第2話 雨の囁き

 これは、私ことAが、五年前に体験した話です。

今でも雨の日には、窓辺に佇み、耳を澄ませてしまう。あの不思議な出来事を思い出しながら――





「Aさん、ずっと一人でいることに寂しさは感じないんですか?今度の土曜日、行員同士の飲み会あるんですけど、来ませんか?」


 昼休みの融資課デスクで、後輩である森下さんが、コーヒーを片手に尋ねてきた。


 彼女は入行してからずっと、私を飲み会や合コンに誘おうとする。でも、私は決まっていつものように首を横に振る。


「寂しさより、気楽さの方が勝っているの。飲み会は遠慮しておくわ」


 書類を整理しながら答える私に、森下さんは少し心配そうな顔をする。


 昔から内向的で几帳面な私は、騒がしいことが苦手だった。友達がいないわけではなかったけれど、いつも一人でいることを選んでいた。学校で虐められていたわけでもなく、のけ者にされていたわけでもない。ただ一人でいるのが気楽だったのだ。


「でも、本当にそれでいいんですか?同期の中でまだ一人なのはAさんだけですよ。みんな結婚したり、少なくとも彼氏くらいいるのに」


 口座開設の書類に押印しながら、ちらりと森下さんを見る。そう問われると、少し考え込んでしまう。


「誘ってくれてありがとう。でも本当に大丈夫だから」


 私は物心ついた頃から何かに夢中になるということがなかった。強いて言えば読書だけれど、それも特定のジャンルに傾倒するわけでもなく、ただ活字を追うことで時

間を過ごしていた。


 もちろんこんな調子だから彼氏を作ったこともない。


 そんな調子で高校から大学へと進学し、今ある地元の地方銀行員に就職した。


 同期の子が次々と結婚したり彼氏ができたりとはしゃぐ中、私はいつも通り一人だった。


 無口でおとなしいせいか、ちょろいと思われていたのか、社内で遊んでいると噂される男性たちにはよく声をかけられた。けれど、そういったことに興味が持てなかった私は、相変わらずの独身生活を送っていた。


 一人暮らしを始めると、それはさらに加速した。休みの日はほとんど外出することもなく、家で大好きな本を読みふける読書生活。別に寂しいとは思ったことはない。ただ、たまに「自分はこのままでいいのか」という思いに駆られることはあった。


 だからといって何かが変わる訳でもなく、いつものように休みの日に読書をしていた時だった。


 その日は雨だった。


 灰色の空から、ゆっくりと滲み出すように雨が降り始めた。最初は繊細な霧雨のように、やがて銀の針を垂らすように。音もなく地上に降り注ぐ。


 昔から雨は好きだ。とりわけ、この世界の喧騒を洗い流してくれるような静かな雨が。


 こんな日の私のアパートの一室は、まるで水族館の中にいるような不思議な光に満ちる。


 窓ガラスを伝う水滴が作る影が、波紋のように壁を這い、部屋全体が水中にあるような幻想的な空間に変わる。そんな日は、誰の声も、電話の音も、隣人の足音さえも届かない。ただ雨だけが、私を包み込む。


 この世界から遮断された、自分だけの領域。そんな場所が確かにそこにある。


 アパートの屋根を伝って流れる雨水が、窓辺の格子に当たり、規則正しいリズムを刻んでいく。


 ぽつん、ぽつん、ぽつん。その音色が不思議と心地よく、開いていた本から自然と手が離れ、椅子から立ち上がり窓辺に近づいた。耳を澄ませる。


 すると——不意に。


「り」


 まるで誰かが囁いたような。


「え……?」


 私は息を呑んだ。

 

 ――人の声?


 頭を振り、もう一度耳を澄ました。


 雨音は確かに人の声のように聞こえた。女性とも男性ともつかない、どこか中性的な声。気のせいだと思ったが、その後も雨の滴が屋根から落ちるたびに、その不思議な声は続いた。


「か」


 ——雨だまりに落ちる雫の音。


「と」


 ——排水溝を流れる水の音。


「ち」


 ——軒先を伝う雨水の音。


「は」


 ——窓ガラスを打つ雨粒の音。


 それぞれの雨音が、それぞれの言葉に変わっていく。


 耳がおかしくなったのかと思い、何度も自分の耳を疑った。でも特に体調が悪いわけでもなく、熱があるわけでもない。ただ、雨音がするたびに、それは確かに一音一音の言葉となって私の耳に届いていた。


 時間の感覚が曖昧になり、どれくらいそうして窓辺に立っていたのかわからない。ただただ、降り続ける雨と、その中に隠された声に聞き入っていた。


 やがて雨は小降りになり、声も次第に小さくなっていった。最後の一滴が落ち、声も完全に消えた時、まるで夢から覚めたように、我に返った。


 震える手で自分の頬に触れる。頬は冷たく、身体の芯まで冷えていた。どれほど長く立ち尽くしていたのだろう。


 多少の戸惑いと怖さはあったけれど、不思議なことに恐怖より、どこか懐かしさのような、安らぎのような感情の方が勝っていた。その声は妙に心地よく、いつまでも聴いていたいと思えるものだった。


「聞こえたの、本当に……?」


 自分の声が、静まり返った部屋に響く。もう一度雨が降ってきてくれないかと、窓の外を見上げるが、空は少しずつ晴れ間を見せ始めていた。


 あの日の出来事は何だったのか。幻聴か、それとも別の何か。そんなことを考えながらも、私はいつもの日常に戻った。


 でも、確かに何かが変わった。雨の降る日が、今までよりもずっと特別な日になった。


 そして再び、雨の日がやってきた。

窓の外は鈍色の空。重たげな雲が低く垂れ込め、静かに、しかし執拗に雨を降らせていた。


 土曜日の午後、読書をしていた私の耳に、水滴の弾む音が届く。空からこぼれ落ちる雫は、まるで天からの贈り物のように舞い降り、窓ガラスを伝って幾筋もの流れを作っていく。


 ふと、前回のことを思い出し、本を閉じ、窓辺に立った。何となく期待と不安が入り混じって、胸がざわついている。


 そして再び、あの声が聞こえてきた。


「み」


 ——軒先を滴る雨の音。


 今度は心の準備ができていた。怖いというより、むしろ嬉しさや高揚感の方が強かった。まるで大切な人との再会を果たしたかのように。椅子に腰かけ、目を閉じ、雨音に身を委ねる。


「き」


 ——屋根を打つ雨の音。


「さ」


 ——窓枠を叩く雨の音。


「つ」


 ——水たまりに落ちる雨の音。


 相変わらず何か意味のある言葉になっているわけではなく、一文字一音だけ。でも確かに、この現象は私の妄想ではなく、現実に起きていることだった。


「これは……私だけに聞こえている?」


 誰もいない部屋に問いかける。返事はない。ただ雨だけが静かに応えるように降り続けている。


 これは自分だけに許された秘密の交信なのではないか。そんな荒唐無稽な考えが頭をよぎるが、不思議と馬鹿げているとは思えなかった。


 それからというもの、雨の日が来るたびに、その不思議な現象は続いた。

季節は移ろい、自然は姿を変える。春の優しい雨は、若葉を洗うように地上を潤し、一文字一文字を丁寧に囁いた。


 夏の激しいスコールは、情熱的な調べのように音を刻んだ。秋の物悲しい雨は、落ち葉の上に静かに降り注ぎ、儚い言葉を紡いだ。冬の冷たい雨は、時に雪に変わりながらも、凛とした声で私に語りかけてきた。


 それぞれに違った表情を見せる雨が、それぞれの声色で私に語りかけてくる。四季折々の雨の声を聴くうちに、いつしか私は雨の日を心から待ちわびるようになっていた。


 スマートフォンの天気予報アプリを開くのが日課となり、雨マークがある日は赤丸で囲み、前もって休みを入れるほどになった。


 通勤途中で雨雲を見つけると、なぜか胸が高鳴り、逆に晴れの日が続くと、まるで大切な人に会えないような寂しさが押し寄せた。


「雨が降らない」


 窓辺に立ち、晴れ渡った青空を見上げながら、そう呟く自分がいた。


「早く、また会いたい」


 誰に会いたいのか、自分でもわからない。ただ、雨の中の声に、そう、切に願う自分がいた。




 

 そんなある日のこと。電話が鳴ったのは、曇り空の水曜日の午後だった。


「もしもし、Aさんですか?お父様とお母様が……交通事故に遭われました」


 警察からの連絡だった。言葉の意味を理解するまで、数秒の時間がかかった。


 両親が……亡くなった。


 その事実は、にわかには信じがたかった。まるで他人事のように、自分の中で浮かんでは消えていく。


 病院に駆けつけた時には、すでに冷たくなった二人の姿があるだけだった。


 白い布に覆われた輪郭を見て、初めて現実だと……理解した。


 それからの数日間は、まるで靄の中を歩いているような感覚だった。


 葬儀の準備、親戚への連絡、故人の身の回りの整理。やるべきことに追われる中で、悲しむ暇さえなかった。


 葬儀の日。小雨が降る中、多くの人が最後の別れを告げに来てくれた。


「Aさん、お気持ちお察しします」


 父の同僚が、私の手を握りながら言った。


「何かあったらいつでも連絡してくださいね。一人で抱え込まないで」


「ありがとうございます」


 形式的な言葉を返す。私の声は、まるで自分のものではないかのように響いた。


「Aちゃん、しっかりね」


 母の友人は、目に涙を浮かべながら私の背中をさすってくれた。


「お母さん、いつもAちゃんのこと、自慢してたのよ。真面目で、しっかりした子だって」


 その言葉に、何か言い返さなければと思ったが、喉から声が出なかった。ただ頷くことしかできなかった。


 近所に住む年配の女性は、弔問客の波が落ち着いた頃、静かに私に近づいてきた。


「辛いでしょう。でも、泣いていいのよ」


 その優しい言葉に、かえって胸が締め付けられた。泣きたいのに、涙が出ない。感情が凍りついてしまったかのようだった。


「ありがとうございます。ご心配おかけします……」


 そう答えるしかなかった。


 葬儀が終わり、参列者が去った後、静まり返った家に一人残された。両親の遺影を前に座り、何かを感じようとした。悲しみ、怒り、喪失感——何でもいい、何か感じたかった。でも、そこにあったのは奇妙な空虚感だけだった。


「私、こんなにも冷たい人間だったんだ……」


 鏡に映る自分の顔は、何の感情も浮かべていなかった。一人で過ごす時間が長すぎて、人の死さえも遠い出来事のように感じてしまう自分が怖かった。


 



 それから一週間が過ぎ、形だけの日常が戻り始めていた。


 仕事も再開し、機械的に日々をこなしていた。


 住んでいたアパートを引き払い、実家へと引っ越した。けれど、帰る家には両親の気配がない。夕食を作っても、「いただきます」と言う相手もいない。テレビをつけても、隣で新聞を読む父の姿もない。洗濯物を干しても、母の服はもうない。


 そんな夜、また雨が降ってきた。


 十月の終わり、冷たい雨だった。窓の外は墨を流したような闇。その中を静かに雨が降り続けている。無意識のうちに窓辺に近づき、雨音に耳を澄ました。


「よ」


 ——軒先を打つ雨の音。


「し」


 ——窓ガラスを伝う雨の音。


「よ」


 ——排水溝に流れる水の音。


「し」


 ——雨樋を流れる水の音。


「よ」


 ——木の葉を打つ雨の音。


「し」


 ——地面に落ちる雨の音。


 それは、初めて雨音が明確な言葉の意味を持ったように感じた瞬間だった。


 誰かが私を励ましているかのように……。


「よし、よし」


 まるで幼い頃、熱を出した私の額に手を当て、「よしよし」と髪をなでてくれた母の声のように。


「よしよし」


 転んで膝を擦りむいた私を抱き上げ、「よしよし、大丈夫だ」と背中をさすってくれた父の声のように。


 不思議と落ち着く声。耳を澄ます。手のひらを窓ガラスに当て、冷たい感触を確かめる。雨粒がガラス越しの指先に当たる感覚。まるで誰かが私の手に触れているかのよう。


「お父さん……お母さん……」


 喉の奥から、かすれた声が漏れた。


 あれだけ涙が出なかったのに、その瞬間、堰を切ったように涙があふれ出した。窓辺に額をつけ、肩を震わせながら泣いた。静かに、けれど深く、心の底から。


 凍りついていた感情が、一気に溶け出す。記憶の中の両親の笑顔、優しさ、時には厳しさ、そのすべてが鮮明に蘇ってきた。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 誰に謝っているのか、自分でもわからなかった。ただ、言葉にならない思いが溢れ出し、涙と共に流れていく。


 雨は私の悲しみに寄り添うように、優しく窓をたたき続けていた。「よし、よし」と繰り返しながら。まるで誰かが私の背中をさすってくれているように。


 どれほどの時間が過ぎたのだろう。涙が止まった時には、窓の外の雨も小降りになっていた。心の中の重しが少し軽くなったような気がした。悲しみは消えないけれど、それを受け入れる準備ができたような気がした。


 その夜、久しぶりに深い深い、眠りに落ちた。


 夢の中で、両親が、穏やかに微笑んでいた。





 それから時が経ち、季節は冬から春へと移り変わった。


 両親の遺影に毎朝お茶を供え、仕事に行き、帰宅し、読書をする。私の日常は再び静かな流れを取り戻していた。けれど、一つだけ変わったことがある。雨の日が、特別な日になった。


 窓辺に立ち、雨音が奏でる言葉に耳を傾ける時間は、私にとって何よりも大切なものになっていた。それはもはや儀式のようなもの。雨が降れば、本を閉じ、窓際に寄り添い、目を閉じ、ただ聴く。


 春の柔らかな雨は「あ」「め」「ふ」「る」と囁き、鬱蒼とした夏の雨は「あ」「つ」「い」「な」と語りかけてくる。どの季節の雨も私に何かを伝えようとしているように感じた。


 それは不思議な体験だけれど、怖いとは思わなかった。むしろ、雨の声は孤独を感じ始めた私に、「あなたは一人じゃない」と告げているかのようだった。


 そして、ある雨の夜のこと。


 窓辺に座り、雨音の言葉に耳を傾けていた時、ふと、思った。


「私だけなのだろうか……」


 この不思議な体験は、この世界で私だけが経験していることなのか。もし、同じ体験をしている人がいるとしたら、その人は雨音からどんな言葉を聞いているのだろう。


 その疑問は、一度浮かぶと消えることなく、私の中で大きくなっていった。でも、誰に相談すればいいのか。もし話したら、きっと変な目で見られるだろう。それでも知りたかった。


 梅雨入り前の五月のある夜、雨音を聞きながら、私はスマートフォンを手に取った。以前、森下さんに半ば強引に登録させられたSNSアプリを開く。検索窓に指を置き、迷った。


 何と検索すればいいのだろう。


『雨 声』


 検索結果には、雨音を録音したアプリの宣伝や、雨の日に聞きたい歌手の記事が並ぶ。違う。


『雨の音 人の声』


 今度は、音響効果の専門用語や、雨音がリラックス効果をもたらすという記事ばかり。違う。


『雨音 言葉 聞こえる』


 何度も検索ワードを変え、暗い画面を見つめる私の姿が窓ガラスに映り込む。そして——見つけた。


 それは、『雨が話しかけてくる』というタグが付いた投稿だった。二十代の男性、Sさんという人のアカウントからの短い一文。


『雨の音が人の声に聞こえる、なんだか面白い』


 たったそれだけの投稿。誰からも反応はなく、「いいね」の数もゼロ。何も知らない人から見れば、意味不明な呟きにしか見えないだろう。


 私はその投稿を何度も読み返した。たった一文だけど、その言葉の選び方、『人の声に聞こえる』という表現。これは単なる比喩ではないように思えた。


「もしかして…この人も…?」


 疑問と期待が入り混じる。本当に私と同じ体験をしている人なのか、それとも全く別の事を言っているのか。雨音を音楽的に楽しんでいるだけかもしれない。言葉が具体的に聞こえるとは書いていない。単なる思い込みかもしれない。


 でも、もし本当だとしたら——。


 一週間、その投稿のことが頭から離れなかった。夜、仕事から帰って来て窓辺に立ち、雨の声を聞きながら考えた。


「もし同じ体験をしている人がいるとしたら、その人はどんな言葉を聞いているのだろう……」


 そう思うと、急に知りたくてたまらなくなった。孤独だと思っていた体験を、もしかしたら誰かと共有できるかもしれない。その可能性に、私の心は胸躍った。


 ある雨の夜、勇気を出してスマートフォンを手に取った。画面からは青白い光が漏れ、部屋の闇を切り裂く。メッセージ機能を開くと、胸が締め付けられるような緊張感に襲われた。


 何と言えばいいのか。


 まるで小学生の頃、好きな人に話しかける勇気が出なかった時のような緊張感。いや、それ以上だ。


 これまで一度も自分から他人にアプローチしたことがなかった私が、初めて、自ら誰かに手を伸ばそうとしている。


「……やめよう」


 一旦はそう思い、スマートフォンを置こうとした。けれど窓をたたく雨音が、私の耳に「や」「る」「の」と囁くように聞こえた。まるで背中を押されたような気がして、もう一度画面を見つめた。


 深呼吸を一つ、二つ。静かな部屋に、私の鼓動だけが響く。


『はじめまして。Aと申します』


 文字を打ち始めると、不思議と言葉が流れてきた。


『唐突な連絡で申し訳ありません。あなたの投稿を見て、どうしても連絡せずにはいられませんでした』


 打ち終わり、読み返す。足りない。本当に伝えたいことが書けていない。何度も書き直し、消しては書き、また消して……最後に勇気を振り絞って、こう付け加えた。


『私も同じように、雨の音から言葉が聞こえる体験をしています』


 送信ボタンを長く見つめ、指が震えた。これを送ると、もう後戻りはできない。でも、知りたい。本当に私だけではないのか知りたい。


 目を閉じて送信ボタンを押した。


 『送信しました』の表示が出た瞬間、急に現実感がなくなった。何をしてしまったのか。もしこの人が冗談で書いたのだとしたら?もし変人だと思われたら?もし、この投稿をネットにさらされたら?想像すればするほど、恐ろしくなる。


「馬鹿なことしちゃった……」


 静かに降り続く雨を見つめながら、後悔が押し寄せてきた。雨の音は今、何も語りかけてこない。ただの雨音に戻っている。


 スマートフォンを枕元に置き、布団に潜り込んだ。きっと返事なんて来ないだろう。来ても、嘲笑か無視に違いない。そう自分に言い聞かせながら、不安な眠りについた。


 明け方近く、スマートフォンの通知音で目が覚めた。


 夢の中にいるような感覚で、画面を開く。Kさんからの返信だった。


『本当ですか?僕もてっきり一人だけかと思っていました』


 その一行を読んだ瞬間、全身に雷が走ったような衝撃を感じた。立ち上がり、窓際に駆け寄った。灰色の夜明け前の空から、小雨が静かに降っている。


「本当に…一人じゃないんだ…」


 胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。涙が頬を伝う。


 それは、両親を亡くした後、雨が「よし」と私に語りかけた時以来の、深い感動だった。


 返信をどうしようか、一日考えた。職場でも上の空で、取引先への入金処理を二度も間違えて、課長に注意された。でも、そんなことさえどうでもいいと思えるほど、心は躍っていた。


 その晩、用意していた返信を送った。


『一人だけじゃないと知って、言葉にできないほど嬉しいです。信じられなくて、涙が出ました』


 正直な気持ちを書いた。今までの経験も、どんな言葉が聞こえるのかも。


 すると彼からもすぐに返事が来た。彼の経験も私とよく似ていた。最初は意味のない一文字だけだったこと、時間が経つにつれて少しずつ意味のある言葉に変わってきたこと。


『どんな言葉が聞こえますか?』と彼が訊いてきた。


『最初はただの一文字でした。「り」とか「か」とか。意味はありませんでした』


私は打ち込んだ。


『でも、今は少しずつつながりのある音に聞こえるようになってきています。両親が亡くなった時は、「よし」「よし」と何度も聞こえて…』


 打ちながら、あの夜のことを思い出し、また目が熱くなった。


『僕も同じです!』


 彼の返信には感嘆符がついていた。


『最初は「ほ」「の」「み」などでした。最近は「お」「は」「よ」など、朝に聞こえることが多いです。Aさんと同じですね』


 この『同じですね』という言葉に、不思議な安心感を覚えた。長い間、誰にも言えなかった秘密を、初めて共有できた瞬間だった。


 それからというもの、私たちのやり取りは日に日に増えていった。最初は一日一通程度だったのが、次第に何通も交わすようになり、メッセージを確認するのが日課になっていった。


 銀行の窓口で顧客対応をしながらも、ポケットの中のスマートフォンが気になって仕方ない。休憩時間になると、すぐにメッセージを確認する自分がいた。


 夜は夜で、雨音を聞きながら、彼とのメッセージのやり取りが続いた。夜中の零時、一時になっても眠くならない。


「明日、早く起きなきゃいけないのに……」


 そう思いながらも、彼からの返信を待っていた。


『実は地方銀行に勤めています』と、ある日私は打ち明けた。


『僕は都内のIT企業です。プログラマーをしています』という返事だった。


 少しずつ、お互いの素性を明かしていった。私が猫が好きなこと、彼がコーヒーにこだわりがあること、私が日本文学が好きなこと、彼が宮沢賢治の童話に心惹かれること…。


『私はあまり人と話すのが得意ではなくて……』と正直に打ち明けた夜、ポツリポツリと雨が降り始めていた。


『僕もどちらかというと内気な性格で……』という彼の答えに、少し微笑んだ。


『でも、Aさんとは話しやすいです。不思議と壁を感じないんです』


 それは私も同じだった。これまで誰にも話せなかった自分の内面を、彼には自然と打ち明けられる。気がつけば、雨の話だけでなく、日々の小さな出来事や、過去の思い出、将来の不安まで、何でも話すようになっていた。


 メッセージのやり取りが始まって一ヶ月が経った頃、彼から思いがけない提案があった。


『もし良かったら、電話で話してみませんか?』


 その提案に、私は戸惑った。文字ならまだしも、声となると…。でも、好奇心が勝った。彼の声はどんな声なのだろう。雨の声と同じように、優しい声なのだろうか。


 約束の夜。細い雨が降る中、彼からの着信を待っていた。時計の針が約束の時間を指した瞬間、スマートフォンが鳴った。


震える手で電話に出る。


「……もしもし」


『……もしもし、Aさん?』


 初めて聞く彼の声は、想像よりも少し低く、柔らかな響きを持っていた。最初は互いに緊張して、言葉も途切れがちだった。


『あの、雨、降ってますか?』と彼が聞いた。


「はい、小雨です…」と私。


 一瞬の沈黙の後、彼が笑った。


『何だか不思議な感じですね。同じ雨を見ながら話してるなんて』


 その言葉に、私も自然と笑みがこぼれた。


「本当に、不思議です」


 最初の電話は二十分ほどで終わった。でも次の日も、その次の日も、彼から電話があった。最初の緊張はすぐに解け、電話での会話は次第に長くなっていった。


 一時間、二時間……休日前なんかは、夜が明けるまで話していることもあった。


 時折、通話しながら雨音に耳を澄ます。


「今日は『ま』『た』『あ』『お』と聞こえました」と私が言うと、


『不思議ですね、僕には「う」「か」「も」「り」と聞こえたんです』と彼。


 同じ雨なのに、聞こえる言葉が違う。それがまた不思議で、話題は尽きなかった。


 日を追うごとに、彼のことをもっと知りたいという思いが強くなった。

 

 声を聞けば聞くほど、人となりが感じられて。彼は私と同じくらいの年齢で、私のように派手な遊びを好まないタイプだった。静かな音楽と読書が好きで、休日は自宅でプログラミングをして過ごすという。


『雨の日は、窓際に座って、外を眺めていることが多いんです』と彼は言った。


『この習慣は子供の頃からなんです。母が亡くなってから、雨の音だけが僕を慰めてくれたから…』


 そんな彼の言葉に、私は胸が締め付けられる思いがした。彼もまた、雨の中に誰かの存在を感じていたのだ。


『Aさんの声、想像していた通りでした』と、ある雨の夜、彼は言った。


「どんな風に想像していたんですか?」と思わず尋ねた。


『穏やかで、少し控えめで……でも、芯の強さを感じる声……かな』


 彼の言葉に、心がざわめいた。


「そんな風に思ってもらえて嬉しいです」と答えながら、顔が熱くなるのを感じた。


 通話が日課になってからひと月が過ぎた頃には、私たちの会話は既知の友人同士のように自然で心地よいものになっていた。雨の話、仕事の話、子供の頃の思い出話…話題は尽きることがなかった。


 時々、通話しながら窓の外を見上げる。遠く離れた場所にいる彼も、同じ空を見上げているのだと思うと、不思議な一体感を感じた。雨が二人の間に、目には見えない糸を紡いでいるような感覚。


 六月の終わり、梅雨の真っ只中のある日。Kさんから思いがけない提案があった。


『Aさん、もしよけば……会ってみませんか?』


 電話越しの彼の声は、いつもより少し低く、緊張しているようだった。


『一緒に雨の音を聞いてみたいんです。二人で同じ雨を聴いたら、同じ言葉が聞こえるのか……それとも違う言葉なのか』


 私は言葉に詰まった。確かに気になる。けれど、会うとなると話は別だ。森下さんでさえ、何度誘われても断り続けてきた私が、ネットで知り合っただけの男性と会うなんて。


「か、考えてみます……」


 とりあえずそう答えておいた。その夜、久しぶりに眠れなかった。窓の外では雨が降り続け、「あ」「え」「よ」「う」と囁いている。まるで「会えよう」と言っているようで、私は苦笑した。


 翌朝、目覚めると決心していた。


 会ってみよう。これまでの人生で、こんなに心を通わせた相手はいなかった。たとえネットや電話越しであっても、彼との会話は私に新しい世界を見せてくれた。


『会いましょう』


メッセージを送ると、すぐに返事が来た。


『本当ですか?嬉しいです!』


 日時と場所を決め、私たちは初めて会う約束をした。梅雨明け直後の土曜日、雨が予報されている日を選んだ。


 約束の日が近づくにつれて、不安と期待が入り混じる感情が私を包んだ。もし、想像していた人と違ったらどうしよう。もし、私が彼の期待に応えられなかったらどうしよう。そんな心配が頭をよぎる。


 けれど同時に、これまで誰にも話せなかった秘密を共有できる相手と会える喜びも感じていた。人生で初めて、誰かと会うことをこんなに待ち遠しく思ったことはなかった。


 雨予報の土曜日。私はいつもより念入りに支度をした。普段はしないメイクもし、いつも結んでいる髪もおろした。鏡に映る自分が、少し違って見えた。


「初めまして、S……さん」


 リハーサルのように、何度も鏡の前で呟いた。






 六月も終わりに近づいた土曜日。朝から空は鉛色に重く垂れ込め、遠くから雷の音が聞こえてきていた。


「予報通りの雨になりそう……」


 自分の声が、静まり返った部屋の中で妙に響く。化粧台の前に座り、いつもよりも念入りに髪を整えながら、鏡に映る自分の姿を見つめた。少し青白い顔に、落ち着かない表情。


 今日、初めてSさんと会う。


 昨晩は殆ど眠れなかった。何度も目が覚め、窓の外を見ては、まだ雨が降っていないことを確かめていた。


 天気予報では午後から雨とのことだが、もし降らなかったら……。


 もし彼の期待に応えられなかったら……。


 そんな不安が次々と頭をよぎる。


 いつもなら静かな休日の朝。でも今日は違う。胸の奥に、これまで感じたことのない高揚感と不安が入り混じっていた。


 十時三十五分。時計を見ると、出発の時間が近づいている。深呼吸をして、バッグを手に取った。


「よし、行こう……!」


 返事があるはずもない部屋に、小さく呟いて玄関を出る。


 駅へ向かう道すがら、空はますます暗く、風も強くなってきていた。黒い雲が低く垂れ込め、大粒の雨を孕んでいるようだ。もう少しで降り出しそうな気配に、どこか安心した。


 十一時きっかりに駅に着くと、約束の時間までまだ三十分ある。カフェに入って待つことにした。窓際の席に座り、外を行き交う人々を眺めながら、何も手につかない時間を過ごす。


「Sさんって、どんな人なんだろう……」


 声は知っている。メッセージのやり取りで、その人となりも何となく分かってきた。でも、実際に会うのは初めて。緊張で指先が冷たくなる。


 コーヒーに口をつけると、苦みが舌に広がった。時計は、ゆっくりと針を進めていく。


 十一時二十八分。もう少しで時間だ。席を立ち、駅のロータリーへと向かった。雨はまだ降り出していない。ただ、空気が妙に湿っぽく、雨の匂いが漂っていた。


 待ち合わせは駅の北口。人混みの中、私は落ち着かない足取りで歩いた。


 十一時三十分ちょうど。改札口から人々が次々と出てくる。目を凝らして見ていると――


「あ……」


 少し離れた場所に、一人の男性が立っていた。背が高く、黒いジャケットを羽織り、少し緊張したような表情で周囲を見回している。電話で聞いた声の持ち主。写真こそ交換していなかったが、予め聴いていた特徴……直感的にそれが彼だと分かった。


「S……さん?」


 近づいて声をかけると、彼はハッとしたような表情で振り返り、目が合った。


「A……さん?」


 彼の声は、電話で聞いたのと同じ優しい声だった。顔立ちは整っていて、黒縁の眼鏡が知的な印象を与えている。想像していた通りの、誠実そうな雰囲気の人だった。


「はじめまして」と言いながら、思わず深々と頭を下げてしまう。心臓が激しく鼓動しているのが自分でも分かった。


「はじめまして」Sさんも同じように頭を下げる。


「電話で聞いた声そのままですね」


 少しぎこちない笑顔を交わし、私たちは立ったまま押し黙ってしまった。周囲を人々が行き交い、電車の発着を告げるアナウンスが流れる。


「あの……」


「えっと……」


 同時に口を開いて、また二人とも黙ってしまう。思わず笑いがこぼれた。少し緊張がほぐれる。


「タクシーで行きましょうか」


 私が言うと、彼は優しく頷いた。


 駅前のタクシー乗り場へ向かいながら、Sさんが空を見上げた。


「本当に雨が降りそうですね」


「ええ、予報では午後から」


 ぎこちない会話。でも、並んで歩いているだけで不思議と心が落ち着いていく。


 タクシーに乗り込み、私の住所を告げる。車内は静かで、窓の外を流れる景色を眺めながら、時々会話を交わした。電話では何時間でも話せたのに、実際に隣に座っていると緊張して言葉が見つからない。


「初対面なのに、変ですね……不思議と懐かしい感じがします」


 Sさんが静かに言った。


「私もです」と答えながら、同じ気持ちだったことに少し驚いた。初めて会ったはずなのに、長い間知っている人と再会したような感覚。


 タクシーが私の家に到着した時、空はさらに暗くなっていた。


「このあたりは静かなんですね」と玄関の前に立つSさんが言う。


「ええ、だから雨の音もよく聞こえるんです」


 部屋に招き入れると、Sさんは礼儀正しく靴を脱ぎ、遠慮がちに中に入ってきた。

 

 窓際に置かれた小さなテーブルと椅子が二つ。本棚には本が整然と並び、壁には両親の写真が飾られている。


「座ってください」と促しながら、お茶を入れた。


 急須から湯気が立ち上り、部屋に緑茶の香りが広がる。手が少し震えて、カップが小さく音を立てた。自分の緊張が思った以上に高まっていることに気づく。


 キッチンから戻ってくると、Sさんは窓の外を眺めていた。彼の横顔が柔らかな室内灯に照らされ、意外にも穏やかな表情をしていることに安堵した。長いやり取りの末に初めて対面した彼は、声の印象通りの優しい雰囲気を纏っていた。


「ここからの眺め、いいですね……」


 彼が言った。その声は電話で聞いていたものと同じなのに、実際に目の前で聞くと不思議な親近感が湧いた。


「ええ、雨の日はとくに」


 私は窓の外の景色を見つめながら答えた。


「通り沿いではないので、車の音も少なくて、雨の音だけが聞こえるんです」


 お茶を手渡すと、彼はそっと受け取り、「ありがとう」と丁寧に頭を下げた。その仕草に、どこか昔ながらの礼儀正しさを感じた。


 彼が一口飲むのを見ながら、私は心の中で安堵のため息をついた。電話やメッセージでは分からなかった、彼の存在感が確かにそこにあった。


「緊張……してますか?」


 彼がそっと尋ねた。


「少し……」


 正直に答える私に、彼は微笑んだ。


「僕も、です。でも……不思議と、落ち着きます。Aさんが近くにいると」


 その言葉に、胸の奥がほんのり温かくなるのを感じた。


 二人の間に静かな沈黙が流れる。けれど、それは不快なものではなかった。むしろ、言葉がなくても何かを共有できているような、不思議な安心感があった。


 少しずつ会話が自然になっていく。


 簡素だけれど心を込めて作った昼食を、テーブルを挟んで二人で食べながら、今までメッセージや電話で話していた内容を、改めて対面で話した。


 言葉と表情が結びつき、時折目が合うたびに、微笑みが自然と生まれる。


「プログラマーの仕事は難しそうですね」


 私が言うと、彼は少し照れたように笑った。


「慣れれば、そうでもないんです。むしろ、銀行の方がいろいろと大変そうですね。窓口で色々な方と接するのは……」


「ええ、時々難しい方もいらっしゃいますけど」


 私もつられて笑う。


「でも、ほとんどの方は親切で」


 会話の合間に、窓の外を見る。空はまだ曇っているが、雨の気配はない。


 二人とも時折、外を見やり、雨を待っているのが分かる。その共通の期待感が、また二人を近づけるように思えた。


「初めて雨の声が聞こえた時のことを覚えていますか?」と彼が静かに尋ねた。柔らかな瞳が私を見つめている。


「ええ、あの日は……」


 思い出しながら、言葉を選ぶ。


「一人で読書をしていて。窓の外の雨を眺めていたら、突然、声のように聞こえてきたんです。最初は怖かった。でも……どこか懐かしいような、温かいような……」


「同じだ……僕もそうでした」


 彼も遠い目をして言った。


「母が亡くなってから数年後、一人で部屋にいると、突然聞こえてきたんです。まるで誰かが話しかけてくるみたいに……」


 二人の会話が深まり、過去の思い出、雨の声との出会い、それぞれの人生が少しずつ織り合わさっていく。時間が経つのも忘れるほど、心地よい時間だった。


 そんな中、ふと、窓の外が急に暗くなった。会話の途中で、二人が同時に窓の方を見ると、空から大粒の雨が落ち始めていた。予報通り、午後から雨が降り出したのだ。


 最初はポツポツと。まるで頬を撫でるように優しく地面に触れていく。


 やがて本降りになる雨。屋根を叩き、窓を打ち、地面に躍る雨粒が、銀色の糸のように空と地を繋いでいく。


「降ってきましたね」と言いながら、彼の目が輝くのが見えた。まるで子供のように、純粋な喜びに満ちた表情。私も同じ気持ちだった。長い間待ち望んでいた瞬間が、ついに訪れたのだ。


「窓際に座りましょう」


 私は立ち上がり、窓に近いテーブルへと彼を招いた。


 窓に面したテーブルに移動し、二人並んで座る。私は窓を少し開け、雨音がより良く聞こえるようにした。外から湿った空気が流れ込み、雨の香りが部屋に満ちる。土の匂い、湿った木々の匂い、遠くから聞こえる雷の音。


 私たちは黙って目を閉じ、耳を澄ました。雨は次第に強くなり、屋根を打つ音、窓を伝う音、地面に落ちる音が重なり合っていく。その音色は、まるで微妙な和音を奏でる楽器のようだった。息を潜め、全身の感覚を研ぎ澄ます。


 そしてしばらくすると、それは聞こえてきた。


「こ」


 ——軒先を叩く雨の音。


 その瞬間、私と彼の目が合った。彼の瞳に驚きと興奮が浮かぶのを見て、私は小さく頷いた。彼の耳にも聞こえている。そのことだけで、心が喜びに震えた。


「か」


 ——排水溝に流れる水の音。


 部屋の空気がわずかに震えているような感覚。それは音なのに、音ではない何か別のものにも思えた。Sさんは息を呑み、その様子に見入っていた。


「は」


 ——窓ガラスを打つ雨粒の音。


 それぞれの雫が、それぞれの声を持っているかのよう。私たちは互いの存在を忘れるほど、その声に意識を集中させていた。


「た」


 ——屋根を打つ雨の音。


「で」


 ——路面に降る雨の音。


 雨の声を聞きながら、私はふと彼の横顔を見た。夢中になって耳を澄ませる彼の表情に、胸がじんわりと温かくなる。声を共有できる相手ができた喜びが、胸いっぱいに広がっていった。


「どんな声が聞こえますか?」


 しばらくして、彼の声が静かに響いた。


「『こ』『か』『は』『た』『で』かな」


 瞬きをしながら答える。


「Sさんは?」


「うーん、いつも通りの声だけど……」


 少し考え込むような表情。彼の眉間にできた小さな皺に、なぜか愛おしさを感じた。


「でも、今日は特別な感じがします。これまでよりも、なんというか……意図を持っているような」


「お互い聞こえる音が違うって、なんか不思議……」窓の外の雨を見つめながら彼は言った。


「うん、不思議ですね……」


 彼の声が柔らかく部屋に溶け込む。二人で静かに雨音に耳を傾けていると、時間が止まったような感覚に包まれた。互いの呼吸だけが聞こえ、雨の声が二人を包み込む。そんな静寂の中、彼が突然思いついたように言った。


「そうだ、聞こえる声を紙に書いてみませんか?」


「え?」


「Aさんが聴いてる音、僕も知りたいなって」


 彼の目が期待に輝いていた。まるで謎解きを前にした探検家のような、好奇心に満ちた表情。それは、メッセージや電話では知り得なかった彼の一面だった。


「うん、そうですね、私も知りたいです」


 初めて会った人とは思えないほど、自然な会話が弾む喜びを感じながら答えた。


 彼の提案に頷き、テーブルの上にあったメモ帳とペンを取り出した。一人一枚ずつ紙を取り、互いの目を見合わせてから、聞こえてくる音を書き出していく。


「こ」「か」「は」「た」「で」


 私は慎重に一文字ずつ書いた。隣ではKさんも、真剣な表情で何かを書き留めている。彼の手の動きを追いながら、私は不思議な高揚感を覚えた。誰にも話せなかった秘密を、今、彼と共有している。ずっと孤独だと思っていた体験を、二人で分かち合っている。


 そこまで書いた時だった。


 突然、音が——声が——静かに消えた。


「あれ?」


 思わず声を上げ、窓の外を見る。雨は力強く降り続いているのに、あの不思議な声が聞こえなくなった。それは、部屋の明かりが突然消えたような感覚。何かが途切れ、大切なものが失われたような気持ちになった。


 振り返ると、Sさんも同じように困惑した表情をしていた。互いに顔を見合わせ、言葉を失う。彼の瞳にも、私と同じ戸惑いが浮かんでいた。


「急に声が……聞こえなくなった……なんで」


 Sさんが戸惑ったように言った。彼の声が震えているのが分かった。


「えっ?Sさんも?」


 不安と焦りが混じった声で尋ねる。


「Aさんもですか?」


 彼の目が大きく見開かれる。


「う、うん。急に声が聞こえなくなって……何でだろう……」


 窓の外では相変わらず雨が降り続いている。煤色の雲から解き放たれた雨粒が、光を屈折させながら降り注いでいる。雨音はするのに、あの言葉のような声が聞こえない。今まで当たり前のように聞こえていた声が、突然途絶えたことに胸が締め付けられる思いがした。


 それは、大切な人を失ったような悲しみに似ていた。両親を亡くした時と同じような、深い喪失感。雨の声が、私の人生で唯一の慰めだったことを、この瞬間になって初めて実感した。


「どうして……」


 思わずつぶやく私の声が、自分でも聞き取れないほど小さかった。


 Sさんが慌てたように言った。


「紙、紙になんて書いたんですか?」


 彼の声に緊張感が走る。まるで大切な答えを見つけようと必死な様子だった。


「あ、うん、これなんですけど……」


 そう言って、さっき書いた紙を彼に渡した。するとKさんも自分が書いた紙を私に手渡してきた。その手が少し震えているのが分かった。


「れ」「ら」「ふ」「り」「ね」


 彼の紙にはそう書かれていた。一見、無関係な文字の羅列。私たちはしばらく、お互いの紙に書かれた文字を呆然と眺めた。


 なぜ突然声が聞こえなくなったのか。理由が分からない不安と、何か大切なものが消えてしまった喪失感で胸がいっぱいになった。


 雨の音だけが静かに部屋に響いている。昔ながらの単調な音色なのに、今はどこか寂しく感じられた。


 今まで一人でいることが当たり前で、寂しいとさえ思わなかった私。何もかもが静かに流れていく日々が心地よかった。でも今、あの声を失ったことで、急に孤独感が押し寄せてきた。雨の声は、実は一人ぼっちの私を支えてくれていたのかもしれない。


 そんな自分の感情に驚きながら、気がつくと目に涙が溢れていた。頬を伝う涙が、まるで窓を流れる雨のように感じられた。


「A……さん?」


 Sさんの声に心配の色が混じる。彼の目が私を探るように見つめていた。


「あ、ごめんなさい……大丈夫。大丈夫だから……」


 言いながらも、止まらない涙。自分でも理解できない感情に戸惑い、目を伏せた。子供のように泣いている自分が恥ずかしく、顔を上げられなかった。


「でも……」


 沈黙の後、Sさんはそう言いながら、おずおずと私の背中に手を置いた。


 優しく、そっと。まるで壊れやすいものに触れるような繊細さで。その手の温もりが、不思議と心を落ち着かせてくれた。震える肩を支えるように、彼は静かに背中をさすってくれる。


「雨の声……大切だったんですね」


 彼の声も少し震えていた。


「はい……とっても」


 私は搾り出すように言った。


「Sさんにとっても、そうでしょう?」


「ええ……」


 彼は小さく頷いた。


「亡くなった母を思い出すたびに、あの声だけが、僕を励ましてくれているように感じて……」


 言葉にならない思いが、私たち間を行き交う。彼の腕が少し強く私の背中を抱き、その温もりに、少しずつ心が落ち着いていった。


「ありがとう……」と呟きながら、少しずつ落ち着きを取り戻した。


 恥ずかしさと安堵が入り混じる複雑な感情の中、彼の優しさに心が満たされていく。


 雨が窓を打つ音だけが、静かな部屋に響いている。外の世界と、この部屋の中の二人だけの空間。時間がゆっくりと流れていくような感覚。


 しばらくして泣き止んだ私を見て、Sさんが突然声を上げた。


「あ、こ、これ……」


 驚きに満ちた声。


「え?」


 顔を上げると、Sさんは私の前に、先ほどの二枚の紙を並べて置いていた。彼の表情が一変し、何かを発見したような輝きを帯びている。


「これ……言葉になってる……」


 彼の声に緊張感が走る。


「言葉に?」


 私は不思議に思いながら紙を見た。でも、やはり単なる文字の羅列にしか見えない。「こかはたで」と「れらふりね」。


 何の意味もなさそうな文字の並び。見比べても理解できない私に、Sさんは少し照れたような、でも興奮した表情で、二枚の紙を指さして言った。


「順番に読んでみて」


 彼の声には、何かを発見した喜びが溢れていた。


「僕の文字と、Aさんの文字を交互に」


 彼の指示に従い、私の紙に書かれた「こ」から始め、彼の紙の「れ」、また私の「か」、彼の「ら」と交互に読んでいく。


「こ」「れ」「か」「ら」「は」「ふ」「た」「り」「で」「ね」


 ――そこまで読んで、私はハッとして顔を上げた。


 一つの言葉になっている。


 息を呑み、もう一度心の中で唱える。


 これからはふたりで……ね。


 その言葉の意味が、ゆっくりと心に染み込んでくる。気づくと、また涙が頬を伝っていた。でも今度は、悲しみではなく、嬉しさに近い涙だった。



 顔を上げ振り返ると、Sさんの顔は少し赤くなっていて、気恥ずかしそうに私から目を逸らした。


「雨が……僕たちに伝えてくれたのかもしれない」


 彼はそっと言った。


「ずっと、一人で聞いていた言葉が、こ、この日のために……」


「そうかも……しれませんね……」


 言葉を選びながら、私も小さく微笑んだ。


「でも、一つだけハッキリと分かる事があります……とても……温かい言葉です」


 私と彼の視線が絡み合い、言葉にならない思いが通い合う。窓の外では、雨がまだ降り続いている。けれど、もう言葉は聞こえない。代わりに、ただの雨音が心地よく響いていた。


「雨の声が聞こえなくなって、寂しいけど……」


 私は続けて言った。


「でも、なんだか今、この雨音だけで、十分な気がする」


「うん」


 彼の目が穏やかに、でも気恥ずかしそうに私を見つめた。


「こ、これからは、ふ、二人で雨の音を聴けるから……」


 彼の言葉に、静かな喜びが広がっていく。雨は、私たちに必要なメッセージを届け、そして静かに引き上げていった。けれど、その後に残ったのは、孤独ではなく、温かな繋がりだった。


 室内に降り注ぐ柔らかな光の中、私たちは言葉少なに、しかし心は満たされたまま、窓の外の雨を、眺め続けた……。







 ――あれから五年の月日が流れた。


 あの日以来、不思議な雨の声を聞くことはなくなった。それはまるで、伝えるべきメッセージを届け終えた後、静かに立ち去っていったかのよう。最初は寂しく思ったが、やがてその喪失感も薄れていった。なぜなら、私たちはそれ以上に大切なものを見つけたから。


 四月の優しい雨が降る日曜日。窓から差し込む柔らかな光が、リビングの床に銀色の模様を描いている。私はキッチンでお茶を淹れていた。外では桜の花びらが雨に打たれて散り、風に揺られて舞っている。春の雨特有の、土と新芽の匂いが風に乗って部屋に流れ込んでくる。


「ママ、雨降ってきたよ!」


 幼く明るい声に振り返ると、窓辺に小さな背中が見える。


 五歳の娘が両手を窓ガラスにつけ、目を輝かせて外を眺めていた。柔らかな黒髪、少し大きな目、小さな鼻。彼と私の特徴を不思議と程よく受け継いだ、愛しい姿。


「本当ね」


 キッチンから返事を返しながら微笑む。


「きれいな音がするね」


 娘は窓に額をつけ、雨音に聞き入っている。その横顔は、まるで昔の私自身のよう……。


 あの頃の、一人で窓辺に立ち、雨の声を聞いていた懐かしき日々。でも彼女は、一人ではない。


 そこに、玄関のドアが開く音がした。外出先から帰ってきたSが、雨に濡れた髪をタオルで拭きながらリビングに入ってくる。彼の手にはコーヒーカップが二つ。


「お帰りなさい」


「ただいま」


 彼は優しく私に微笑んだ。


「雨が降り出したから、急いで帰ってきたんだ。ここで、君と一緒に聴きたくて」


 その言葉に、胸が温かくなる。五年経った今でも、彼の言葉はいつも私の心に直接響いて来る。


 彼は窓際に腰掛け、娘を膝に抱き上げた。私もそこに加わり、三人で外の雨を眺める。ガラス越しに見える世界は、雨に洗われ、しっとりと輝いていた。雨粒が描く模様、水たまりに映る空、風に揺れる木々。


 五年前のあの日、雨の声が導いてくれた縁。あの日以来、雨の日は私たちにとって、あの頃より更に特別な日になった。


 雨が降ると、自然と窓辺に集まり、耳を澄ます。特別な言葉は聞こえなくなったけれど、雨音そのものが私たちにとって大切な音楽になった。


「不思議だったよね、あの声」


 彼が懐かしそうに言う。


 髪を掻き上げる仕草は、初めて会った日と変わらない。


「うん、今でも時々思い出すわ」


 私は、彼の肩に頭を乗せながら言った。


「あの声の正体は結局分からなかったね」


「ええ」


 日常の中で忘れかけていることもあるけれど、雨の日だけは鮮明に思い出す。


 初めて聞いた「り」という音、両親が亡くなった後に聞いた「よし」という励まし、そして彼と出会って二人で聞いた「これからはふたりでね」というメッセージ。


 精神疾患の中には、そういった症状もあると聞いたことがある。でも、あの時の出来事は、それだけでは説明できないような気がする。二人が聞いた声が一つの言葉になったこと。そしてその後、二度と声が聞こえなくなったこと。


 それは単なる偶然なのか、それとも何か不思議な力が働いていたのか。今でも時々考える。雨は私たちに何かを伝えようとしていたのか、それとも単なる自然現象に過ぎなかったのか。


 娘の小さな手が窓ガラスに触れる。雨粒が作る模様を、無邪気に追いかけている。その指先が、ガラス面に小さな星形を描いていく。


 そして、思いがけない言葉が聞こえた。


「ねえ、聞こえる?雨さんが何か言ってるよ」


 その一言に、時間が止まったように感じた。


 娘のつぶやきに、私と彼は顔を見合わせた。


 彼の目に、私と同じ驚きと期待が浮かんでいる。二人とも同じことを考えているのが分かった。


「何て言ってるの?」


 私は、微笑みながら尋ねた。胸の奥で温かいものが広がっていく。


「うーん、まだよく分かんない」


 娘は首を傾げ、再び窓に耳を当てた。


「でも、なんか言ってる気がする」


 その無邪気な言葉に、胸がじんと熱くなる。


 もしかして彼女にも?私たちが経験したのと同じ奇跡が?


 その可能性だけで、目頭が熱くなるのを感じた。


 彼の手が、そっと私の手を握った。温かく、力強く。その手に、私も応えるように力を込める。彼の瞳には喜びの色が満ちていた。


「もし彼女にも聞こえるなら……」


 彼はそっと耳元で囁いた。


「それは、僕たちにとって、最高の贈り物だね」


 その言葉に、私は満面の笑みで頷いた。


 彼の言う通りだ。雨の声が私たちにもたらしてくれたもの。それは人生を変えるほどの喜びであり、祝福そのものだったのだから。


 雨は静かに降り続け、窓をやさしく叩いていく。その音は、ただの雨音なのか、それとも何かのメッセージなのか。今はもう、私には分からない。けれど、雨の日にそっと耳を澄ませる習慣は、今も、いや、これからも変わらず続いていく。


「ねえ」


 彼が静かに私を呼んだ。


「覚えてる?あの日、初めて会った時」


「ええ、もちろん」


「あの時はまだ、こんな日が来るなんて想像もしてなかったね」


「思いもしなかったわ」


 私は微笑んだ。


「だって私、一人が当たり前だったから」


「僕もだよ」


 彼も笑った。


「だから今でも時々、夢みたいに思う。君が隣にいることが」


 彼がそっと私の頬に触れる。その優しい指先に、心が溶けていく。


「雨のおかげね」と私。


「そう、雨のおかげ」と彼。


 Sの腕が私の肩を抱き、家族が窓辺で寄り添う。外では桜の花びらが舞い、雨が銀の糸を紡いでいく。


 五年前、雨が二人に告げた「これからはふたりでね」というメッセージ。今、私たちは確かに一緒にいる。あの日、Sさんだった彼は今、私の夫となり、そして私たちには娘がいる。


 不思議な出会いから始まった物語は、今も静かに続いている。そして時々、雨の日には、あの声の記憶がよみがえる。それは怖いものでも、悲しいものでもなく、ただ温かく、懐かしい思い出として。


 雨は人々に様々な表情を見せる。寂しさを感じさせることもあれば、安らぎをもたらすこともある。でも私にとっての雨は、ずっと変わらない。それは私を一人の時間から救い出し、大切な人たちとの時間へと導いてくれた、かけがえのない存在なのだから。


「ねえ」


娘が突然言った。


「雨さんに、綺麗な音をありがとうって、言っていい?」


「ふふ、いいわね」と私。


 窓の外を見つめながら、小さな声で三人で言った。


「ありがとう」

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