画家とシスターは檻のなか

鹿島三菜

本編

 私は今、冷めたマフィンに適当にかじりつきながら、檻の中でもがいている。例えば、この線画。左手で書いた自分の名前みたいに歪んでいる。魂を込めて筆を動かしたはずが、どうしても違和感が拭えない。首をかしげながら、「なんでだろう」なんて独り言をこぼしては、鼻をすすって、なおも諦めまいと手を動かす。画家とは不思議な生き物だ。自ら進んで芸術という檻の中に入り、神妙な面持ちで筆を動かしては、塗料をまき散らし続けるのだから。

 すると、家の戸を叩く音がした。底知れない女が返事も待たずにずかずかと仕事場に入ってきた。ブロンドの髪を修道女らしからぬ所作でかきあげるこいつもまた、自ら檻の中に閉じこもる異常者である。私に言わせれば、修道女こそ正真正銘檻の中に生きる存在だ。自由もままならず、毎日決まったルーチンで一日を過ごし、万物に祈りを捧げ、従順に、静謐に生きる。清貧でありたいという情緒も、祈りに身を捧げる献身性も……。

 とうてい私には理解できない。

「やぁ、どうしたの。歌うたいのシスターさん」

「ふふん。ワタシね、あなたの絵を見に来ましたの」

 若い修道女はそんなことを得意げに抜かす。

「嘘おっしゃい。あんたは、私に歌を聴いてほしいんでしょ」

 バレたか、と言って彼女は舌を出した。こんな所作のどこに清貧さを見出したらいいのかわからず、私もふふ、と笑うしかない。

「カトリックではしばしば隣人愛が大切、と説きます。ワタシにとって、歌は隣人以上の存在なのかもしれません」

「隣人……逆に訊くけど隣人未満の存在ってなんなのさ。

 って、私が訊くのも野暮だろうけど」

「さぁ? ふふん、では、歌わせていただきましょうか。ここなら、何を歌ってもバレません」

 シスターはおもむろに言った。彼女がいったんこうなると意地でも歌うと言って譲らなくなるので、不本意ながら私は筆を置いて、椅子に腰かけた。

 咳払いをしている彼女を後目に、お隣の人から貰ったティーバッグで紅茶を飲む。前までは眠気覚ましのために珈琲を飲んでいたが、最近気が付いた。紅茶の方が口に合う。

 ほっと息をついていると、空気が震えるような歌声が聴こえてきた。少なくとも、私の散らかった仕事場には似つかわしくないような。


 ビーアキャットに腰かけて 

 讃美歌を口ずさめたなら


 ビーアキャットに腰かけて 

 私はあなたに恋をする


 ビーアキャットに腰かけて

 慣れない紅茶を啜っては


 ビーアキャットに腰かけて

 あなたと夢を見て眠る


 シスターは満足そうな表情で歌い終えると、どう? と私に問うた。

「どう、って言われても……別に。良いんじゃないの」

「あまりお気に召さなかった? まぁ仕方ないでしょう。自分の思う美しさが、他人に当てはまるとも限りませんから」

「まぁそれはそうだけどさ……そもそも、ビーアキャットって何よ?」

「えぇ? そんなの知りませんよ」

 開き直ったように答えるシスターに半ば呆れながら、私は紅茶を飲み干した。残念なことに私には、修道女の内心も歌の良さもまったく分からないけど、ただ一つだけ理解できることがある。

 それは、本当に好きなものへの愛情にも似た感情。例えばそこにあるだけで不思議と自分に活力を与えてくれるし、日々生きる原動力になってくれる。また、そのことを思うと暖かい気持ちにもなれるし、何より心が安らぐ。

「私ね、あなたの好きな歌の良さは分からないけど、あなたがそれを好きなことには共感できるよ」

「たしかに……ワタシも同感です。あなたの絵の良さはよくわからないですけど、お姉さまがそれを描いている時や、一生懸命ワタシに解説してくれる時のまっすぐな目は、ことさら輝いてますものね」

 目の前の修道女がよくわからないことを言うから、私は押し黙ってしまった。

「……あれ? ワタシなんかやっちゃいました?」

「あーまったく! というか、あなたはまた修道院から勝手に抜け出して、ここに来てるわけ? 本当に勘弁してよ。おかげで、しょっちゅうあなたのお仲間が尋ねに来るんだから……」

 呆れ気味にそう話していると、コンコンとドアをたたく音がした。

『ごめんください……』

「どうぞー」座ったまま私は促す。

「お仕事中失礼いたします。長いまつ毛をした、わたくしのような身なりの者を見ませんでしたか?」

 カトリックの清貧なイメージに概ね合致した、薄い眉毛の修道女はそう私に話す。

「あぁ。そいつなら今ここに……あれ?」

 ふと隣を見ると、歌うたいのシスターは姿を消していた。後ろの大きな窓が開いていた。

 そういうことか。逃げ足の速い奴め。

「なるほど……大変失礼いたしました」

 追手の修道女は礼を言うと、そのまま外に身を投げ出し、ダイナミックに着地してから、奴が逃げたと思しき方向に向かって走り出していった。まったく、意味の分からない連中だ。白昼堂々、赤の他人を巻き込んで追いかけっこを始めやがって。

 私はため息をついて、椅子にもたれかかった。しかし、なんだ。そういえばあのシスターも、頻繁に修道院という檻から逃げ出している。それでもなお、結局は自分からその檻に居直って、静謐な生活を常とするのだ。それは至極不思議なもので、首を傾げずにはいられない。だが、そういうものなのだろう。結局のところ、画家も修道女も同じだ。

 しばしの平穏が訪れて、私はほっとした後、我に返った。そういえば、何をしていたんだっけ……そうだ。絵を描いていた。私は、私の愛する芸術そのものを遂行していた!

「まつ毛……もっと長めにしてみようか」

 先ほど抱えていた違和感、もっと言うなら左手で他人の名前を書いているような気持ち悪さもなくなり、バラバラだった筆致とイマジンが結びついたような感触を抱いた。

 こうして休んでばかりではいられない。初心に立ち返って、コンセプト作りを優先しよう。絵の中の少女の職業はまだ決めていないが、そうだな。貴族の娘は芸がないし、かといって農家の娘も品がないな。じゃあ、思い切って修道女にしてみるのも──。

 ……否。それは趣味が悪すぎる!

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画家とシスターは檻のなか 鹿島三菜 @Wakamita-Hajime

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