第5話 起きなさい

 これは数か月前にあった話です。


 高校を卒業したばかりの四年前のある日、お父さんが交通事故で亡くなりました。お父さん子だった私は、悲しみに暮れた毎日を過ごしました。葬儀の間中、涙が止まらず、まるで魂の半分を失ったような感覚でした。父の笑顔、大きな手、休日に一緒に行った釣り、全てが鮮明に思い出されて、それがもう二度と戻ってこないという現実が、胸を締め付けていました。


 それから三年後、母が職場の上司Hさんと再婚することになりました。私はお父さんのことが忘れられず、母の再婚には正直乗り気ではありませんでした。「お父さんの代わりなんていない」と、心の中で何度もつぶやいていました。しかし、母の人生の足かせにはなりたくないと思った私は、結局反対はしませんでした。


「大丈夫よ、Hさんはとても優しい人だから」


 母の言葉に、私は無理に笑顔を作って頷きました。結婚式の日、母の幸せそうな顔を見て、少しだけ安心したのを覚えています。


 それから新しい父親との三人暮らしが始まりましたが、私はHさんとはあまりなじめず、微妙な距離感の関係が続きました。話しかけられても、短く返事をするだけで会話が続かず、食卓でも沈黙が多かったのです。


 とはいえ、Hさんは悪い人ではありませんでした。むしろ、私に気を遣っているようでした。仕事から帰ると、私の好きなケーキを買ってきてくれたり、休日には三人で出かける計画を立ててくれたりと、家族として受け入れようと努力してくれていました。


「美咲、この週末映画でも見に行かない?」


「あ、いいですけど…」


「お母さんも誘ってあるんだ。三人で行けたらいいなと思って」


 そんな風に、距離を縮めようとしてくれる姿に、少しずつ心を開いていこうとも思っていました。


 母も以前より笑顔が増え、家事をしながら鼻歌を歌うこともあるほど、明るくなっていました。夕食の用意をしながら、Hさんと冗談を言い合う二人の様子を見て、これでいいのかもしれないと思うようになりました。


 そんなある日のこと。私は変な夢を見ました。


 暗闇の中、ぼんやりとした光に照らされた廊下に、私は立っていました。どこか懐かしい匂いがして、振り返ると、そこにはお父さんが立っていました。生前と同じ、少し疲れた顔に優しい笑顔を浮かべて。


「お父さん…」


 私が声をかけようとした瞬間、お父さんの表情が一変しました。目が大きく見開かれ、口が歪み、まるで別人のようでした。


「起きなさい……」


 その声にハッとして私は目を覚ましました。寝汗でパジャマが湿っていて、心臓は早鐘のように鳴り響いていました。


 私は朝に弱く、学生の頃はしばしば遅刻することもあったぐらいでした。そんな時は、お父さんが少し困った顔で、私を優しく起こしてくれました。「起きなさい」と……。


 しかし、今見た夢の中のお父さんは違いました。無表情で、何か緊迫したような感じ、そしてあの時の優しそうな声ではなく、どこか冷たく言い放つような声。寒気がして時計を見ると、時刻は午前一時。水を飲もうと部屋を出ると、廊下でHさんとばったり会いました。


「美咲、どうしたの?具合悪い?」


 心配そうに声をかけられました。


「あ、いえ。ちょっと喉が渇いて…」


「そう。無理しないでね、もう遅いから早く休みなさい」


 Hさんは優しく微笑みました。気まずくてはぐらかして水を飲みに行き、部屋に戻りまた眠りにつきました。


 翌日、大学の友人の明日香と学食で昼食を取りながら、夢のことを話してみました。


「へぇ、お父さんが出てきたんだ」


「うん、でもなんか…怖かったんだよね。いつものお父さんじゃなくて」


「そりゃあ、三年も経ってるし、顔忘れかけてるんじゃない?」


 明日香は軽い調子で言いましたが、私にはそうは思えませんでした。あの顔は忘れるはずがない。けれど、夢の中のお父さんは、確かに別人のようでした。


「でもさ、『起きなさい』って言ったんでしょ?それってもしかして…」


「もしかして、何?」


「いや、そういうの怖い話でよくあるやつだよね。一番大切な人をあの世に連れていっちゃう、みたいな?」


 明日香の言葉に、私は箸を止めました。胸がキュッと締め付けられるような感覚に襲われました。


「そんなわけないでしょ……お父さんがそんなことするはずない!」


 思わず声を荒げた私に、明日香は驚いた顔をしました。


「ごめん、ごめん。冗談だよ。本気にしないでよ」


 そう言って話題を変えましたが、明日香の言葉は私の心に深く突き刺さりました。


 それからも度々その夢は続きました。しかも夢に出てくるお父さんの表情は日に日に険しくなり、「起きなさい」という言葉も語気が強まっているように感じました。


 あるときは、真っ暗な部屋の中で、お父さんの姿だけが浮かび上がるように立っていて、目を見開いたまま「起きなさい」と叫ぶように言いました。また別の夜は、お父さんの顔が徐々に崩れていくように変形しながら「起きなさい」と繰り返しました。


 だんだんと眠るのが怖くなってきました。この夢を見続けるとどうなってしまうのか。明日香の言った「あの世に連れていく」という言葉が、頭から離れませんでした。


 一方で、現実の生活は平穏でした。Hさんは相変わらず私に気を遣ってくれて、母との関係も良好で、三人での外食や映画も楽しいものでした。母は私の表情の曇りに気づいて心配してくれましたが、夢のことを話すと、


「気のせいよ。たまたまよ」


 とあしらわれてしまいました。


「でも、お父さんが『起きなさい』って…」


「美咲、もう大人なんだから。夢と現実の区別くらいつけなさい」


 母の言葉は厳しかったですが、今考えると、彼女も自分の新しい生活を守りたかったのかもしれません。


 それからも友人たちに相談してみましたが、反応は様々でした。心理学を学んでいる友人は「喪失感の表れ」と言い、オカルト好きの友人は「心霊現象」と興奮し、要領を得ません。


「でもさ、怖い夢って幸運のサインや、幸せへの道筋を教えてくれる場合もあるらしいよ。家庭は上手くいってるんでしょ?」


 別の友人がそう言ったとき、私は少し希望を持ちました。もしかして、お父さんはの夢は、今の状況を受け入れてきている私の心理的なものかもしれない。できればそう思いたい。


「いや、でもさ、怨霊になってるパターンもあるよね。生前の怨みとか、死に切れない思いとか」


 そんな言葉を聞くたびに、私はショックを受けました。お父さんがそんなことをするはずがない。私の幸せをずっと願ってくれていた。でも、夢の中の恐ろしい表情を思い出すと、わからなくなりました。


 そのころになると、半ばノイローゼ気味にもなっていました。寝る前に何度も部屋を確認したり、お守りを枕元に置いたりするようになりました。それでも夢は続き、眠るのが怖くて、朝まで一睡もできないことがありました。


 流石に心配した母親が病院に行こうと言ってくれて、私はそれに従うことにしました。病院に行くと睡眠障害と診断され、その日から薬を使って眠ることになりました。


「これを飲めば、深い眠りにつけるから、怖い夢を見なくなるわ。お大事にね。」


 医師の言葉に少し安心して、その夜は久しぶりに心穏やかに布団に入りました。


 しかし――


「起きなさい……」


 また夢を見ました。お父さんの夢。でもその顔は今まで見た夢と違い、恐ろしいものでした。まるで憎しみに満ちた顔。私の知っているお父さんの顔じゃない。血走った目、歪んだ口元、青ざめた皮膚。こんなお父さん知らない。


 いやだ、こんなのお父さんじゃない。優しいお父さんじゃない!夢の中で必死にそう願うが、お父さんは私の肩を掴み必死に揺さぶりながら言い続けました。


「起きなさい!起きなさい!起きなさい!起きなさい!!」


 もう嫌だ。何でこんなことをするの?お父さんは私を恨んでるの?私が何かした?私はお父さんのことがあんなに好きだったのに!


 すると、夢の中にかかっていた黒いモヤが晴れていく気がしました。その瞬間「もうやめて!」気が付くと私は叫び声をあげて目を覚ましていました。しかし、その目に映ったのは……。


「H……さん?」


 そう、私の目に映ったのは、私に覆いかぶさるようにしていたHさんでした。凍り付いたような顔で固まっています。彼の手は私の胸元のボタンに手がかかっており、一瞬状況が呑み込めずにいました。すると彼は言い淀むように言いました。


「ち、違うんだ。こ、これはその、君が心配で……」


 震える声でそう言い訳するHさん。その言葉で私はようやく状況が呑み込めてきて、気が付くと大声で母を呼んでいました。


「お母さん!お母さん!!」


 その後、私は駆け付けた母によって、助け出されました。Hさんは必死に言い訳をしていましたが、母は聞く耳を持たず、その日のうちにHさんを家から追い出しました。


 以上が、数か月前に私が体験した話です。あのあと、母とHさんの離婚が決まり、母は職場にもHさんのことを報告したらしく、彼は職場での居場所を失い退職してしまったそうです。私はというと、あれからは薬のおかげもあってか、ぐっすりと眠れるようになりました。


 あれからも、お父さんの夢を見ることもありますが、その顔は、私が知っている、生前の穏やかで優しい笑顔です。時々、夢の中で釣りに行ったり、一緒に笑ったりします。


 そして、ある夜の夢の中で、お父さんは静かに語りかけてくれました。


「良かった……」


 その言葉を聞いた時、私は全てを理解しました。あの恐ろしい夢は、お父さんが必死に私を危険から守ろうとしていた証だったのです。「起きなさい」という言葉は、私を目覚めさせるための必死の叫びだったのです。


 目が覚めると、頬に涙が伝っていました。でも、それは悲しみの涙ではなく、安堵と感謝の涙でした。


「ありがとう、お父さん」


 窓から差し込む朝日を見ながら、私はそっとつぶやきました。これからも、お父さんは私を見守ってくれているのだと信じています。

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