珈琲でも飲みながら、怖い話でもしませんか?
アイスノ人
第1話 消えゆくもの
これは──
名古屋に住んでいる、Kさんという方から伺った話です。
彼曰く、少しでも誰かに聞いてもらい、相談に乗って頂ければという話でした。
そして、もしこの現状を打開できる方法が見つかればと、切に願っているとの事です。
──では、Kさんの語りを、ありのままにお聞きください。
***
正直なところ、誰かに相談したくてたまらなかったんです。夜も眠れず、食事も喉を通らなくなるほど。
でも、こんなことを口にしたら、頭がおかしくなったと思われるだろう……そんな不安に押しつぶされて、誰にも話せずにいました。
鏡を見るたびに、自分の顔が少しずつ歪んでいくような錯覚に襲われ、気が狂いそうでした。
「もう限界だ」と思った日の朝、あなたからの連絡があったんです。
ようやく、こうして聞いてもらえるだけでも、救われた気がします。
これは、ほんの数日前に起こったことです。
──ただ、事の発端を辿れば、半年前までさかのぼります。
あの日。
陰鬱な雨が降り続ける木曜日の午後三時。
私は、大学時代の友人、Dと久しぶりに会うことになっていました。
「どうしても相談したいことがある」
そんな連絡が深夜二時十七分、寝入りばなに届いたんです。Dからのメッセージは短く、そして切羽詰まっていました。
翌朝返信すると、すぐに返事が来ました。まるで、一睡もせずに返信を待っていたかのように。
待ち合わせは、学生時代によく通った喫茶店。駅から少し離れた路地裏にある、時間が止まったような古めかしい店。
懐かしさもあって、私は少し楽しみにしていました。学生時代のDは、いつも冗談を言って周りを笑わせる明るい奴でした。
けれど──
待ち合わせ時間、喫茶店のドアを開けた瞬間、私は立ち止まってしまいました。
奥の窓際の席。そこにいたDは、あの頃の面影もなく、別人のようでした。
「やあ、K。来てくれてありがとう……」
Dはぎこちなく微笑み、手を軽く上げて挨拶しました。しかし、その顔は明らかに憔悴していました。私が近づくと、その表情の異変がさらに鮮明になりました。
席に着くなり、Dの顔色が土気色に変わっていることに気づきました。頬はこけ、目の下には隈ができ、まるで長い病から回復しきれていない患者のようでした。
「久しぶりだな、D。元気そうには……見えないな……どうしたんだ?何かあったのか?」
この言葉に、Dは小さくため息をついて、コーヒーに手を伸ばしました。その指先が微かに震えています。
「う、うん、まあ……そ、それより久しぶりだな。急に呼び出して悪かった」
そう言って苦笑したあと、Dはしばらく沈黙し、ただ私を凝視していました。その目は、何かを確かめるように、恐る恐る私の全身を舐めるように見ていました。
店内の古びた時計の秒針の音だけが、異様な沈黙を刻んでいました。
やがて、彼はしぼり出すように言いました。
「実は最近……変なものを見るようになったんだ。それで、おまえしか相談できなくて……」
変なもの?
一瞬、幽霊でも見たのかと思いました。昔からそういうのが見えるというか、そういった不思議な体験をする奴だったので。
Dは両手でコーヒーカップを包み込むように持ち、震える声で話し始めました。
「先週の水曜日、駅のホームでだ。朝のラッシュで、いつも通り会社に向かってた時のことだ」
Dの声は小さく、時折途切れがちになります。私は身を乗り出して聞き入りました。
「向かいのホームに立ってた男がいてな。スーツを着てて、普通のサラリーマンだった。でも...」
Dは一旦言葉を切り、深く息を吸い込みました。
「その男の右腕が、なかったんだ」
その言葉に私は、思わず口に運んだコーヒーカップの手を止めました。
「なかった?切断されてたってこと?」
私が尋ねると、Dは強く首を振りました。
「違う。そうじゃない。切断されてたんじゃなくて...存在してなかったんだ。右肩から先が、何もなかった。服も肉も骨も、何もなかった。でも誰も気にしてない。周りの人は普通に通り過ぎていく。あの男自身も、何事もないように新聞を読んでた。左手だけで」
Dの顔は青ざめ、額には冷や汗が浮かんでいました。
「最初は目の錯覚かと思った。でも違った。よく見ると...その『ない』部分は、透明になってるわけじゃない。そこには何も...存在していないんだ。まるでその部分だけが世界から切り取られたかのように」
Dの目は恐怖で見開かれ、その瞳には言いようのない恐怖が浮かんでいました。
その手は震えていました。カップを持ち上げようとしましたが、あまりの震えにコーヒーがこぼれそうになり、諦めて置き直しました。
「それだけじゃないんだ」
Dの声は次第に切迫感を増していきました。
「先週の金曜日、渋谷の交差点でだ。人混みの中に立っていた女性。膝から下が...なかった。でも、その女性は他の人と同じように歩いていた。いや、浮いていたわけじゃない。存在しないはずの足で、ちゃんと地面を踏んでいた」
Dの額から汗が滴り落ちました。話しながら、彼の目はテーブルに固定され、まるで恐ろしい映像が再生されているかのようでした。
「その二日後、駅のホームでは……」
彼の声が途切れました。何かを思い出すのが怖いかのように、Dは目を強く閉じました。
「子供がいたんだ。小学生くらいの。制服を着て...でも、両腕がなかった。なのに、その子はランドセルを背負って、母親らしき女性と手をつないで歩いているように見えた……」
Dは一度息を飲み、私の反応を確かめるかのように顔を上げました。その目に浮かぶ恐怖を見て、私は言葉を失いました。
「そして昨日...公園で……」
彼の声は今にも消えそうなほど小さくなりました。
「ベンチに座っていた老人。頭と腕はあった。足もあった。でも...胴体がなかった。頭が直接腰に繋がっていた。呼吸をしているようにも見えなかった。でも、その老人は新聞を読んでいた。そして...微笑んでいた」
Dの顔は今や紙のように白く、言葉を発するたびに体力を消耗しているようでした。
「見えないんだよ……まるで、そこだけ、すっぽり抜け落ちてるみたいに。何も存在しないんだ。服も肉も骨も、そこには何もない。でも、みんな普通に歩いて、話して、生きてる」
Dの声は次第に高くなり、周囲のお客さんが振り向くほどでした。
店員が不審そうに私たちの方を見ています。
私は席を立ちあがり、Dの腕をそっと押さえ、声を潜めるよう促しました。
「おいD――」
そんなこと、あるわけがない。
声をかけ思わず笑い飛ばしかけた私を、Dの真剣な眼差しが制しました。
彼の瞳には、恐怖と絶望が混ざり合い、まるで底なしの闇が広がっているようでした。
「病院にも行った。精神科にも内科にも眼科にも。MRIも撮った。何も異常はないって。ストレスだって言われたけど……違う。俺、わかるんだ。これは幻覚じゃない」
Dは両手で顔を覆い、肩を震わせました。
コーヒーカップがテーブルの上で微かに揺れています。
沈黙が、二人の間に重く降りた時でした。
Dが、まるで何かに追い詰められたように、ぽつりと打ち明けたのです。
「──おまえの左腕が、さっきから、見えない。」
一瞬、何を言っているのか分かりませんでした。
冗談にしては、あまりに顔が本気すぎた。
私は、わざとらしく両手を広げ、
「は?ば、バカ言えお前。ほら、あるだろ?何言ってんだよ」
と見せましたが、Dはかたくなに首を振った。
彼の視線は、確かに私の左腕のあるべき場所を見ていましたが、まるでそこに何も存在しないかのようでした。
「ある……はずなんだ。分かるよ、お前がそう言いたくなるのも。でも……俺には見えないんだ。そこだけが、空白になってる」
Dの声は震え、次第に小さくなっていきました。
「せっかく来てもらったのに悪いなK。こんなおかしな話に付き合わせてしまって……俺、もう帰るよ――」
彼は唐突に席を立ち、財布から何枚かの札を取り出してテーブルに置くと、私の返事も待たずに店を出ていきました。
引き留めるべきだったかもしれません。ですが、余りの彼の告白に、俺は何も声を掛けられず、押し黙ったまま出ていく彼を目で追いました。
その背中は、まるで何かから逃げるかのように、小刻みに震えていました。
そのまま、何とも言えない空気のまま、私たちは別れました。
帰り道、何度かDに電話をかけましたが、繋がることはありませんでした。
それから、どれくらい経ったでしょうか。
日常に戻った私は、徐々にDとの奇妙な出来事を忘れかけていました。
まるで悪い夢を見ただけだったかのように。
季節は夏から秋へと移り変わり、木々は色づき始めていました。
朝晩の冷え込みが強くなり、街の人々はコートの襟を立てて歩いています。
私もいつもの生活に戻り、あの日のことは遠い記憶になりつつありました。
あれは、十月の終わり頃のことです。
仕事を終え、いつもの道を家に向かって歩いていました。
夕暮れの空は、不思議と赤みを帯びていて、街灯がぼんやりと灯り始めていました。
交差点に差し掛かると、信号が青に変わったばかりでした。
何気なく横断歩道を渡り始めた時です。
不意に、寒気がし、振り返った瞬間——
「あ……」
右側から猛スピードで曲がってきた黒い車が、私の視界いっぱいに迫っていました。
ブレーキの音も、警笛の音も聞こえませんでした。
ただ、時間だけがゆっくりと引き伸ばされたように感じました。
そして、その瞬間。
大きな衝撃と、耳鳴り。空が、地面が、人々の叫び声が、すべて遠ざかっていきました。
目を開けた時には、私は病院のベッドの上にいました。
全身を包帯で巻かれ、点滴が腕に刺さっています。
そして、あるはずの左腕が、──そこにはありませんでした。
「残念なことですが左腕は……」
医師の冷たい声が、遠くから聞こえてきました。
左腕切断の大怪我。現実を受け入れられず、私はしばらく誰とも連絡を絶ちました。
リハビリの日々。義手への適応。
日常への復帰は、想像以上に困難でした。
ただ、時間だけが、鈍い痛みのように流れ──
季節がひとつ、過ぎたころ。
ようやく、気力を取り戻した私は、友人たちと連絡を取り合い始めました。
メッセージアプリを開くと、未読のメッセージが山ほど溜まっていました。
事故のことを心配する言葉、励ましの言葉。
その中に、Dからのメッセージもありました。
「元気か?」
たったそれだけの短いメッセージ。
日付を見ると、一週間前のものでした。
──そこで、ふと、思い出したんです。Dが、あのとき言ったことを。
「……おまえの左腕が見えない。」
ぞっと、背筋が凍りました。
あの日、彼の目には、既に私の左腕が「存在していなかった」のか。そして、それが現実となった。
しばらく、私はベッドの上で動けませんでした。
偶然?予知?それとも…もっと恐ろしい何かが?
「そんなはずがない」
声に出して否定してみても、恐怖は消えません。あの日のDの恐怖に満ちた表情が、鮮明に蘇ってくるのです。
数日間、私は誰とも連絡を取りませんでした。
リハビリの予定もキャンセルし、自宅に引きこもったまま。食事も喉を通らず、睡眠も断片的なものでした。
ある夜、悪夢に襲われました。夢の中で、私は自分の体が少しずつ消えていくのを見ていました。
指から、手から、腕から...そして...
汗だくで目を覚ますと、枕元の時計は午前三時十七分を指していました。
私はスマートフォンを手に取り、Dの連絡先を開きました。指が震えて、なかなかメッセージを打てません。
Dの見たものは、本当だったのか?今も見えるのか?あれは何だったんだ?
質問は次々と浮かぶのに、答えはどこにもありません。
ようやくメッセージを送ったものの、返信はありません。
通話にも出てくれませんでした。
翌朝、思い切ってDの職場に電話をしてみました。
「彼は二週間前から休職しています」という返事だけで、詳細は教えてもらえませんでした。
私は彼のアパートまで足を運びましたが、呼び鈴を鳴らしても応答はなく、郵便受けは溢れていました。
三日後、恐怖に押しつぶされそうになりながらも、答えを求めて、私は意を決してもう一度Dに再びメッセージを送りました。
「会って話がしたい。例の喫茶店で、頼む、お願いだから」
返信は、驚くほど早く来ました。
たった一言。
「明日、午後3時」
私は直ぐにDに返信し、再びあの喫茶店で会うことにしました。
指定された時間より少し早く、店に入りました。
前回と同じ窓際の席。薄暗い店内に差し込む夕日が、赤く不吉な影を落としています。
ウェイトレスが運んできた水のグラスに映る自分の顔が、どこか他人のように思えました。
心臓が恐ろしくざわつきました。
時計の針が、約束の時間を指した頃です。
ほどなくして、ドアが開き、Dが現れました。
──その顔は、半年前と何も変わっていませんでした。
いや、むしろ状態は悪化していました。青ざめ、やせ細り、目はくぼみ、髪は薄くなっていました。まるで終末期の患者のように。
彼は私の姿を認めると、一瞬足を止め、それから震える足取りでテーブルまで歩いてきました。
座った彼は、怯え、まるで亡霊でも見るかのように、私を見つめていました。
「……久しぶり」
どうやら変わり果てたこの姿を見て、彼はショックを受けているようでした。
私は、失った左腕を隠すようにして、苦笑いしました。
「悪いな、こんな姿見せて。びっくりするよな」
気を遣ったつもりでしたが、Dは首を振りながら、私と目を合わせようとしません。
明らかに、何かを言いたげに、言葉をのみこんでいました。そして、窓の外を見つめながら、沈黙の中で冷えていくコーヒーに手を伸ばそうともしません。
「……なあ、D。こんなこと急に聞くのも変だけど、何か俺に隠してないか?」
私が問いかけると、Dは、しばらく俯いたまま動きませんでした。
店内のBGMが静かに流れる中、時間だけが重く過ぎていきます。
沈黙。
古びた時計の針の音が、異様なほど大きく響きました。
カチ、カチ、カチ――
Dの指先が、テーブルの上で小刻みに震えています。彼の呼吸は次第に荒くなり、まるで何かに追いつめられた獣のように、不規則になっていきました。
私の問いかけから、少なくとも二分は経っていたでしょうか。
Dの視線が、ゆっくりと上がってきました。
でも、その瞳に浮かぶ恐怖の色に、言いようのない不安が私の中で膨らみました。
「D……?」
私の声に、彼の体が小さく震えました。唇が開き、何かを言おうとしますが、言葉になりません。
何度か唇を震わせた後、Dは大きく息を吸い込みました。
そして、かすかに震える声で、まるで禁忌を口にするかのように、恐る恐るこう言ったのです。
「……おまえの、頭が、見えないんだ。」
まるで、空っぽの空間に向かって、話しかけるかのように。Dは、怯えた目で、私の頭があるはずの場所を見ていました。
「首から……ない。でも声は聞こえる。服は着てる。体はある。でも…頭がない」
その瞬間、店内の温度が一気に下がったような錯覚に襲われました。私の手が震え始め、口から言葉が出てきません。
「冗談……だろ?」
やっと絞り出した言葉に、Dは悲痛な面持ちで、静かに、首を振りました……。
もちろん、その後すぐに病院に行きました。
脳の検査も、CTスキャンも、何も異常はなかった。医師は精神的ストレスからくる幻覚の可能性を示唆しましたが、私には到底そうは思えませんでした。
それから三日後、Dからの最後のメッセージが届きました。
「頭はまだ……大丈夫か……?」
それ以降、Dとは連絡が取れていません。
彼の家を訪ねましたが、誰も出てきませんでした。大家さんによると、家賃は引き落としされているが、最近は姿を見ないとのこと。
昨日、家で一人鏡を見て、ハッとしました。自分でも気が付かないうちに、泣いていたんです。
今は誰にも言えず、この恐怖に……一人で向き合っています。
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