第4話 「錆迷宮の咆哮」

 油と蒸気の匂いがまだ鼻腔に残る。古びた錬金触媒が漂わせる微かな臭気も感じられた。

 時間を稼げるのは、おそらくほんの息継ぎ分だ。

 わずかとはいえ猶予が生まれた。ミクは今後の経路と、最終的な脱出地点へのルートを組み立てた。

 ミルフィは音を警戒しているようだ。集中しているのだろう、無表情になっている。

 しばし沈黙が続いたのち、小さく声をあげた。

 「来ます」

 ミクも耳を澄ませた。遠く──シャッターの向こうで鎖が一度、硬質に鳴ったきり静まる。

 「行こう」

 二人は再び立ち上がった。

 

 庫内の闇は深く、天窓から割れ落ちる月光だけが車体の残骸を白く縁取っている。

 ミルフィの呼吸は浅く速い。肩に触れる義手の歯車が、微かにカチリと嚙み合った。

 「ついて来い。音を立てるな」

 囁き、ミクは鈍い金属床を確かめるように歩幅を縮める。


 錆びたトラムの列は迷路だ。車体の隙間を縫って進むたびに月明かりが切れ、暗順応した視界がふっと奪われる。

 耳が先に捉える。――石畳を掻く爪の音。重い呼気。獣が匂いを追っている。

 足音ひとつで位置が割れる。ミクはミルフィの手を軽く引いた。指先が震えていた。

 ミルフィの胸に薄氷のような不安が広がった。

 

 こんな勇敢そうな人でも、やっぱり怖いんだろうか?

 厄介事に巻き込んでしまった自分に、ミルフィは罪悪感を覚えた。

 

 やがて床面が落ち込むピットの縁に出る。深さ一・五メートル、底を湿った油が薄く照り返していた。

 ここに落とす。

 ミクは瞬時に段取りを立てた。蒸気管、バルブ、逃げ道。計算は癖のようなものだ。


 「まっすぐ前へ三歩、そこで止まれ」

 ミルフィが小さく頷く。暗がりに、ほの白い頬が真剣にこわばっているのが見えた。

 ミクは胸ポケットからドライバーを抜く。古い締め金をひねると蓋板がわずかに浮き、油の匂いが濃くなる。


 そのとき、闇を裂いて甲高い金属音が響いた。外板が千切れ飛ぶ。

 グルルル……

 低い咆哮がこだまし、二つの影が車体上に飛沫のように散った。銀色の鼻先が月に光る。

 地獄の番犬アルケミック・スニファー──しかも二体。

 スニファーのうち一匹が、ミルフィを守るように立っていたミクに噛みかかる。錬金触媒じみた刺す匂いの唾液が飛び散った。

 ミクは斜め後ろにステップバックして躱す。噛みそこねて口をガチン!と閉じたスニファーの眉間に、鉄製の大型スパナを思い切り叩きつけた。

 「ギャン!」

 スニファーは悲鳴を上げて後ずさる。もう一匹の方は、変わらず二人を睨みつけて観察を続けている。

 ミクは間髪を入れずに蓋板を蹴り上げた。鉄が衝突して火花が散る。

 「今だ、飛べ!」

 少女のからだが闇へ弾かれるように沈んだ一瞬を見届け、ミクもひらりと身を落とす。頭上で獣の爪が空を掻いた。


 底に着地した靴裏にぬめりが絡む。息を殺し、掌で探った蒸気管のバルブは焼けるように熱い。

 右へ半周。硬い手応え。――笛鳴りのような圧が走り、白煙が排気孔から噴き上がった。

 迷路はたちまち乳白色の雲に沈み、獣の吠え声がくぐもる。


 ミクは蒸気の壁越しに、少女の小さな影を探す。瞳の奥で火花が揺れていた。

 「まだ……終わりじゃない、ですよね」

 「だな。急ごう」

 脱出地点までは、もう遠くないはずだ。

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