第一話(後編)『異界漂着』
……。
「……ん…」
重い瞼を、鉛のように重い体を、意志の力で、まるで泥の中から這い上がるようにゆっくりと押し上げる。全身の節々が軋み、痛みを感じる。最初に鼻腔を衝いたのは、故郷の甲斐の土とは全く異なる、乾ききった土埃のむせるような匂い。太陽光が、閉じた瞼の上からも肌を焼き、異様に強い陽光を感じた。腹に痛みはない。しかし、全身の骨が軋むかのように重く、頭の芯には鈍い痛みが、まるで鉛でも詰め込まれたかのように残っていた。指一本動かすのも億劫だ。
「こ…ここは…?」
掠れた声で呟き、全身の痛みに耐えながら、恐る恐る身を起こす。眼前に広がるのは、見慣れた甲斐の山々ではない。空はどこまでも高く、吸い込まれるように青いが、降り注ぐ光は鋭く、強烈だ。周囲の木々も、見たことのない種類ばかりで、力強い緑に覆われている。草の葉も、故郷のものとは違う形をしている。自分が倒れていたのは、乾いた土が舞う、広く、しかし故郷の街道とは異なる、規格化されたかのような整備がなされた街道の脇の、草むらのようだった。
街道には、耳慣れぬ、けたたましい響きの言葉を喋りながら、奇妙な服装の人々が、まるで蟻のように騒々しく行き交っている。今まで見たことのない形の袖、色鮮やかな、見たこともない布地、髷(まげ)ではない様々な髪型。男も女も、故郷の者たちとは明らかに違う顔立ち。彼らの言葉は、遠い異国の響きを持ち、まるで鳥のさえずりのような、しかし耳慣れない響き、あるいは霧の中の音声のように、全く理解できない。何を言っているのか、単語一つ、まるで分からない。喧騒の中にいても、強い孤独を感じる。
(異国…南蛮か…? いや、それにしても…こんな場所…聞いたこともない…この服装…この言葉…)
混乱する頭で状況を把握しようとする。自分が倒れていたのは、彼らの「通り道」であり、彼らは異様な目で自分を見ている。好奇心、警戒、あるいはひそかな嘲笑といった様々な感情が混じり合った視線が、彼の肌に突き刺さる。まるで珍しい見世物を見るような目だ。ふと、自分の体を見ると、思わず息を呑み、硬直した。天目山で着ていた、風林火山の旗印が染め抜かれた、血と泥に汚れた胴丸を、そのまま纏っているではないか。傍らには、愛用の太刀も転がっている。このあまりにも異様な出で立ちは、明らかに周囲から浮いた存在であった。
(まずい…早く、どこかに…身を隠さねば…! この姿では…あまりに目立つ…)
だが、体の自由が利かない。全身が鉛のように重く、脳髄が揺れているかのように頭が痛む。よくわからない未知の現象の衝撃か、あるいは天目山での極度の疲労が、まだ全身に纏わりついているのか。立ち上がるのが精一杯で、すぐに動くことができない。這うようにして、街道脇の草むらに身を沈めるのが精一杯だ。乾いた土の感触が、彼の頬に張り付く。
その時、街道の向こうから、地を這うような砂塵を巻き上げて近づいてくる一団があった。十数騎ほどの、精悍な騎馬武者の集団だ。彼らが近づくにつれて、地鳴りのような馬蹄の音が響いてくる。その音は、ただの行進ではなく、訓練された軍勢の、威圧的な音だ。先頭に立つのは、燃えるような赤毛を風になびかせた、見るからに常人離れした体躯の猛将。その顔には、圧倒的な力と、そして他者を睥睨(へいげい)するような傲慢さが刻まれている。血走った眼が、鋭く周囲を見渡している。手には、見たこともない異様な形の大槍――刃が二つに分かれ、横に月牙(げつが)と呼ばれる刃がついた、後に勝頼が方天画戟(ほうてんがげき)と知る――を携え、こちらも血のような赤毛を持つ、鍛え上げられた駿馬に跨っている。その馬体は、鍛え上げられ、並の馬ではないことが一目でわかる。その威容は、まさに物語に出てくる鬼神の如し。近寄りがたい、強烈な覇気を放っていた。
そして、その猛将のやや後方、しかし決して離れることなく控える一人の男。武官というよりは、知的な文官らしき落ち着いた出で立ちだ。年は四十ほどか、痩身ではあるが、その姿勢には確かな芯が通り、乱世を見据える鋭い知性を感じさせる。その双眸(そうぼう)は、深く澄んでいながらも、どこか言い知れぬ憂いを帯びているように見えた。彼の傍らにいるだけで、張り詰めた静寂を感じる。
一行は、街道脇の草むらに倒れている異様な姿の勝頼に気づき、馬を止めた。砂塵が舞い上がり、視界を遮る。先頭の猛将が、血走った眼で勝頼を見下ろし、太く、威圧的な声で何かを怒鳴った。言葉は全く分からない。まるで獣の咆哮のようだ。だが、その剣幕と、彼が手にした槍の切っ先が自分に向けられていることから、「何者だ!」「怪しい奴め!」と詰問しているのは明らかだった。
(敵か…!?)
勝頼は、朦朧とする意識の中で、咄嗟に警戒態勢に入った。傍らの太刀の柄に手をかける。冷たい金属の感触が、辛うじて彼の武人としての本能を呼び覚ます。全身が鉛のように重くとも、この期に及んで死を恐れる意識は、もう薄れていた。ここはどこかも分からぬ異郷。油断は死に繋がる。どれほど疲労困憊していようと、どれほど絶望的な淵にいようと、武田家当主としての最後の矜持、武士としての意地が、彼を突き動かした。その瞳に、死兵の覚悟にも似た、ギラついた光が宿る。
その勝頼の、只ならぬ、しかし傷ついた獣のような気配に、後方に控えていた陳宮らしき男は、わずかに目を見張った。その眼差しは、警戒だけでなく、好奇心と、そして何かを探るような光を帯びていた。「あの姿は一体…」という驚きが滲んでいる。彼は、苛立つ猛将や他の兵士たちを制するように静かに手を挙げると、自ら馬を降り、ゆっくりと勝頼に近づいてきた。彼の足音は静かで、馬蹄の音に慣れた耳には、ほとんど聞こえないほどだ。そして、意外なことに、驚くほど流暢ではない、しかし勝頼にも聞き取れる、言葉の断片を、意味を確かめるように繋ぎ合わせ、問いかけてきた。異邦の言葉を、まるで辞典を繰るように繋ぎ合わせているかのようだ。
「…そなた…何者か…? その…装束…尋常では…ない…どこの…国の…武人かと…見受けるが…」
男は、懐から木簡と筆を取り出し、勝頼の言葉を聞き漏らさないよう、耳を傾けながら何かを書きつけようとしている。彼の話し方は、単語と単語の間が不自然に空き、言葉を探している様子が窺えた。
(言葉が…少し…通じる…だと…!? 何語だ…? 聞いたこともない…だが…この響き…)
勝頼は、地獄に仏を見るような驚きと、僅かな希望を見出した。彼は、全身の痛みに耐え、背筋を伸ばし、武田家当主としての威厳を絞り出すように、訥々(とつとつ)とした言葉で名乗った。
「わ…わしは…日ノ本の…国…甲斐武田家の…当主…武田四郎勝頼と…申す者…故あって…この地に…迷い込んだ…」
勝頼は、警戒を解かぬまま、相手の素性を問うた。
「して…貴殿は…?」
男は、勝頼の言葉を反芻し、眉をひそめながら木簡に書き留めた。「ひのもと…かい…たけだ…」と呟きながら、何かを懸命に記憶と照らし合わせているようだった。その間にも、勝頼は、彼の顔(知的な面立ち、憂いを帯びた目)、傍らの猛将の姿(赤毛の馬、異形の槍、鬼神のような威容)、周囲の異様な人々の様子(服装、髪型、言葉)、そして遠くに見える見慣れぬ風景と、幼い頃、傅役から聞かされた大陸の古い物語の断片的なイメージとを重ね合わせる。鬼神のような猛将…知性的な軍師…異様な風俗…そして、この世界の空気感…。それらが、ある一つの物語と、恐ろしいほど正確に符合する。
そして、男は改めて勝頼の鎧や刀、そしてその異様な風体を観察し、何かを確信したかのように、深く頷いた。
「…なるほど…遥か…東瀛(とうえい)の…武人であったか…」
男は、言葉を探しながら、ゆっくりと名乗った。
「私は…陳宮(ちんきゅう)…字(あざな)を公台(こうだい)と…申す…あちらにおられる…御仁は…我が主君…呂布(りょふ)将軍に…まします…」
陳宮は、先頭の猛将を指し示した。
「呂布…!? 陳宮…だと…!?」
勝頼は、全身を雷に打たれたかのような衝撃を受け、思わず、母国の言葉で、あるいはほとんど叫び声のように声を上げた。まさか! その名は、幼い頃、傅役から聞かされた物語の中で、繰り返し聞いたことがある。海の向こうの大陸で、遠い昔、壮絶な戦乱を繰り広げた英雄たちの物語…『三国志』。その中に登場する、最強の武将と謳われた「呂布奉先(りょふほうせん)」、そしてその知嚢たる「陳宮公台」の名ではないか! 目の前の鬼神のような男…その威容(方天画戟、赤兎馬らしき馬)…そして陳宮と名乗る知性的な男…! 周囲の異様な風俗も、まさに物語で語られた、後漢末の乱世の世界のようだ。あの物語の世界が、今、自分の目の前に、現実として、あり得ない形で広がっているというのか…?
(まさか…わしは…わしは…時を超え…あの…三国乱世の…時代へ…来てしまったというのか…!? 信じられぬ…こんなことが…ありえるのか…!)
常識では考えられない事態に、勝頼は血の気が引くのを感じ、再び激しい眩暈を覚えてよろめいた。異世界への漂着、そしてそれが物語の世界であったという、あまりにも非現実的な現実に、彼の精神は激しく揺さぶられた。体の痛みも、一瞬、遠のくほどの衝撃だった。
陳宮は、そんな勝頼の激しい動揺の様子を、鋭い観察眼で見つめていた。異国の、それも高貴な身分を窺わせる武人。この世界のことを全く知らぬかのような、純粋な驚きと困惑。そして、その瞳の奥底に宿る、尋常ならざる武威と覇気、そして隠しきれぬ深い悲しみ…。呂布とは異なる、民を思うような、高潔さの片鱗…。これは、並大抵の人間ではない。
(この男…紛れもない武人…それも、稀代の器やもしれぬ…)
陳宮の知性が、勝頼という未知の存在の可能性を、確信をもって探り当てた。
(あるいは…この混乱の時代に…天が…天が我らに遣わした…何かの…何かの縁やもしれぬ…呂布様の傍にあって自らの知略を真に活かせる道筋が見えぬ今…この異邦の将が乱世に光をもたらす新たな希望となるやもしれぬ…)
呂布という、御し難く、先が見えぬ主君に仕え、その前途に一抹ならぬ大きな不安を感じていた陳宮の胸中に、一つの、奇妙な、そして確かな予感が、希望の光のように芽生え始めていた。
「…勝頼殿、と…申されたな」
陳宮は、やや言葉を探しながらも、改めて勝頼に向き直り、穏やかな、しかし有無を言わせぬ響きを持つ声で言った。
「詳しい…お話を…伺いたい…まずは…我らと共に…参られよ…呂布将軍に…ご紹介しよう…ひとまず…客将として…厚く…遇しては…いかがかと…将軍には…進言いたそうゆえ…」
勝頼は、陳宮の申し出に、全身の痛みに耐えながら、しばし逡巡した。呂布という男が、物語の中でいかに暴虐に描かれていたか。しかし、この見知らぬ、言葉すら覚束ない異郷で、体力も尽きかけ、他に頼るべき当てもないのは明白だ。情報を集め、体力を回復させ、そして何よりも、この「三国志」の世界で生き延びるためには、今は彼らに従うしかない。目の前の陳宮という男には、偽りがないように見えた。
「…承知…つかまつった…世話に…なる…」
勝頼は、全身の痛みに耐え、深々と頭を下げた。武田家当主としての矜持はあれど、今は生き延びるため、そしてこの異世界を知るために、礼を尽くすべき時と判断したのだ。
陳宮は、満足げに頷くと、呂布に歩み寄り、言葉を選んで事の次第を報告した。呂布は、まだ勝頼に対し不審そうな顔をしていたが、陳宮の言葉と、勝頼の(彼にとっては)異様な姿への物珍しさ、そしてその瞳に宿る武威からか、陳宮の進言を受け入れ、一応は同行を許した。
天目山に散るはずであった武田勝頼は、こうして時空を超え、三国乱世の英傑、呂布、そしてその軍師、陳宮と出会った。風林火山の旗印を背負う異邦の武将の、波乱に満ちた運命は、この出会いを機に、大きく、そして誰にも予想しえぬ激動の方向へと、静かに、しかし確かに、その歯車を回し始めたのである。乱世の風が、異邦の龍を、三国志の世界へと誘ったのだ。
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