第9話 僕の就活
「あの庭のアジサイ。僕の家の庭で挿し木してもいいかな? まるっと株を持って行くことは出来ないけど。挿し木でアジサイは根が張るよね。みんなが大切にしてきたあの青いアジサイも、僕が繋げたい。この家が空き家になったとしても、この家と共に歩んだアジサイは残る」
「……アジサイかね」
ばあさんの口元には、安堵した優しい笑みが浮かんでいた。僕の提案を、嬉しく思ってくれたのだろう。
「お前さんさえよければ、持って帰ってほしいさね。俊平のところなら、ピンクのアジサイも咲くかもしれんな」
「そうだね。じいさんが見たかったピンクのアジサイ。僕が叶えられたらいいな」
「そりゃあ、じいさんも喜びよるね」
僕は、帰りにアジサイの枝を二、三本切って持ち帰ることにした。暑い中、帰りも長い田舎道を歩かなければいけないが、行きとは違って心持が軽い。荷物になるかもしれないが、構いやしない。
僕は、思った。ばあさんは、ただの意地悪な人間ではなく、人付き合いが誰よりも下手くそだった。本当はたくさんお喋りがしたかっただけの、シャイな人だったのではないか、と。ばあさんは、じいさんやみんなよりも、不器用なひとだったのだ。
ばあさんの終活。
人生を終えるための身辺整理、片付けではなく。それは、ばあさんがこの人生を経て、大切にしてきたものを受け継ぐ活動のことを示していた。人生に幕を閉じるのは、誰にでも平等に訪れる別れ。それをどれだけ悲観的に迎えるか、幸福に満ちて迎えるか。大きな違いが生まれる。別れとは、もの悲しいものだ。少しでもその悲しみを、払拭したいと願う。だからこそ、ひとは『縁』を大切にする。
日が傾き、沈みかけている中を僕は駅に向かって歩いている。手にはビニール袋。中にはアジサイの枝が三本。そして、ばあさんから一筆もらったメモ帳がある。ばあさんがもし亡くなったときには、「口紅を棺に入れる」ということ。その約束を忘れないようにするため、メモを用意したのだ。
川沿いの田舎道。若々しく茂る緑の中からは、ヒグラシの鳴き声がカナカナカナ……と聞こえて来る。日本の夏の風情を、田舎は教えてくれる。都会暮らしで人混みに揉まれ、スクランブル交差点や自動車のエンジン音。ビル街では店舗から流れる大音量の広告に音楽。賑やかで活気はあるが、たまにはこんな風にのんびり時間を使うのも、悪くはない。
ばあさんに、とりあえずのサヨナラをしてから家を出て。僕は一枚、ばあさんの家の写真をスマホで撮った。それをさっそく、待ち受けにする。僕のルーツは、此処から始まったのだということを、忘れないようにしたかった。
ばあさんの終活というよりは、僕の今後の生き方と方向性を決める、大切な就活のようにすら思えた。
親父は、面倒事を僕に押し付けたと思っているだろうが、そうでもなかったと僕は目を閉じる。ガタン、ゴトン……と揺れるのは電車ではなく、汽車。僕は満足感に満たされ、窓の外の移り変わる景色に思いを馳せた。
ばあさんのルージュ 小田虹里 @oda-kouri
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