第2話:きみのことを知らなかったら【無知のヴェール】

【無知のヴェール】とは

 無知のヴェールとは、アメリカの哲学者ジョン・ロールズが提案した思考実験です。

 自分の性別や年齢、能力、家庭環境などが一切わからない「無知の状態」に置かれたと想像して、どんな社会のルールが公平かを考えるというものです。

 どんな立場になるかわからないからこそ、誰にとっても納得できるルールが選ばれる——それがロールズの考える「正義」です。




「今日さ、ひとつ提案があるんだけど」


 放課後の図書室。夕陽のオレンジが窓から差し込み、机の上にあたたかい影を落としていた。

 その光の中で、律がいつものように真面目な顔をして話し始める。


「また倫理の話?」


 美月が笑いながら言う。隣でノートを閉じていた奏多が、興味なさそうに首をかしげた。


「まぁね。今日は“無知のヴェール”について話したい」


「ラルズのやつ?」


「よく知ってるじゃん、美月」


「倫理の授業、けっこうちゃんと聞いてるもん」


 律が少し目を見開いて感心していると、奏多が口を開いた。


「ごめん、俺は完全に無知なんだけど、それって何の話?」


「簡単に言うとね、"自分がどんな立場かを知らない状態で、みんなにとってフェアなルールを考える"っていう考え方。アメリカの哲学者、ジョン・ロールズが提唱したの」


 美月の説明に、奏多がふむふむと頷いた。


「なるほど、たとえば将来自分が金持ちか貧乏か、健康か病気か、そんなの全部知らない状態で、どんな社会にしたいかを考えるわけだ?」


「そうそう!無知のヴェールをかぶってるから、自分がどの立場になるかはわからない。だから、なるべくどんな人にとっても不利にならないようなルールを作ろうってなるわけ」


「へぇ~、それってけっこう深いな。俺なら、全員に唐揚げ一個ずつ多めに配る制度とか作っちゃうかも」


「唐揚げの話!?そこ!?」


 美月が笑いながらツッコむ。律も思わず吹き出して、珍しく机に顔を伏せた。


「でもさ、それってつまり、相手のことを知らないほうが、逆に平等に接することができるってことだよね」


 ふいに律が真面目な顔に戻る。


「たとえばさ、美月が“あの時”どんなふうに見られてたかを、俺がもし先に知ってたら、きっと話しかけなかったと思う」


 美月が、ふっと笑みを消した。


「中学のときの話?」


「うん。クラスで浮いてたとか、いろいろ噂されてたとか。俺、それ知らなかった。だから、普通に“隣の席の子”として声かけただけ。でも、知らなかったからよかったのかもなって、思うんだ」


 奏多が黙った。美月も視線を窓の外に向ける。


「……私もね、最初、律のこと“なんか冷たそう”って思ってた。でも話してみたら、全然違った」


「そういうの、なんかいいな。俺なんて、知ってても知らなくても“お調子者枠”で見られて終わりだし」


 奏多がわざとらしく肩をすくめて笑う。その空気にふっと緩みが戻る。


「でも、そう考えると、無知って悪くないね」


「うん。知ってたら、きっと話さなかったことも、無知だったから話せた。出会えた。……今の関係、無知の先にあったんだなって」


 美月がぽつりと呟いた。


「じゃあ、俺たちって、“無知のヴェール仲間”ってことか」


 奏多の言葉に、二人がクスクスと笑った。


「そんな名前ダサいけど、まぁ……悪くないかもね」


 窓の外には、ゆっくりと沈みゆく太陽。

 図書室の中に、三人の笑い声がやさしく響いた。


 知っていたら、避けていたかもしれない。

 知らなかったから、まっすぐに出会えた。

 それが“公平”かどうかはわからないけど、今は、この放課後が確かに心地いい。

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