! そんなことのために、俺はここにいるんじゃない。」
これ以上の詮索は、流儀に反する。俺は視線をずらし、深く息を吐いた。
だが、聞こえてしまったものは仕方がない。新たな妄想の基礎を組むためにも、情報の取得は最重要課題だ。
俺は息を殺しながら、静かに、獲物を狙う猫のようにゆっくりと、自販機の陰から足を踏み出した。
「……マ…クいく?」
「……かねないし……」
マ…ク―― 。
そうつぶやいたのは黒髪の少女だった。
マ…ク……? なんだ?
ビルの隙間に滑り込んだ俺は、脳神経をフル回転させて分析する。
マ…ク…いく。マック……。マックべす?
そうか! 俺は思わず、はたと膝を打った。マクベスか!
なるほど、彼女が図書委員の文学少女だという俺の読みは、完全に的を射ていたのだ。そして続く、栗色の髪の少女の言葉「…ないし」、これはおそらく「マクベス乃至ロミオとジュリエット」ということなのだろう。つまり、こうして人目を忍んで逢瀬を重ねるしかない己が身の上を、悲劇の登場人物に見立てているわけだ。なんともいじらしく、慎ましやかに咲く百合の花であることよ。
俺は胸に手を置き、そっと目を閉じた。
──ただ、ありがとう。それだけだ。
気が付くと、ふたりは並んで歩き出していた。 肩と肩を、軽く触れ合わせながら。雑踏の中に消えていく少女たちの声は、もはや聞き取れなかった。しかし、言葉はいらない。沈黙の中にこそ、真実の絆は宿るものだ。
「やべー、今日朝からカップ麺しか食ってねえわ」
「ガチ?やべえなお前。マック行く?」
「あー……いいわ。金ないし。あーあ、楽なバイトねえかなぁ」
俺は、遠ざかるその背中を、ただ静かに見つめた。たとえ、声が聞こえなくても、寄り添う二つの背中が、すべてを物語っている。
すれ違う百合は、手折るなかれ。ただ胸に刻んでゆけ。
リリー・スポッティング。
それは、祈りにも似た行為だ。
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