Nibiiro night

@asanokoe

第1話 波紋

初夏の太陽は真綿を水に濡らして作ったかのような幾重もの雲に覆われ陰気な光を放つ。光度によってグラデーションをなした雲が空一面を支配する様子は幻想的な風景を思わせた。


肌に湿り気を孕んだ空気がまとわりついて全身から汗がにじみ出ている。サウナ室にでも入っているかのような気分にさせる日本の六月の気候に嫌気が差す。


昨夜自室のベッドに潜って、充電ケーブルをスマホにつないでから通知画面に友人から送られたメッセージに怒りの絵文字が何件も表示されていることに気が付いた。


久しぶりに久坂司くさかつかさとカラオケに行こうと話していたことを思い出し、ドタキャンされた彼の呆れ顔を頭に浮かばせる。


疲れ切った頭でどう彼に言い訳をつけようかと考え、ローテーブルの周りをぐるぐると回っていたのだが、未だ答えの出ぬまま朝を迎えてしまった。


寝起きの目を必死にこじ開けながらK大の講義棟へと続く並木道を歩いていると、急にバンっと強く背中を叩かれた。


「よお、和也かずや…」


怒り心頭の表情をした司が今にも殴りかかりそうな顔でこちらを睨みつける。

一晩経てば少しは怒りも収まっているだろうと思っていたが甘かったらしい。


「あー、悪い…昨日は急用が入っちゃって」


司は頭を下げて謝罪する俺を心底疑わしそうに見つめる。忘れてバイトに向かっていた事実をありのままに話すわけにもいかないが、決して嘘を吐いているわけではない。


「今度飲みにいったときに奢るからさ…それでチャラってことで…」


少し顔をゆるめた彼は満足げに口角をあげた。


「じゃあ、一つ借りな」


ころころと表情を変える司を相手にするのは心臓に悪い。もっとも今回に限っては司の懐の広さに感謝すべきだということは重々承知しているが。


ご機嫌な彼の顔を見て胸をなでおろしていると、頬に水滴が一つくっついた。


「…あれ、雨降ってきてね?」


空に軽く手のひらを差し出すと、冷たい感触がして微量の雨粒が跳ねていた。今朝見た天気予報では一日曇りの予定だったが、なんとなく強く降ってきそうな気配がした。


「和也ー、置いてくぞー」


少し離れた坂道を上った先で、司が手を振って走ってこちらを呼んでいた。それに気が付くと、慌てて追いかける。


ゴロゴロと唸りを上げる厚い鼠色の雲から、ざっと音を立てて地上に雨に降り注いだ。目に雨粒が何滴か入ってきて視界がかすむ。


思ったより遠く感じる自動ドアがやっと目の前までやってきて、足を踏み入れるとタイルの床に変な形の薄い水たまりがつくられていた。


―早足で来たせいか、人のまばらな教室はしんと静まっていた。すりガラスの向こう側で降る雨音に耳を澄ませながら、後ろの列の座席に腰をかける。


行き交う人の群れを眺めながら、取り出したハンカチで顔の周りについた水滴をふき取った。そのとき、視界の端で誰かが近づいてくるのが見えた。


「もう少し遅かったら、2人ともびしょ濡れだったね」


声を掛けてきたのは、同級生の柏戸美崎かしわどみさきだった。用心して傘を持ってきていたのか、栗色の長い髪には水滴ひとつ見当たらなかった。


「もう結構濡れちまったけどな」


首元を掴み服をパタパタと揺らす司は、髪の先から雫が滴り落ちている。建物を打ち付ける通り雨は段々激しさを増しているようだった。


「ハンカチ、貸してあげよっか」


「…ああ、悪いな」


2人の様子を見ながら、しばらく気にかかっていたことを口にする。


「なぁ、お前らCBTの対策ってしてる?」


「…寝ぼけてんの?来月だって告知されてるよな、柏戸」


「ん-…六原がそこまで呑気だとは思ってなかった」


言い出す前から予想はしていたが、2人分の憐みの眼差しを向けられて居心地が悪くなる。


CBTというのは医学部で行われる臨床実習の前の試験であり、詰まる所、これを落とせば自動的に留年が決定する仕組み。


「授業はちゃんと聞いてるんだよ、なんとか…なるだろ」


「お前な…」


4月に入ってから祖父の営む『六原式・忍者道場』の手伝いをしていたのだ。暇のない生活を送っていた俺は何かと言い訳をつけて後回しにしていたが、そんなことを言っても現状は変わらない。


「何か言いたげな顔してるけど、去年も留年しかけてたよね」


「はは…」


柏戸の言葉に逃げ場をなくした俺は、現実から逃げるべく窓の外の景色をみながら黄昏る振りをしていた。


―壇上にいる教授の「じゃあ、今日はこの辺で」という一声を合図に、今日最後の5コマ目の講義が終わる。司と柏戸は別の教室で授業を受けているはずだから、帰宅する時は大体俺一人になる。


人のまばらな食堂に着くと、贅沢に期間限定メニューの税込830円の海鮮丼を頼んでみる。誰もいないカウンター席に座って腹を満たす時間は至福の限りだ。


付属のワサビを箸で掴み隅に寄せると、色とりどりに煌めく刺身をじっくりと味わう。


箸を休まず動かして段々丼に盛り付けられた刺身が減っていくのを名残惜しそうに見ていると、街灯も照らされてない窓の向こう側でほんの少し視線を感じた。


目の前には申し訳程度のサツキの生垣が設置されていて、人の隠れるスペースはあまりない。


視線の主は点在する車をやっと視認できるほど遠い、職員用の駐車場の辺りにいると何故か直感的に感じた。


軽く周囲を見回して食堂から離れると、乗車駅に続く桜の散った並木道を早足で歩いていく。信号機が赤から青に切り替わったタイミングで、次第に薄れていった感覚が再び現れはじめた。


こちらを舐めまわすような嫌な視線から逃げようと、普段使わないルートで駅まで向かおうとしたところ、目の前に柏戸の後ろ姿を見つけた。


「…柏戸?あいつの家大学に近いって言ってたっけ」


夜道で声をかけることが憚られ、気づかない振りをしたまま通り過ぎようとすると、向こうから話しかけられた。


「あれ、六原?」


「…あー、奇遇だな」


「こっちの道通ると駅まで遠回りだけど。なんでさっきの交差点渡らなかったの?」


訝しげにこちらを見つめる柏戸から目を逸らして、


「すまん、急いでるから。また、明日な」


と告げるとそそくさと退散する。冷静に考えると、急いでるのに実際は遠回りをしている矛盾した言動であったと気づいたが、別にどうでもよかった。


何か言いたげな柏戸の顔を薄明りの中で視認する。彼女の横を通り過ぎようと試みると、急に足が鉛のように重くなった。


さながらメリーゴーランドのように周囲の景色が回転しだし、声を出そうとしても喉につっかえて発声が上手くできない。


―――瞬間、頭がくらっとして意識を失った。薄れゆく視界で、誰かの叫び声が、どこか遠くから聞こえた気がした。


虚ろな意識のなかで目が覚めた時、月の光が俺の足元を照らしていた。崩壊直前の廃ビルのような建物で、体の主導権を徐々に取り戻していくのに、軽く見積もって一時間以上はかかったと思う。


頭がぼうっとして、フラフラと彷徨い歩いていると、ある違和感に気が付いた。妙に、体から鉄臭いにおいがする。ハッと体を見渡すと、服の端にべっとりと血のようなものが塊を成している。


どこで怪我をしたんだろうと思ったが、意識を持ち直したとき、すでに知らないこの廃ビルのような建物にいたのだ。普通に考えればかすり傷のひとつやふたつでは済まないはずだ。むしろ、不幸中の幸いというべきか、この程度で済んだのは運がよかったのかもしれない。


なんとか地表に降りようと思い、下の階に続く階段の探索を続けていると、どこからか虫の羽音がきこえて蠅が右腕に止まった。それも、一匹や二匹ではない。


残飯か小動物の死体でも残されているのだろうか―目の前にしんと座す扉をみる。扉の枠からは所狭しと這い出る魑魅魍魎のような蟲という蟲が蠢いていた。


あまりの酷い有り様に顔を歪める。他に道がないか辺りを見回すのだが、見渡すまでもなく、ここは一本道だった。


服の袖を丸めて少しでも肌の露出面積を減らそうと試みる。きゅっと口を噤み目を薄く開けながら、前に進む。取っ手がなぜかべちょりと粘着質になっているのに気づいて顔が歪んでいく。若干の躊躇をしながら勢いよく中に入り込んだ。


―――鼻を衝く強烈な臭いに、頭がぐらっと揺れたような感覚に陥ったのは、腐臭。壊れかけの蛍光灯が点滅を繰り返し、ぱちぱちと、仰向けに倒れた女の姿を連続的に照らした。


引きずり出された血みどろの腸が垂れ、内臓は何かにかき回されたかのようにグチャグチャになっていた。乱れた髪から覗かせる苦悶に満ちた表情は、記憶の中の誰とも結びつかない。


カタカタと鳴る音に驚いて音の発生源を探ると、自らの歯が微小に揺れていることに気が付いた。自然と震える膝を必死に抑えながら、女の死体から目を逸らして壁を伝い前に進む。


恐怖の感情は間もなく限界に達した。ずっとこちらを睨みつけられているような気がして、奥のドアに辿り着くまで後ろを振り返ることができなかった。


錆びついた鉄枠の扉がガチャンと音を鳴らしたとき、細長く伸びた雲の割れ目から、月光が辺りを明瞭に照らしていた。


「――伏せて!」


突然、後方から聞こえた女の声に驚いてさっと屈むと、耳の薄い鼓膜を突き破りそうな轟音が鳴った。


真一文字の残像が瞳に映り、目の前に現れた白い眼をむく巨漢の顔がスイカ割りのスイカようにはじけ飛んだ。


ぴゅーと噴水のように赤い血が噴き出て、頭部を失ったそれが胸元に倒れこむ。


「?!うっ……」


思わず反射で重い体を払いのけると、ばたっと音を立てて倒れたままピクリとも動かなくなった。首元からどぶどぶと溢れ出た大量の血で、真っ赤な濃い水たまりがつくられた。


「…命拾いしたのね」


突っ伏している巨漢の頭蓋骨に降り払った右足についた血肉をさっと一振りで払うと、制服姿の黒髪の少女がこちらを見下ろして呟いた。


こちらを一瞥すると、「じゃあ」っと吐き捨てるように告げて窓の外から飛び降りようと窓枠に足をかける。


「ちょ、ちょっと待って」


「…まだ何か?」


光の宿っていない暗い双眸で睨みつけられ、声を出せずにいると、長い溜息をついて窓にかけていた足を降ろし傍に近寄る。


「ここから先は私の仕事じゃないし、何を教えてもどうせ記憶には残らない」


ここまで強烈な体験をして忘れられるわけがないのだが、頷かなければ横たわっている死体の二の舞になりそうな気がして「引き取らせて、すまない」とこぼした。


再び先ほどの窓に向かう彼女を見ていると、急に意識を失う前に感じた視線を肩越しに感じた。急いで後ろを振り返ると、暗闇の中で窓から差し込む薄い月光に、年老いた老人の姿が照らされていた。


「……なんだ?」


確かな足取りをもって近づいてくる彼の姿が段々と暗闇のなかで浮かび上がる。季節外れの厚手のコートを羽織って、愉快そうに顔を歪ませてニタニタ笑っている。口の端から絶えずよだれが漏れ、黒く濁った歯茎をみせる顔貌はどうみても尋常じゃない。


逃げようと思い腰を上げて数歩進んだ時、老人の進行方向が少女の方角に向いていることに気が付いた。こちらには目もくれず歩くペースも一切緩めていない。


「…俺を狙っているわけではないのか?」


急に俯いてぶつぶつ呟く素振りを老人がみせると、彼の手袋の先に光が宿り、絡まった赤黒い木の幹のようなものが少女に向かって勢いよく伸び出した。


「―危ない!」


咄嗟に体が動いたと思うと、窓枠に手をかけていた少女を抱いて一気に壁端へと激突した。埃がぶわっと舞って視界がかすむと、体中に張り巡らされた血管の血液全てが沸騰したかのような熱さを覚える。


「痛っった……!!助けた相手を襲おうっての…?お前ぇ…楽に殺してやらねぇからな!」


「ま、待ってくれ、そういうわけじゃ…。う、後ろの狂った爺さんを見てくれ!」


名も知らぬ少女に馬乗りにされて殺されかかっている最中、ひゅーひゅーと息を吸う呼吸音が老人から聞こえてくる。どこかで逆鱗に触れてしまったのか、彼は体中の関節をあり得ない角度に曲げて人の原型を留めていなかった。


「…あぁ、ね。会うのはざっと半年ぶりかしら」


「ストレイ…?もしかして、あんたの知人なのか」


「頭を踏みつぶされたくなかったら黙って」


容赦ない一言で俺の問いかけをバッサリ切り捨てると、馬乗りの体位をやめて通称“ストレイ”に向き直る。また俯いてぶつぶつ呟く“ストレイ”の口が裂け、あの赤黒い木の幹のようなものを部屋一面に張り巡らせる。


「下準備は、整ったかしら?」


余裕ぶった態度を崩さない少女はいつの間にか両手に漆黒の日本刀のようなものを携えていた。口角を吊り上げて目をガン開きにしながらケタケタ笑う彼女は少し不気味であったが、この上ないほど頼りに感じられる。


床に穴が開きそうなほど踏み込まれた彼女の右足が解き放たれると、ドゴォっと音が鳴って粉煙が舞い周囲に石材の破片が飛び散る。張り巡らされた木の幹のようなそれは一瞬で切り刻まれ、ゼロ距離の間合いになる。


刹那の攻防で一本に持ち替えられた黒刀が“ストレイ”の喉元にぐっと突き刺さったかと思うと、耳が痛くなるほどの金属音が空気を裂いた。


「ちっ…!」


少し間合いを置いた彼女は、息を切らせて肩を大きく上下に揺らせている。スプリットステップを踏むかのように軽くその場で足踏みをすると、膝を曲げて前傾姿勢の態勢をとった。


再び足を踏み込むと“ストレイ”に向かって刃を踊らせるように赤黒いものを叩き切る。獣が本能に身を任せて襲うような軌道で降り降ろされる黒刀が、赤い火花を散らさせていく。


数分の攻防の末、彼女が再度刀を一本に持ち替えたとき、不敵な笑みを漏らしたかと思うと深紅の閃光が走った。


“ストレイ”の頭がぐらっと90度曲がり、支えきれなくなった首の肉片がちぎれる音がきこえてぼとっとそれが床に落ちた。





























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