夕暮れ倫理クラブ

夏凜

第1話:分かれ道のトロッコ【トロッコ問題】

【トロッコ問題】とは


 トロッコ問題(Trolley Problem)とは、倫理学における代表的な思考実験のひとつである。

 ある場面において、制御不能となったトロッコが線路上を走行しており、そのまま進めば五人の作業員が命を落とすことになる。

 このとき、観察者であるあなたの前には、トロッコの進路を切り替えるためのレバーが設置されている。

 レバーを操作すれば、トロッコは別の線路に向かうが、そこには一人の作業員がいる。

 すなわち、「五人を救うために一人を犠牲にするべきか」、「あるいは、行為を行わず五人の死を見過ごすべきか」が問われる。

 この問題は、行為と結果に対する倫理的責任や、「最大多数の最大幸福」を目指す功利主義と、「人を手段として利用してはならない」とするカント倫理学などの立場を比較検討する上で重要な題材となっている。




 春の放課後、教室の窓から射し込む光が、机に斜めの影を落としていた。

 チャイムはとっくに鳴ったけど、俺たち三人は、まだなんとなく教室に残っていた。


「なあ、今日の倫理の授業、めっちゃ面白くなかった?」


 そう言いながら、奏多が机に突っ伏していた顔を上げた。

 隣の律は、無言で参考書を閉じる。

 美月は、椅子をくるくる回しながら「どのへんが?」と笑った。


「ほら、トロッコ問題だよ。線路の先に五人いてさ、こっちに切り替えたら一人だけ轢くってやつ!」


 奏多は身振り手振りを交えて説明する。

 俺たちには、そんなのもうわかってたけど、律も美月も黙って続きを待った。


「みんな、結局どうするんだろうなーって思ってさ。五人助けたほうが、やっぱ正しいよな?」


「ふん……。」

 律が鼻で笑った。


「簡単に言うけど、要するに自分の手で一人を殺すってことだろ?」


「いや、でもさ、五人も助かるんだよ? そっちの方が得っていうか、合理的じゃん?」


「合理的だけど、感情がついていかないって話だ。」


「感情かあ。」


 奏多が腕を組んでうーんと唸る。

 美月は、くすくす笑いながら言った。


「でも、なにもしなかったら、五人死ぬんでしょ? それって冷たいと思わない?」


「なにもしてないなら、誰も責任は問えないさ。やらなかっただけだ。」


 律がそっけなく言う。

 教室には、徐々に夕焼けの色が濃くなりはじめていた。


「じゃあ、さっきの状況で――」


 美月が椅子の背もたれに寄りかかりながら、にやりと笑う。


「線路の先にいるのが、知らない人じゃなくて……例えば、私だったら?」


 一瞬、空気が止まった。


「は?」


 奏多が間抜けな声を上げる。律は、ちらっと美月を見た。


「え、マジで? 美月一人を轢いて、五人の知らない誰かを助けるって?」


「まあ、仮定の話だけどね。」


「いやいやいや! それ、無理だろ!」

 奏多が慌てて手を振る。


「美月助けるに決まってんじゃん! 五人とか知らねえし!」


「だよなー!」

 美月が笑う。

 律は、少しだけ考えるそぶりを見せたあと、静かに言った。


「……美月を助けるな、たぶん。」


「うおおおお律もかー!」


「というか、知ってる奴と知らない奴を比べたら、そりゃ感情が入るだろ。」


 律は淡々と話す。


「倫理的には、数で決めるべきだ。でも、現実の俺は、知ってる顔を選ぶ。」


 妙に真面目なその言い方に、俺と美月は思わず顔を見合わせた。

 それから、同時に吹き出す。


「なんか律、カッコつけてない?」


「だな!」


「バカ。」


 律は小さく笑って、窓の外に目をやった。

 茜色の空に、ひこうき雲が一本伸びていた。


「……でもさ。」


 奏多が、急に真面目な顔になる。


「もし俺ら三人が線路にいたら、誰か一人だけしか助けられないってなったら、どうする?」


 問いかけた途端、教室に沈黙が落ちた。


 律も美月も、笑わない。

 俺も、なにか答えようとして、口をつぐんだ。


 こんなふうに、選べるわけない。


 誰かを選んで、誰かを見捨てるなんて、できるわけない。


 きっと、何もしないで三人とも死んじゃう方を、選んじゃう気がする。


 そんなことを、誰も言わなかった。


「……まあ、ありえないけどな!」


 奏多があっけらかんと笑う。


「俺ら、線路なんかにいねーし!」


「そもそも、トロッコ来たら全員ダッシュで逃げるっしょ。」


 美月も笑った。律も、苦笑いしながら頷いた。


「逃げるか。まあ、そうだな。」


 少しずつ、教室に流れる空気が元に戻る。

 俺たちは、荷物をまとめて立ち上がった。


「コンビニ寄ってかね? アイス買いたい。」


「奏多、また食うの?」


「いいじゃん、春だし!」


 わいわいと騒ぎながら、俺たちは教室を出た。

 夕焼けが、昇降口をオレンジ色に染めていた。

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